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名 君 / 保 科 正 之 公 の 略 歴

 保科正之公の生涯は、3つの時代に分けられる。

 ◇ 父子と名乗れぬ不遇な時代
   将軍/秀忠の4男として生れながら、恐妻家の父ゆえに身元が明かされず、信松尼見性院に庇護されながら転々と居を移し、最後には小藩の養子となる。
 しかし、この時代の苦労が、後に開花する才能を育むことになる。
 ◇ 幕閣として開花する時代
   実直な人柄に、家光は惚れ、重用するようになる。
 弟であると知った家光の信頼は、さらに確定的なものとなり、終生続く。
 正之公は期待に答え、影となり幕府を支える。
 次兄の忠長にも大変気に入られ、祖父/徳川家康の遺品などを贈られる。
 ◇ 後見人として幕政を担う時代
   幼い将軍/家綱(甥)の輔弼役(実質的な副将軍)を全うし、幕府の武断政治から文治政治へ転換を成し遂げる。家綱時代の3善政 (三大美事) といわれる
  「末期養子の禁の緩和」「殉死の禁止」「大名証人制度の廃止」
は、すべて正之公の提言である。

後 見 人 と し て 幕 政 を 担 う 時 代

慶安4(1651)年  〈41歳〉

7月 1日
 自ら差し出す家綱の手を取り、毎日登城すると宣言する。

8月18日
 家綱を4代将軍とする宣下の勅使に立ち会う。

11月 4日
 6女/風姫が夭折。 3歳。

慶安5〜承応元(1652)年  〈42歳〉

1月11日
《藩政》 軍令十四条、軍禁十五条、家中の制十四条、道中の制十三条を改定する。
     軍令違反は追放か死罪、軍禁違反は斬首という厳しい内容。
     後に新選組が「局中法度」の参考とした。

2月27日
 逃散農民の帰農を命じる。

4月 5日
 江戸/東叡山東照宮の廟正遷宮で、将軍の代参を務める。

5月 9日
 継室/於萬が、5男/新助 (正純) を出産。

9月18日
 藩士への軍令・軍禁の読み聞かせが始まり、年2回が幕末まで続けられる。

12月 1日
 幼君/家綱の教育書として、古書から選択し、儒学を基に幕府医員/土岐長元に編纂させた「輔養篇(ほようへん)」を献上、教育担当の学者にも贈り、自らも教授した。 [講義の図]

承応2(1653)年  〈43歳〉

 麹町、芝口に玉川上水の掘削を開始。

4月20日
 日光/徳川家光の廟に銅燈篭2基を献ずる。

閏6月15日
《藩政》 領民に救米を貸し与える制を定める。

閏6月27日
 全国の桝を統一。

10月13日
 将軍/家綱の右大臣受任のため、代理として上洛し、後光明天皇に拝謁する。
 正之にも従三位中将の内示があったが、一足飛びの昇任は辞退する。
 中宮 (皇后とほぼ同義) の実姉/和子から、料理などを饗されている。

10月28日
 左近衛中将に任じられる。 改めて従三位は固辞する。

11月17日
 改めて正四位下/昇任の内示があり、12月13日に受ける。

承応3(1654)年  〈44歳〉

5月28日
 長女/媛姫と上杉綱勝との結納が執り行なわれる。

玉川上水

6月30日
 正之公の提言による玉川上水が完成。
 人口増加による水不足が解決され、飲用水の安定供給となる。
 「一国一郡の小城は堅固なるを以て主とす 
  天下府城は万民の便利安居を以て第一とす

7月20日
 金堀村 (会津若松市) で出火、焼失87軒。

10月28日
《藩政》 農民たちに、年貢を納めた後の副業を奨励する。

11月11日
《藩政》 日本で初めての社倉制創設の構想を、内示・通達する。
    この年、藩が961両で米7,015俵を買い上げ、社倉元米とする。

12月25日 (11月25日とも)
 次男/虎菊が従四位下侍従長門守を受任し、名を正頼に改める。

(この年)
 ◇ 《藩政》 蒲生時代からの牛裂、釜煎、明松焙など残酷な刑罰を廃止する。
 ◇ 《藩政》 目付に命じて領内を巡視させ、代官や郷頭、名主などの善悪や、
        領民の病苦などを調査させる。
 ◇ 見性院の阿弥陀堂(霊廟)を改築する。
   奉納された本尊/阿弥陀如来像は、見性院の面影を写したものという。
 ◇ 利根川の流路変更の工事が完成。

承応4〜明暦元(1655)年  〈45歳〉

3月27日
《藩政》 飢饉の際に貧農や窮民を救済するため、日本で初めて社倉制を創設。
     不時の救済用貸米を備蓄する制度で、7千俵からスタート。
      (前年に、7,015俵を961両で買上げて準備)
 得た利子分も全て買い増しに使うという、当時では画期的な制度だった。
 農民の飢饉への不安が排除され、社倉制充実に合せて藩の国力は充実していく。

4月14日
 長女/媛姫が、米沢藩主/上杉綱勝の正室として嫁ぐ。

8月10日
《藩政》 大風雨が吹き荒れる。 窮民に施米を実施する。

(この年)
 次男/正頼を将軍の近習に列すべし、との命がある。

明暦2(1656)年  〈46歳〉

閏4月21日
 町奉行所を設置。

10月13日
 浅草鳥越に銀座を新設し、通貨の鋳造を開始。

12月24日
 吉原遊郭が、日本橋から浅草寺裏への移転が決定。 (実施は翌年)。

明暦3(1657)年  〈47歳〉

1月18日
 明暦の大火が発生し、江戸の大半を焼失した。
 「万石の御屋敷五百余宇 御旗本七百七十余宇 組屋敷を知らず 堂社三百五十余宇 町屋四百町 片町八百町 焼死十万七千四十六人
 江戸城、会津藩中屋敷も類焼する。
 対処の詳細は、前述。
 藩邸消火の陣頭指揮した次男/正頼が、風邪を患ってしまう。

2月 1日
 次男/正頼が大火での風邪が治らず、避難先の品川/東海寺で死去。 18歳。
正之公の次男/正頼の墓  元々病弱でもあり、消火作業での風邪が致命傷になった。
 正之公の悲しみは、尋常ではなかったという。
 正頼の遺体は会津に搬送され、2月23日に院内山へ埋葬
 6月に墓碑が建立。 後に見祢山に「岩彦神社」として奉祀。
 以後、会津松平家の当主と家族は、院内山 (院内御陵) に葬られるようになる。
 弟の正経公が世嗣となる。

回向院

2月29日
 下付された本所牛島新田に、身分を問わずに焼死者が埋葬され、 回向院が創建された。

3月
 正之公の建議による倹約令が出される。

5月
 服部安休を儒臣ととして召し抱える。

6月10日
 横田俊益を儒臣ととして召し抱える。

(この年)
《藩政》 甲州流軍学による軍制改革が実施される。
     軍令十条、軍禁五条に改定。

明暦4〜万治元(1658)年  〈48歳〉

3月 1日
 側室/沢井氏が、8女/金姫を出産。

3月
《藩政》 領内に倹約令を出す。

4月21日
 明暦の大火で焼失した芝藩邸が再建される。

5月15日
 江戸/箕田 (三田) に下屋敷を拝領し、実質的な本拠地とすべく着工する。
 32,972坪という広大な敷地だった。

6月
 4女/摩須姫 (松姫) を、後に加賀藩主となる前田綱紀へ嫁ぐよう、将軍/家綱から指示があり、金1万両が贈られる。

7月25日
 継室/於萬が「媛姫事件」を起こす。
 側室/於塩が生んだ摩須姫 (松姫) が、自分の娘の嫁ぎ先/米沢藩より大きい加賀藩に嫁ぐのに嫉妬し、毒殺を謀ったとされる事件。
 前日、江戸藩邸での祝いの席に、華やかな膳が運ばれた。
 正之公が摩須姫の宴席であるからと、いつもの上席にいた媛姫の席と入れ替えさせたため、於萬の娘が毒の盛られた膳を食べてしまった。
 摩須姫付きの老女/野村おさきが毒殺の企てを察知し、媛姫の膳とを入れ替えたためとの説もある。

7月26日
 摩須姫が、前田綱紀の正室として嫁ぐ。

媛姫の墓

7月28日
 長女/媛姫は、3日間も、もがき苦しみ死去。 19歳。
 これを知った正之は激怒し、於萬付きの老女/三好ら18名の関係者を処刑・処罰した。 於萬は嫡男/正経の生母ということで処罰は免れたが、これ以降、遠ざけられた。
 10年後に策定した「家訓」の中の、
  「婦人女子之言 一切不可聞 (婦人女子の言 一切聞くべからず)
は、この媛姫事件をがあったからといわれている。
 後に死に臨んだ正之公は、於萬に「政治に口を出さぬこと」と命じている。
  「牝けいは古賢の戒むる所 吾が没後汝必ず政事をいふなかれ

9月 8日
 4千石以上の旗本を頭として、与力10騎、同心50人、火消人足 (ガエン) 300人を1組とした江戸「定火消し」を新設。
 ちなみに、享保13(1728)年に「いろは四十八組」となり、本所と深川の16組と合わせると64組の消火体制が完成した。
 正徳2(1712)年、幕府は10万石以上の大名にも「大名火消し」の設置を命じている。

9月30日
 4男/正経公と5男/正純が将軍/家綱に謁見する。

万治2(1659)年  〈49歳〉

3月15日
 8女/金姫が夭折。 2歳。

3月25日
 三田藩邸 (下屋敷) が竣工。

5月 8日
 価格高騰のため、他領へ米を移出することを禁ずる。

6月
《藩政》 「憲令十一カ条」を発令。

8月 3日
 江戸城の本丸が竣工。 正之公の意向により天守閣は造られなかった。

9月 5日
 将軍/家綱が、西の丸から本丸に居を移す。

12月13日
 両国橋が完成し、下総国との行き来が可能となる。

万治3(1660)年  〈50歳〉

3月
 幕府への献上物の減少・停止を、諸大名に実施する。

(この年)
《藩政》 それまで行われていた郷頭の百姓に対する恣意的な扱いを禁じる。

万治4〜寛文元(1661)年  〈51歳〉

2月
 眼病を患い、江戸城の登城を免じられる。

閏8月 6日
《藩政》◇ 藩士の殉死を禁止する。
      後の寛文3(1663)年5月、正之公の提言で幕府の「武家諸法度」に採用。
     「殉死は野蛮の弊俗なり 然るに本邦輓近殉死の多きを以て相誇るの
      風習あり 不仁も亦甚し

        ※ 家光の死去に際し 殉死により優秀な逸材が一挙に失われ、
          幕政に多大な影響を目の当たりにしたからと伝わる。
    ◇ 相場米買上制を開始し、寛文年間に升と秤の統一を実施した。

11月28日
 5女/石姫が、後に小田原藩主となる稲葉正通の正室として嫁ぐ。
  (縁組は、同年の4月10日)

(この年)
 ◇ 吉川惟足を招いて神書の講義 (神道) を受ける。
   朱子学を藩学として奨励し、好学尚武の藩風を作り上げた。

寛文2(1662)年  〈52歳〉

3月
 病で倒れる。
 将軍/家綱から見舞品を受ける。

5月
 家綱から見舞品を受ける。

11月10日
 江戸/町奉行所の役人を増員。

寛文3(1663)年  〈53歳〉

4月 8日
《藩政》藩内1万石毎/23ヶ所に籾蔵を建てて凶作に備える。
    7千俵で始めた社倉米は、10年を待たずに2万3千俵に達する。
     後に、5万俵 (5斗入り籾) まで拡充する。
    若松/馬場町の末に乞食のための小屋を建てる。

5月23日
 すでに会津藩で実施していた殉死の禁止が、武家御法度に追加される。

7月25日
《藩政》
 90歳以上の老人に、身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)の支給を実施する。 日本の年金制度の始まりとされる。
 家中4人、町方7人、郷村140人の合計151人からのスタートであった。
 「有難きお恵み」と涙を流して感謝し、自給者は無論、動けぬものは子供・弟などを鶴ヶ城に向かわせて御礼を述べたという。


 「91歳からの支給では」との意見もあるようだが、老人への初の善政であることは事実であるし、この時代に151人もの高齢者がいたという事実を見過ごしてはならない。
 正之公が入府して以来、離散した農民の多数が戻り、全国的な飢饉の際にも驚くべき少ない数の餓死者しか出していない。 他国からは桃源郷と称されたとも伝わる。
 事実、人口は急増している。
 この制度が始まってから、働けなくなった老人は邪魔者ではなく、敬意を込められるように意識改革されたことも評価されるべきであろう。
 産子の殺害 (間引き) を前々から戒飭していたが、当時としては精一杯の布告「陰殺は不慈」を翌年に出している。

11月19日
 初めて吐血する。

(この年)
 大坂城番になった旗本と江戸在住の家族間に使っていた通信手段を、旗本の監視のもと民間が営業によることを許可する。
 翌年、大阪商人によって江戸と京都・大阪を結ぶ町飛脚が結成される。
 この規制緩和により、江戸・大坂間の交易が活発となる。
 月に3回出発したので、「3度飛脚」と呼ばれた。
 ちなみに、飛脚がかぶっていた笠を、旅烏のヤクザが かぶったことから「3度笠」と呼ぶようになった。

寛文4(1664)年  〈54歳〉

1月 7日
 将軍/家綱が本多忠隆を遣し、1月の登城を止め保養するよう伝える。

1月10日、29日
 再び吐血する。

3月13日
 病が少し癒えたため登城する。 家継は大いに喜ぶ。

4月 8日
 山崎闇斎を招き、初めて講義を聞く。

5月12日
 再び吐血する。

閏5月
《藩政》 横田俊益如黙たちによって会津の学問所/稽古堂が開校すると、税金を免除し、さらに建物の維持・修理代2両を毎年 支給して、大いに策励する。

上杉綱勝の廟屋

6月 5日
 閏5月に米沢藩主/上杉綱勝が跡継ぎを決めないまま急死、定めでは御家断絶であるが、将軍/家継より処置を任された。
 綱勝の妹/富子の長男/綱憲を世継とする届けが遅れていただけとの正之公の奇策により、米沢藩の廃絶を救う。

6月12日
 再び吐血する。

11月19日
 再び吐血する。

12月 4日
 再び吐血する。

(この年)
《藩政》 ◇ 火葬は不孝とされ停止、埋葬地を決める。
       「火葬ハ不孝、産子ヲ殺候ハ不慈二侯
       「南青木村卜北青木村之境二大窪卜申谷有之、
          此ノ外、郷ノ原卜滝沢山続小山卜申卑キ山〜

       全国的にも類を見ない広大な大窪山墓地は、今でも残っている。
     ◇ 産子の殺害(間引き)は「不慈」とし戒めるよう布告。
       「産子を殺し候議 不宜旨 御教諭被仰出

寛文5(1665)年  〈55歳〉

2月16日
 将軍/家綱から見舞いを受ける。

3月
 三田の下屋敷へ移り住む。

4月 8日
 山崎闇斎を招き、論語の講義を受ける。

7月
 正之公の提言により幕命が発布。
  ・諸藩の江戸での人質制度を中止する (大名証人制度の廃止)。
  ・禄の高低で判断せず、各人の才能に応じて用いる。

10月 6日
《藩政》 ロウ、漆を専売制とする。

11月 5日
 登城する。

「大將軍懇に慰鍮して曰く、眼病を意とぜず、専ら氣力を養ひ長生を爲すべし、吾が依ョする所専ら卿に在りと、正之感泣す」

12月16日
 先封/蘆名盛氏公などの竹巌廟に五輪塔を建立。

寛文6(1666)年  〈56歳〉

2月 6日
 姉/千姫が死去。 70歳。

4月24日
 加賀藩主/前田綱紀に嫁いだ4女/摩須姫 (松姫) が死去。 19歳。

6月 5日
 眼病が悪化したため辞任を申し出るが許されず、乗輿での登城が許された。

7月
 初めて社倉米3千俵を貸し出す。

8月 6日
 「会津風土記」が完成。

10月 3日
 朱子学を非難した山鹿素行を、赤穂藩預けの処分の幕命が下る。
 正之公が著書「聖教要録」を忌諱したため、とされる。

(この年)
 ◇ 領内の寺社の神仏習合を排斥し、整理、再興する。
  ・ 5月 伊佐須美神社、塔寺村/八幡神社に社領30石を寄進。
  ・ 7月 蚕養国神社の祠を改修し、神職を置く。翌年5月に社領10石を寄進。
      諏方神社に社領100石を寄進。
 ・ 整理した寺社地は田んぼにして、社倉米の充実に活用する。
 ◇ 田中三郎兵衛正玄が国家老となる。
   幕政に専念する正之公に代わり、会津藩を運営する。
   名の「正」は、正之公の1字を賜ったもの。

寛文7(1667)年  〈57歳〉

4月 1日
《藩政》 会津の主要街道に一里三十六町の制度を施行し、一里塚が設置される。
 三代の一里塚  鷹の巣一里塚  旧会津街道一里塚  米沢街道  南山通り(下野街道) など

5月
《藩政》 領内の古社を再興する。

9月22日
 小田原藩主/稲葉正往へ嫁いだ5女/石姫が死去。 20歳。

(この年)
 山崎闇斎から「近思録」、横田俊益から「通鑑網目」の講義を受ける。

寛文8(1668)年  〈58歳〉

2月 2日
 登城すると、将軍/家綱より松平姓と葵門の使用を命じられるが、辞退する。
  正之幼より保科氏に養はる 今氏章を改むるは安んぜざる所なり 且家臣等信濃の僻地に生長し 樸実なる者多し 若し我が氏章を変ずるを聞かば或は離心あらん 今奥羽の要鎮に在りて臣主和せずんば 何を以て国に報ぜん 故に敢えて之を辞す

2月
 江戸で火事が多発し、1日に芝藩邸が類焼。
 4日にも 三田藩邸が類焼し、和田倉門邸へ移り住む。
 4月1日、将軍より藩邸造営料として金2万両が下賜。

2月11日
 火災防止の巡視を、各大名に命令。

4月11日
《藩政》「家訓十五箇条」を定め、発表する。
 当時としては斬新的な施策も盛り込まれているが、始めに
 「他藩がどうあろうと、将軍家に二心を抱く藩主には、従うことはない」
とある。
 約200年後の幕末に、「火中の栗を拾う」という悲劇の道を進む一因ともなる。

9月18日
 三田藩邸が再建され、和田倉門邸から戻る。

(この年)
 再び、隠居を願い出る。
 眼病が悪化し、失明したとされる。

寛文9(1669)年  〈59歳〉

1月29日
 側室/富貴が、6男/重四郎 (正信、3代藩主/正容公) を出産。

2月28日
 全国の基準として、京桝を定める。

3月 1日
 「伊洛三子伝心録」全3巻を著す。

4月27日
 将軍/家綱と正之公親子が接見、隠居が認められ嫡男/正経公に家督を譲る。

5月12日
 登城する。

7月
社倉制度の備蓄米が、5万俵に達する。
 正経公も継続し、預り領/南山へも制度を導入、代々継承されている。
 3年後、南山領の社倉金は4千強に達し、領内のみならず、隣藩にも援助している。
 延宝3(1675)年、延宝の飢饉 (越後地方の死者2万人超) の時、隣接する長岡藩/牧野家からの依頼を受け、米2千俵・大豆1千俵を送っている。 ちなみに長岡藩に社倉制度ができたのは幕末/河井継之助が家老に就任してからである。

閏10月21日
 芝の藩邸 (中屋敷) が完成。

寛文10(1670)年  〈60歳〉

4月
 箱根用水が完成。

4月12日
 将軍/家綱より暇をもらい、23年ぶりに会津に帰国する。
 4月12日に江戸を発ち、南山通りを通って、同月18日に帰着。
 「見ねばこそ さぞや景色の変わるらめ 六十(むそじ)になりて 帰る故郷(ふるさと)

8月12日
《藩政》 高騰した米2万8千余石を藩が買い取り、領民に安価でわける。

8月13日
《藩政》 質素倹約令が出される。

8月17日
 服部安林から「日本書紀 神代巻」の講義を受ける。

10月
 江戸に赴く。

寛文11(1671)年  〈61歳〉

正之公の5男/正純の墓

7月20日
 5男/正純が死去。 20歳。
 8月6日に院内山へ埋葬
 後に、石彦神社として見祢山に祀る。

10月22日
 山崎闇斎 吉川惟足から「垂下神道」の号を受ける。

11月17日
 吉川惟足から神道の奥義「四重奥秘」伝と、土津霊神の神号を受ける。
 正之公は、「卜部神道 第五十五代の伝統者」である。

(この年)
 ◇ 見性院の50回忌に、御茶湯料として清泰寺に田地を寄進。
   正之公の死後も、会津藩が菩提を弔い続ける。

寛文12(1672)年  〈62歳〉

5月 3日
 暇をもらい、会津に戻る (5月10日に会津着)。

田中正玄の墓

5月28日
 国家老/田中三郎兵衛正玄が死去。 60歳。
 今は、正之公を祭神とする土津神社近くで眠っている
 高遠時代から正之公に仕え支えてきた。
 「若し吾死するも諸人哀惜するのみ 今正玄の死するは四民の不幸是れより大なるはなし 正玄予に事ふること四十六年 一事も私意を挟みたる処置を見ず 又嘗て予大将軍補佐の命を蒙りて久しく江戸に在り 封内の政大小となく挙げて之を正玄に委す 複た顧慮する所なし 山崎闇斎は大儒なれども政を執らしむれば 正玄の如く安堵し難きなり

8月 6日
 「会津旧事雑考/保科正之・向井新兵衛吉重」全9巻が完成。

8月21日
 磐梯神社を参拝し、国家老/田中正玄が眠る磐梯山の見祢山を、寿蔵 (墓所) とすると遺言する。
  「万代と いはひ来にけり 会津山 高天の原の 住み家求めて (辞世の句となる)」
 同行の 吉川惟足が、
  「君ここに 千とせの後の すみどころ 二葉の松は 雲を凌がん
と返した。

9月13日
 江戸に赴く。
 江戸藩邸は入るや、長旅の疲れからか、病の床に就いてしまう。

10月
 「会津神社志」が完成する。

11月 4日
 「土津霊神事実」が完成する。

12月18日未明
 江戸/三田藩邸で死去する。
 享年63歳 (満61歳)。
 将軍/家綱は大変悲しみ、7日間、江戸城下を喪に服させた。

 兄である将軍/家光との約束を守り、23年間も帰国せず幕政に注力した正之公を敬愛したのは領民だけではなかった。
 「徳川実記」には、異例ともいえる記述がなされている。
 「卒するに及んで 御所はさらにもいはず 京にては万乗の主を初め奉り 摂関親王以下の公卿より 各国の諸大名 朝士藩士の分ちなく 遠近閭巷の婦女小児にいたる迄 国のため人のため 名残惜しまぬはなかりしぞと

 死期を悟ると、自ら係わった幕政の資料を焼却させている。
 すべての善政を、3代将軍/家光と次の4代将軍/家綱の功績にするためだった。
 コ川宗家に対して、至誠を貫き通した生涯であった。

12月22日
 鶴ヶ城に殯する。

12月29日
 継室/於萬が剃髪し、聖光院と称す。

寛文13〜延宝元(1673)年

1月 5日
 側室/富貴が、9女/算姫を正之公の死後に出産。

1月20日
 遥拝所が建つ。

保科正之の墓

3月27日
 見祢山の寿蔵に埋葬される。
 正経公 吉川惟足山崎闇斎などが従い、道中の領民は涙を流していたという。
 土津霊神となり、後に土津大明神となる。

4月17日
 9女/算姫が夭折。 1歳。

7月 4日
 土津神社の社領200石の開墾が開始される。

11月28日
 土津霊神の御神影が遥拝伝に安置。

延宝2(1674)年

9月17日
 土津霊神碑が建立 (9月22日とも)。

この年
 人夫8万人を動員し土田堰(はにたせき)を作り用水とし、土田新田を開墾して祭田とする。

延宝3(1675)年

土津神社

8月19日
 墓所に隣接の土津神社が完成する。

8月23日
 遷宮式が執り行われ、祭神「土津大明神」として祀られる。
 以後、第2代/正経公を除き、藩主は神式で執り行われる。

12月 8日
 正経公が、父/正之公の編著『会津五部書』を幕府に献上する。
 『会津五部書』 @会津風土記  
A会津神社志 
『会津三部書』B玉山講義附録、C二程治教録、D伊洛三子伝心録

 この月に土田堰が竣工し、入植が始まる。

延宝4(1676)年

4月15日
 「見弥山に甘露降る

元治元(1864)年

8月23日
 辞退した従三位が、200年後に追贈される。
 戊辰の役以降、意図的に歴史から葬り去られるまでは、どれほど長らく名君として称えられていたかが分かる。

 正之公には、ただ1つだけ恐れていた点があったようだ。
 6男9女を得たにもかかわらず、4男/正経・6男/正容・9女/算姫 (正之公死去後に誕生) の3名を除く12名に先立たれている。
 当時の乳幼児の死亡率の高さを考慮しても、異常に高い。
 御家断絶を恐れ、60歳過ぎになっても於富貴を側室に迎えた所以であろう。
 2代藩主となった4男/正経公は男子に恵まれず、弟である6男/正容公を養子として3代藩主としている。
 そして、7代藩主/容衆公は嫡男に恵まれず20歳で死去し、お家断絶にはならなかったものの、最も恐れていた将軍/徳川秀忠の男系は途絶えた。

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