戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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大 窪 山 墓 地 (中央)

大窪山墓地 大窪山墓地の説明文


(資料提供) 栗城英雄 氏「会津先賢者の墓石を訪ねて/栗城訪霊著」

高津豊太郎の墓

高津豊太郎

 八郎の伜。
 朱雀士中三番隊/原田隊。
 慶応4(1868)年8月29日、融通寺町で戦死。
 19歳。
 「義賢院殿信誉明道居士」。
 「会津長命寺裏 進撃の節 戦死


横山主税の墓

横山主税常守 .

 主税は通称で、諱が常忠。
 常徳の養子。 山川常道の子。
 若年寄。白河口副総督。
 慶応4(1868)年5月1日、磐城/白河稲荷山で戦死。
 22歳。
 「常忠霊神」。
 墓碑は、昭和58(1983)年夏、建立。

 激戦中のため、従者/板倉和泉が首を切り落として持ち帰ったという。
 海老名季昌とパリ万博に派遣され、幕府の命令によりロシアを含む欧州も歴訪。
 将来を嘱望される若者の1人であった。

 

横山常徳

 通称/主税。 江戸詰家老。
 「江戸・三家老」と称された名家老の一人。
 (水戸藩/武田耕雲斎、宇都宮藩/間瀬和三郎)
 元治元(1864)年8月7日、会津で病没。数え67歳。
横山常徳之墓
 

飯河光義

 元治元(1864)年7月19日、蛤御門の戦いで大活躍。
 戦後は、大塩村に隠れ住む。
 思案橋事件の中根米七を、自邸に匿ってもいる。
 後に 私立「日新館」を旧藩士らと創立し教授に就任。

飯河光義之墓

伊藤光隆墓

伊藤光隆

 慶応4(1868)年8月23日、戸ノ口原で戦死。
 20歳。
 部隊、系累など詳細不詳。
 「此君戸ノ口原而戦死 葬彼地 行年二十歳」 とある。


高橋清左ヱ門の墓

高橋清左ヱ門

 善太郎の祖父。
 隠居組。
 慶応4(1868)年8月23日、南町口郭門で戦死。
 (南町の自宅で自刃とも)。
 73歳。
 「義善院了達日明居士」。


入江政徳之墓

入江政徳

 入江藤三郎政徳。 藤三郎の嫡男とも。
 慶応4(1868)年、戦死。
 詳細不詳。

 (庄兵衛ならば、
  進撃隊/小室隊組頭、8月23日に天神橋で戦死、53歳)


中野半三郎遥拝碑

中野半三郎遥拝碑 .

 理八郎の伜。
 遊撃隊/遠山隊小隊頭(差図役とも)。
 慶応4(1868)年閏4月25日、磐城/白河で戦死。
 25歳。
 「眞輝神霊」。
 墓は、常宣寺にもある。


中野喜惣右衛門、千吾の墓

中野克江 .

 業助の伜。
 大砲士中二番千葉隊。
 慶応4(1868)年8月24日、本一ノ丁 (城中とも) で戦死。
 26歳。
 「義勇神霊」
 墓は、「勝江」とある。

野矢常方先生墓

野矢常方先生墓

 通称は与八。 惣五郎常利の子、良助の父。
 宝蔵院流槍術師範。 和歌にも長じており和学所師範でもあった。
 慶応4(1868)年8月23日、桂林寺町で戦死。 67歳。
 戦後に長男や門人たちが遺体を捜すも見つからず、菩提寺に遺詠を埋め、旧邸内の庭石を遥拝石にした。
 「晧月院覺譽涼齋居士」。
 現在の墓標は、昭和58(1983)年7月1日建立。
 野矢常方翁拝石は大運寺、顕彰碑が諏方神社にある。
 自宅近くの桂林寺町口郭門で、敵兵1人を十文字槍で仕留めるも、銃弾を浴び戦死した。
 槍先には、一首の歌が結び付けられていたという。
    弓矢とる 身にこそ知らぬ 時ありて ちるを盛りの 山桜花
 後の教科書「修身」に常方の歌が載り、全国的に知られることとなる。
    君がため 散れと教えて 己まず 嵐にむかう 桜井の里
<大運寺諏方神社と併記>    .

服部栄の墓

服部栄 .

 別撰組/春日隊組頭。
 慶応4(1868)年8月29日、長命寺裏で負傷し、
 明治2(1869)年7月、井手村で死去。
 26歳。
 「尚正神霊」。


下條郷助の墓

下條郷助 .

 げじょう。
 求馬の父。
 隠居組。
 戊辰(1868)年9月16日、城内で被弾し、10月8日に御山で死去。
 69歳。


永岡久茂の墓

永岡久命之墓

 永岡久茂の遺品を埋葬したと伝えられる。
 戦後、久茂は斗南藩で小参事として活躍するも、思案橋事件に関与。
 明治10(1877)年1月12日、鍛冶屋橋牢で獄死。 38歳。
 捕縛時の傷が原因との発表だが、遺体損傷がひどく拷問による虐殺と云われる。
 台東区浅草今戸町の称福寺に埋葬される。
 区画整理のため源慶寺に改葬されたが、現在は行方不明。
 浮州七郎が生前に「我に益する三友あり 一は永岡久茂の“智”、二は米澤昌平の“直” 三は高木友之進の“勇” 是れなり 我 平生これを慕って及ばず」と語るほどの人物であった。

牧原奇平の墓

牧原奇平 .

 牧原一郎の弟。
 郡奉行。
 慶応4(1868)年8月23日、強清水で戦死 (負傷し戦えなくなり自刃)。
 戸の口原が破られるの責にて自刃とも。
 62歳。
 「直義神霊」
 主力部隊は日光口・長岡口などの国境に布陣しており、鶴ヶ城下には老人と子供しか残っていなかった。 主力部隊が帰城するまで戸の口で迎撃すべく、急ごしらえの農民、僧侶、神官、相撲取りたちを率いて戸の口に布陣した。
 しかし、2千数百ほどの敵兵に対して、戦いに不慣れな4百名ほどの貧弱な装備の兵では、結果は明らかであった。
 戸ノ口原古戦場の供養碑の裏面に、「上強清水 牧原奇平他二十一名」の記載はあるが、どの墓に埋葬されているのかは今なお不明である。
 次男の牧原勘五郎も、朱雀士中三番原田隊として奮戦するが、8月29日の総出陣において西堀端で戦死した。

荒木半蔵、荒木留吉の墓

荒木半蔵、荒木留吉 .

≪荒木半蔵≫  久米吉の叔父。
 慶応4(1868)年9月8日 (7日とも)、一ノ堰 (飯寺蟻無ノ宮とも) で戦死。
 41歳。
≪荒木留吉≫  久米吉の弟。
  江戸大砲隊 (諸生隊諸生組町田隊)。
 慶応4(1868)年1月5日、八幡橋下 (枚方関門とも) で戦死。
 19歳。  黒谷慰霊碑に記載。

山寺貢之墓

山寺貢 .

 天保8(1837)年、誕生。
 目付。
 慶応4(1868)年6月12日、磐城/白河古天神で戦死。
 31歳。
 墓碑は「山田貢」になっている。


西郷常之進の墓

西郷常之進

 青龍士中一番隊/有賀隊半隊頭。
 戊辰(1868)年9月14日、諏方神社で戦死。
 45歳。


西郷常次郎、常四郎の墓 西郷常次郎、常四郎
 墓は、平成5(1993)年11月に建立。

≪西郷常次郎≫  常之進の弟。 第二遊撃隊/井深隊。
   慶応4(1868)年6月28日、越後/押立峠で戦死。
   (15日に戦死とも、越後/森立峠とも)。 38歳。
≪西郷常四郎≫  常之進三の弟。 諸生組/佐川隊。
   慶応4(1868)年1月5日、淀で戦死。 22歳。
   京都/黒谷に慰霊碑がある。


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