偉     人     伝

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山 本 (川 崎、新 島) 八 重 の 略 歴

 山本八重 (川崎八重、新島八重) の生涯は、3つの時代に分けられる。
  ◇ 幕末のジャンヌ・ダルク
    会津藩/砲術師範の家に生れ育つ。
    最新の洋式銃で戦いぬいた「誕生から戊辰の役」の時代。
  ◇ 時代をリードする"ハンサム ウーマン"
    生きていた兄/覚馬を頼って京都に移住する。
    新島襄と運命的な出会いの「京都移住、新島襄と結婚」の時代。
  ◇ 日本のナイチンゲール
    最愛の新島襄を見送ってから、篤志看護婦となる。
    日清・日露戦争時の救護活動に晩年を捧げた「社会福祉活動」時代。

 いずれの時代も、直面した危機から逃げることなく対峙し、時代を先取りして生き貫く。
 激動の時代の孤独さに堪え、会津の気骨さを示す
  「ならぬことは、ならぬものです
を貫き通した女性であった。
 なお、呼び名を変えているが、当サイトでは「八重」で通した。
  「山本八重子 → 山本八重 → 川崎八重 → 新島八重 → 新島八重子
    (参考) 明治8(1875)年の署名は、「山本屋ゑ」。

山本八重の "ゆかり" を巡る

誕  生  か  ら  戊  辰  の  役

幕 末 の ジ ャ ン ヌ ・ ダ ル ク

 平凡な藩士の家に生まれる。
 年の離れた兄を慕い、2つ下の弟と穏やかな幼少期を過ごす。
 平凡な結婚をし、平穏な人生が続くはずだった。
 突然、戊辰の役が勃発、鳥羽伏見の戦いで最愛の兄と弟の両方を失う。
 (兄は捕えられたものの、人柄を知る薩摩藩にて厚遇されていた)
 戦うことを、決意する。
 兄から教わった砲術をフルに発揮し、最新の銃を操る。
 籠城戦を戦い抜くが、奮戦むなしく開城。
 夫とも離縁、父までも失い、藩も消滅、八重は全てを失った。

弘化2(1845)年

山本覚馬・新島八重生誕の地碑

11月3日
 鶴ヶ城郭内/米代2丁目の自宅で、父/山本権八・母/佐久  権八が39歳、佐久が37歳の時で、当時としては遅い子であった。 5人目の子で3女として生まれたが、1男2女は早逝している。 両親は兄/覚馬に次ぐ男子を望んでいたようで、2年後には待望の弟が生まれている。
 両親の想いを感じるかのように、男勝りに育っていった。
 佐久の婿養子となった権八は、黒紐席/上士として砲術師範 (150石) を継いだ。 後に覚馬は、15人扶持だったと語っているが、卑下したのではなかろうか。
 八重は、覚馬を慕い、三郎を可愛がり、砲術や銃に興味を持って育っていった。
 17歳も離れていたため、覚馬は憧れの人だった。
  「妾の兄覚馬は、御承知の通り砲術専門に研究いしたしましたので、妾も一通り習いました」(婦人世界・明治42年11月)
  「一三歳の時、四斗俵を四回も肩に上げ下げしました」(平石弁蔵宛の手紙)
  「駆けっこと木のぼりは、誰にも負けたことはありません

嘉永6(1853)年

 兄/覚馬は、ペリーが浦賀に来航したため江戸出府を命じられた林権助に随行し、江戸藩邸の勤番となる。
 3年前 (嘉永3年) に江戸で、勝海舟たちと佐久間象山の塾に入り、兵学のみならず西洋の兵制や砲術にも通じていたからである。
 象山の同じ門弟であった武田斐三郎らとも交流があった。
江戸藩邸
 啓蒙家の西周(にしあまね)などとも親交があり、幅広い人脈を持っていた。
 江戸詰の間、勤番のかたわら蘭書を読み漁り、洋式砲術の研究に没頭した。

安政3(1856)年

 兄/覚馬は、藩の近代化を痛感し、会津に戻るや蘭学所を開設した。
 急激な改革論は、守旧派の批判を受け禁足処分になる。
 その後も軍制改革を訴え続け、1年後には軍事取調役兼大砲頭取に抜擢される。
 八重の多感な時期、覚馬から最新の銃の操作を習うと同時に、西洋の思考を身に付け、人格形成に大きな影響を与えた。

安政4(1857)年

 川崎正之助(尚之助) は、兄/覚馬の招きで蘭学所の教授となる。
 但馬出石藩の医家に生れ、若くして蘭学と舎密術(理化学)を修めた優秀な洋学者だった。
 後に藩校日新館の教授となり、鉄砲や弾丸の製造等を教えている。
 山本家に寄宿し、八重と知り合う。
藩校日新館跡

文久2(1862)年

 兄/覚馬と妻/うらとの間に、次女/みねが誕生。
 長女は、夭折している。
 覚馬は、藩主/松平容保公の京都守護職に伴って京都入りする。
 西洋式軍隊の指導にあたり、洋学所を主宰し洋学の講義も行う。

元治元(1864)年

7月19日
 蛤御門の変が勃発し、兄/覚馬は大砲隊を指揮して、天皇に仇なす朝敵/長賊らを撃退する。
 勲功により公用人に任ぜられる。
 共に戦った薩摩藩は、覚馬の人格に触れ、一目も二目も置いたという。
 しばらくして白内障にかかり失明してしまい、残留することになる。
 失明は、禁門の変で破片を受けた傷による、とも云われる。

元治2(1865)年

 八重は、川崎正之助と結婚、19歳であった。
 川崎正之助は、会津藩の祖/保科正之公の諱を避けて「尚之助」と改名した。
 父/権八から、結婚後は鉄砲を持つことを禁止される。
 平凡ながら、幸せな人生を歩むはずだった。

慶応4(1868)年

1月 5日
 鳥羽伏見の戦いが勃発、参戦した弟/三郎は淀で負傷する。
 紀州から海路で江戸に移送されたが、芝新銭座の藩邸で16日に死亡した。
 遺髪と形見の装束だけが、国元の両親に届けられる。
 墓は、若王子墓地にある。
江戸藩邸
 眼疾で失明していた兄/覚馬は、京都に居住していたが、蹴上から大津に逃れる際に薩摩藩兵に捕えられる。
 国元の両親には、四条河原で戦死したと伝えられる。 実際は、覚馬の人材の素晴らしさを知っていた薩摩藩は、捕虜とは思えないほどの厚遇で処していた。
 幽閉中に上程した建白書「管見」は、西郷隆盛らを敬服させ、明治政府の政策の骨格となっている。

5月 1日
 白河の戦いの報を聞き、いても立ってもいられず、父に隠れて、物置から鉄砲を持ち出し練習を再開する。
 戦雲たれこめる中、白虎隊伊東悌次郎は、八重に小銃の取り扱いの教えを請う。
 ゲーベル銃、短銃身化したヤゲール銃などの取り扱いを教えた。
 伊東悌次郎は、後に飯盛山で自刃している。
 何度も教えているうちに、他の白虎隊士も鉄砲を習いに数名がやってくるようになった。

8月23日
 台風が抜けぬ早朝、西軍が城下に迫り、入城を促す割場の鐘が鳴り響いた。
 前日には、十六橋破れるの報を聞いており覚悟はしていたものの、時の流れの速さに戸惑っている間に、敵の一部侵入し始めていた。
 兄と弟の仇をとると決意する。
 弟/三郎の形見の装束を身にまとい、大小を腰に帯び、七連発のスペンサー銃を持って、母/佐久、嫂/うら、姪/みねとともに自邸を出る。
 天神橋の方からは、銃撃の音が止まることなく聞こえてくる。
 2度ほど銃弾が頭上をかすめたが、無事に三の丸埋門から廊下橋を通り入城できた。

 「私の実家は会津候の砲術指南役でございましたので、ご承知の八月二十三日、愈々場内に立籠ることになりました時、私は着物も袴もすべて男装しして、麻の草履を穿き、両刀を手挟んで、元込め七連発銃を肩に担いでまいりました。
 他の婦人は薙刀を持っておりましたが、家が砲術師範で、私も その方の心得が少々ございましたから、鉄砲にいしたのでございます。
 それは弟の三郎と申しますが、その春、山城国鳥羽の戦いで討死いたしまして、その形見として着物と袴が着きましたから、私は弟の敵を取らねばならぬ、私はすなわち、三郎だという気持で、その形見の装束を着て、一は主君のため、一は弟のため、命の限り戦う決心で、城に入りましたのでございます
婦人世界

 夜襲をかけると聞いた八重は、戦いに邪魔になると女の命である黒髪を小刀で切ろうとしたが、うまくいかない。
 自邸の北東隣りに住んでいた高木時尾に切ってもらった。
 高木時尾は、後に新撰組三番隊隊長/斉藤一の妻になっている。
 会津藩には、女性を兵として戦わせる慣習はない。
 弟/三郎の形見の装束を身にまとい、髪すら切り落とし弟と兄の仇を取りたいとの熱意 (止めるのを振り切って) に負け、参戦が黙認 (見て見ぬふり) された。
 藩兵とともに夜襲に加わり、雷管式ゲーベル銃を携え銃撃戦にも参加した。
 城内に引き上げてきた夫/尚之助と再開する。
 髪を断ち、男装していた妻/八重の姿に、尚之助は驚愕した。
 砲術の心得のある八重は、夫の大砲隊を手助けしている。
 一時は、小田山に設けた西軍の砲台を壊滅するほど、正確無比の反撃をした。
 城内の砲陣は、豊岡宮(今の豊岡墓地)に布かれていた。
 砲術を指導し、負傷者の救護とともに、婦女子に弾薬の製造を教えている。
 幼き頃には、父/権八が「男であったなら」といわしめた所以である。

 弾薬の製造は、鉛を溶かして造った弾と一発分の火薬を円柱の紙に包んだもので、早合(はやごう)と呼んでいた。   会津の刀工/古川兼定などの非戦闘員や婦女子で量産され、多い日で1日に1万2千発、開城までに19万発を造ったという (兼定伝)。

[逸話]
 明日に西軍の総攻撃が始まると伝えられた12日 (悪天候のため14日に変更された)、八重は夫/尚之助に離縁を願い出る。
 今までのお礼を告げ、会津生まれの会津育ちの自分は会津藩と運命を共にするが、但馬出石藩の医家生まれである夫は、離縁すれば会津人ではなくなる。
 生きて会津から落ち延びて欲しいと訴えた。
 最後に、「ご無事で」 と付け加えた時、一筋の涙を見たと伝えられている。
 極限の中で、愛する人への最大の愛だったのだろうと。

[逸話]
 9月14日の西軍総攻撃開始以降、早朝6時から18時頃まで激しい砲撃が浴びせられた。
 絶え間ない大砲の音で、小銃の音が聞こえないほどだったという。
 ある日、有賀千代子とともに病室として使われていた大書院や小書院へ握飯を運ぶ途中、頭上に着弾した。
 瓦とともに砂塵が舞い、硝煙も加わって、眼も口もあけられず、呼吸もできなかった。
 やがて、有賀の姿が見えはじめると、 土埃を浴び、土人形の化け物のような顔をしていた。
 思わず腹を抱えて笑ったが、有賀も八重の顔を指差して笑いこけたという。
 やがて盆に載せていた握り飯を見ると塵にまみれてしまい、これには落胆したそうだ。

[逸話]
 籠城戦の折、鶴ヶ城に撃ち込まれた砲弾に、四斤砲の不発弾があった。
 火薬によって中に入った鉄片が飛び散り、周りの被害を大きくする最新の砲弾である。
 八重は、藩主/松平容保公に呼ばれ説明を求められた。
 不発弾を動じることもなく分解しながら、冷静かつ淡々と構造などを事細かく解説する。
 当時の最新の砲弾の取り扱いと知識に、容保公や周りに控える者たちを驚かせた。
  「さすが砲術師範の娘、さすが覚馬の妹である、あっぱれ
と言わしめた八重は、24歳であった。

[逸話]
 籠城中、男勝りの八重をさえも感激させた御婦人を見た。
 その方は、奥女中の中老/瀬山であった。
 「丁度 この戦争の激しい最中のこと、私はある晩、中老の瀬山様と夜廻りをいたしておりますと、向こうから一人の武士が腕に負傷してまいりました。
 『だれか』 と尋ねますと、
 『只今、酒の上で同僚と争うて負傷いたしました。療治所は何処でしょうか?』と申します。
 すると、瀬山様は女でこそあれ、さすがは中老です。
 『今日の大変に殿様に捧げた体を軽々しく酒の上に傷つけるような人に治療所は教えられません。』
と、きっぱり刎ねつけてしまわれました。 私も傍におって成程と感心いたしました。」

9月17日
 父の権八は、玄武士中隊として奮戦するも、一ノ堰の戦いで討死する。
 墓は、光明寺若王子墓地にある。

9月22日
 降伏することが決定された。
 真夜中の12時ごろ、三の丸雑物庫の白壁に、月明りを頼りに心情をかんざしで刻んだ。
  「明日の夜は 何国の誰か ながむらん なれし御城(みしろ)に 残す月影
 藩籍を持たない夫/尚之助は、開城の直前に城から退去させられた。
 江戸で塾の教師になったようだが詳細は不明、が従来の伝承であった。
 会津に残る多くの資料には「浪人砲術師」とあり、東大総長になった山川健次郎も「但馬辺の浪人」と記述している。
 西軍の鶴ヶ城総攻撃の9月14日に離縁を告げ、その日から行方が分からなくなったとも。
 NHK大河ドラマ「八重の桜」が決まった平成24(2012)年の夏ごろから、謹慎地/猪苗代から東京へ護送され、後に斗南藩へ移ったとの説 (創作?) が出て来たが、妻である八重は斗南へ行っていない。

9月23日
 鶴ヶ城、開城。
 開城直後に、
  「女と子供は追放され、男は全員が切腹
との噂が流れた。
 切腹するつもりで男装のまま、弟/三郎の名を騙り、埋門に集合した男の列に並んだ。
 しかし、途中で女と見破られ、猪苗代の謹慎地へ着くと追い出された、と語っている。

 夫と離れ、父・兄・弟のみならず、藩をも失った。
 弟のように可愛がり、銃の操作を教えた白虎隊の少年たちさえ、失ってしまった。
 母/佐久佐久と覚馬の娘/みねを連れて、祖父/直高の奉公人の家で、しばらく世話になる。
 新鶴付近で農作業に従事し、村の子供たちに読み書きなどを教えている。
 一時、米沢の内藤新一郎宅へ出稼ぎに出るほど、困窮した生活を送る。
 一変した生活の状態は、まさに臥薪嘗胆の日々であった。
 苦難の日々は、3年もの間、続いた。

ツールチップあり .
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