戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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旧  会  津  藩  領  地

以下の緑色の文は、現地の「説明板」から  .
画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり  .

阿   賀   町   (新潟県)

白虎隊士/藤森八太郎 (新善光寺)

白虎隊士/藤森八太郎の墓

 山門を入ってすぐ右手、本堂手前にある。
 真白い標柱があるので分りやすい。 右隣りに3体の地蔵菩薩、左に福海観音菩薩に挟まれて眠っている。
 慶応4(1868)年8月15日、押し寄せる長賊らを撃破し追い返した。
 白兵戦では敵わないと判断した長賊らは、8月24日の大砲到着を待って砲撃を開始、翌25日の砲戦で敵弾を受けて即死。
 母成破れるの報で、撤収の最中であった。
 白虎寄合一番隊/原隊嚮導、享年16歳。
 飯盛山井上浄光寺にも墓がある。
新善光寺
 新善光寺は、津川最大の寺院。 京都/知恩院の末寺。
 7世住職/岌州 (会津/青木村出身) は、知恩寺の30世/住職を務めた。

 ▲(阿賀町津川3313 Tel. 0254-92-3041)

村井藤造 (正法寺)

村井藤造の墓(正法寺)

 慶応4(1868)年8月25日、津川/小野戸で戦死。
 66歳。
 墓碑には「若松藩」の他に、「十月十四日」とも読める。
 その他は詳細不詳。
 本堂裏の墓域、1段目の中央辺りにある。
正法寺

 ▲(新潟県東蒲原郡阿賀町津川3242
         Tel. 0254-92-2866)

西郷四郎の墓(正法寺)

西郷四郎

 殉難者ではないが、「姿三四郎 /富田常雄著」のモデルとして有名。
 慶応2(1866)年、若松に生れたが、戦火を逃れ津川に移住。
 その後16歳で、家老/西郷頼母の養子となった。
西郷四郎の墓の説明文  新聞記者として大陸に渡り、孫文とも交流している。
 大正11(1922)年に病死。 57歳。
 碑は、津川城址
 銅像は、会津武家屋敷、終焉地/吉祥坊跡

高崎駒之助戦死の地

高崎駒之助戦死の地 高崎駒之助戦死の地

 伴助の伜。 白虎寄合一番隊/原隊。
 慶応4(1868)年8月24日に砲撃で負傷、9月5日 八木山 (郷頭/渡部宅) で死去。
 17歳だった。
 飯盛山に墓がある。

 ▲(阿賀町八木山 集落の中ほど)

 
八木山 (焼山) 宿
 小さな宿場であったが、蒲原郡海道組十ヶ村の郷頭/渡部家が本陣を兼ねており、藩主の領内巡見の際の休憩に使われていた。
 焼山宿、八木山宿、栄山宿とも表記。
 今でも、「殿様の間」 「家老の間」などが保存されており、敷地内には脱出用の穴まで備えられていた。
 新発田藩や村上藩の参勤交代の際に休憩する本陣にも利用された。
 「さんじょうや、しばたや、やまだや」などの旅籠屋の看板があり、往時の雰囲気を醸し出している。
 十辺舎一九も利用している。

五   泉   市   (新潟県)

佐取古戦場の碑、戊辰殉難追悼碑

佐取古戦場の碑、戊辰殉難追悼碑 戊辰殉難追悼碑

 JR磐越西線の咲花駅前にある。
 昭和45(1970)年、若宮八幡神社の入口に、佐取古戦場、戊辰殉難追悼碑、佐取古戦場概要が建立された。

 激戦地の1つで、寄合白虎隊も参戦している。 戦死した白虎隊士/星勇八の墓が、200メートルほど離れた長徳寺にある。

佐取古戦場の碑の脇の若宮八幡神社  慶応4(1868)年8月7日、会津藩領最北端の佐取に陣を敷く。
 8月10日、戦闘が開始となる。

 ▲(五泉市佐取)

白虎隊士/星勇八 (長徳寺)

白虎隊士/星勇八の墓

 佐取古戦場の碑から、200メートルほどの所の長徳寺にある。
 山門を入ってすぐ右手に建っている。
 佐取古戦場の碑と同じ昭和45(1970)年に建立された。
 慶応4(1868)年8月10日に戦死、飯盛山豊岡墓地にも墓がある。
 白虎寄合二番隊/太田隊。享年16歳。
 闊達な気性で、地元の人の人気者だったという。
 白虎隊寄合一番隊・二番隊が越後方面へ投入されたが、いち早く実戦に突入したのは石間村の関所を守る二番隊であった。
 百瀬外次郎小松八太郎も負傷し戦死しているが、両名は石間に移動してから亡くなった。
星勇八の墓のある長徳寺  白虎足軽隊/森新太郎が磐城/大平口で6月13日に戦死しているが、白虎隊としての出陣ではなく、星勇八が白虎隊士の初戦死者である。
 墓の後ろには、六地蔵の祠があった。
 長徳寺は、守備の陣を敷いた際、本陣となった。

 ▲(五泉市佐取2311 Tel. 0250-47-2054)

新   潟   市   (新潟県)

伴百悦 (慶雲庵跡)

伴百悦の墓

 集落に入ると車1台ギリギリの道だが、「会津藩士 伴百悦先生の墓」の矢印が、あちこちにあるので、迷うことはない。
 村人に埋葬された時は、石を積み上げた墓標であり、その後、慶雲庵も廃寺となったため草木に埋もれていた。
 現在の墓は、昭和41(1966)年に越後交通社長 (会津会/会長) によって整備改修されたものである。
 その後に、故郷/会津の善龍寺にも、墓が建立された。

伴百悦之碑  放置された戦友の遺骸の埋葬に尽力した後。取り調べもせず処刑するなど悪業非道の限りを尽くした民政局監察兼断獄の極悪人/久保村文四郎を、束松で待ち伏せして天誅を下した後に、旧会津藩領の飛地であったこの地の慶雲庵に逃れてきた。
 明治3(1870)年6月22日、村松藩兵に包囲され、踏込んだ吉田倉之助を板戸越しに刺し貫き、ひるんだ隙に割腹して果てた。享年44歳であった。

 ▲(新潟市秋葉区大安寺1322)

伴 百 悦 之 碑
 先生の家は 代々会津藩主松平氏に仕え 禄五百石を賜った。 明治戊辰の役、先生は菅野隊の副将として越後に出陣し、長岡城の陥るや会津に帰り鶴ヶ城を死守し、戦終って城の内外の会津藩士二千三十二柱の遺体の埋葬に心血を傾けた。 はじめ西軍は遺体の埋葬を禁止したが、日を経て惨状を見るに耐えぬに至ったので、餞民の手でこれを罪人塚に移すことにした。 会津藩士の数回の嘆願の結果、阿弥陀寺、長命寺、に埋葬を許可されたが、餞民の取扱が乱暴なので先生は自ら餞民となり監督して礼をつくそうと覚悟された。 当時は士人の餞民と言葉を交わすことさえ厳禁されていたが、先生は 戦場で命を公君に献ずるも 餞民となって忠臣の骨を葬るのも 精神に二っはないとして断然敢行された。 後に会津を治める悪幹部が民衆に無慈悲なのを憤り、これを斬って越後に逃れた。 追及を避けて居所を転じ、最後に新津郊外大安寺村慶雲庵に移った。 村松藩の若殿これを探知し、手兵を以って庵室を囲んだ。 剣道の達人である先生は寄手の先鋒を斬り、返す刀で従容割腹自決した。 里人は先生の孤忠を憐れみ、塩二俵で遺体を包み寺域に葬り小石数片を墓標とした。 実に命じ三年六月二十二日、その後九十六年弔う人もなく無縁仏として今日に至った。 私は越後交通株式会社の社長に就任し、会津人として親しく先生の墓に詣でたが、墓は雑草の中に没していた。 香花を手向け墓側に立ち、この地下に独り淋しく眠る先生を偲び低徊去るに忍びなかった。
 嗚呼、天下節義の士の出現を待つこと今日より急なるはない。 私は慨然時勢に鑑み、この地に新たに墓標を建立して先生の高風を万世に伝えんと決意した。 今や工成り寺僧を講じ知友とともに恭しく追善の供養を厳修した。
 昭和四十一年三月二十六日  越後交通株式会社々長 柏村毅  選文

 上記が墓石の脇にある碑文であるが、読みにくいからか、抜粋された文が、別の真っ白な標柱に転載されている。

(ばん) (ひゃく) (えつ) 庵 室 跡 地(あんしつあとち)
 明治戊辰(めいじぼしん)(えき)、菅野隊の副将として越後に出陣し長岡城が陥落するや会津鶴ヶ城を死守(ししゅ)し、会津藩士二〇三二柱の遺体の埋葬に心血を傾けた。 後に会津を治める幹部が民衆に無慈悲なのを(いきどおり)り、これを斬り越後に逃れ追及を避けて居所を転じ、最後にここ大安寺慶雲庵(けいうんあん)に移った。 村松藩士が探知し先兵を以って庵室を囲んだ。 剣の達人である百悦は寄手(よりて)先鋒(せんぽう)を斬り、返す刀で従容(しょうよう)割腹(かっぷく)自決(じけつ)した。

義勇碑 (清徳寺)

義勇碑

 文久3(1863)年、幕府直轄地の天領/内野村は、会津藩領となった。
 慶応4(1868)年5月中旬、内野村の庄屋/渡部三郎兵衛は、村内の長男を除いた20歳から40歳の農民と奉公人で20名ほどの義勇隊を結成した。
 5月22日、出兵命令が下り出陣し、巻・吉田・小須戸・三条などへ就く。
 6月24日明け方、久田村山中で戦闘となり、戦死者3名と負傷者2名が出たため、3名の葬式を出すよう帰郷の藩命が出る。
 7月9日、内野村農民義勇兵は「精義隊」と命名され、藩士/佐藤織之進を隊長した新遊撃隊の正式な補完部隊となる。
清徳寺  名字帯刀を許された渡部は「渡辺辰之進」と改名し、部下の農民にも名字を付けた。
 その後、米沢藩の配下となり、米沢藩の南方防備に従事する。
 明治3(1870)年、精義隊を称えた顕彰碑が建立される。
 ▲(新潟市西区内野町590 Tel. 025-262-2266)

酒屋陣屋跡

酒屋陣屋跡 酒屋陣屋跡の碑 陣屋通り 酒屋陣屋の場所
 元治2(1865)年、前年に藩主/松平容保が京都守護職の再任により、酒屋村が会津藩領となる。
 慶応3(1867)年、福岡村の陣屋を酒屋村へ移し、庄屋宅を仮の役宅として300人の兵を派遣する。
 慶応4(1868)年2月2日〜9日、会津・長岡・ 村松・新発田・村上の5藩の代表が集まり「酒屋会談」が開催され、長賊らへの対応を協議した。
 今も、「陣屋通り」の名が残っている。
 陣屋があった場所は、碑から本通りを曲がった鐘木屋米穀店の倉庫辺り
 ▲(新潟市江南区酒屋町821-9 周辺)

荻島古戦場

荻島古戦場の碑

慶応4(1868)年7月31日夕刻、能代川を挟んで砲撃・銃撃戦の火ぶたが切って落とされた。
 荻島側に布陣していた米沢藩に、長賊らが木津側から奇襲をかけた。
 一旦、米沢藩は退却するが、間もなく小須戸から会津藩が援護に駆け付け、撃退する。
 やがて、長賊らが三条に進攻しているとの報を受け、会津藩・米沢藩ともに、この地から撤収した。

 ▲(新潟市秋葉区荻島1丁目 荻島バス停の裏・大島橋のたもと)

新  発  田  市  (新潟県)

會藩戦死碑

 県道14号沿いの赤谷郵便局のある集落が過ぎたころ、左折で赤谷小学校へ向かう丁字路の左側にある。
 赤谷は、会津藩領。
 「角石原戦跡の碑」は、こちら。

 ▲(新発田市上赤谷)

會 藩 戦 死 碑
 この碑は明治十七年七月の建立である。
 百四年前である。 今より百二十年前 この地は角石原の戦いを中心として戊辰戦争の戦場であった。 当時の赤谷は会津藩領であり、地内を流れる境川をはさみ新発田藩と相対していた。
 慶応四年 (明治元年) 戊辰の年、八月十三日から八月十五日にかけ激しい戦いがくり広げられた。記録によると、八月十三日暁七ッ時 (午前四時すぎ) 、右に加治川の深渕・杉林、左に城山の麓に 小柴茂る中々山角石原にて合戦、両軍とも灯消し相進む。 時に雷雨咫尺も分らず、忽然発砲、直ちに接戦、銃丸雨霰れのごとく、或は短兵相接して入り乱れる。 とある。
 西軍 (新発田、長州薩摩、加賀、藝州の各藩) 兵力千六百名、砲十門に対して迎える会津藩百六十名、農兵隊六十名、接戦して戦い止まず、一進一退の戦況であったが装備、兵力弱少、加えて後援続かず、味方死傷多く、遂に敗れ、網木より諏訪峠を越え津川に落ちのび、さらに会津に退く。
 慶応四年 (明治元年) 八月十五日夜のことである。
 この間にあって、赤谷地区住民は会津藩代官の命により老若男女避難したが、屈強の男子や重立衆は会津藩に組して一部は農兵、力卒となり物質の運搬、伝令、死傷者の後送など懸命に使役活動に従事した。 力戦奮斗すれども利あらず、遂に敗走に及ぶ。 住民はこの情況をどんな感慨で直視したであろうか 住民はこぞって戦後処理に従事したが、中でもわれらの先輩諸氏は戦いに敗れたとはいえ、人間的崇高な心情を持ち続け、この地に散った会津藩士の霊を弔うべく、有志を募りこの碑が建立されたのである。
会藩戦死碑の説明文  われらはこの行為に対し 共感と深い感動を覚えるものである。
 ここに昔日の思いをこめ、さらに日本の永久の平和を希求し お不動様の地より ここに移築し広く供覧するものである。

昭和六十三年十二月 戊辰百二十年のよき周期を記念して   ・
赤谷地区 會藩戦死者供養実行委員会  .


会藩戦死碑の説明文
明 治 戊 辰 赤 谷 戦 跡
 赤谷の地で、慶応四年七月初めから八月十五日にかけ、戊辰の戦いが行われ、會津軍、西軍あわせて七十人が散った。
 幕末、幕府の権威は失墜、王政復古後、東征軍と奥羽越列藩同盟が対抗。 會津藩四境は風雲急を告げ、関門・赤谷口にも會津藩は兵力を増派。 猪之原、八方山、榎平に陣所を、また赤谷地内十三箇所に胸壁を構築。 會津藩臨戦態勢を整える。
 八月には、越後口国境で西軍と會津軍双方睨み合い、ついに慶応四年八月十四日、東軍と西軍は払暁、本街道、鳥越、常磐新田より暗中進軍。 双方白兵戦となり、会津藩士抜刀にて西軍を圧倒。 西軍は多数の戦死者を出し、後退するものの、西軍は銃砲による反撃。 八方山近くに西軍現れ、會津藩は、退く。 会津藩士はちりぢりになり赤谷本営に戻る。 會津藩は夕刻巳牌に敗軍を纏め、赤谷口民家に火を放ち、綱木宿まで後退。 其の夜、會津藩士は秋雨の中、露営。 『無念さに終夜瞼を交えなかった』と云う。 犠牲となった次の會津藩の『もののふたち』の名を忘れては成るまい。

  三宅小左衛門  遊撃隊頭  八月十四日で戦死
  赤埴平八  遊撃隊三宅隊小隊頭  同十四日赤谷で戦死  大龍寺
  小池滝江  遊撃三宅隊指図役  同日赤谷で戦死
  三浦重八  力士隊指図役  同日赤谷で戦死
  渋井小次郎  遊撃三宅隊教導  同日赤谷で戦死  専念寺
  鈴木音吉  遊撃三宅隊  同日赤谷で戦死
  遠藤鉄之助  遊撃三宅隊  同日赤谷で戦死
  長尾周吉  遊撃三宅隊  同日赤谷で戦死
  舟橋久治  遊撃三宅隊  同日赤谷で戦死
  半藤久吾  遊撃三宅隊  十五日赤谷で戦死
  長谷川栄助  月割  同日赤谷で戦死  融通寺
  梶原梯次郎  遊撃隊指図役  十二日赤谷で負傷数日後死去
  木間源次郎  遊撃隊三宅隊  十二日同負傷数日後死去
  木間留次郎  遊撃隊三宅隊  十二日同負傷数日後死去
  岩崎千代蔵  遊撃三宅隊  十五日赤谷で戦死
  佐々木佐左衛門  玄武寄合一柳隊  十五日赤谷で戦死  光照寺
  佐々木新六郎  白虎寄合一番原隊  同日赤谷で戦死  飯盛山  光照寺
  村上六郎兵衛  遊撃三宅隊案内者  十四日山内で戦死
  牛蔵  力士赤埴隊  同日赤谷で負傷数日後死去

 
《赤谷宿》
 新発田藩との藩境に隣接しているため会津藩の赤谷番所が設置され、人物改めや荷物改めなどが行われていた。 街道絵図には、
  「奥州会津入り口之御番所あり 入り切手とるべし 女切手改」 と記されている。
 カギ型の玉石垣のある場所 (新発田市上赤谷2705〜2719 辺り) が、口留番所があった場所。
 戊辰の役では、奥羽越列藩同盟に参加した新発田藩が西軍に寝返り、藩境の赤谷で激戦となる。
 寝返った新発田藩は、と併せ総勢1千6百余名・砲門10門で攻め入った。
 対する会津藩は総勢220余名 (藩兵160名・民兵60名) であったが、赤谷の人が残らず会津藩に味方したため、当初は奇襲も功を奏し撃退したが、敵兵の援軍が増加するに及び、多くの藩士たちが戦死 (會藩戦死碑戊辰役殉難者の碑) した。

戊辰役殉難者の碑 (大慶寺)

戊辰役殉難者5名の碑

≪樋口又右衛門≫
 慶応4(1868)年7月29日、越後で死。 36歳。
≪阿部豊之助≫ 藤吉の長男。 農兵、従者。
≪星悦之助≫ 与右エ門の長男。 農兵、従者。
≪神田源左エ門≫ 農兵、従者。
≪神田万蔵≫ 清三郎の次男。 農兵、従者。

大慶寺  本堂の前にある。
 8月14日、赤谷・角石原で戦死とも。


 ▲(新発田市滝谷1922 Tel. 0254-28-2405)

角石原戦跡の碑 (かどいしはら)

角石原戦跡の碑

 會藩戦死碑から2キロほど北上すると、中々山トンネルに至る。
 トンネルの手前の左手山麓に、碑が建っている。
 戊辰の役後70周年を記念して建てられた。
 激戦地の1つである。
 領内での初めての本格的な戦闘でもあった。

角石原戦跡
 圧倒的な敵兵の数にもかかわらず、当初の戦いでは長賊らを撃破し撤退させている。
 地の利もあったが、村人たちの献身的な協力があったという。
 長賊らの動向を得た会津藩は、村民に対し山中などへ避難するよう命じた。
 しかし、手伝いたいとの志願者が続出、物の運搬などを担ってくれたため、後顧の憂いなく戦えたと聞いている。
 戦死した力士隊長/赤埴平八の刀などは、血のりにまみれ、のこぎりのようになっていたという。

 ▲(新発田市中々山261)

阿  賀  野  市  (新潟県)

佐瀬重威 (長楽寺)

佐瀬長八墓 (長楽寺)

 佐瀬長八とのこと。 八太夫の倅。
 墓碑には、微かに 「二十四日死 十九才」 と読める。
 第二遊撃隊/井深隊。
 慶応4(1868)年5月23日、越後/妙見で戦死。
 21歳。
 歴代の水原代官の墓群の中にある。


坂本平弥の墓 (長楽寺)

坂本平弥

 下野芳賀郡清原村/里正平太夫の子。
 剣豪で一橋慶喜に仕官。
 幕府軍を脱して、遊撃隊長となる。
 慶応4(1868)年5月3日、越後/水原で斬られる。
 酒に溺れたため、激怒した大庭恭平に一刀両断にされた。
 28歳。

長楽寺

 ▲(阿賀野市北本町4-41 Tel. 0250-62-4321)

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