幕 末 の 軍 制
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会 津 の 実 勢
慶応4(1868)年1月3日、戊辰の役、ぼっ発。
全会津の人口 |
240,000人 |
武士(家族含む) |
23,000人 |
村方・町方衆 |
155,000人 |
その他 |
8,000人 |
南山御蔵入 |
54,000人 |
若松城下 |
39,000人 |
武士(家族含む) |
23,000人 |
若松町方衆 |
16,000人 |
<知行取 : 670人>
会 津 藩 の 軍 制
文久3(1863)年、会津藩の軍制を交流のあったフランス式に制定。
慶応4(1868)年3月10日、従来の長沼流を廃止し大改革を断行。
年齢別に編成し、農町兵を募集。
正規兵の部隊名は、中国の故事「方角の守護神」としての空想上の神獣とした。
◇ 朱雀隊 「南の守護神」であり、「夏、前、赤、火」も意味する。
◇ 青龍隊 「東の守護神」であり、「春、左、青、木」も意味する。
◇ 白虎隊 「西の守護神」であり、「秋、右、白、金」も意味する。
◇ 玄武隊 「北の守護神」であり、「冬、後、黒、水」も意味する。
さらに、身分の高い順に、士中隊、寄合隊、足軽隊に分ける。
藩士の兵数
朱雀隊 |
1,200人 |
青龍隊 |
900人 |
白虎隊 |
300人 |
玄武隊 |
400人 |
小 計 |
2,800人 |
砲兵隊 |
300人 |
築城兵 |
200人 |
小 計 |
500人 |
徴募した兵数
旧幕兵 |
1,500人 |
農民兵 |
4,500人 |
町民兵 |
2,000人 |
小 計 |
8,000人 |
総兵数
≪初期の藩境守備配置≫ |
|
《米沢口(北)》 |
|
《越後口(西)》 |
|
《大平口(東)》 《白河口(東)》 |
|
《日光口(南)》 | |
|
正 規 兵
≪ 隊 長 = 中 隊 頭 ≫
朱雀隊 (すざくたい)
18歳から35歳までの藩士の男子で構成。
正規軍の主力部隊。
防衛体制は取らず攻撃を優先していたため、白兵戦では無類の強さを誇った。
佐川官兵衛が率いた四番隊は、最も恐れられた。
開城後も、悪逆非道を繰り広げていた長賊らは信じられないと、しばらく戦闘を続けている。
なお、西南戦争では真の官軍として奮戦し、戦死した。
総督:黒河内式部
朱雀士中一番隊 |
約100名 |
隊長:小森一貫斎 |
朱雀士中二番隊 |
約100名 |
隊長:田中蔵人、長谷川勝太郎 |
朱雀士中三番隊 |
約100名 |
隊長:上田八郎右衛門、原田主馬 |
朱雀士中四番隊 |
約100名 |
隊長:佐川官兵衛、町野源之助 |
朱雀寄合一番隊 |
約100名 |
隊長:井深守之進、一柳四郎左衛門 |
朱雀寄合二番隊 |
約100名 |
隊長:西郷刑部 |
朱雀寄合三番隊 |
約100名 |
隊長:城取新九郎、鈴木市郎右衛門 |
朱雀寄合四番隊 |
約100名 |
隊長:山田清介、蘆澤生太郎
・ |
朱雀足軽一番隊 |
約100名 |
隊長:日向茂太郎 |
朱雀足軽二番隊 |
約100名 |
隊長:桜井弥一右衛門、間瀬岩五郎 |
朱雀足軽三番隊 |
約100名 |
隊長:原田主馬 |
朱雀足軽四番隊 |
約100名 |
隊長:横山伝蔵 |
( 総 勢 ) |
約1,200名 |
|
青龍隊 (せいりゅうたい)
36歳から49歳までの藩士の男子で構成。
本来は国境の防衛隊であるが、朱雀隊に次ぐ正規軍の中核として各地で奮戦。
総督:黒河内式部
青龍士中一番隊 |
約100名 |
隊長:鈴木作右衛門、有賀惣左衛門 |
青龍士中二番隊 |
約100名 |
隊長:有泉寿彦 |
青龍士中三番隊 |
約100名 |
隊長:木本慎吾 |
青龍寄合一番隊 |
約100名 |
隊長:木村兵庫 |
青龍寄合二番隊 |
約100名 |
隊長:原 平太夫 |
青龍足軽一番隊 |
約100名 |
隊長:杉田兵庫 |
青龍足軽二番隊 |
約100名 |
隊長:諏方武之助 |
青龍足軽三番隊 |
約100名 |
隊長:蜷川友次郎、野村悌之助 |
青龍足軽四番隊 |
約100名 |
隊長:有賀左司馬 |
( 総 勢 ) |
約900名 |
|
16歳から17歳までの藩士の男子で構成。
当初は15歳からだったが、15歳は戦闘不向きとの理由で、16歳からとなった。
元々は警備隊で、士中隊は藩主の親衛隊、寄合隊は予備隊である。
悲劇を生んだ部隊は、士中二番隊である。
総督:黒河内式部
玄武隊 (げんぶたい)
50歳以上の藩士で構成。
予備隊としての部隊。
強清水の戦い、一ノ堰の戦い、城下の戦いなど、城周辺で奮戦。
総督:黒河内式部
玄武士中一番隊 |
約100名 |
隊長:伊与田図書 |
玄武寄合一番隊 |
約100名 |
|
玄武足軽一番隊 |
約100名 |
|
玄武足軽二番隊 |
約100名 |
|
( 総 勢 ) |
約400名 |
|
砲兵隊 (ほうへいたい)
鳥羽伏見の戦いの時の大砲隊 (林隊と白井隊) 残兵を統合し改称、砲兵というより歩兵。
各地で転戦し、長命寺の戦いにも参加。
隊長:山川大蔵 → 日向内記 → 小原宇右衛門
砲兵一番分隊 |
約100〜50名 |
隊長:小原宇右衛門 |
砲兵二番分隊 |
約100〜50名 |
隊長:高橋源太輔 |
砲兵三番分隊 |
約100名〜 |
隊長:大沼浄之助 |
( 総 勢 ) |
約300〜100名 |
|
築城隊 (ちくじょうたい、土工隊、工兵隊)
慶応4(1868)年創設。
陣地を構築する土工部隊。
元々は旧幕軍が徴募した江戸の鳶・石工・左官・土方などの組織。
長賊らには存在せず、戊辰の役後に工兵隊出身者は陸軍幹部に登用され重用された。
徴 募 兵
会義隊 (かいぎたい)
慶応元(1865)年4月に徴募にて編成。
白河の戦い、天寧寺の戦いで奮戦、その後は城外にて戦い続ける。
正規軍と同等に精強の軍隊。
戦後、隊長の野田進は教師となり、退職後は伊佐須美神社の禰宜となる。
狙撃隊 (そげきたい)
慶応4(1868)年6月、山川大蔵に直属として、選び抜かれた狙撃名手で編成された精鋭部隊。
兵数は少ないが、籠城戦では度々 城外に出撃し、敵の指揮官を射殺するなど大活躍。
長命寺の戦いには参加せず、籠城戦に徹し防禦を固めた。
後に、隊長の竹村俊秀は思案橋事件の冤罪に巻き込まれる。
狙撃隊 |
約25名 |
隊長:竹村俊秀 (通称/幸之進) |
奇正隊 (きせいたい)
地方の郷士で編成。
一番隊から八番隊で構成され、正規軍と同等に精強の軍隊。
城下の戦いで奮戦。
陣将:原田対馬
正奇隊 (せいきたい)
慶応4(1868)年4月に編成。
百姓から選りすぐった屈強な農兵隊。
特に、中隊頭/杉浦丈右衛門 (後に戦死) 率いる杉浦隊は強かったという。
大内峠の戦い、青木関山の戦いを経て、長命寺の戦いにも参加。
敢死隊 (かんしたい)
慶応4(1868)年7月、新錬隊長/土屋鉄之助の進言により、士分 (独礼) に登庸しての編成。
8月3日、千人近い町人・農民たちの応募から選ばれ、一般徴募兵としても勇敢な部隊。
敢死隊と游軍隊・奇勝隊を合わせて100人ほどで、十六橋の破壊の任務を受けるも、堅固なため間に合わなかった。
8月23日の冬坂・赤井の戦いで隊長/小原も戦死、同月25日の小田山の戦いで壊滅。
敢死隊 |
約250名 |
隊長:小原信之助(新之助) → 川崎尚之助 |
別撰組 (べっせんぐみ、別選組、別撰隊)
慶応2(1866)年、新選組とは別に京都の治安維持と藩主護衛のため、藩士の次男・3男以下から、剣・槍・弓・馬術の内2つ以上の免許を持つ藩士の精鋭部隊「京都常詰先備甲士勤 (別選組、25名、甲士 = 士分)」として編成。 その後、60余名に増強される。
同時に支援部隊として京都日新館の書生 (生徒) 30名による「書(諸)生隊」も組織された。
鳥羽伏見の戦いでは、隊長/佐川官兵衛率いる170名が、徳川軍の最前線で斬込隊として大活躍し、攻め入ろうとする敵兵を撃退している。
まもなくフランス式の軍制改革に伴い解散したが、鶴ヶ城下で戦いが始まると再編される。
伝統の精鋭刀槍部隊として活躍するも、開城までに ほぼ壊滅。
奇勝隊 (きしょうたい)
僧侶出身者を中心とした一般徴募の民兵部隊。
猪苗代の戦い、赤井・笹山の戦いで奮戦。
奇勝隊と游軍隊・敢死隊を合わせて100人ほどで、十六橋の破壊の任務を受けるも、堅固なため間に合わなかった。
8月23日の城下の戦いで隊長/上田新八郎が戦死、25日の長命寺の戦いにも参加、市街戦では先頭に立った奮戦するも、開城までに半数以上が戦死。
奇勝隊 |
約250名 |
隊長:上田新八郎 → 坂内八三郎 |
遊軍隊 (游軍隊、ゆうぐんたい、進撃隊、しんげきたい)
慶応4(1868)年3月、正規軍の補完部隊として編成。
田島に布陣、領の南方、西方と大活躍。
城下の戦いでも、佐川官兵衛の支隊として奮戦。
進撃隊は、母成破れるの報で、城内にいた20〜35歳の兵を召集し、隊長/小室金吾左衛門で結成された部隊。
游軍隊と敢死隊・奇勝隊を合わせて100人ほどで、十六橋の破壊の任務を受けるも、堅固なため間に合わなかった。
長命寺の戦いで、隊長以下ほとんどの幹部が戦死、佐川官兵衛の部隊と合流した。
遊軍隊(進撃隊) |
約150名 |
隊長:小室金吾左衛門、武井柯亭 |
義勇隊 (ぎゆうたい)
慶応4年6月、諸隊となる。
9月1日、大内峠の戦いで奮戦。
神青龍隊 (しんせいりゅうたい)
会津戦争の末期に徴募編成。
東部の領境で、民兵の遊撃兵として小グループで奮戦。
仙台藩の降伏と共に投降する者、名称を変え戦い続ける者、庄内へ向かう者など分散する。
敬身隊 (けいしんたい)
慶応4(1868)年、神青龍隊分隊の改称。
東部の藩境で、ゲリラ戦として奮戦。
7人は仙台にて降伏したが、一連隊として戦い続ける。
赤心隊 (せきしんたい)
新青龍隊分隊の改称。
東部藩境において、ゲリラ戦として奮戦。
仙台藩の降伏で3名が投降するも、他は個々人として開城まで奮戦を続けたと聞く。
誠志隊 (せいしたい)
慶応4(1868)年5月に編成。
戸の口原の戦いでも奮戦するが、主に東部の藩境でゲリラ戦を展開。
仙台藩の降伏と共に、39名が投降、逃亡者も続出し消滅。
修験隊 (しゅけんたい)
慶応4(1868)年2月、領内の山伏と修験者で組織された民兵隊。
朱雀士中四番隊に付属し、越後口の領境を守備。
順風隊 (じゅんぷうたい)
慶応4(1868)年5月、藩の有志で結成。
長命寺の戦いでは死を恐れぬ奮戦だったが、隊長/舟橋捨蔵を含む幹部のほとんどが戦死したため、生き残った兵士の合意で同日に隊を解散。
新隊 (しんたい)
徴募の遊撃隊で、一番隊から八番隊で編成される。
特に、城下の戦いで大活躍。
信意隊 (しんいたい)
慶応4(1868)年5月、彰義隊の支援隊として会津藩士の有志で編成。
その後、会津へ戻り、領境や城下の戦いで奮戦。
開城後、一部の隊士は蝦夷地に転進。
新撃隊 (しんげきたい)
慶応4(1868)年6月、一般徴募の民兵部隊として編成。
9月4日、阿賀野川北側山地の長窪大谷間で奮戦。
その後も、開城まで戦い続ける。
新練隊 (しんれんたい)
慶応4(1868)年閏4月、地方下人の子弟で編成。
国境の防衛隊だったが遊撃部隊となり、日光口の三斗小屋・中峠で奮戦、兵力の3分の1を失う。
城下の戦いでも敵の補給路を断つなど奮戦し、開城まで戦い続ける。
護衛隊 (ごえいたい)
慶応4(1868)年8月25日、城に入った13〜15歳 (白虎隊より年少者) の少年有志で編成。
城内の守備を行ない、開城まで奮戦。
後に第6代大阪市長を務めた池上四郎の兄/三郎も加入し、籠城戦を戦いぬいた。
別楯隊 (べつたてたい)
慶応4(1868)年6月、寄合組の有志で編成。
8月5日、阿賀野川左岸の戦いなど北越戦で奮戦。
別楯隊 |
約70〜120名 |
隊長:関 清之進(清之助) |
別伝習隊 (べつでんしょうたい)
慶応4(1868)年1月、藩士と農兵50名で編成された農兵隊。
4月12日から、幕軍/大鳥圭介の後軍として行動する。
日光、田島、檜枝岐などに転戦し、開城まで奮戦。
開城にて解散するも、隊士の多くは他の地で戦い続ける。
報国隊 (ほうこくたい)
慶応4(1868)年7月に編成。
9月1日、義勇隊と共に大内峠の戦いに参加し、六石山で奮戦。
一ノ堰の戦いでは、奮戦するも多くの死傷者を出す。
遊撃隊 (ゆうげきたい) / 会津遊撃隊
慶応4(1868)年2月、横山主税の指揮下の部隊として編成。
各地で奮戦するも開城にて、諏訪常吉ら70人は会津を離脱。
仙台にて会津遊撃隊を結成し、蝦夷に向かう。
松前の戦いでは城を攻め落とす戦果をあげ、函館でも奮戦。
遊撃隊/会津遊撃隊 |
約180名 |
隊長:遠山伊右衛門 / 隊長:諏訪常吉 |
力士隊 (りきしたい)
慶応4(1868)年2月、藩内の力士を徴募して編成。
白河城、石筵口、赤谷の戦いなどで奮戦。
激しい雷雨の中での角石原の戦いは、壮絶な白兵戦が繰り広げられ、組頭/赤埴平八など死傷者が続出した。
猟師隊 (りょうしたい)
慶応4(1868)年4月、和銃武装した猟師を中心に今市で編成。
茶臼山の戦い、今市の戦いなど、地の利を得て奮戦。
7月28日の戦いでは、宝珠山を占領している。
その後も、赤谷口の戦いなど各地の山岳戦で奮戦。
年少隊 (ねんしょうたい、幼少隊、ようしょうたい)
14歳から15歳で編成。
士中、寄合一中隊で構成。
城下で戦うも、多くが戦死。
年少隊 (幼少隊) |
約100名 |
隊長:井上丘隅 → 安部井登 |
河原田精神隊
南会津 (南山地区) で編成された農兵隊。
蘆名時代に会津四家の1つである河原田氏が、南会津の伊南地方を支配していた関係で、容保の許しを得て編成。
かつて伊達政宗軍を撃退した末裔の旧主従関係から団結心は旺盛で、伝習隊士の大木鈴太郎と中川七之助の助力で軍事訓練を受け、正規の精鋭部隊に劣らない強さを発揮した。
開城まで、南山地区で戦い続ける。
河原田精神隊 |
不明 (数百名) |
隊長:河原田治部(信盛) |
義集隊 (ぎしゅうたい)
慶応4(1868)年4月に編成。
本隊は、白河口の戰い、強清水の戦いなどで奮戦。
金田率いる分遺隊 (約30名) は水戸の結城党と共に行動し、片貝の戦いなどで奮戦、後に水戸城突入ならず、仙台に向かおうとするが高崎藩の飛び地/松岸村(銚子市)にて降伏。
義集隊 |
約80名 |
隊長:辰野源左衛門、分遺隊長:金田百太郎 |
新遊撃隊 (しんゆうげきたい)
慶応4(1868)年2月、傭兵部隊として編成。
新撰組の久米部正親(猪野忠敬)、稗田利八(池田七三郎)、吉田俊太郎、梶谷隣之助などや、凌霜隊の野田弥助も加わっている。
3月から越後・三条に布陣、8月27日には只見川の陣ヶ峰にて奮戦。
水戸の結城党と共に行動し、片貝の戦いなどで奮戦、後に水戸城突入ならず、仙台に向かおうとするが高崎藩の飛び地/松岸村(銚子市)にて降伏。
勇義隊 (ゆうぎたい)
慶応4(1868)年7月、内藤介右衛門下の八隊のうちの一隊として編成。
白河口の勢至堂を守備。
白河口の戰いにも参加、その後、各地に転戦する。
分遣の金田隊は、水戸の結城党と共に行動し、片貝村の戦いで奮戦、後に水戸城突入ならず、仙台に向かおうとするが高崎藩の飛び地/松岸村(銚子市)にて降伏。
勇義隊 |
約50〜80名 |
隊長:佐藤義之助 (佐瀬とも) |
純義隊 (じゅんぎたい)
白河口の戰い、只見の戦い、城下でも奮戦。
水戸の結城党と共に行動し、片貝の戦いなどで奮戦、後に水戸城突入ならず、仙台に向かおうとするが高崎藩の飛び地/松岸村(銚子市)にて降伏。
鎮将隊 (ちんしょうたい)
慶応4(1868)年4月中旬に編成。
5月3日、水戸藩結城党と共に越後/片貝村の戦いで奮戦。
その後、金倉山 (山古志村) などの各地に転戦するも、8月には隊士の3割が戦死、4割が負傷したため隊としては消滅。
婦女隊 (ふじょたい) 娘子軍 (じょうしぐん)
女隊、婦子隊、婦子薙刀隊とも。
正規の隊ではなく、有志の女性によって編成された一隊を、後に 「婦女隊」 と名付けた。
「娘子軍、娘子隊」 とは、あまりの勇敢・奮戦ぶりに恐れ慄いた長賊らが付けた隊名である。
涙橋辺りで敵と遭遇し薙刀で奮戦するも、隊長/中野竹子は敵兵の銃弾に倒れ、妹が介錯している。
その後、鶴ヶ城に入り、籠城戦の支援をする。
結義隊 (けつぎたい)
越後久田山、片貝村、加茂、谷沢などを転戦。
隊長/渡部英次郎は、柳土手の戦いで戦死。
歩兵隊 (ほへいたい)
慶応4(1868)年3月に編成。
城下の戦いで奮戦。
融通寺口の戦いでは、数度も長賊らを撃退している。
諸生隊 (しょせいたい、書生隊、諸生組)
慶応2(1866)年、別撰組の支援部隊として京都日新館の書生 (生徒) 30名で組織。
翌年、昌平坂学問所 (昌平黌) の遊学生と、江戸日新館/書生の「江戸大砲隊」と合流。
鳥羽伏見の戦いで奮戦、その後は各々が各隊に編入、一部は幕府軍に加わる。
負傷し江戸で死去した山本八重の弟/三郎は、この隊員。
水戸藩の諸生隊とは無関係。
本校の日新館の書生で組織された同じ名の隊。
すぐに 「第二遊撃隊」 に改称し、越後の飛び地を防衛する。
<参考> 新撰組 (新選組 しんせんぐみ)
文久3(1863)年3月12日夜半、残留を望む近藤勇ら浪士組17名の会津藩預りが決まる。
同月15日、追加参加を併せ浪士組24名が正式に会津藩預りになり、壬生村に屯所があったことから「壬生浪士組」と改称 (「誠忠浪士組」の名称は、隊旗「誠」から後世に創作されたもの)。
その後、体制作りが進められ、組士/200名を超える。
元治元(1864)年8月、会津藩から「新撰組」の名称が贈られる。
「新選組」の名称も、近藤勇など書簡で両方 使用している。
当サイトでは、出典 (含/伝承) により使い分けている。
慶応 3(1867)年6月、幕臣に取り立てられまで会津藩の一員。
この他にも、「精義隊」など領内の農民たちが、数多くの義勇隊を結成し誠義を貫いた。
※ 対する長賊らの総数は、10万人とも、7万5千人とも、の大軍に達した。
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