偉     人     伝

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]     [メニュー]

山 鹿 素 行 の 略 歴

 山鹿流兵法及び古学派の祖として、朱子学派の山崎簡斎、陽明学派の熊澤蕃山と共に、天下の学界を3分した江戸時代前期の儒学者・軍学者。
  ◇ 幼名 : 左太郎 (佐太郎とも)  →  文三郎
  ◇ 名: 貞直、義目、義以、高興
  ◇ 諱: 高祐(たかすけ、 義矩とも)
  ◇ 字: 子敬、 通称 : 甚五右衛門 (甚五左衛門とも)
  ◇ 号: 因山、素行
  ◇ 名言: 常の勝敗は現在なり
 先祖が、筑前/山鹿城の城主だったとのことから山鹿を名乗っていた。
 筑前遠賀郡山鹿の出身からとの説も。
 [肖像]

元和8(1622)年

山鹿素行/生誕の地

  8月16日
 蒲生家老臣/町野家の陪臣/山鹿六右衛門高道 (名:貞以) の庶子として、本一ノ丁の町野長門守幸和邸で誕生。
 母は、岡氏、岡備後守女。
 左太郎 (佐太郎とも) と命名される。
 異母兄1人、異母姉3人、同母弟1人の6人兄弟。
 父が蒲生忠郷公の老臣/町野幸和に身を寄せていた。
 上杉景勝公が藩主の時代に、直江兼続の屋敷があった場所でもある。
 生誕の地については、こちら。
 
《町野長門守幸和》  祖心尼が再婚した夫。
 天正2(1574)年〜正保4(1647)年6月26日
 町野幸仍の倅。 別名:新三郎。 通称:長門守、玄蕃允。 法名:道駕。
 主君/蒲生氏郷公の会津拝領に、父と共に従い、猪苗代城主、二本松城主を歴任。
 蒲生秀行公の移封に従い、下野国/真岡へ移る。
 秀行公が再び会津を拝領すると、陸奥/白河小峰城主に就く。
 蒲生家の会津時代が終わり、蒲生家が伊予松山への移封には従わず、 浪人として江戸に出て、徳川家光に仕えて旗本となる。

寛永4(1627)年   数え6歳   (寛永5年/7歳とも)

 蒲生忠郷公が病死し世継ぎがなく断絶したため、町野が幕府に仕えた。
 父/は名を「玄庵」と改め、職を長子/惣左衛門に譲り、町野に従って左太郎 (素行) を連れ江戸に出る。
 牛込榎町/済松寺の袒心禅尼に養われ、書を学び始める。
 まもなく、神童の兆しを現し、周囲を驚愕させている。


※ 大禄だった会津は、
   蘆名時代    120万石 (盛氏公の代)
   ⇒ 蒲生時代   96万石
   ⇒ 上杉時代  120万石
   ⇒ 再/蒲生時代 60万石
   ⇒ 加藤時代   40万石
   ⇒ 保科時代   23万石 (会津松平家)
と次々に小禄になっていったため「身を立てるのに不安」として多くの逸材が江戸へ上った。
 このことが以降の藩内教育に力を入れる元となった。

寛永6(1629)年   数え8歳

 四書、五経、七書はいうに及ばず、詩文などを読破した。

寛永7(1630)年   数え9歳

 幕府の大学頭/林羅山の門下に入り、四書五経・山谷集などを読習し、朱子学を学ぶ。
 名を、文三郎 (素行) と改称した。
 一度 目を通した文は、一字一句、一言一語も間違えることなく唱和したという。
 「六歳より親申しつけ候て 学問仕らせられ候へども 無器用に候て 漸く八歳の頃までに 四書、五経、七書、詩文の書 大方よみ覚え候〜〜」。

寛永8(1631)年   数え10歳

 入門して1年も経たないうちに、林門下一の秀才といわれるほどに成長する。
 林塾に新たに入ってくる者に、師に代わって指導していたという。

寛永9(1632)年   数え11歳

 元旦
 初めて詩 (五絶句) を作り、師/羅山に見せた。
 羅山は大いに感じ入り、1字を直すだけで、自ら序文を書いてくれた。

 この年
 松江城主/堀尾山城守から、2百石で召し抱えるとの申し出があったが、父が「小禄に束縛されたくない」と辞退する。

寛永12(1635)年   数え14歳

 弟の平絵馬が誕生。

寛永13(1636)年   数え15歳

 尾幡景憲 (尾幡勘兵衛) や北條安房守氏長に兵法軍学、廣田坦斎などに神道、その他にも歌学など様々な学問を学ぶ。
 「我等幼弱より武芸軍法怠らず候 十五の時に 尾幡勘兵衛殿 北條安房守殿へ逢い申し候て 兵学を稽古せしめ 修業候」。
 初めて「大学」を講ずる。

寛永15(1638)年   数え17歳

 この年
 紀州家と老中/阿部から、仕官の申し出があったが断る。

 冬
 高野光宥法印から、神道の秘伝まで全てを授けられる。
 

寛永16(1639)年   数え18歳

 加賀藩/松平筑前守から、7百石で仕官の話しがあったが、父が要求した1千石との溝が埋まらず、まとまらなかった。

寛永17(1640)年   数え19歳

 藤田甫庵に論語を、黒田信濃守に孟子を講義。

寛永18(1641)年   数え20歳

 廣田担斎の歌學国學「源氏物語、源語秘訣、伊勢物語、枕草子、萬葉集、百人一首、三代集など」を完修する。

寛永19(1642)年   数え21歳

 尾幡勘兵衛景憲の兵法を修得し、印免の状を受ける。
 その際に、門弟で初めての副状まで授与された。
 「文に於て その能く勤むるを感じ 武に於て その能く修むるを歎ず あゝ文章あるもの必ず武備あり 古人もいひ 我もまたいふ」。

正保4(1647)年   数え26歳

  7月
 病に罹るが、100余日で快復する。

 この年
 紀伊家と加賀家から、競うように仕官の申し出があるも断る。

慶安4(1651)年   数え30歳

 春
 幕府の近習番頭/駒井左京が、弟子になり兵学を学びたいとの懇請を断ったが、将軍/徳川家光の思し召しとのことを聞き承諾する。
 しかし、幕臣に迎えるつもりだった家光は、同年4月20日に死去してしまう。

  3月19日
 兄の惣左衛門が死去。

貞応元(1652)年   数え31歳

 播州赤穂藩主/浅野内匠頭長友に、父の夢であった1千石で迎えられる。
 赤穂藩は5万石の小藩であったが、高禄を提示した。
 素行の門下希望者は、常に2千人を超えていたというからであろう。

貞応2(1653)年   数え32歳

  6月
 播州赤穂へ向かって、江戸を出立する。
 「海道日記」を著す。

貞応3(1654)年   数え33歳

  5月 5日
 播州赤穂を出立し、難波・伏見を経て、東山道から同月24日に江戸に入る。

明暦2(1656)年   数え35歳

  1月11日
 長男の左太郎が誕生。

9月23日
 肥州 平戸藩主/松浦鎮信と親しかったことから、異母弟の山鹿四郎左衛門 (平馬) が5百石で平戸藩主となる。
 後に家老となる。

 この年
 著書「武教小學」などが完成。

明暦3(1657)年   数え36歳

  1月 5日
 自宅が類焼する。

  1月23日
 師であった林羅山が死去。
 享年75歳。

 この年
 長男の左太郎が急死する。

万治元(1658)年   数え37歳

 僧/隠元に、仏説を聞く。

万治3(1660)年   数え39歳

 赤穂藩への仕官を辞して、江戸へ戻る。

寛文元(1661)年   数え40歳

  8月 9日
 土屋但馬守邸にて、孫子を講義する。

 この年
 津軽藩からの仕官要請を断る。

寛文5(1665)年   数え44歳

 著書「山鹿語類」が完成。

 12月22日
 父/玄庵 (高道) が死去。 81歳。

寛文6(1666)年   数え45歳

  9月21日
 朱子学を非難した内容の著書「聖教要録」を、密かに著す。
 幕府が正学としていた朱子学を非難することは、幕府への反抗であり、死罪も ありうる行為であった。
 幼い将軍/家綱の後見者として武断政治から文治政治への移行を進めていた保科正之公としては、見過ごすことのできない事であった。
 15年前に将軍/家光が死去した3ヶ月後に慶安の変 (由井正雪) が勃発したが、「聖教要録」の発刊の著者が、はるかに超える影響力のある素行だったからである。
 「山鹿子 当は王ト石崇に合し 弁は蘇泰張儀を驚かし 兵器を設け 兵馬を備え 好んで遊説の士 豪英の徒を集め 一挙に乗じて事を起さんとす
 羅山の門下生でもあり、すでに死去していたとはいえ師を非難することでもあった。

 10月 3日未明
 北條安房守氏長から、突然、
 「相尋ぬべき御用の儀に付 早々私宅まで参らるべく候 以上
との手紙を受け取る。
 一瞬にして密かに刊行した「聖教要録」のことだと悟ったという。

 10月 4日
 遺書を懐に入れ出頭すると、播磨国/赤穂藩にて謹慎との命が下った。

 10月 9日
 江戸/浅野藩邸を出発し、播州赤穂へ護送される。
 家族は、17日に出立し、11月4日に赤穂へ着く。

 10月24日
 赤穂の刈屋城に到着。
 6年ぶりの、赤穂入りであった。
 45歳から54歳までの10年間ほどを過ごすこととなる。
 待遇は幽閉とは名許りで、衣料、食事、住まいまで不自由なく厚遇された。
 家老/大石頼母助良重 (良雄の祖父) からは、毎日朝夕の2回、欠かすことなく野菜を送り届け続けたという。 辞退すると、藩主/内匠頭の命だと答えている。
 素行は、因山と号した。
 朝寝などすることもなく、無作法な態度もとらず、1室にて謹慎していた。
 国家老/大石良雄をはじめ赤穂藩士たちも、素行宅を訪れては諸学、特に軍学を学び、後の討ち入りへとつながる。
 皮肉にも討ち入り後、山鹿流が「実戦的な軍学」としい大いに評価される。

寛文8(1668)年   数え47歳

 著書「謫居童問」が完成。

寛文9(1669)年   数え48歳

 著書「中朝事実」が完成。

寛文12(1672)年   数え51歳

  7月24日
 赤穂藩浅野家初代藩主/長直が死去。

 この年

 著書「武家事紀」を著す。 全58巻が延宝元(1673)年に完成とも。

延宝3(1675)年   数え54歳

  1月11日
 著書「配所残筆」を著す。

  6月15日
 謹慎の身を許す、との命が下る。

  7月20日
 江戸へ帰還するよう命が下る。

  7月25日
 播州/赤穂の地を出発し、江戸へ向かう。

  8月11日
 江戸へ到着する。

  8月14日
 江戸/赤穂邸へ挨拶に向かう。

  9月
 浅草/田原町に住居を定め、積徳堂と称する。

延宝5(1677)年   数え56歳

 10月14日
 母/妙智尼が死去。

延宝6(1678)年   数え57歳

 著書「配所残筆」を追補する。

延宝7(1679)年   数え58歳

 異母弟の山鹿平馬が、家老 (1千石) となる。
 「万家類聚」を著す。

延宝9(1681)年   数え60歳

 息子の萬助が元服し、藤助と改名する。

貞享2(1685)年   数え64歳

  8月 9日
 病 (黄疸) に臥す。
 赤穂藩主/浅野3.長矩、平戸藩主/松浦鎮信、津軽藩主/津軽信寿などの藩主はもとより、大勢の門下生が見舞いに馳せ参じた。

山鹿素行の墓

  9月26日
 死去。
 墓碑は、東京/宗参寺にある。
 葬儀はもとより、葬送の沿道は人垣であふれたという。

 子は、2男2女をもうけていた。
 後に、息子/政実 (八郎左衛門) は、津軽藩へ仕官し“津軽大学“を興す。
 息子/高基 (藤助) は、家督を継いで兵法を教えた。 門弟も多かったという。

元禄15(1703)年

吉良邸

 12月14日
 死後17年目に、赤穂浪士の討ち入りが起こった。
 赤穂藩での仕官ならびに謹慎で通算20年ほど居住し、赤穂藩士へ与えた影響は大きかった。
 家老/大石良雄 (内蔵助) は素行の教えを直接受けており、用意周到に一致団結して主君の仇を討った行動は、素行の教え「死節論」そのものであった。
 忠臣蔵になくてはならない「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」は映画などでの創作であるが、いかに素行の影響が大きかったかの証であろう。

幕 末

 素行の教えは、後の吉田松陰にも大きな影響を与えた。
 松蔭の家は、代々山鹿流兵法の家であり、松蔭自身も素行の7代後の孫/山鹿素水の門下生となるほど、時代を超えて素行の遺著に入れ込んでいた。

明治40(1907)年

 12月
 正四位を追贈される。
 乃木大将が、祭るの文を寄せている。
 「希典、幼時師父の教えに従い、先生の遺著を読み、窃かに高風を欽じ、仰ぎ以て武士の典型となさんことを期せしに、不肖殘躯、聖明に遭遇し、涓埃の労なくして、叨に寵春を荷ふもの、実に先生の遺訓を服するの賜ものと謂わざるを得ず、今春を俯仰して感慨殊に切なり

主な著書

 著書はきわめて多いが、残りの主な書は下記の通り。
  ◇ 「聖教要録」 二巻と付録の三巻
  ◇ 「中朝事実」 二巻
  ◇ 「山鹿語類」 四十三巻
  ◇ 「武教小學」 一巻
  ◇ 「武教全書」 八巻
  ◇ 「原源発機」 二巻
  ◇ 「配所残筆」 一巻
  ◇ 「謫居童問」 三巻

 大正15(1923)年5月29日、「山鹿素行誕生地碑 (元帥東郷平八郎書)」の序幕式が催される。

 昭和 9(1934)年9月28日、素行会から「山鹿素行先生日記」が刊行。
 昭和17(1942)年8月15日、岩波書店「山鹿素行全集」全15巻が完結。

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]     [メニュー]