会  津  の  著  名  人

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《 つ 》 幕 末 よ り 前

 束原 龍渓  つかはら りゅうけい、
 文化5(1808)年4月15日〜明治13(1880)年2月22日
 名:博光。 通称:龍太郎。 号:篆斎とも。
 豪商/善太郎と母/“りん”との子として小中津川村 (野尻村とも、昭和村) にて誕生。
 書家/賢明に師事し書を学ぶ。
 後に能書家として一家を成し、門下生が数10人と云われる。
 数多くの名筆家を招き、この地の文化発展に寄与した。
 土屋 壺関  つちや こかん、生年不詳〜文政(1818〜1829))年間 (42歳)
 通称:七郎。 号:屋郎。
 壺下村 (猪苗代町壺楊字壺下) にて誕生。
 文人として、松平容敬公に仕える。
 後に江戸に上がり、歴史家・思想家で文人/頼山陽らと交わり、頼山陽の著書「日本外史」の編集に協力した。

《 つ 》 江  戸  幕  末

 土屋 鉄之助  つちや てつのすけ
 詩文掛・舎長助勤、御近習一ノ寄合、新練隊/隊長。
 側医師/土屋一庵の倅。
 幼き頃から才を発揮し、嘉永5(1852)年に藩命で昌平坂学問所 (昌平黌) へ3年間も遊学している。
 秋月悌次郎と備中松山に出向き、儒家/山田方谷に師事している時、同じく師事していた長岡藩/河井継之助と知り合い、生涯にわたる交友が始まっている。
 戊辰の役では、新錬隊を率いて、棚倉口、白河口、三斗小屋や中峠などで奮戦し、鶴ヶ城下に乱入すると城外で激戦を展開する。
 花畑口郭門守備の任に就くと、開城するまで守り抜いている。
 が来襲した8月23日に、父/土屋一庵は自刃 (70歳)、姉/坂井カネ (50歳) は蟹川渡場で死去した。
 良く知られる点は、一般徴募 (徴兵制度)の進言であろう。
 これより前に身体強健な百姓・町人を徴募していたが、身分はそのままだったため、実戦で士気は高くないと肌で感じた。
 身分に拘って隊を編成しては精鋭部隊とならず、身分の上下、農夫、町人を問わず実力第一主義の部隊を作るべきと建議した。
 提唱は認められ、志願する者は藩兵に組み入れ士分 (独礼) に登庸するとの触れがでると、すぐに志願者1千人が集まり、その中から250人を厳選して敢死隊が編成された。
 「急御用ニ付敢死之士御募リ町在ノ者タリトモ士中ニ御取立テ御知行百石被下筈 鉄砲刀槍有余之者暫御借上
 最下級武士(中間など)や武家奉公人は、一本だけ帯刀が許され日頃から武術を心得ており、士気が上がるや正規軍に劣らない戦力となる。
 しかし、戦略・戦術に疎い西郷頼母に配属されてしまう。
 慶応4(1868)年8月23日、十六橋が破られるの報を受け冬坂方面に出陣したが、赤井・笹山の戦いで隊長/小原信之助以下の戦死者を出す。
 次いで、山本八重の夫/川崎尚之助が隊長となるも、8月25日の小田山の攻防戦で壊滅してしまう。

≪医師/土屋一庵邸≫
医師/土屋一庵邸  家老/田中土佐と家老/神保内蔵助が、の侵入を許してしまった責を取り、お互いに刺し違えて自刃した場所。
 城下はに破壊されつくされたため、邸宅の痕跡は留めていない。
 場所は、現在の居酒屋/籠太の辺り。
 ▲(旧五之丁
    会津若松市栄町8-49の一帯)

《殉難者》 津川喜代美 津田捨蔵 土屋敬治惟迪 角田五三郎

《 つ 》 幕 末 よ り 後

 角田 秀松  つのだ ひでまつ、
 嘉永3(1850)年2月12日〜明治38(1905)年12月13日 (56歳)
 藩医/角田良智の次男。
 父/良智の赴任地の蝦夷に同行し、蝦夷地/標津代官の任に就いていた南摩綱紀 (日新館/教授) に学ぶ。
 松平容保の京都守護職就任により秋月悌次郎に従って上洛し、林権助に洋式訓練を受ける。
 鳥羽伏見の戦いに参戦し、その後は朱雀隊として各地で奮戦。
 開城後は、幽閉 (謹慎) を経て、斗南藩へ移住。
 斗南藩が消滅したため上京し、開陽丸を操船の航海技術者/古川庄八らに航海術学んだ後、商船の水夫となり船長代理に就く。
 明治 7(1874)年、台湾出兵の運送船に乗組んだ縁から、長崎海軍出張所雇となり「雲揚艦」乗組、海軍少尉に就任。
 明治 8(1875)年、江華島事件では陸戦隊を率いて上陸を敢行し砲台を占領するなどの戦功を上げる。
 「清輝艦」乗組を経て「孟春艦」乗組に就く。
 明治 9(1876)年、再び「清輝艦」乗組に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争に従軍、戦功をあげ海軍中尉へ昇進。
 明治11(1878)年、日本艦船初のヨーロッパ長期巡航に「清輝艦」の航海長として参加する。
 明治12(1879)年、ヨーロッパ巡航ら帰還し海軍大尉に昇格、後に「東艦」副長に就く。
 明治13(1880)年、「扶桑艦」乗組を経て、海軍水雷練習所に就く。
 明治15(1882)年、海軍水雷練習所副長に就任。
 明治16(1883)年、海軍少佐に昇進し、海軍省水雷局副長に就任。
 明治19(1886)年、長浦水雷営長、長浦水雷営武庫主事の兼務、迅鯨艦長心得の兼務を経て、横須賀鎮守府水雷司令兼武器部次長、長浦兵器部派出所に就く。
 明治20(1887)年、海軍大佐に昇進し、横須賀軍港水雷司令兼長浦水雷営長に就く。
 明治22(1889)年、「浪速艦」艦長に就任。
 明治24(1891)年、佐世保知港事兼佐世保予備艦長に就任。
 明治26(1893)年、海軍軍令部第一局長に就任。
 明治27(1894)年、日清戦争により初代/海軍軍令部第二局長 (作戦部長) を兼務し、大本営幕僚の任に就く。
 明治28(1895)年、海軍少将に昇進し、台湾総督府参謀副長兼海軍局長に就任。
 明治30(1897)年、台湾総督府海軍参謀長を経て、佐世保鎮守府予備艦隊司令官に就任。
 明治31(1898)年、呉鎮守府艦隊司令官に就任。
 明治32(1899)年、常備艦隊司令官に就任。
 明治33(1900)年、長賊らが跋扈する中、旧藩士として初の海軍中将に昇進。 海軍艦政本部長に就任し、海軍将官会議議員を兼務。
角田秀松の墓  明治34(1901)年、常備艦隊司令長官に就任。
 明治37(1904)年、日露戦争により竹敷要港部司令官 (前年) に就任。
 明治38(1905)年、就任中に戦病死。
 「余は亡国の士なり 故国の滅亡は 薩長の為す所なり 余は当事心に誓て 其復讐を為さんと欲し 志を決して海軍に入りたり、然るに一たび海軍に入るに及びては 〜〜〜 陛下に対して身命を擲つを以て、軍人の本分と為すに至れり
 墓は青山霊園

 明治40(1907)年、父/秀松の功績により、長男/武雄に男爵が授与。

塚原大貮 津田永佐久 角田行夫      

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