会  津  の  著  名  人

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《 そ 》 幕 末 よ り 前

 添川 廉斎  そえかわ れんさい、
 享和3(1803)年12月15日〜安政5(1858)年6月26日 (56歳)
 幼名:亀次郎。 名:完平。 別名:久利、仲卓。
 号:廉斎、有所不為斎(ゆうしょふいさい)。 諱:栗。 字:仲頴(ちゅうい)
 農家兼染物屋/添川清右衛門直光と母/(とみ)の次男として小荒井寺町 (喜多方市) にて誕生。
 上三宮の大野染谷に徒弟として入るが、読書に夢中になってしまい、1年足らずで返されてしまう。
 14歳の時、藩士/黒河内十太夫の下僕になる。
 次いで、軍事奉行添役/広川 (広沢か) 庄助の従僕になる。
 勉強に没頭する姿を考慮した庄助から江戸屋敷へ行くことが許され、儒学者/古賀精里に3年間ほど学ぶ。
 その後、上洛し漢学者/頼山陽、備後で漢詩人/菅茶山に学ぶ。
 天保12(1841)年、39歳の時に安中藩に賓師として招聘される。
 江戸屋敷で漢学や儒学を教え、文武を奨励して士気を発揚させ、風俗を刷新し、安中藩の藩風を一変させる。
 大いに感動した安中藩主/板倉勝明は、人に会えば常に称賛し、
  「添川は予が畏友なり」 と語っていたという。
 山本八重の夫/新島襄は その門下生であり、 人生の指針に多大な影響を受けた。
 弘化元(1844)年12月、父/清右衛門直光の死去で帰郷。
 嘉永5(1852)年、最後となった帰郷 (50歳)。
 安政5(1858)年、安中藩中屋敷で死去。「懿倫院(いりんいん)徳若義馨居士」
 墓は東京/正覚寺安勝寺
 著書「有所不為斎雑録」など。
添川廉斎の顕彰碑 安勝寺の墓 正覚寺の墓

 昭和10(1935)年、顕彰碑が北宮諏方神社に隣接の稲荷神社に建立。。
 祖心尼  そしんに、天正16(1588)年〜延宝3(1675)年3月11日 (88歳)
 俗名:古那。 通称:“おなあ”、“おのう”、古那。
 伊勢国岩手城主/牧村利貞の娘。
 文禄2(1593)年、父/利貞が文禄の役で出陣中に死去したため、父と懇意であった前田利家に引き取られ、実子と同様に養育される。
 利家の長女/幸の息子である小松城主/前田直知へ嫁ぎ男児2人を出産するが、突然離縁を申し渡される。
 父/利貞が建立した京都/妙心寺「雑華院」に移り住む。
 やがて、蒲生忠郷公の重臣/町野幸和と再婚し生活が安定、書物三昧の日々を送り知識と教養を身に付け、後の栄達へとつながる。
 蒲生家が取り潰しとなったため、夫と共に江戸へ移住する。
 豊かな知識と教養を見抜いた義叔母/春日局の補佐役として江戸城中に上がり、大奥の女中たちの教養向上の任に就く。
 春日局の養女として大奥に上げた孫娘/お振の方(自証院) が、後に家光の側室になったため、家光の義祖母となる。
 寛永20(1643)年、出家し「祖心尼」と名乗り、家光にも禅を説く。
 家光の命により、祖心尼を開基とする牛込/済松寺が建立される。
 家光の死去したため、江戸城大奥を去り済松寺に移る。
 墓も済松寺だが非公開で、一般人の立入禁止。
 山鹿素行が江戸へ出てきた時に援助したのが祖心尼であった。

《 そ 》 江  戸  幕  末

 相馬 直登  そうま なおと、文化14(1817)年〜明治44(1911)年4月18日
 直澄 (なおずみ) とも。 改名:幸胤、新兵衛。 号:素哉。
 蝦夷地常詰郡奉行、御蔵入奉行などを歴任。
 戊辰の役では、軍事奉行に就き、正奇隊/隊長として長命寺の戦いに参加、その後は家老/佐川官兵衛とともに城外で奮戦。
 倅/孫市は宇都宮城下の戦いで戦死、妹/トイは鶴ヶ城下に乱入した日に自宅で自刃、娘は避難中の大曲村で被弾死した。
相馬直登の墓  開城後は、塩川謹慎中に単身脱走し上京、藩主の助命嘆願を直訴。
 明治3(1870)年、米沢藩士/雲井龍雄たちの事件に連座し、捕縛され芝増上寺に幽閉される。
 斗南藩へ移住。
 明治6(1873)年、会津に戻り、小荒井村寺町 (喜多方市) に隠棲し、地元の子弟たちに漢学や国学などを教える生活を送る。
 遺品の書「松の滴」「素哉日記」。
 墓は安勝寺。 金橋に相馬素哉先生碑

《殉難者》 相馬孫市      

《 そ 》 幕 末 よ り 後

園木華堂          

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