戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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白 虎 隊 /飯盛山(ネットで墓参)

 すべては、慶応4(1868)年8月22日から23日の早朝にかけて勃発した。
 古来からの、会津の「時の進み方」ではなかった。
 あまりにも、「時の流れ」 が早すぎた。
 そして、充分な理解も出来ぬまま、数多くの少年たちが散華した。
 パリ万博に派遣された藩士/横山海老名が語る世界情勢に目を輝かし、
 きっと出会えるはずだった“輝く未来”とともに。

 戦いが終わっても長賊らは、戦死者の埋葬を禁止した。
 幼き隊士の屍も例外ではなく、カラスや野犬に食い荒らされた。
 見るに見かねて埋葬した肝煎/吉田伊惣次 (治) は捕えられ入牢させられ、
遺骸も掘り起こされ、元の場所に投げ捨てられた。
 明治14(1881)年、やっと飯盛山上に一基の石碑が建立。
 しかし、文字を刻むことは許されなかった。
 明治23(1890)年、初めて19隊士の各々の墓碑が建立。
 大正15(1926)年に再建され、修復されつつ現在に至る。
<(ネットで見学)飯盛山の欄と併記> .

白 虎 士 中 二 番 隊

順は、向かって右側から。  .

井深茂太郎の墓

井深茂太郎 (いぶか しげたろう "もたろう"とも)

 ◇ 父  守之進重教の長男
 ◇ 母  きよ子 (清子、宗家/井深茂右衛門重孝の次女)
 ◇ 住居 郭内本三之丁
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 法名 深明院殿忠道義人居士
 ◇ 墓碑 大窪山墓地にもある

石山虎之助の墓

石山虎之助 (いしやま とらのすけ)

 ◇ 父  井深数馬の次男 石山弥右衛門の養子となる
 ◇ 母  そわ子 (土屋省吾惟一の3女)
 ◇ 住居 郭内本四之丁
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 17歳
 ◇ 法名 秀了院殿義覚剣忠居士
 ◇ 遥拝碑が、善龍寺にある

 十七回忌供養の際、同一行動をとっていたことが確認され、加えられた。

伊藤俊彦の墓

伊藤俊彦 (いとう としひこ)

 ◇ 父  新作 (後に(わたる)と改称) の長男
 ◇ 生母 りよ子 (玉木兵左衛門の娘) 12〜3歳の時に死別
 ◇ 継母 孝子 (藤森儀右衛門の娘)
 ◇ 住居 郭外川原町堀端
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 16歳 (墓には17歳)
 ◇ 法名 浄忠院心誉義善居士

石田和助の墓

石田和助 (いしだ わすけ)

 ◇ 父  侍医/龍玄の次男
 ◇ 母  ちゑ子 (中村為七郎相雄の娘) 5歳の時に死別
 ◇ 住居 郭外槻木町
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 法名 秋山義遊居士
 ◇ 墓碑 真福寺墓地にもある

池上新太郎重興の墓

池上新太郎重興 (いけがみ しんたろう しげおき)

 ◇ 父  與兵衛の長男
 ◇ 生母 新子 (しん、佐藤駒之進の姉)
 ◇ 継母 たみ子 (側医/三浦謙良の娘)
 ◇ 住居 郭外厩町
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃 (不動滝とも)
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 法名 義勇院忠達日清居士

 明治23(1890)年、二十三回忌供養で殉難碑建立の際、戸の口原 (〜不動滝) での戦死者も、霊に加えられた。
 負傷し、伊藤悌次郎と津田捨蔵に介護され飯盛山に至ると、すでに17名が自刃していたため後を追った、との説もある。

伊東悌次郎の墓

伊東悌次郎 (いとう ていじろう)

 ◇ 父  左太夫祐順の次男
 ◇ 母  すみ子 (武川頭軒(むかわずけん)の姉)
 ◇ 住居 郭内米代四之丁、東隣が山本覚馬の屋敷
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、不動滝で戦死 (自刃とも)
 ◇ 享年 15歳 (墓には17歳)
 ◇ 法名 仁進院忠節劒義居士
 ◇ 墓碑 天寧寺にもある

 明治23(1890)年、二十三回忌供養で殉難碑建立の際、戸の口原 (〜不動滝) での戦死者も、霊に加えられた。
 負傷した池上新太郎を津田捨蔵とともに援けて飯盛山に至ると、すでに17名が自刃していたため後を追った、との説がある。

林八十治の墓

林八十治光芳 (はやし やそじ みつよし)

 ◇ 父  忠蔵光和(みつまさ)の長男
 ◇ 生母 みよ子 (上田甚大夫次須(つぐとも)の長女)、4歳の時に死別
 ◇ 継母 とき子 (筒井一学の妹)
 ◇ 住居 郭外川原町三番丁
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 法名 義光院剣誉忠勇清居士

 翌年4月18日、埋葬が黙認されるや、祖母/いし子は飯盛山の自刃の現場に登り、必死に遺物を拾集して、頓教山一乗寺の先塋の傍らに埋葬し弔った。

西川勝太郎の墓

西川勝太郎 (にしかわ しょうたろう)

 ◇ 父  物頭/半之丞の長男
 ◇ 母  せき子 (神尾織部友善の5女)
 ◇ 住居 郭内本二之丁
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 霊号 節顕霊神

津川喜代美の墓

津川喜代美 (つがわ きよみ)

 ◇ 別称 清美、潔美  幼名:八三郎
 ◇ 父  高橋誠八の3男、津川瀬兵衛の養子になる
 ◇ 母  えつ子 (旧/あぐり子、有賀惣左衛門の3女)
 ◇ 住居 郭内米代二之丁
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 法名 清進院良誉英忠居士

津田捨蔵朝可の墓

津田捨蔵朝可 (つだ すてぞう ともよし)

 ◇ 別称 竹岡捨蔵 (房州警備の竹岡陣屋で誕生したことから)
 ◇ 父  範三朝則(とものり)の次男
 ◇ 母  すぐ子 (石澤太治右衛門義則の4女)
 ◇ 住居 江戸詰(芝の会津藩邸)
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、赤井村で戦死
 ◇ 享年 17歳
 ◇ 法名 清進院勇猛義忠清居士

 明治23(1890)年、二十三回忌供養で殉難碑建立の際、戸の口原 (〜不動滝) での戦死者も、霊に加えられた。
 負傷した池上新太郎を伊藤悌次郎と共に援けて飯盛山に至ると、すでに17名が自刃していたため後を追った、との説もある。

永瀬雄治利勝の墓

永瀬雄治利勝 (ながせ ゆうじ としかつ)

 ◇ 別称 雄次、雄二
 ◇ 父  祐筆/丈之助 (婿養子) の次男
 ◇ 母  くら子 (永瀬熊四郎興雅の長女)
 ◇ 住居 郭外城南花畑
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 法名 功勲院忠誉義道居士

野村駒四郎の墓

野村駒四郎 (のむら こましろう)

 ◇ 父  清八の3男、幼少の時に死別
 ◇ 母  みね子 (永野保の妹)
 ◇ 住居 郭内本二之丁
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 17歳
 ◇ 法名 義註孝忠居士

簗瀬勝三郎の墓

簗瀬勝三郎 (やなせ しょうざぶろう)

 ◇ 父  物頭/源吾の3男
 ◇ 生母 とく子 (石川定記の叔母)、10歳の時に死別
   継母 みお子 (みを子、神尾織部の次女)
 ◇ 住居 郭内本二之丁
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 17歳
 ◇ 法名 仁顯院忠壮剣光居士

簗瀬武治の墓

簗瀬武治 (やなせ たけじ)

 ◇ 別称 竹次
 ◇ 父  久人の次男
 ◇ 母  八重子 (永岡久茂の姉)
 ◇ 住居 郭内本三之丁
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 法名 武勇院殿義戦居士


間瀬源七郎の墓

間瀬源七郎利恒 (ませ げんしちろう としつね)

 ◇ 父  新兵衛利貞の次男
 ◇ 母  まつ子 (黒河内図書の3女)
 ◇ 住居 郭内本二之丁
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 17歳
 ◇ 法名 勇猛院忠誉義進居士

有賀織之助満道の墓

有賀織之助満道 (ありが おりのすけ みつのり)

 ◇ 父  権左衛門満幸の次男、禁門の変で戦死
 ◇ 母  いく子 (高木小十郎の妹)
 ◇ 住居 郭内本三之丁
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 法名 秋峰院戦譽義道清居士

安達藤三郎清武の墓

安達藤三郎清武 (あだち とうざぶろう きよたけ)

 ◇ 父  小野田助右衛門の4男 (3男とも)
 ◇ 母  みさ子 (中林助左衛門の長女)
 ◇ 住居 郭内米代一之丁 (小野田家)
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 17歳
 ◇ 法名 信忠院殿英山見雄居士

篠田儀三郎の墓

篠田儀三郎隆義 (しのだ ぎさぶろう たかよし)

 ◇ 別称 義三郎
 ◇ 父  兵庫の次男
 ◇ 母  しん子 (織部玄孝の娘、
          家老/田中土佐の養女となり篠田家に嫁ぐ)
 ◇ 住居 郭内米代二之丁
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 17歳
 ◇ 法名 賢忠院軍誉英信居士

鈴木源吉の墓

鈴木源吉重則 (すずき げんきち しげのり)

 ◇ 父  側医/玄甫(げんほ)の次男
 ◇ 母  さだ子 (玄甫重積の娘)
 ◇ 住居 郭外長丁
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃
 ◇ 享年 17歳
 ◇ 法名 顕忠院達誉義勇居士

  「白虎隊士の最初の埋葬地(妙国寺)」 は、こちら。


各 地 で の 殉 難 者

順は、向かって右側から。  .

池田勇太郎の墓

池田勇太郎

 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊
 ◇ 終焉 戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で戦死
 ◇ 享年 17歳


西村四郎の墓

西村四郎

 ◇ 父  延八の長男
 ◇ 所属 白虎士中一番隊/春日隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、鳥居町で戦死
 ◇ 享年 17歳

星勇八の墓

星勇八

 ◇ 父  勝治の次男
 ◇ 所属 白虎寄合二番隊/太田隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月10日、越後/石間口佐取で戦死
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 墓碑 長徳寺と、豊岡墓地にもある


星八弥の墓

八弥(はちや)

 ◇ 父  宗助の長男
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月29日、舟渡で戦死
 ◇ 享年 16歳

若林八次郎の墓

若林八次郎

 ◇ 父  海八の次男
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月、赤谷で戦死。
       (戊辰(1868)年9月15日に一ノ堰で戦死とも)
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 墓碑 ヱケ沢墓地にもある

好川瀧三郎の墓

好川(よしかわ)瀧三郎 (滝三郎)

 ◇ 父  弥一右衛門の次男
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊
 ◇ 終焉 戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で負傷
       翌16日に門田村面川で死去
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 墓碑 東明寺にもある


高崎駒之助の墓

高崎駒之助

 ◇ 父  伴助の長男
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月24日、津川で負傷
       9月5日に搬送中の八木山(郷頭/渡部宅)で死去
 ◇ 享年 17歳


高橋富太郎の墓

高橋富太郎

 ◇ 父  順助の長男
 ◇ 所属 白虎足軽隊/嚮導
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、鶴ヶ城不明門で負傷
       29日に城内で死去
 ◇ 享年 17歳
 ◇ 墓碑 新町にもある

江川次郎八の墓

江川次郎八(じろはち)

 ◇ 父  宗之進広伴の次男
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊 → 望月隊
 ◇ 終焉 戊辰(1868)年9月17日、面川で戦死
 ◇ 享年 17歳


黒河内八十記の墓

黒河内八十記

 ◇ 家族 弾治の従弟
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年9月、舟渡で戦死
       (八幡村坂本朝立とも)
 ◇ 享年 17歳


山本太郎の墓

山本太郎

 ◇ 所属 白虎寄合二番隊/太田隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年9月1日、八幡村坂本朝立で戦死
       (8月23日に天寧寺町口とも)
 ◇ 享年 17歳

安恵助三郎の墓

安恵助三郎

 ◇ 家族 久太郎の弟 (父とも)
 ◇ 所属 白虎寄合二番隊/太田隊
 ◇ 終焉 戊辰(1868)年9月14日、小田垣で戦死
 ◇ 享年 16歳

藤森八太郎の墓

藤森八太郎

 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊嚮導
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月25日、津川で戦死
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 墓碑 井上浄光寺
      埋葬地は、津川/新善光寺


古川深松の墓

古川深松(ふかまつ)

 ◇ 父  深蔵の次男
 ◇ 所属 白虎足軽隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、博労町自在院で自刃
 ◇ 享年 14歳


小浅安次郎の墓

小浅安次郎

 ◇ 父  安右衛門の次男
 ◇ 所属 白虎足軽隊
 ◇ 終焉 戊辰(1868)年9月15日、城内で戦死
       (8月23日三ノ丸とも)
 ◇ 享年 17歳

小松八太郎の墓

小松八太郎

 ◇ 父  平八郎の長男
 ◇ 所属 白虎寄合二番隊/太田隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月10日、越後/石間口佐取で負傷
        搬送中の翌々12日に死去
 ◇ 享年 16歳

青山勇之進の墓

青山勇之進

 ◇ 父  清之助の長男
 ◇ 所属 白虎寄合二番隊/太田隊
 ◇ 終焉 戊辰(1868)年9月14日、小田垣で戦死
 ◇ 享年 17歳

坂井源吾の墓

坂井源吾

 ◇ 父  金左衛門の次男
 ◇ 所属 白虎士中一番隊/春日隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、甲賀町口郭門で負傷
       9月15日に治療中の鶴ヶ城内で被弾死
 ◇ 享年 17歳

佐々木新六郎

佐々木新六郎

 ◇ 父  佐左衛門の3男
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月15日、赤谷で戦死
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 墓碑 光照寺
      赤谷にもある


佐久間直記の墓

佐久間直記

 ◇ 父  平助の長男
 ◇ 所属 白虎士中一番隊/春日隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月23日、鳥居町で戦死
 ◇ 享年 16歳


岸彦三郎の墓

岸彦三郎

 ◇ 父  熊谷治兵衛の長男(次男とも)
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊嚮導
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年9月5日、高寺窪村で戦死
 ◇ 享年 17歳

木村次郎の墓

木村次郎

 ◇ 家族 太郎の弟
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊 → 望月隊
 ◇ 終焉 戊辰(1868)年9月17日、一ノ堰で戦死
 ◇ 享年 17歳


椎野恒四郎の墓

椎野恒四郎

 ◇ 家族 恒治叔父
 ◇ 別称 常四郎とも
 ◇ 所属 白虎隊足軽隊とされる
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年9月、城中で戦死
 ◇ 享年 14歳 (年齢を偽って入隊)


遠藤嘉竜二の墓

遠藤嘉竜二(かりゅうじ)

遠藤嘉竜二の墓碑  ◇ 父   嘉内の次男、(遠藤敬止の弟)
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊
 ◇ 終焉 戊辰(1868)年9月11日、熊倉で負傷
       10月7日に死去
 ◇ 享年 15歳
 ◇ 墓碑 仙台市/充国寺にもある

樋口勇四郎の墓

樋口勇四郎

 ◇ 別称 勇次郎
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊
 ◇ 終焉 戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で戦死
 ◇ 享年 16歳

百瀬外次郎の墓

百瀬(ももせ)外次郎(ほかじろう)

 ◇ 父  利兵衛の次男
 ◇ 所属 白虎寄合二番隊/太田隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年8月10日、越後/石間口佐取で負傷
        搬送中の翌11日に死去
 ◇ 享年 17歳


森新太郎の墓

森新太郎

 ◇ 所属 白虎足軽隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年6月13日、磐城/大平口で戦死
 ◇ 享年 16歳

関原繁太郎の墓

関原繁太郎

 ◇ 別称 重太郎
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊 → 望月隊
 ◇ 終焉 戊辰(1868)年9月17日、一ノ堰で戦死
       (15日とも)
 ◇ 享年 17歳


鈴木平助の墓

鈴木平助

 ◇ 所属 白虎寄合二番隊/太田隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年9月1日、朝立で戦死
 ◇ 享年 17歳

鈴木五郎の墓

鈴木五郎重光

 ◇ 父  清吾の5男
 ◇ 所属 白虎寄合一番隊/原隊
 ◇ 終焉 戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で負傷
       11月に大戸村雨屋で死去
 ◇ 享年 16歳
 ◇ 墓碑 常金寺長命寺多磨霊園


鈴木久五郎の墓

鈴木久五郎(きゅうごろう)

 ◇ 所属 白虎足軽隊
 ◇ 終焉 慶応4(1868)年9月、城中で負傷
       10月12日に門田村/御山病院で死去
 ◇ 享年 16歳

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