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旧 町 名 の 表 示 板


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≪ 鶴 ヶ 城 周 辺 ≫

 鶴ヶ城の正門/追手口から、北へ順に「本一之丁〜五之丁」への通り。
 郭内を東西へ通じる。   [街並み]


五之丁の説明板

五之丁 (ごのちょう)

 ▲説明板 (会津若松市東栄町)
  [街並み]


本四之丁の説明板

本四之丁 (ほんしのちょう)

 ▲説明板 (会津若松市東栄町)
  [街並み]


本三之丁の説明板

本三之丁
(ほんさんのちょう)

 ▲説明板
  (会津若松市東栄町)
  [街並み]


本二之丁の説明板

本二之丁 (ほんにのちょう)

 ▲説明板 (会津若松市東栄町)


本一之丁の説明板

本一之丁 (ほんいちのちょう)

 ▲説明板 (会津若松市追手町)


甲賀町通の説明板

甲賀町通 (こうかまちとおり)

 鶴ヶ城の正門/追手口から甲賀町口郭門への通り。
 郭内を南北へ通じる。
 寛永4(1627)年、加藤嘉明公が背炙峠越えだった白河街道を滝沢峠越えに変更し、江戸への本街道の大手通りとなり、参勤交代の行列は甲賀町口郭門から出立した。

 ▲説明板 (会津若松市追手町)

桂林寺町通の説明板

桂林寺町通 (けいりんじまちとおり)

 米代四之丁から桂林寺口郭門への通り。
 郭内を南北へ通じる。

 ▲説明板 (会津若松市米代)

米代/米台/米袋/稲台

 鶴ヶ城の郭内西部に位置する区域で、蘆名時代に米倉があったからと伝わる。
 蒲生時代に上中藩士の屋敷に町割りされる。
 北端から東西4条 (一之丁、二之丁、三之丁、四之丁) の通り。
 西大手門側には重臣の屋敷など藩士が居住し、郭外との間には川原町口郭門があった。
 享和3(1803)年、7千余坪の藩校/日新館が開設。
 山鹿素行の生誕地であり、直江兼続の邸宅も この地にあった。
 時代は下って、山本(新島)八重や、後に新選組/斎藤一の妻となる高木時尾、幼なじみの日向ユキたちも この地で生まれ育っている。
 戊辰の役で、ほぼ焼失・壊滅した。

の説明板

米代二之丁 (よねだいにのちょう)


 ▲説明板 (会津若松市米代)

南町 (みなんまち)

 城南の外濠にある十八蔵橋近くの両岸14町の総称
 中町、花畑通、晒屋町、十五軒町、十軒町、二十軒町、河原町、中横町、常慶寺町、西横町、堅町、湯川端通、年貢町、若葉丁。

 
「ウィキペディア (角川日本地名大辞典7)」より
材木町
 1610年、それまで集中して米代の西、城郭内にあった木材売買関連の商家が移って成立したとされる。 河原町の西から南方向に続く町で、会津藩により治められていた江戸時代においては若松城下のうち城郭外西部に位置する5間の通りであった。 また、当時の材木町周辺は、湯川などの洪水によりたびたび被害を被っており、家屋が流されることがあったほか、町割が改めて行われることもあったとされる。

材木町分
 材木町の西南に続く地域に位置し、若松城下の町分では当時の東黒川に属していた。 また、新屋敷、太郎兵衛新田、芋茎新田(いもがらしんでん)などの地名も見え、太郎兵衛新田では青物の市も立っていたとされる。

河原町新丁
 材木町の北側から柳原組町に至る通りで、正保年間以降の成立とされている。

石堂分
 若松城下の町分で、当時、西黒川に属し、糠塚町の北側に存在していた。 化政期には38軒の家があったことが記録されている。

糠塚町
 若松城下の城郭外北部、大町の北側に位置しており、足軽同心が居住していたとされている。また本町の起源は江戸時代初期に原組赤井村において、糠塚に神殿を開発して歩卒を置いたことによっており、その後、大町北側に移転したものとされている。通丁、裏町、外裏町、木椎町、新田丁、松円寺前通の地名があった。

徒之町(かちのまち)
 若松城下の城郭外東部に位置していた数条の通りのことを指しており、町名は慶長ごろに徒 (下級武士) が住んでいたことによる。
 上長丁、下長丁、薬園前通、新丁、一乗寺前通、中丁、浄光寺通、隍端通、
 下隍端、六軒丁、東大工丁、浄光寺前通、法林寺前通、横通、願成就寺前通、
 清水丁、高井丁


 開城後、本丁・米代・小田垣・横道・権現下郭と、小田町・半兵衛町・外小田垣の一部が合わさり、栄町となる。

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