会  津  の  著  名  人

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 八百比丘尼については、こちらのメニューから

 簗田氏  やなだし、
 文治5(1189)年、初代とする簗田内匠頭俊信 (大町義種) は佐原義連公に従い会津へ赴くが、義連公と同様に居は移していない。
 康暦元(1379)年、蘆名直盛公が鎌倉から会津に土着するのに従い、簗田左京亮盛胤が移り住む。
 至徳元(1384)年、上洛して将軍足利義満に謁見し願い出て、「会津四郡並びに隣国までの商人の司たるべし」と許可を得て、黒川 (会津若松市 に居を移し、名字帯刀を許された商人となる。
 天正 4(1576)年、簗田藤左衛門が蘆名盛隆公から領内に出入り商人から課役を徴収する権利を与えられ、御用商人司となる。
 権限は領内だけでなく、日光・宇都宮・仙台・米沢まで及んだ。
 文禄元(1592)年、蒲生氏郷公が城下町を再配置の際に全面協力の功により、大町 札之辻に2千坪を超える屋敷地を賜る。
 天正17(1589)年、伊達政宗公から関所通行手形の発行権が授与。
 上杉景勝公加藤嘉明公も商人司職を与えるほど、領内の商人の取りまとめ力は強大なものになっていた。
会津商人司簗田家屋敷跡  加藤明成公の弟/明信から「仙右衛門」の名を授かり、以後の当主が襲名相続している。
 寛永20(1643)年、保科正之公が入府すると、商人司から大町検断として職権は縮小されたが、町検断職の筆頭として商人を統括し、藩の行政の一端を担った。
 戊辰の役で開城後も統率力を無視できなかったも、数々の布令を簗田家を通して発したが、明治4(1871)年に検断が廃止となる。
 [史料]
 矢部禅尼  やべぜんに(やべ の ぜんに)、
 文治3(1187)年〜康元元(1256)年4月10日 (70歳)
 鎌倉幕府の有力御家人/三浦義村の娘。
 建仁 2(1202)年、3代執権/北条泰時の正室として嫁ぐ。
 建仁 3(1203)年、長男/時氏を出産。
 後に、泰時と離縁。
 その後、佐原盛連公に再嫁して蘆名光盛公、盛時、時連を産む。
 夫/盛連公が死去すると実家に帰り出家し、矢部禅尼と名乗る。
 嘉禎 3(1237)年、幕府から和泉国吉井郷を拝領する。
 宝治元(1247)年、三浦一族が北条氏と戦い滅亡したが、北条氏側で戦った子/盛時によって、後に三浦家を再興することができた。
 康元元(1256)年、食欲不振により死去。
 山内 玄齢  やまうち げんれい、天明8(1788)年〜安政元(1854)年6月29日(67歳)
 幼名:千松。 後に左衛門、波門、晩年には如弓と称した。
 幼き頃から天文・気象の観測学を究め、地理学にも精通していた。
 文化5(1808)年、藩校/日新館の講師に就く。
 その後、講師を退き御用所に就く。
 文政10(1827)年、会津藩領 (管理地) である蝦夷や浦賀の調査に携わり、藩命により江戸/渋川家で天文学の習得を命じられる。
 交友を深め、海外事情や陰暦・陽暦までも会得する。
 最先端の知識を得たが、当時は誰も理解できなかった。
  ◇ 陰暦と陽暦の関係や、違いについて解説。
  ◇ 「この地下に、日本の数百倍も大きいアメリカ州がある
 墓は、建福寺
 山内 香雪  やまうち こうせつ、寛政11(1799)年〜万延元(1860)年2月3日(62歳)
 名:晋。 通称:熊之助。 字:希逸。 号:香雪、一枝堂。
 <書画家、詩人>
 祐筆/加須屋時鳴に師事し書を学ぶ。
山内香雪の墓  23歳にして上京し、書家・儒学者・文人/亀田鵬斎、漢詩人/大窪詩佛、書家・漢詩人/市河米庵などに師事し学ぶ。
 文政3(1820)年、京や長崎など諸国を歴遊し、清の文人/江芸閣などに学ぶ (23歳)。
 江戸/鋸匠町で書塾を開き、数多くの門下生を育てる。 松平容敬公三忠碑を建立に際し、碑文の文字を顔真卿の書から集めるのに携わる。
 万延元(1860)年、江戸にて死去。
 著書「梅花集/十五巻」「名家手簡/十二巻」。
 墓は薬王寺。   [五言詩書]

 明治37(1904)年、明治の三筆の一人/中林梧竹は、恩師を崇拝するあまり、香雪の墓のそばに自分の寿塔を建て「天外一閑人」と刻み、盛大な生前葬を行った。

 山鹿素行については、こちら

 山川 重英  やまかわ しげひで、天明3(1783)年〜明治2(1869)年 (86歳)
 幼名:千代吉。 通称:兵衛。
 藩士/山川治太夫重行と母/笹原伝蔵忠恒の娘との嫡男。
 寛政12(1800)年、父/重行の番代となるや、大好きだった囲碁の依存癖で職務怠慢になることを恐れて、碁石を売却したとの逸話が残る。
 文化 4(1807)年、目付に就く。
 文化 5(1808)年、家督を継ぐ (26歳)。
 樺太出兵、普請奉行、町奉行、御蔵入奉行などを歴任。
 文政 3(1820)年、勘定奉行に就任し、ウナギ・ナマズ・シジミの養殖を奨励するなど、藩財政の再建に尽力。
 天保 3(1832)年、若年寄 (兼務/勘定奉行) に就任。
 教養豊かで発想豊かさから、種痘による天然痘の予防接種を推進したり、軍事面でも洋式銃の優秀性に着目して導入を主張し、藩主/松平容敬から絶大な信頼を得る。
 天保10(1839)年、家老に抜擢され、山川家が家老の家筋となる。
 子孫は幕末まで重職を担い、歴代家老に2名が就任。
 通し名:山川兵衛。 
 弘化 3(1846)年、松平容敬公の養子に高須藩から松平容保が入り、嘉永4(1851)年に初めて会津入りすると、養育する守役に任じられる。
 安政 3(1856)年、隠居し、嫡男/尚江に家督を譲る。
 安政 4(1857)年、嫡男/尚江が死去したため、嫡孫/大蔵(浩) に家督を継がせ、後見する。
 安政 5(1858)年、藩内に天然痘の予防法/種痘を推進。
 病弱な容保の正室/敏姫にも施そうとするが侍医らに反対され、3年後に敏姫が天然痘に罹患し19歳で夭折、生涯 悔いていたという。
 元治元(1864)年、禁門の変勃発後、洋式銃への切り替えを強く主張。
 戊辰の役では、高齢ながら隠居勤を命じられ、籠城戦に加わる。
 明治 2(1869)年、容大公が誕生したため補導役を命じられるが、ほどなく水谷地村 (湯川村) にて死去。
 墓は、大窪山墓地。
 山川二葉山川健次郎大山捨松の祖父 (父親代わり)。
 山崎 闇斎
土津神社より
 やまざき あんさい、
 元和4(1618)年12月9日〜天和2(1682)年9月16日 (6歳)
 <儒者、神道家、思想家、朱子学者、垂加神道の創始者>
 名:嘉。 通称:嘉右衛門。 字:敬義。 霊社号:垂加霊社。
 浪人/山崎浄因清兵衛の子として京にて誕生。
 僧侶として延暦寺妙心寺・吸江寺などで修業するが、25歳で還俗して儒者となる。
 〜〜〜
 明暦元(1655年、私塾/闇斎塾を開設、多くの門弟が集まる。
 門弟は、6千人に及んだと云う。
山崎闇斎の墓  寛文 5(1665)年、保科正之公に賓師として迎られ江戸に出て、藩政へ助言・補佐する任に就く。
 吉川惟足と併せて、会津藩が神道となった理由の1つとされる。
 寛文13(1673)年、会津に赴き、吉川惟足と共に正之公の葬儀に携わる。
 藩教育の根幹となる会津三部書「玉山講義附録」「二程治教録」「伊洛三子伝心録」の編纂に助力し、「会津風土記」「会津神社志」の編纂にも関わる。
 墓は金戒光明寺。 生祀の垂加社は下御霊神社の境内/猿田彦社に合祀。
 山崎 忠央  やまざき ただなか、
 万治3(1660)年1月〜享保19(1734)年10月24日 (75歳)
 初名:定規。 通称:泉、勝蔵、子列、松心。 <旗奉行>
 蜂須賀氏の家臣/山崎勝太尊秀の子として阿波 (徳島県) にて誕生。
 江戸に出て、会津藩侍講の検校/後藤松軒に師事し、儒学を学ぶ。
 貞享元(1684)年、師/後藤の推挙で松平正容公の侍講に就任。
 山奉行などを歴任。
山崎忠央(higasi-中)  元禄15(1702)年、大目付に就任。
 宝永 6(1709)年、退官を願い出るが許されず。
 正徳 2(1712)年、奉行にに就任。
 幕命により、藩が利根川堤防の修理をする監督において功績を残す。
 享保 2(1717)年、猪苗代城代に次ぐ旗奉行。
 享保16(1731)年、正容公が死去し松平容貞公が藩士に就任を幕府に報じる大役を行なう。
 著書「大学辨断」「通宣政鑑」など多数。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり) .
山崎松心忠央之墓 享保十九甲寅歳十月二十四日卒
 山ノ内氏  やまのうちし、  <金山谷・伊北郷を支配した豪族>
 会津への土着については諸説がある。
  ◇ 源頼朝の奥州藤原氏征討戦で戦功をあげ拝領
  ◇ 奥州入りの管領/足利満貞 (満直) に従って会津に入りし土着
 鷹巣山に中丸城を築いて居城とし、地名を「横田」と改める。
 「山ノ内七騎党」と呼ばれる一族を所領に配し、滝谷・野尻・西方・川口・檜原・沼沢に居館を築く。
 所領の大半が山間部のため侵略されず、越後/長尾氏 (上杉氏)・甲斐/武田氏から同盟を求められるほど、勢力も1目置かれていた。
 会津4郡を拝領した蘆名氏とも対等な勢力を保っていたが、会津統一を成し遂げた蘆名盛氏公の時代に隷属。
 隷属は、永禄元(1558)年に横田山内俊清の次男/俊政と3男/俊範が蘆名氏の老臣/松本図書の岩谷城を略奪した事件からといわれる。
 盛氏公が死去すると、再び独自性を強く示すようになる。
 天正17(1589)年、伊達政宗公の会津に侵攻の際、当主/山ノ内氏勝は蘆名義広公の出陣命令を無視し、摺上原の戦いには参加していない。
 義広公敗走後、政宗公からの降伏勧告も拒否し抗戦、一族の布沢・川口・野尻らは伊達氏に隷属し居城/中丸城も陥落するが、水久保城に籠り対峙を続けた。
 一族の岩谷城主/山内俊基などは、摺上原の戦いで討死している。
山内氏勝の墓  だが後に、豊臣秀吉による奥州仕置で領地が没収され、会津支配の歴史は終焉した。
 石田三成から氏勝へ約束された「本領を安堵するから秀吉が会津へ進攻するまで政宗と戦い続けよ」との書状は、反故にされた。
 氏勝は、弟/宗氏・次男/九郎三郎と共に上杉景勝公に仕え、越後国/魚沼郡上田庄浦佐郷大浦に領地が与えらるが、程なく隠居した。
 山内氏と旧臣の子孫の大半は、旧領の金山・只見などで帰農する。
 土佐藩主の祖/山内一豊は、氏勝の実弟/大学助豊政 (山内舜通の次男) が後に一豊と改めたとの説もある。
 山内 俊温  やまのうち としあつ、
 安永7(1778)年〜弘化元(1844)年8月9日 (67歳)
 幼名:藤九郎。 通称:藤大夫。
 中丸城主/山内氏勝の子孫。  <会津藩学校奉行>
 藩の兵制改革など重職を歴任し、松平容敬公の藩政に携わる。
 後に学校奉行に就任、長年に亘り務める。

 当時、南下政策のロシアと緊張が高まり、幕命により文化5(1808)年に会津藩は蝦夷地への北方警備 (樺太出兵) で出兵した。
 同年5月17日、藩の密命により越後・佐渡両国の海岸警備を視察するため、わずか2名のお供だけを連れて、叶津番所を出立。
 八十里越を通って越後国に入り、新潟・寺泊・出雲崎などの海岸部の要衝を漏れなく視察。
 視察中に地震の体験談を聞き及び、佐渡へ渡ることを決意する。
 出雲崎から舟に乗り小木の湊 (佐渡市小木町) に着き、島倉屋芳兵衛宅に宿泊し、五尺 (約1.5m) ほど地面が隆起したことや、ほとんどの家屋が倒壊し、火事も発生して大惨事となった様子を聞き取る。
 6月6日、使命を果たし、六十里越を越えて田子倉村を経て叶津番所に帰着し、詳細な「越佐行程記」に著す。
 寛政10(1798)年に先祖の墓参のため越後国/大浦延命寺へ赴いた記録「越国大浦御墓道中日記」も現存とのことだが、詳細は知らない。
 山内 春瓏  会津藩御番医。
 4日目毎に登城し、勤番の侍を診察している。
 それ以外の日は一般人を診察しており、特に産婦人科学に傑出しており、漢学にも秀でていた。
 貧しいための悪習であった間引きと称する堕胎などが多いことを嘆き、防止に尽力していた。
 手伝いをしながら礼儀作法などの見習いで伯父/春宅に寄宿していた瓜生岩は、多大な影響を受け、後の著名な社会事業家への基礎となっている。
山内ヨネ
 春瓏の孫。
 父が死去したため、山内家を再興すべく医師を目指す。
 野口英世が会陽医院の書生の時、洗礼を受けた若松栄町協会で6歳年下の女学生/ヨネと出会い、熱烈な一目ぼれをした英世の初恋の女性である。
 後に、医師の父を継ぐため女医を目指して上京すると英世と再会、結婚の申し込みを受けるが、医師になる決意は固く断る。
 医師免許を取得したヨネは帰郷してしまう。
 医師/森川俊夫と結婚し、会津若松で三省堂医院を開業。
 英世は断られても諦めきれずにおり、渡米した風の便りにヨネが結婚したと知るや落胆したという。 「真夏に飛び去る流れ星、誰がこれを追うものぞ。君よ快活に世を送り給へ 〜〜
 初恋は、成就することがなかった。

 会津で開業した西洋医学による最初の女医とされる。
 4人の子供を育てながらも、医師として活躍を続けた。
 墓は、興徳寺

安田厚伯範光 矢部惣四郎・湖岸
山崎左助実忠 山崎左助実彬 山崎左助実因 山寺貢安信 山本良跖
         

《 や 》 江  戸  幕  末

 簗瀬
  三左衛門
 やなせ さんざえもん、生没年不詳
 名:真粹(枠)。
 文久2(1862)年6月、松平容保の京都守護職就任を前に、家老職を退き隠居していたが、戊辰の役が勃発し戦火が若松に及ぶと鶴ヶ城に入り、最後まで篭城戦に参加して戦い抜く。
 開城後は、流罪先の斗南藩へ移る。
 廃藩置県で藩が消滅したため、北海道に渡る。
 その後、上京して横山家で余生を送る。
 内藤信節の妻/房子は次女で家族もろとも自刃、戦死した横山常守の妻/松尾は4女。
 飯盛山で自刃した白虎隊士/簗瀬勝三郎簗瀬武治は、簗瀬の一族。
 娘/浅子は雑賀重村に嫁ぎ、孫に陸軍少将/簗瀬真琴がいる。
 簗瀬一族の菩提寺は天寧寺だが、三左衛門真枠の墓は青山霊園
 簗瀬家は、家老六家と称される家柄。
 松平容敬公の代から家老職を務める。 歴代家老は5名。
《初代・ 梁瀬正真》
 父/簗瀬善兵衛は最上/鳥居家の家臣であったが、鳥居家が改易され浪人となり佐々を名乗る。
 子/佐々三左衛門 (梁瀬正真) が、入府した保科正之公に召し抱えられ、名を簗瀬に戻し、会津藩移封にも従い会津に入る。
 姓:佐々正真、柳瀬正真。 通し名:三左衛門。 別名:柳軒。
 寛文3(1663)年、家老職に就き、正之公から正経公、さらに正容公と3代に仕える。
 宝永7(1710)年12月13日、死去 (90歳)。
 天寧寺に葬られ、土津神社の末社/幸彦霊社として祀られた。
《代々》
 簗瀬三左衛門真峰  〜元文4(1739)年4月24日
 簗瀬柳慶      〜寛政4(1792)年5月 6日
 簗瀬源左衛門真光  〜寛政7(1795)年1月 4日  〜 〜
 山川 艶  やまかわ えん、文化14(1817)年〜明治22(1889)年4月22日 (73歳)
 本名:清、後に“ゑん”。
 歌号:唐衣 (とうい、からごろも)。 剃髪後:勝昭院。
 歌を能くし、歌号の唐衣で呼ばれることも多い。
 藩士/西郷十郎右衛門近登之の嫡女として鶴ヶ城下にて誕生。
 天保 7(1836)年、家老/山川重固尚江に嫁ぐ。
 12人を出産し、5人は夭折するも2男5女を立派に育て上げる。
 天保14(1843)年、二葉 (後に梶原平馬景雄に嫁ぐ) を出産。
 弘化 2(1845)年、嫡男/大蔵(浩) を出産。
 弘化 4(1847)年、美和 (後に桜井政衞に嫁ぐ) を出産。
 嘉永 5(1852)年、 (後に小出光照に嫁ぐ) を出産。
 安政元(1854)年、健次郎を出産。
 安政 4(1857)年、常盤 (後に徳治に嫁ぐ) を出産。
 万延元(1860)年、咲子(捨松、後に大山巌に嫁ぐ) を出産。
 同年、夫/重固が死去し、剃髪して勝昭院と号する。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い、嫡男/大蔵が上洛する際に歌を詠んで見送っている。
 「天が下 轟く名をばあげずとも おくれなとりそ もののふの道
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に迫ると入城し、照姫を護り、傷兵を看護し、撃ち込まれた砲弾を処理し、炊出などに奔走し、籠城戦を戦い抜く。
山川艶の墓  籠城中に、嫁/トセが砲弾し戦死した。
 開城の時、顔も洗えず髪が乱れた婦女たちを、無学なの嘲りに対して即吟し返した。
 「長い黒髪 だてには切らぬ
        賊を征伐するがため

 開城後、斗南藩に移住。
 明治6(1873)年、極貧生活を経て東京に居を移すが、極貧生活は しばらく続いたという。
 明治22(1889)年、一門の繁栄に安堵したかのように、波乱の生涯を閉じた。
 「我ながら なにに名残のをしむらむ
      思ひおくべき こともなき世に

 墓は青山霊園

 飯盛山で自刃した白虎隊の生き残り/飯沼貞吉は、妹/文子の子。
《操 (みさお)》
 嘉永5(1852)年〜昭和5(1930)年
 明治7(1874)年、佐賀県に出仕していた夫/小出光照佐賀の乱で戦死したため、東京に出る。
 後に、ロシアへ遊学。
 帰国後、昭憲皇太后の女官/宮内省権掌侍などを務める。
《常盤 (ときわ)》
 山川家の書生/徳力徳治を入婿に迎え、山川姓を継がせて山川徳治と称させた。

 山川捨松 (大山捨松) については、こちら

 山川 浩
[肖像]
 やまかわ ひろし、
 弘化2(1845)年11月6日〜明治31(1898)年2月4日 (満52歳)
 初名:大蔵、与七郎、常盤。 諱:重栄。 字:士亮。
 号:屠竜子、去二堂主人。 浩:明治に入り改名。
 <家老、陸軍少将、貴族院議員>
 国家老/山川尚江重固と母/ (えん、藩士/西郷近登之の娘) との長子として本二之丁にて誕生、
 二葉は姉で、健次郎は弟、大山捨松は妹。
 万延元(1860)年、父/重固が死去し、家督を継ぐ (16歳)。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い物頭として上洛、常に奏者番として側近にあった 。
 慶応2(1866)年、樺太境界協議で幕府が派遣したロシア訪問団一員としてロシアへ渡航、ヨーロッパ諸国を見聞して世界の情勢を知る。
 「猛将・佐川」に対して「知将・山川」と称される所以である。
 鳥羽伏見の戦いの後、砲兵隊/隊長として日光口を守備し藤原では追撃してくる敵兵を敗走させるなど奮戦し、幕府伝習隊と連携して日光口からの侵入を断念させた。 如来寺本堂の屋根に飛び乗ったり飛び降りたりして奮戦し、多数の敵兵を斃した逸話が残っている。
鶴ヶ城下に来襲したとの報を受け帰城に向けて出立、伝統芸能/彼岸獅子を先頭で踊らせる機略を用いて包囲網をかいくぐり、1兵も失うことなく入城した。
籠城戦では、家老に就任し防衛総督として指揮・奮戦するも、妻/トセが被弾死している。
 開城後は、東京で幽閉 (謹慎)される。
 斗南藩に移住し大参事に就任、元々 の策略による流刑であり、藩財政が立ち行くはずもなく、妹/咲子 (捨松) を口減らしのため函館へ里子に出すほど生活は困窮した。
 「みちのくの 斗南いかにと 人 問はば 神代のままの 国と答えよ
 明治 6(1873)年、上京して陸軍裁判所勤務を経て、少佐として熊本鎮台に転勤となる。
 明治 7(1874)年、佐賀の乱で左腕に重傷を負う奮戦、中佐に昇進。
 明治 9(1876)年、藤田五郎(斉藤一)と時尾の婚儀で下仲人をする。
 明治10(1877)年、西南戦争に別働第二旅団の参謀として出征。
 戊辰の役の恨みを晴らすべく、包囲していた薩摩軍を蹴散らし、孤立していた熊本鎮台司令長官/谷干城が54日も籠城する熊本城へ救出の一番乗りをやってのける。 この恩を谷千城は一生忘れなかった。
 「薩摩人 みよや東の丈夫(ますらお)が 提げ()く太刀の ()きか鈍きか
 明治13(1880)年、陸軍大佐に昇進し、陸軍省の人事課長に就任。
 明治18(1885)年、熱望されて軍籍のまま東京高等師範学校 (筑波大学) 校長に就き、同附属学校 (筑波大学附属小学校・筑波大学附属中学校・高等学校)、女子高等師範学校 (お茶の水女子大学) 校長も兼務。
 校長を兼務したまま、少将に昇進。
山川浩の墓  陸軍省総務局制規課長を経て予備役に編入。
 明治23(1890)年、第1回衆議院議員総選挙 (福島4区) から候補するも落選、しかし貴族院議員に推挙され、筋の通らない政策には敢然と反対する清廉潔白さに「貴族院三将軍」の一人と称され、政府高官たちを大いに畏れさせた。
 明治31(1898)年、呼吸器系を患い死去。
 「忠烈院殿靖誉桜山大居士」
 墓は青山霊園
 著書「桜山集」「京都守護職始末」。
 「京都守護職始末」には、孝明天皇からの御辰韓 (会津藩を称賛した記述) が記載されていたため、世間に知られることを恐れたによって明治44(1911)年まで刊行できなかった。

《山川トセ》
 とせ子、登勢とも。 宝蔵院流槍術の名手/北川匡の次女。
 山川大蔵の最初の妻。
 9月14日、照姫の居室において砲弾破裂し、脇腹、右肩、頬などに破片が突き刺さる重傷を負う。  [会津戊辰戦争]  [婦人世界]
 お互いが重傷を負った際には介錯する約束をしていた義母/は、剃髪していたため介錯できず励まし続けるだけだったという。
 知らせを受けた夫/大蔵が駆けつけるも、2時間後のことであった。
 山田 陽次郎  やまだ ようじろう、天保12(1841)年〜明治4(1871)年1月16日(31歳)
 名:直節。 通称:源次郎、竹次郎。
 家老/西郷近思と母/律子 (小森悌蔵の次女) との次男。
 家老/西郷頼母近悳の実弟。
 嘉永5(1852)年、小姓頭/山田内蔵直方の養嗣子となる。
 戊辰の役では、朱雀寄合二番隊として北越戦線の各地で奮戦。
 籠城戦になると、援軍依頼のため仙台藩へ赴く。
 その後、仙台で結成された 会津遊撃隊差図役下役に就き、榎本武揚艦隊に同行して蝦夷に渡り、江刺方面で奮戦。
 五稜郭が開城後は、古河藩での幽閉を経て、東京で幽閉 (謹慎)。
 明治3(1870)年、「雲井龍雄の政府転覆計画に共謀」との嫌疑(冤罪)で日光/今市にて逮捕され「准流徒罪/懲役10年」の判決を受ける。
 明治4(1871)年、判決わずか半年後に箱館の獄中で変死、死因は明らかにされず、家老の弟と知り拷問による虐殺とされる。
 正覚寺に埋葬され、墓は三内霊園に改葬とのことだが不明。
 山浦 鉄四郎  やまうら てつしろう、
 天保14(1843)年〜明治12(1879)年11月8日 (36歳)
 変名:蒲生誠一郎。  鶴ヶ城下にて誕生。
 江戸に上り、幕臣/西周の塾生となり優秀な成績を修める。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛。
 元治元(1864)年、池田屋事件の後、独断専行を監視するために柴司たちと共 (5名) に新撰組に派遣される。
 戊辰の役では会津藩に復帰し、各地で奮戦するも負傷する。
が鶴ヶ城下に侵入時は治療のため城中におり、手薄な天神橋口に迫る敵兵を撃退した藩兵の中に加わっている。
 開城後に蒲生誠一郎と改名。
 幽閉(謹慎)を経て、冬期の陸行で斗南藩/三戸郡小中野村へ移住。
 明治 4(1871)年、中野優子と結婚し、小中野村 (八戸市小中野) で海産商や駄菓子屋を営む。
 明治10(1877)年、函館へ移り住む。
 明治12(1879)年、函館にて病死。
 墓は御前(みさき)神社/神葬祭墓地
 山本 佐久  やまもと さく、文化6(1809)年〜明治29(1896年)5月20日 (87歳)
 初名:咲 (サク)。
 砲術指南役/山左兵衛の長女として誕生。
 左兵衛には、跡継ぎとなる男子が授からなかった。
 文政9(1826)年、目付/永岡家の4男/繁之助 (後の権八) が、娘婿として迎えられる。
 夫/権八との間に子供6人に恵まれるも、次男・長女・次女は夭折、育ったのは長男/覚馬3女/八重、3男/三郎の3子だけだった。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いで3男/三郎は戦死し、京都に滞在の長男/覚馬は消息不明 (戦死とも伝えられる) となってしまう。
 鶴ヶ城下にが来襲すると、城に入り籠城戦を戦い抜く。
 夫/権八は、一ノ堰で戦死してしまう。
 明治4(1871)年、長男/覚馬が生存していることが判明し、眼が不自由になっていると聞くや、側で手助けすべく、3女/八重と孫娘/みね (覚馬の子) を連れて、京都へ移住する。
 明治9(1876)年、3女/八重が新島襄と結婚。
 同年、孫/みねと一緒に新島襄から洗礼を受ける。
 同年、長男/覚馬が提供した土地に、同志社英学校の新築校舎 (今出川校地) が完成。
 明治11(1878)年、舎監に就き、5年間も勤めて娘夫婦を支える。
 明治29(1896)年、役目を終えたが如く、激動の人生を終えた。
 墓は、若王子墓地内の同志社共葬墓地
 気丈で、かつ聡明な女性であったと伝わる。
 子供たちには、
  「自己を磨き、立派な行いをすれば、必ず認められる日がくる
という反面、
  「決して喧嘩を仕掛けてはいけないが、相手から挑まれたなら、単に自らを守るのではなく勝ちにいけ
とも言い聞かせていた。
 死の病とされた疱瘡が流行した時、藩医から予防に種痘が効くと聞くや、皆が躊躇する中、自ら進んで受け、八重や三郎にも受けさせた。
 偉大な母ありて、偉大な子あり”の所以であろう。

《殉難者》 矢島七之助 安恵助三郎 柳田勝太郎 簗瀬勝三郎
簗瀬武治 簗瀬[某] 山浦岩三郎 山際久太夫安達
山口新次郎 山口友記 山田作治 山田重三
山寺貢 山村多膳 山室鉄蔵・鉄三郎 山本市之丞
山本慶助 山本季太郎 山本権八 山本三郎
山本定平 山本常治  
簗瀬勝吉      

《 や 》 幕 末 よ り 後

 柳澤 健
平成元(1989)年、詩人柳沢健生誕100年記念ポスター
[肖像]
 やなぎさわ たけし、
 明治22(1889)年11月3日〜昭和28(1953)年5月29日 (65歳)
 <詩人、外交官>
 女学校校長の藩士/柳澤良三の6男3女の長男として若松市 (会津若松市) 栄町四丁目で誕生。
 会津中学校 (県立会津高等学校) から第一高等高校を経て、東京帝国大学仏蘭西法科に進む。
 大正元(1912)年、友人たちと同人雑誌「黒猫」を創刊。
 大正3(1914)年、処女作「果樹園」を東雲堂から著す
  同年、「三田文学」に「川田主水の切腹」を寄稿
 大正4(1915)年、東京帝国大学を卒業し、逓信省に入る。
  同年に文官高等試験に合格。
 大正7(1918)年、「日本に於ける生活状態の改善」を寄稿。
 大正8(1919)年、横浜郵便局長心得を辞職、大阪朝日新聞社に入社。
 在職中に海外旅行に行き、外交官になろうと決心する。
 大正11(1922)年、外務省に入省し、外務事務次官に就く。
 大正13(1924)年、大使館三等書記官としてフランスへ赴任する。
 昭和2(1927)年、スウェーデンへ赴任。
 昭和3(1928)年、二等書記官としてノルウェー、デンマーク、フィンランドへ赴任。
 昭和4(1929)年、メキシコへ赴任。
 昭和7(1932)年、帰国し、翌々年に課長に就任。
 その後、一等書記官としてベルギー・イタリア、ポルトガル初代公使に就き、大いに国際性を養う。
 昭和10(1935)年、国際ペンクラブからの要請を受け、外務省文化事業部の課長として文壇に呼びかけて国際ペンクラブ/日本センター (日本ペンクラブ) を創立。
 ポルトガル公使館一等書記官を最後に辞任 (52歳)。
 出版社「世界の日本社」を設立、「百花叢書 顔』FIGURES」を刊行して日本の芸術・文化などを紹介。
 日泰文化会館館長を務める傍ら、詩人として活躍。
 母校の県立会津高等学校をはじめ、 会津の校歌を24歌 も作詩。
 昭和28(1953)年、帰省中の会津若松市にて心臓麻痺で死去。
柳澤家之靈塔  著書「柳澤健詩集」「回想の巴里」など。
 墓は大塚山墓地、歌碑もある。

 簗瀬 真琴  やなせ まこと (やなせ まさこと)、
 明治25(1892)年5月2日〜昭和53(1978)年10月23日 (満86歳)
 <陸軍少将>
 会津六家と称された家柄/簗瀬家の出身。
 会津中学校 (県立会津高等学校) に入学。
 同級生に、海軍中将/原田覚、ロンドン海軍軍縮条約に反対し自決した海軍少佐/草刈英治、海軍主計少将/山口一がいる。
 大正3(1914)年、陸軍士官学校を卒業(26期)。
 大正 3(1914)年、歩兵少尉に就く。
 少佐に昇進して、近衛歩兵第一連隊附/麻布中学配属将校に就く。
簗瀬真琴の墓  中佐に昇進して、近衛歩兵第三連隊附、支那派遣軍高級副官を歴任。
 昭和12(1937)年、歩兵第三十四連隊 (橘連隊) の連隊長として日中戦争に出征し、江南作戦・常徳作戦で軍功をあげる。
 昭和19(1944)年、少将に昇進して、帰国。
 大津少年飛行学校校長、独立混成第144旅団長に就き、本土決戦に備えていたが、横須賀で守備中に終戦を迎える。
 墓は多摩霊園
 梁取 三義  やなとり みつよし、大正元(1912)年〜平成5(1993)年
 只見町にて誕生。  <新聞・雑誌記者、作家>
 昭和16(1941)年、大衆文藝社の編集長に就任。
 昭和17(1942)年、「村のあけぼの 農村小説」で作家デビュー。
 昭和21(1946)年、彩光社に入社し、雑誌「彩光」・中里介山「大菩薩峠」などを刊行。
 著書「二等兵物語」シリーズ、「うかれ蚤」シリーズ、「七転び人生」シリーズなど。
 酒をこよなく愛し、雑誌「旅と酒」主宰、日本酒の会会長。
 著書「地酒の効用」「日本酒・これでいいのか」「日本酒入門 酒を美味く飲む」「日本酒大事典」など。
 歌碑が故郷の「只見いこいの森」にある。
 ▲(只見町只見向山2832)
簗取三義の歌碑  「ああ あの山は
  むかしばなしの山である
  その名は浅草山
  夏が来るのに
  残雪の見える山
  高山植物が咲き乱れ
  神々が遊んだ山である
 矢部 喜好  やべ きよし、
 明治17(1884)年7月4日〜昭和10(1935)年8月26日 (51歳)
 小学校長/矢部喜一と母/ギンの長男として蓬莱村船引 (喜多方市山都町木幡) で誕生。
 特待生で入学した会津中学校 (会津高校) 在学中に実家が破産。
 これを機に、キリスト教に入信する。
 明治33(1900)年、会津中学校 (3年生) を中退して上京、東京末世福音教会伝道学校に入り、F.W.フィールドから洗礼を受ける。
 明治38(1905)年、日露戦争に召集されたが、日本で最初の良心的兵役拒否を、若松の法廷で堂々とキリスト教/伝道師の信条と訴える。
 召集不応罪で禁固2ヶ月の判決、出獄後に看護卒補充兵で従軍。
 明治39(1906)年、アメリカに留学。  銀行のハウスボーイなとに勤めながら勉学に励む最中、猩紅熱に感染し生死の境を彷徨う。
 療養中にエドガー・ニップ宣教師から、琵琶湖畔/大津の伝道者/モンロー・クリセリウスが猩紅熱で客死したと知り、大津伝道を決意。
 明治42(1909)年、オハイオ州オッターバイン大学に入学し卒業すると、シカゴ大学神学部に入学し、基督同胞教会などで活躍する。
 大正3(1914)年、卒業し、ニップ宣教師夫妻と共に帰国。
 帰国して2ヶ月余り原宿同胞教会で準備中に、山田(しゅん)と結婚。
 大正4(1915)年6月、クリセリウス宣教師の遺志を継ぐため、大津に赴き、布教活動と共に膳所(ぜぜ)教会の設立などに尽力。
 大正10(1921)年、フィリッピンに渡りマニラに日本人教会を設立。
 大正11(1922)年、帰国し、琵琶湖少年少女夏期学校や湖南農民福音学校を主催するなど農村の伝道に専念、機関紙「湖光」も創刊する。
 昭和10(1935)年、京都府立医大病院にて死去。
 墓は、湖南キリスト者共同墓地とのこと。
 山川 二葉  やまかわ ふたば、
 弘化元(1844)年8月19日〜明治42(1909)年11月14日 (66歳)
 国家老/山川尚江重固と母/ (えん、藩士/西郷近登之の娘) との長女として本二之丁にて誕生、
 大蔵(浩)健次郎は弟で、大山捨松は妹。  <女子教育者>
 戊辰の役では、 鶴ヶ城下に迫ることを知らせる早鐘を聞くや、母から「生きて還ることを期すべからず」と諭され、白無垢に着替え、薙刀だけを抱えて入城した。
 家老の娘として城内の婦女子たちの模範になろうして、昼夜を問わず率先して負傷兵の救護や炊事にあたり、籠城線を戦い抜く。
 開城時には、白無垢が鼠色になっていたという。
 籠城戦の最中、兄/大蔵の妻/トセが被弾し爆死している。
 頬、右の肩、脇腹、脛から腿へと全身4ヶ所に被弾し、脇腹からは湧き出るように血が流れ、肩への一発は着物の真綿を肉の中へ捩じ込んでいた。 息も絶え絶えに介錯を願うも、夫の死で仏門に入った"えん"は嫁を殺すなどできず、悶絶しながら息絶えるのを目にしている。
 家老/梶原平馬へ嫁ぐも離縁し、一子/景清を引き取り養育する。
 明治 6(1873)年、家族と共に上京。
 明治10(1877)年、同郷の高嶺秀夫の紹介で、女子高等師範学校 (お茶の水女子大学) の舎監に就く。
山川家之墓  その後、28年もの長きに亘り、舎監や教師として女子教育に尽す。
 生徒への指導が極めて適切で、生徒たちから深く敬慕されていた。
 明治37(1904)年、喘息を患い、校長/高嶺秀夫に何度も何度も慰留されたが、子/景清の心配もあり、辞職する。
 明治40(1907)年、子/景清が海軍の軍医で赴任の佐世保に移り住む。
 明治42(1909)年、喘息悪化により東京で死去。
 墓は青山霊園
 山川 健次郎
[肖像]
 やまかわ けんじろう、
 安政元(1854)年閏7月17日〜昭和6(1931)年6月26日 (78歳)
 国家老/尚江重固と母/ (えん、藩士/西郷近登之の娘) との次男として本二之丁にて誕生、
 <教育者、東京帝国大学・京都帝国大学・九州帝国大学の総長など>
 大蔵(浩) は兄で、二葉は姉、大山捨松は妹。
 7歳の時、父/尚江が死去、祖父/重英に教育される。
 15歳で白虎隊に入隊したが、その後に15歳は戦闘に不向きとの理由で除隊となるが、籠城戦に入り一番隊と二番隊が合併されると、白虎士中隊に編入され、晴れて白虎隊士となる。
 開城後、猪苗代で幽閉中に学友ら5人で脱走し、主君/容保と藩主/喜徳公への寛大な措置を嘆願、その後に東京で幽閉(謹慎)される。
 明治3(1870)年、会津藩士の幽閉地の1つ/増上寺に開校した藩校に入校するも、まもなく閉校となり、旧幕臣/沼間守一の塾に入る。
 明治4(1871)年、アメリカ留学のため横浜港を出発、エール大学附属理学校で学ぶ。
 明治8(1875)年、物理学の学位を取得し、帰国。
 明治9(1876)年、東京開成学校 (東京大学) の教授補に就く。
 明治12(1879)年、日本人初の物理学教授 (東京大学) に就任。
 明治13(1880)年、日下義雄高嶺秀夫たちと会津学校会を立ち上げ、育英事業を始める。
 明治16(1883)年、関係者たちと物理学訳語会を結成。
 明治21(1888)年、日本初の理学博士号を授与される。
 明治31(1898)年3月3日、旧藩主/松平家の家政顧問となる。
 明治34(1901)年、東京帝国大学/総長に就任。
 明治37(1904)年、貴族院勅選議員に就任。
 明治38(1905)年、東京帝国大学/総長を辞任。
 明治42(1909)年 明治専門学校(九州工業大学)の初代総裁に就任。
 明治44(1911)年、九州帝国大学の初代総長に就任。
 大正 2(1913)年、九州帝国大学/総長を辞任し、東京帝国大学/総長に再任。 九州帝国大学の名誉教授となる。
 大正 3(1914)年、京都帝国大学総長を兼任。
 京大が京都帝国大学と称した時代の大学総長は13人であるが、内3人(新城新蔵小西重直)が会津出身である。
山川家之墓  大正 4(1915)年、京都帝国大学総長を辞任し、東京帝国大学総長に専念。
 大正5(1916)年、愛妻/鉚子が死去 (52歳)。
 大正6(1917)年会津中学校で講話。
 大正10(1921)年、東京帝国大学/総長を辞任。
 大正11(1922)年、編集責任者として「会津戊辰戦史」が発刊。 これ以降、幕府や会津藩を含む誠を貫いた東北列藩を「東軍」、長賊らを西軍と呼ぶようになる。
 大正12(1923)年、枢密顧問官に就任。
 大正13(1924)年、維新史料編纂会委員に就く。
 大正15(1926)年、武蔵高等学校の学長に就任。
 墓は青山霊園

 最近になって、明治に長賊らが捏造した歴史を覆す出版が相次ぐようになって、末々らの聞きかじった程度の知識で、健次郎を教育をしたのは長賊らだと主張を、あちこちで繰りかえすようになった。
 秋月悌次郎を崇拝していた奥平兼輔が、秋月に頼まれて引き取ってはいるが、奴隷のような下男扱いであったという。
 それでも恩と思った健次郎は口外しなかったが、晩年に「とても恵まれた、とは決していえない環境であった」と洩らしている。
 事実、1年足らずで奥平のところから去っている。
 長賊らの中ではまともだったような奥平は、新政府の酷さに不満を募らせ反乱を起こしたが鎮圧され、身内の長賊らに斬首されている。
 山口 一男  やまぐち かずお、明治44(1911)年3月18日〜昭和52(1977)年4月21日
 山口峻一の次男として熱塩加納村赤崎 (喜多方市) にて誕生。
 喜多方中学校 (県立喜多方高校) を卒業し、北海道の巡査に就く。
 帰郷し、農業協同組合に就く。
 熱塩村農業会及び農業協同組合/組合長、県信連代表幹事並び会長、県教育委員長などを歴任。
 民間では、東北電力/監査役、ラジオ福島/取締役、福島テレビ/取締役及び顧問などを歴任。
、政界では、県会議員、県議会議長、自民党県支部連合会/副会長及び顧問などを歴任。
 伊東正義の秘書を務め、参謀として支えた。
 銅像が示現寺にある。
 山口 千代作  やまぐち ちよさく、嘉永元(1848)年2月〜明治39(1906)2月12日
 <自由民権運動の指導者、明治期の政治家、実業家。衆議院議員>
 肝煎 (庄屋) の子として森野村 (西会津町尾野本) で誕生。
 13歳の時に父が死去したため、肝煎を継ぐ。
 明治3(1870)年、渡部思斎の「研幾堂」に入塾し、漢学を学ぶ。
 明治5(1872)年、森野村 (→尾野本村) の戸長に就任 (24歳)。
 明治11(1878)年、発起人として喜多方民権運動「愛身社」を創立、全国に先駆けて成立した県議会の議員に就く。
 明治13(1880)年、第4回愛国社大会に会津唯一の参加者として出席。
 同年、福島県会議員に選出され、2代目/議長に就任。
 明治14(1881)年、発起人として「福島自由新聞」を創立。
 明治15(1882)年、極悪人/三島通庸が県令に着任するや、会津の資力を削ぐために三方道路工事の賦役義務化、前年度2.5倍の地方税増税など、あり得ない法案を提示する
 県議会は全てに反対・否決するが、議会に1度も出ず、全国県政史上前例の無い“反対議決の全議案を無効”とし、議会を閉じてしまう。
 さらに極悪人/三島通庸は、賦役や三方道路工事に反対する2千人を超す者を、国事犯として逮捕するという暴挙に出る。
 明治16(1883)年、大審院 (最高裁判所) で無罪となり釈放されると、今度は官吏侮辱罪との理由の欠席裁判で、重禁固1年罰金20円の有罪判決を受けたため、逃亡生活をする。
 3年程を経て帰郷するも、拘束・服役した。
 明治23(1890)年、自由党を再興しようと結成した「会津協会」から請われ、第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選、3期 務める。
 明治30(1897)年、尾野本村と若松町に製糸場を開設。
 明治33(1900)年、福島県絹織物組合長に就任したが、事業の失敗で多額の借金を抱える。 江差機業会社からの招聘を受け、北海道/三笠山村 (三笠市) に移住する。
 明治36(1903)年、北海道庁嘱託に就き蚕糸事業を担当。
 明治37(1904)年、篠路郵便局長に就任。
 明治38(1905)年、北海道の代議士/東武らと北洋貿易商会を設立。
 明治39(1906)年、樺太での事業立案中、脳出血で三笠山村にて死去。
 山口 昌隆  やまぐち まさたか、文政3(1820)年〜明治16(1883)年2月6日 (64歳)
 号:磐山。 変名:勇三。
 戊辰の役では、鳥羽伏見の戦いから開城まで各地で奮闘。
 開城後は、開拓使会/育英校で漢学の教師に就く。
 明治10(1877)年、同校が廃校となり函南小学校に移り訓導として教鞭をとっていたが、招聘され岩科学校の初代校長に就任。
 甲府/睦沢学校、松本/開智学校に次ぐ全国でも3番目。
 明治13(1880)年、校舎の竣工に伴ない、同じ旧/会津藩士の林繁樹・墨田直水を教員として呼び寄せる。
 伊豆/天然寺で、慎独塾も開いている。
 明治16(1883)年、病没。
 明治25(1892)年、教え子たちが師を追慕して碑「磐山山口先生之墓」を建立。 撰文は旧/仙台藩士の岡千仞。
 墓は天然寺
 山内 香渓  やまのうち こうけい、
 天保12(1841)年〜大正12(1923)年10月28日 (83歳)
 幼名:数馬。 名:昇。 字:子竜。 号:香渓、破研斎。
 <藩士、書家>。  藩士/鳥居栄五郎の3男。
 上京し、書家/山内香雪に師事し書を学ぶと、その才を認められ香雪の養嗣子となる。
 四書・五経など経書にも長けていたという。
山内香渓の墓  戊辰の役では、江戸に残留し諸藩の間を奔走、その後に蝦夷/箱館に向かうべく品川を出航するが、銚子沖で船が沈没してしまう。
 旧知の老中/間部詮勝に匿われるも、見つかってしまい投獄される。
 この時の獄中で詠まれた歌詩をまとめて「思い出の碑」として、大正6(1917)年に飯盛山へ建立。
 出獄後は、和歌山藩の藩参事に就き、廃藩後は東京に移り、三輪田高等女学校の教授に就く。
 墓は薬王寺 (合葬)。「雙松院香渓日昇居士」
 著書「真書行書草書千字文」「三体蘭亭帖」「合体千字文」「真行草千字文」「女子筆のたしなみ」など。
 山本 覚馬
山本覚馬・新島八重生誕の地碑
[肖像]
 やまもと かくま、
 文政11(1828)年1月11日〜明治25(1892)年12月28日 (満64歳)
 幼名:義衛。 諱:良晴。 号:相応斎。
 砲術師範/山本権八 (後に戦死) と母/佐久 (咲) との長男として米代四之丁 (米代2) にて誕生。
 山本家遠祖は、武田信玄に仕えた軍学者/山本勘助とされる。
 4歳にして唐詩選の五言絶句を暗唱したという。
 嘉永3(1850)年、江戸に上り、佐久間象山に師事し兵学や朱子学を学ぶ。 特に、蘭書や洋式砲術の研究を深める。
 象山の同じ門弟であった長岡藩/小林虎三郎・河井継之助、武田斐三郎らと知己となり、啓蒙家の西周などとも親交し幅広い人脈を持つ。
 嘉永6(1853)年、ペリーが浦賀に来航したため江戸出府を命じられた砲術隊長/林権助に随行し、江戸藩邸の勤番となる。
 3年前に江戸で、幅広い人脈を築いており、西洋の兵制や砲術にも通じていたからである。 江戸詰の間、勤番のかたわら蘭書を読み漁り、洋式砲術の研究に没頭。
 安政3(1856)年、藩の近代化を痛感し会津に戻り、藩校/日新館に蘭学所を設立し教授に就く。
 急激な改革論は、守旧派重臣の批判を受け、禁足処分になる。
 その後も軍制改革を訴え続け、1年後には林権助たちに意見が取り入れられ、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢され、兵制改革に尽力する。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛する。
 かつての師/佐久間象山と再会し、孝明天皇の遷座計画を広沢安任に打ち明けて極秘に進めるが、象山の暗殺で計画は頓挫してしまう。
 恐れていた長賊による天皇暗殺を企てたクーデター/禁門の変が勃発、大砲隊を率いて撃退する。 共に戦った薩摩藩は、覚馬の人格に触れ、一目も二目も置いたという。
 慶応元(1865)年、公用人に就くも眼病を患い (禁門の変での負傷が原因とされる)、翌年に失明してしまう。
 慶応2(1866)年、藩制の近代化のため、藩士/中沢帯刀を随行させ長崎へへ行き、最新式銃などの武器調達に奔走。
 慶応 4(1868)年、鳥羽伏見で弟/三郎が戦死するも盲目のため戦えず、蹴上から大津への途上で薩摩藩兵に捕われて幽閉されてしまう。
 優秀さは薩摩藩も知っており、粗略には扱われなかった。
 日本の将来を按じ、政治・経済・教育など22項目に亘り将来の日本のあるべき姿を論じた論文「管見 (山本覚馬建白)」を口述筆記して提言、西郷隆盛ら薩摩藩の首脳部は益々敬服し、後の新政府政策の骨格として活用される。
 後に、薩摩藩邸跡地が譲り渡される。
 明治3(1870)年、兵部省の京都府顧問に招聘され、東京遷都で衰退が著しい中、日本初の博覧会「京都博覧会」を開催するなど、先進的な都市へと変革させる。
 明治4(1871)年、母/佐久、妹/八重、姪/みねが上洛し同居する。
 明治8(1875)年、英語を学ぶため宣教師/ゴルドンに接近、贈られた「天道遡源」でキリスト教に目覚める。
 同年、勝海舟からの紹介で訪問した新島襄の計画に賛同し協力を約束、同居させながら準備を始め、同志社英学校が設立される。
 教員2人・生徒8人でのスタートだった。 校名「志を同じくする者が集まって創る結社」は、兄/覚馬が命名した。
 明治9(1876)年、新島襄と連名で「私学開業願」に署名し文部省に提出、6千坪の土地 (旧薩摩藩邸敷地) を学校用地として提供し、翌年に同志社英学校を移転 (今出川校地)。
 この年、妹/八重が新島襄と結婚。
 明治12(1979)年、第1回京都府会選挙で当選し、初代議長に選出。
 明治18(1885)年、京都商工会議所会頭に就任。
 明治23(1890)年、新島襄が死去したため、同志社臨時社長に就任し、以後の同志社の発展に尽力する。
 明治25(1892)年、京都市の自宅にて死去。
 墓は若王子墓地 (同志社共葬墓)。  [史料]

 大正4(1915)年、従五位が贈位。
 昭和3(1928)年、青山霞村が「山本覚馬」を著す。

 山本八重 (新島八重) については、こちら


柳澤秀夫 山内日出夫 山川建 山川黙 山田貞介 山口鹿三
山口隆美 山口彌一郎 山本保雄 山本義正 矢村績

ツールチップあり .
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