会  津  の  著  名  人

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《 す 》 幕 末 よ り 前

 鈴木 利助  すずき りすけ、文化14(1817)年〜明治21(1888)年
 豪農/作左衛門の長男として本郷村 (会津美里町) にて誕生。
 家業を姉に譲り、本郷焼の磁祖/佐藤伊兵衛の門人となって、白磁の研究に没頭する。
 藩御用絵師/斎藤伊織から陶画を学び、後に御用物師に就く。
 文久2(1862)年、加藤平八たちと尾張や長崎などを視察し、顔料/呉須を手に入れて帰国、染付白磁製法の改良に尽力する。
 成形の名工/加藤平八と共同制作に励み、数多くの名品を残す。
 墓は本郷墓地。
 須田 新九郎  すだ しんくろう、安永7(1778)年〜嘉永3(1850)年8月13日
 名:義保。
 遠祖/須田九朗太夫義実の孫/満親相模守が上杉家に仕官し上杉景勝公の会津移封に従ったが、再び米沢へ移封の際は若松で商人となる。
 新九郎は、末裔である呉服商の嫡男として鶴ヶ城下にて誕生。
 寛政10(1798)年、家老/田中玄宰の進言により東講所と西講所を統合し新たな藩校創立が検討されるも、資金の調達難で頓挫していた。
須田新九郎頌徳碑  寛政11(1799)年4月13日、計画を知るや「藩校は国の礎であり、今までの御恩に報いる」として、造営の費用全額の拠出を申し出た。
 享和 3(1803)年、東西約120間・南北約60間の敷地に水練場や天文台まで備えた校舎が、鶴ヶ城の西隣に全国有数の藩校/日新館が完成した。
 建設費は3千両に達するも、躊躇することなく全額を負担した。 この功績により学校普請方勤の肩書が与えられて士分に取り立てられた。
 頌徳碑は日新館跡
 墓は本覚寺。 「臥龍院義譽了忠清居士」

 長命寺の墓碑「会津藩士戦死者之墓」建立者75人の中に名を連ねる同姓同名の者は天保9(1838)年12月生まれの別人だが、子孫であろう。

諏訪幾之進          

《 す 》 江  戸  幕  末

 杉浦 成忠  すぎうら しげただ、
 天保11(1840)年〜明治29(1896)年5月17日 (57歳)
 通称:佐伯。
 藩士/杉浦藤八郎の分家に誕生。
 鳥羽伏見の戦いでは、白井大砲隊として奮戦、
 その後、青龍士中三番隊/小隊頭として北越戦線など各地で参戦し、2度も負傷。
 開城後は、塩川での拘束を経て、高田/別院に幽閉(謹慎)。
 後に、斗南藩に移住し、試補官庶務掛に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争に第二少警部として出征し、積年の恨みを晴らすべく奮戦し、戦功により陸軍憲兵中尉に昇進。
 越後高田で幽閉中、鳥羽伏見から北越までの戦記をまとめた「戊辰戦記結草録」を著す。
 墓は乗誓寺。 「速證院釋一乗大居士」
 杉原 凱  すぎはら がい、文化3(1806)年〜明治4(1871)年2月14日 (66歳)
 通称:外之助。
 幼い頃から文学を好み、儒学者の藩士/安部井帽山に師事する。
 天保11(1840)年、藩校/日新館素読所北学館の学館預に就く。
 天保14(1843)年、北学館長に就任。
 医学寮師範補助を経て、本草科および薬学一般の教授を歴任。
 日新館を退いた後は自宅で経史などを教える。
 明治3(1870)年、斗南藩/三戸に移住し、学塾を開き子弟教育を開始、
 明治4(1872)年、志半ばで、死去。
 三戸大神宮に埋葬された。
 明治19(1886)年、門下の沖津醇・渡部乕次郎など10余名が、埋葬地である三戸大神宮の境内に「杉原凱先生之墓」を建立。
 墓碑は「三戸三碑 (会津三碑)」の1つ。
 鈴木 利兵衛  すずき りへえ、天保5(1834)年〜明治37(1904)年11月12日 (71歳)
 初名:幸蔵。 隠居名:利輔。
 初代/鈴木屋利兵衛の子、2代目/利兵衛を襲名。
 藩内/塗店株仲間の組頭。
 戊辰の役では、長賊の屯所となったため焼失を免れており、今でも店舗として現役であり、歴史的景観指定建造物として貴重な建物。
 明治3(1870)年、塗店組合の結成に尽力し、離散した職人たちを呼び戻し保護し、漆器業界の復興に多大な功績を残す。
鈴木屋利兵衛  明治15(1882)年、漆器引換場を設立。

 安永年間(1772〜1780年)、初代/鈴木屋利兵衛が現在地/札之辻脇で漆問屋を開業。 同時に会津漆器の製造も始める。
 以来、現在まで老舗の漆器/鈴木屋利兵衛として継続している。
 諏訪 伊助  すわ いすけ、天保4(1833)年〜明治32(1899)年5月 (67歳)
 名は頼信。
 藩士/諏訪大四郎頼徳の嫡男として下本二ノ丁にて誕生。
 慶応2(1866)年、若年寄に就任。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦い直前に家老に抜擢。
 日光口、土湯方面で奮戦。
諏訪伊助の墓  開城後は、松平喜徳公に付き添い、東京/有馬藩邸で幽閉(謹慎)。
 斗南藩/五戸へ移住。
 明治 4(1871)年、妻が死去、間もなく会津へ帰り、旧藩士たちの生活救済に尽力。
 明治15(1882)年、町野主水・辰野宗治たちと会津帝政党を立党。
 明治17(1884)年、北会津郡長に就任。
 明治21(1888)年、北会津郡長を退任。
 墓は恵倫寺
 諏訪 大四郎













 諏訪 喜智子
 すわ だいしろう、生年不詳〜明治2(1869)年
 名は頼徳(よりのり)
 諏訪伊助頼故(よりもと) の4男。 諏訪伊助頼信の父。
 天保7(1836)年、奉行に就任。
 弘化3(1846)年、若年寄に就任。
 安政6(1859)年、家老に就任。
 財政再建に手腕を発揮。
 文久2(1862)年、家老職を退き、隠居。
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に迫ると、隠居の身ながら家老格で入城し、籠城戦を戦い抜く。
 開城後は、妻/喜智子と塩川村大沢に移り住む。
 墓は恵倫寺

 文政2(1819)年2月2日〜明治40(1907)年4月4日 (89歳)
 藩士/伊藤氏の3女。 初名:悦。
 内田武八に嫁し2人の女児を儲けたが、姑と折り合いが悪く離婚。
 諏訪大四郎から懇望され、喜智(後に喜智子)と名を改め再婚する。
 内助の功は素晴らしく、夫は禄1千7百石の老職へと昇進する。
 嫡子/伊助(養子)がおり、2人の一子/栄は石川数馬の養子となる。
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に迫るも、跡取りの伊助は陣将として日光口に布陣し不在だった。
 夫/大四郎が先に登城するや自らも身支度を済ませ、
 「これから入城し、夫と共に城を枕に殉ずるつもりだが、お前たち婦女と幼童は国に殉ずる必要はない。 他日この金をもって酒舗を営み、以って諏訪家の祀りごとを絶やすことのないようにせよ」と伊助の妻子と実子/栄に説き、大金を腰に結わえさせて(各自500両)、山村に潜むよう家の従長に託し、薙刀を携え追手門より入城した。
 天神橋からの敵兵を撃退するため総動員し防戦していたが、西出丸の外讃岐口郭門にも敵が現れたとの報があり、戦況を見に行くよう命を受けたため、薙刀を携えた婦人10人ほど引き連れて駈け付けてみるや味方が苦戦していた。 躊躇なく婦人達は左翼めがけて斬り込むと、狼狽した敵兵が散り散りになって逃げ出した。
 その後、同じく入城を果たした山本八重とともに、銃を扱える婦人数名を集め、無断で場外に出て夜襲をかけるようになった。
 二ノ丁に駐屯していたを襲撃し撃破、多量の戦利品を獲得して凱旋するや城内に知れわたり、「婦女子までを戦わせたるは末代までの恥」として、婦女子たち出撃は固く禁じられた。
 その後は、山川艶とともに城内女子の総取締りを任じられ、傷兵の看護や食糧の炊出し、弾丸の製造などに尽力した。
 体格に優れ性質剛健で、戊辰の役での会津最強の婦人と称される。
 開城後は斗南藩に移らず、隠居の夫・実子/栄と会津に残り、歴代藩主霊廟や諏訪家の墓所を守った。
 瓜生岩子の慈善事業に協賛し、瓜生会会津支部長として尽力する。
 晩年は、東京に移り住み、89歳の天寿を全うした。
 墓は青山墓地。
 諏訪 常吉  すわ つねきち、天保4(1833)年〜 明治2(1869)年5月16日 (37歳)
 藩主の護衛の「御供番」、公用方、会津遊撃隊/隊長。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、公用人として外交折衝に尽力。
 鳥羽伏見の戦いに参戦。
 江戸総引揚げ後、奥羽列藩同盟のため仙台藩へ赴く。
鶴ヶ城下に来襲したとの報を受け。救援依頼をするも すでに仙台藩は降伏へと傾いており交渉は難航、開城の知らせが入ったため会津遊撃隊を結成して、旧幕臣/榎本武揚軍と合流し蝦夷に渡る。
 戦地で無頼を働く兵士を処分するなど、正義の士であった。
 明治2(1869)年4月22日、当別(北斗市)に出陣した際、宛に
 「遠路の御出馬 御苦労に存じ奉り候 然るは小子儀 素より戦を好まずに候間 早々に引き揚げ申す 已むを得ざる際に立ち至り候はば 御用捨を蒙り候儀も御座有るべく候 以上
の置手紙を残す。 これが函館戦争終結のきっかけとなる。
 同4月29日、松前/矢不来の戦いで被弾し瀕死の重傷を負い、敵味方の区別なく傷病兵を収容していた箱館病院に入院。
 5月12日、置手紙により旧知の薩摩藩士/池田次郎兵衛・黒田清隆らが見舞いと称し見舞金25両を持参し、和平交渉の斡旋を依頼される。
 瀕死の重傷であったため榎本宛の勧告状を口述にて書し、5月15日に函館病院の掛頭取(事務長)をしていた藩士/小野権之丞へ託す。
 翌日、天命を成し遂げたかのように死去。
 「我病院ノ医高松凌雲執事小野権之丞竊ニ西軍ノ意ヲ受ケ、薩摩池田次郎兵衛、諏訪常吉 会津傷シテ病院ニ居ル二語ル所ヲ書シテ、病院ニ在ル者ヲ携炮台ニ来ラシテ且西軍ノ意ヲ伝云フ
 墓は実行寺。 円通寺/死節之墓にも記載。

《殉難者》 菅源吾 須貝佐蔵 杉浦小膳 鈴木音吉
杉浦丈右衛門・弥次郎・弥五郎 杉田やえ・薫治・みわ
杉原良之助・勇記 須佐留四郎 鈴木勝之丞
鈴木粂助重光 鈴木源吉 鈴木寿三郎 鈴木重光
鈴木三郎(重利) 鈴木重利・重季 鈴木重季 鈴木新次郎
鈴木武司政延 鈴木徳次 鈴木安太郎 鈴木義衛
鈴木与七 鈴木儀之助 諏訪部信五郎      
鈴木新吾 鈴木為輔    

《 す 》 幕 末 よ り 後

 鈴木 寅彦  すずき とらひこ、明治6(1873)年3月23日〜昭和16(1941)年9月18日
 藩士/国井豊次郎の子として金上村 (会津坂下町) にて誕生。
 後に、鈴木家の養子となる。
 14歳で福島師範学校に入学するが、粗暴のため退学となる。
 師範で学んだことから若松小学校の代用教員に採用され高等科の担当に就く。 生徒はみな年長で難問をぶつけと、逆に難問で煙に巻き、よく油断大敵の言葉を使うことから「大敵先生」と呼ばれていたという。
 代用教員を2年余りで辞め、習字に秀でていたことから、檜原銀山事務員に転職する。
 18歳で大志を抱いて上京するが、親戚・先輩宅を転々、東海散士の家に玄関番として寄宿もしている。
 やがて、上野駅改札係に就職口が見つかり、切符なしで通ろうとする政府高官を頑として通さなかったことから、意気地ある駅夫として評判となり、庶務課長に抜擢される。
 学問も必要と痛感し、東京専門学校邦語政治科 (早稲田大学の前身) に入学し卒業すると、日本大学にも進学している。
 明治29(1896)年、東京専門学校を卒業し、日本鉄道に入社、日露戦争で担当した東北地方の輸送で功績を挙げ叙勲を受ける。
 明治39(1906)年、日本鉄道が国有化される清算業務に際し、職を転々とした経験から手腕を発揮、多くの会社で役員として経営に携わる。
 東京乗合自動車専務、朝鮮鉄道専務、北海道瓦斯会長、日清生命取締役、成田鉄道取締役、上毛モスリンなど数社の経営。
 同郷の日曹コンツェルン創業者/中野友禮との関係で、日本曹達社長、日本電炉工業取締役、日曹鉱業取締役、九州曹達取締役、日曹人絹パルプ相談役など。
 明治41(1908)年、第10回衆議院議員総選挙に初当選し、政界に進出、累計で5期 務める。
 昭和8(1933)年、東京瓦斯/専務の時、増資問題解決の際の金銭授受が贈賄の罪に問われ、有罪となる。
 昭和14(1939)年、故郷/若松市の第15代市長(官選)に迎えられる。
 昭和15(1940)年、在任中に死去。

 長女/隆子と岡田幸三郎との孫娘/順子が遠藤周作の妻。
 鈴木 勝  すずき まさる、
 明治36(1903)年3月10日〜昭和62(1987)年8月5日 (84歳)
 中ノ川村大成沢 (柳津町) にて誕生。
 大正11(1921)年、会津中学校卒業し、日本大学専門部歯科へ入学。
 在学中に馬術部創設に関与し、京都若草大会/学生の部で3位入賞。
 昭和2(1927)年、日本大学を卒業、専門部歯科助教授に就任し、放射線学を担当。
 昭和18(1943)年、教授に昇進するも、更なる高度な知識と医学学位の取得のため、東京医学歯学専門学校 (現東京医科歯科大学) へ進学。
 昭和23(1948)年、東京医学歯学/医学科を卒業し、日本大学へ戻る。
 昭和38(1963)年、国際歯科学士会日本部会の会長に就任。
 昭和41(1966)年、第4代/日本歯科医学会の会長に就任。
 昭和43〜44(1968〜1969)年の日大紛争時には、理事として学生側と真摯な態度で交渉を重ねている。
 昭和44(1969)年、闘争が終息する頃、初の公選制による総長選挙で、第6代/日本大学総長に選任される。
 総長就任後も理事長を兼任し、日大の制度や機構などを改革・推進し、学生数の適正化や教員の充実に尽力した。
 昭和45(1970)年、2期務めた日本歯科医学会会長を退任。
 昭和46(1971)年、口腔を全身の1つとして対応のできる歯科医師の育成を目的に、日本大学松戸歯科大学 (日本大学松戸歯学部)・同付属病院を開学・開院し、学長を兼務する。
 鈴木自らの寄付金を基に、松戸歯学部に鈴木奨学金が設けられ、鈴木が収集した歯学関係の資料室が設置、今以て鈴木の理念「医学的歯学」は受け継がれている。
 昭和49(1974)年、県外在住功労者知事表彰を受賞。
 同年、柳津町名誉町民に推戴。
 昭和51(1976)年、横綱審議委員会委員に就き、没年まで務める。
 昭和56(1981)年、理事長を退く。
 昭和59(1984)年、5期15年の長期に亘る総長を辞任すると、日本大学名誉総長に選任される。
 昭和62(1987)年、肺炎のため、日本の歯科および歯学教育に尽力し、日本大学総長として私学の振興、教育の進展に寄与した人生を終えた。
 住吉 貞之進  すみよし・さだのしん、
 嘉永5(1853)年8月9日〜大正2(1913)年12月22日(伝、62歳)
 鶴ヶ城下の十軒町にて誕生。
 10歳で日新館に入り、戊辰の役では籠城戦に参加。
 当時14歳なので年少隊または護衛隊か。
 開城後は、官立新潟師範学校を卒業し、明治9(1876)年に埼玉県立師範学校の三等訓導に就く。
 福島県立師範学校、西白河郡小学校、岩手県庁などを歴任。
 明治24(1891)年、若松小学校の校長に就任し、教育改善に尽力。
 明治31(1898)年、小樽量徳尋常小学校(小樽教育発祥之地)校長、高等小学校長などを歴任し、小樽教育の基礎を築く。
 北欧のリトミックダンスを体育に採用したり、障害者に対しての教育にも深い思いを持って教育に尽力し、名校長と称賛されていた。
 大正2(1913)年、在職中に病死、行年62歳。
 明治・大正期の量徳三大異変の中に、
  「大正二年十月二十日 住吉貞之進校長の死
があり。大いに慕われていたことがうかがえる。
 貞之進の遺徳を偲び、小樽港を望める見晴らしのいい居住地の高台 (天上寺の裏山) に顕彰碑が建立されている。
 墓は、清林寺

 歌手/ペギー葉山は貞之進の孫 (母方の祖父) で、平成25(2013)年に顕彰碑を訪れた様子をブログに記載しているが、ペギー葉山の最後の訪問となってしまった。
 小樽最古の学校である量徳小学校は、平成14(2002)年に開校130周年を迎え地元の名門校であったが、児童数の減少で近隣の学校と併合され、平成24(2012)年3月に閉校された。
 政治学者/秋野豊や精神科医/香山リカたちは卒業生とのこと。

鈴木式部 鈴木邦芳 杉原夷山      

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