会  津  の  著  名  人

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《 ひ 》 幕 末 よ り 前

 左 一山  ひだり いちざん、文化元(1804(年〜安政4(1857)年2月23日 (54歳)
 姓は斉藤。 左手彫であることから左一山と名乗る。 <彫刻家>
 越後/長岡のの出身。
 嘉永年間 (1848〜1854)、会津で祐筆の書家/荘田胆斎に学ぶ。
 後に江戸に出て、彫刻の鍛錬を重ねる。
 数年後に会津へ戻り、藩に召し抱えられる。
 根付や印籠を得意とし、特に銘木や胡桃の彫刻に評判の作品が多い。
 [亀根付] [親子亀根付] [くるみリス根付] [寿象牙根付] [寿象牙根付] [虎3置物] [煙草入緒締]
 一柳 直陽  ひとつやなぎ なおはる、
 宝暦3(1753)年〜天保5(1834)年5月2日 (82歳)
 初名:直羽(なおのぶ)。 別称:直任(なおとう)盛之丞、新三郎。
 藩士/市四朗直雄 (四朗直雄とも) の次男。
 15歳で江戸入りし、学問に励む。
 天明3(1783)年、帰郷し家禄を継ぎ、外様組付に就く (31歳)。
 寛政2(1790)年、御式方勤となる。
 寛政9(1797)年、奏者番として江戸詰めとなる。
 文化4(1807)年、供番頭となる。
 特に、松平容衆公の藩政で、用人として重きをなした。
 藩命により「新編会津風土記」の編纂に携わる。
 文政元(1818)年、「諸士系譜」の監理 (責任者) を命ぜられる。
 著書「見ぬ世の栞」「枕香日記」など。
 「延寿院殿南劫直陽居士」
 [史料]

 一柳直末の婿/一柳末晴 (元/稲葉姓) の末裔/一柳直好が保科正之公に召し抱えられる。
 延宝7(1679)年8月21日、一柳平左衛門直好が死去 (62歳)。
 日向 梅山  ひなた ばいざん、元文2(1737)年〜文政元(1818)年 (82歳)
 文化元(1804)年7月17日に死去とも。
 名:(ただす)。 字:子信。 通称:衛士。  <藩士、画家>
 藩士/日向三郎右衛門次方の4男。
 小姓、奥番、小納戸役、儒者、大目付などを歴任。
 松平容頌公の信任が厚く、大司成 (後の学校奉行) まで務める。
 和漢の学を修め、書は文徴明の作品に傾倒し、画は狩野派を学び、命により雪舟の絵屏風を模写している。
 雅楽にも精通し、笙の指導もしていた。
 平尾 松亭  ひらお しょうてい、生年不詳(179?)〜慶応2(1866)年
 名:忠吉。 字:善導。 通称:悌五郎。 号:松亭。 <能書家>
平尾松亭(nisi-中)  文化13(1816)年、家督を継ぐ。
 詩や書を能くするだけでなく、他藩のみならず海外事情にも通じていた。
 松平容敬公の耳目となって、50年もの長きにわたって大目付 (大監察) を務める。
 能書家・書家/大沼蓮斎を育てた師でもある。
 本三之丁の私邸には、貴重な蔵書が数多くあったが、戊辰の役で価値の知らないによって破棄・焼失してしまった。
 墓は、大窪山。 「松亭先生之墓
 平田氏  ひらたし、  蘆名四天宿老の1つ (富田氏佐瀬氏松本氏)。
 建武2(1335)年、中先代の乱で蘆名盛宗公蘆名盛員公親子が戦死した時、最後まで護り馬前で忠死した功績により、子孫が蘆名氏家臣として重用され、忠死した先祖の名/平太から平田氏を名乗ったとされる。
 至徳元/元中元(1384)年、蘆名直盛公が居を会津の東黒川館 (鶴ヶ城) へ移った際、従った大隅守光範が会津の祖となる。
 源太屋敷に鏡ヶ城を築き、代々、居城とする。
 永享4(1432)年、直盛公が滅ぼした一族/新宮氏の所領を拝領する。
 天文9(1540)年、左衛門尉輔範が弟/石見守盛範と長男/左京亮舜範と共に、2年前の東黒川館の火災で類焼した諏訪社の再興に尽力。
 蘆名氏全盛の蘆名盛氏公の時代には、家臣団の中で冨田・松本・佐瀬と共に「四天の宿老」と称された平田実範が活躍している。
 永禄11(1568)年、平田尾張守常範が上杉家との友好に尽力。
 天正6(1578)年、上杉謙信急死で養子の上杉景勝公と上杉景虎とが家督を争った内乱に、舜範が兵を出陣させる。
 蘆名氏当主の急死・暗殺・夭折と相継ぐ死で家督争いに発展、平田氏は四天の宿老とともに伊達政宗公の弟/小次郎を強く推すも、蘆名一族/金上盛備らが勝り常陸国/佐竹義重の次男/義広公が養子に入る。
 天正17(1589)年、蘆名義広公は摺上原の戦いに敗れて実家の常陸国へ逃れたため、平田左京入道・平田周防守は政宗公の軍門に下る。
 天正18(1590)年、豊臣秀吉の奥州仕置で会津藩領を没収され米沢へ移封されると、平田常範は越後/上杉景勝公に仕える。
 慶長3(1598)年、景勝公の会津藩への加増移封に従い会津入りする。
 慶長6(1601)年、景勝公が米沢藩へ減封されると、鮮範の長男/内匠は武士を捨て帰農、次男/範吉が景勝公に従い米沢入りする。

《 ひ 》 江  戸  幕  末

 土方 歳三
[肖像]
 ひじかた としぞう、
 天保6(1835)年5月5日〜明治2(1869)年5月11日 (35歳)
 名:義豊。 号:豊玉。 渾名:鬼の副長。 偽名:内藤隼人。
 豪農/土方隼人と母/恵津の末っ子として武蔵国多摩郡石田村 (東京都日野市石田) にて誕生。 父/隼人は歳三の生まれる3ヶ月前に死去、母/恵津も6歳の時に死去し、次兄/喜六・妻/なかに養育される。
 〜 〜 〜
 文久3(1863)年、将軍/徳川家茂を警護する浪士組の募集に応じ、小石川伝通院に3百人近くのい浪士が集まった。
 後に中心メンバーとなる近藤勇・土方歳三・井上源三郎・沖田総司たちや、芹沢鴨を中心とした水戸派の浪士たちのの姿があった。
 選ばれた240名余りは京都へ向かうが、上洛して間もなく率いていた清河八郎は、募集の趣旨と異なる目的を主張する。
 歳三たち近藤勇の一門と芹沢鴨の一派は、将軍警護の目的を貫こうと京都守護職/松平容保宛に残留の嘆願書を提出する。
 容保は、跳梁跋扈する世の中、会津藩の士道に通じる「忠義」に触れ即決、翌々日には幕府の許諾を得て、残留浪士組17名が正式に会津藩預りになり、新選組の前身である「壬生浪士組」が誕生した。
 その翌日には、京都守護職邸で容保に拝謁している。
 元治元(1864)年、長賊らテロリストのクーデター「禁門の変」で朝敵を撃退した活躍により、会津藩より「新選組」と命名され、京都市中警護を命じられた。
 池田屋事件で新選組は、一躍有名となる。
 慶応3(1867)年、幕臣に取り立てられる。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、秋月登之助率いる先鋒軍/参謀として下館、下妻などを転戦し、宇都宮城の戦い足を負傷し、会津へ搬送される。
 清水屋旅館で約3ヶ月間の療養生活を送る (同年7月1日に全快)。
 近藤勇が斬首された時の状況を聞き取った加藤寛六郎の報を受け、天寧寺に近藤勇の墓を建立、法名を松平容保から賜れる。
 湯治 (不動滝/現・新滝別館) を兼ねて、毎日欠かさず墓参りをしていたという。
 傷の癒えると、白虎士中一番隊・二番隊と共に藩主/松平喜徳公を護衛し、福良本陣に半月ほど滞在している。
 白河城が陥落したため、防衛のため布陣していた母成峠が破られるや、激戦中の会津藩に忠誠を尽くすべきと残留を訴える斎藤一たちと袂を分かち、仙台へ向かう。
 〜 〜 〜
 明治2(1869)年5月11日、一本木関門の戦いの最中、腹部に被弾、蝦夷共和国の閣僚8人の中で唯一の戦死であった。
 会津藩の士道「忠義」を武士(もののふ)の理想として貫き通し、史上最強にして最高の剣客集団「新選組」が終焉を迎えた。
 諸説ある中で戦死した場所は一本木関門説が最有力とされるが、埋葬地については、五稜郭内説・大円寺説・極楽寺説・願乗寺説・碧血碑説など諸説があり今なお不明である。
(辞世の句)
 たとひ身は 蝦夷地の島根に朽ちるとも 魂は(あずま)の 君やまもらん
 よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも  魂は(あずま)の 君やまもらむ
 「歳進院殿誠山義豊大居士」、「有統院殿鉄心日現居士 (称名寺)」
 墓は、石田寺天寧寺(慰霊碑)称名寺(慰霊碑)寿徳寺境外墓地円通寺(死節之墓)碧血碑など。
石田寺 天寧寺  愛刀は、和泉守兼定


一本木関門
 日向 内記  ひなた ないき、
 文政9(1828)年〜明治18(1885)年11月14日 (4日とも、60歳)
 諱:次法。 通称:内記。
 藩士/日向三郎右衛門の長男として本一之丁諏方通り宅にて誕生。
 禁門の変では、二番隊山内隊/組頭として参戦し戦功をあげる。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いでは御家老附組頭として奮戦。
 江戸総引き揚げ後の軍制改革にて、朱雀士中二番隊中隊頭に就くが、まもなく山川大蔵の後任/砲兵一番隊/隊頭として日光口の出陣する。
 前任者の名将/山川と比較され、配下隊士の信頼を得られず更迭され、白虎士中二番隊/中隊頭として藩主/松平喜徳公の護衛に就く。
 運命の8月22日、十六橋突破されるの報を受け、緊急出陣が白虎士中二番隊にも発せられ、少年たちを率いて戸ノ口原にて布陣する。
 あろうことか、初陣で戦闘経験のない少年たちに野営を命じ、最前線に残したまま布陣から離脱してしまう。
日向内記の墓  敵前逃亡とは考え難いが、離脱した理由の真偽が不明といっても、暗闇の中、食べる物もなく空腹をこらえた初陣の少年隊士たち置き去りにし、飯盛山の悲劇へと追いやった隊長としての責任は免れるものではない。
 開城後、謹慎生活を経て斗南藩/五戸へ移住。
 明治6(1873)年、会津へ戻り知人を頼って喜多方に移り、卑怯者のそしりを受けつつ正業にも就けず、人目をはばかって晩年を過ごしたという。
 墓は万福寺 (合祀と推測)。
 日向 ユキ
 (内藤)
 ひなた ゆき、
 嘉永4(1851)年5月15日〜昭和19(1944)年11月9日 (94歳)
 御旗奉行・町奉行/日向左衛門と母/“ちか(飯沼粂之進の長女)”との次女として米代三ノ丁にて誕生。 3歳で実母を亡くし、後妻の継母/秀 (有賀豊之助の妹)に分け隔てなく育てられる。
 ご近所の山本八重高木時尾とは幼なじみであり、ユキと八重は高木家の祖母/澄江から裁縫を学んでいる。
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に来襲するや、祖母・継母・弟2人・妹6人とで城下外に逃れて、御山荘 (面川) の百姓/栗城伝吉の家に避難する。
 父/左衛門は大町口郭門で奮戦するも重傷を負い近くにあった母の実家/加須屋家敷内で自刃、兄/新太郎は遊撃二番隊/半隊頭として各地で奮戦するも飯寺で重傷を負い、戦闘不能となるや自刃した。
 翌年、ようやく戦死者の埋葬が黙認されると、父と兄の遺骸を探し回る。 加須屋家敷地内の竹薮で父の遺骨と紋付きを発見したが、兄の遺骸はなかなか見つからず、ようやく河原で首を見つけ出し、菩提寺/浄光寺に埋葬した。
 斗南藩への移封で陸路20日をかけて野辺地に移住、針仕事で生計を立てるも極貧の生活を経て、継母/の奉公先/青森に移る。
 明治5(1872)年、病気がちな旧知の雑賀重村の妻/浅子から頼まれて、奉公人として函館に移る。
 まもなく北海道開拓使/役人の旧薩摩藩士/内藤兼備に見初められ求婚されるも、仇敵からの求愛など受けるはずもなかった。
 諦めずに求愛し続ける熱意に打たれ結婚を受諾し札幌に移るが、初めて仇敵と結婚したことで2度と会津の地は踏まなかった。
 明治20(1887)年、夫/新島襄と避暑で訪れた新島(山本)八重と再会、約20年ぶりの再会であった。
 波乱万丈の生涯を記した手記「萬年青 (おもと)」を残す。
 墓は札幌/里塚霊園。

 陸軍大将/柴五郎は父方の従弟、白虎隊/飯沼貞吉は母方の従弟。
 昭和26(1951)年にスイス/ダボスのスピードスケート世界選手権で日本人として初めて優勝した内藤晋は孫。
 手記「萬年青」は、子孫から宮崎十三八に託され、昭和52(1977)年に「歴史春秋・第9号/会津史学会」で発表された。
 綱淵謙錠「魄」、津村節子「流星雨」の原型となっている。
 平井 浪江  ひらい なみえ、天保10(1839)年〜明治44(1911)年 (72歳)
 華岡青洲の麻酔学を修めた藩御側医師。
 江戸大砲隊付き医師として南部瑞眞と共に上洛。
 鳥羽伏見の戦いを経て、転戦に従軍しながら帰国。
 日新館軍事病院医師に就き、籠城戦では城内の傷病者治療に尽力。
 開城後は、斗南藩へ移住するも、上京し東京大学東校に就く。
 明治5(1872)年、医師/吉村栄衛と共に、開拓使医官として札幌病院余市郡出張所へ派遣される。
 その後も、北海道の辺地公立病院で診療に従事し、開拓民の心の支えになり続けた。
 平田 小蝶  ひらた こちょう、嘉永3(1850)年〜明治18(1885)年10月6日 (36歳)
 蝶、蝶子とも。
 江戸詰/平田門(紋)十郎の次女として江戸上屋敷にて誕生。
 藩士/赤岡大助忠良からのたっての願いで養女となり、薙刀や習字を修める。 中野竹子も大助の養女となっており義妹でもある。
平田蝶子の墓  慶応4(1868)年、江戸総引き揚げで復縁し、家族と共に会津に移る。
 鶴ヶ城下にへ来襲するが入城に間に合わず、神指村高久に退く。
 義姉/竹子と出会い、入城すべく婦女隊に加わり城に向かうも、途中の柳橋辺りで敵と遭遇し戦闘となり、竹子が敵弾に斃れる。
 戦闘後に入城を果たし、籠城戦を戦い抜く。
 開城後、藩士/戸田衛門と結婚し、山形から東京へと移り住む。  墓は長明寺

 平松武兵衛については、こちら

 広沢 安任
 (廣澤 安任)
[肖像]
 ひろさわ やすとう、
 文政13(1830)年2月2日〜明治24(1891)年2月5日 (62歳、満60歳)
 通称:富次郎。 字:李重。
 号:牧老人、淡煙、得岳、六十九種艸堂主人、士遠。
 藩士/庄助安孝の次男として鶴ヶ城下 (烏橋通り付近) にて誕生。
 藩校/日新館に学び、宗川茂に師事し、抜群の成績を残す。
 安政4(1857)年、昌平坂学問所(昌平黌)に進学、5年後には舎長に選ばれている。
 文久 2(1862)年、ロシアとの国境問題で、幕府から函館奉行/糟谷筑後守の補佐を頼まれ蝦夷地へ赴き、交渉を取り仕切る。
 帰京後も外国人と活発に親交を結んで、世界情勢に精通する。
 松平容保の京都守護職就任により先発して江戸を発ち上洛し、彦根藩などの動向を探る。
 親交のあった佐久間象山と共に、孝明天皇の江戸遷座を計画するが、象山の暗殺で頓挫。
 容保が上洛すると公用方に就き、朝廷・皇族や諸藩との交友を深め、特に二條右大臣家の信任は厚かった。
 慶応元(1865)年、朝廷により十万石以上の藩の重臣が招集され、神戸開港の意見を求められると開国を論じ、鎖国を主張する諸藩の重臣たちを論破している。
 洋式軍制の導入、銃砲の整備、藩士の海外や長崎遊学などに尽力。
 戊辰の役では、江戸に残留し、藩公の無実などを訴え交渉に当ったが、捕えられて投獄される。
 明治 2(1869)年、斬首されると聞き及んだ英国外交官/アーネスト・サトウは「日本で最も得がたい人物」と強く助命運動をおこしたため釈放、安任の博識は外国にも知れ渡っていた。
 明治 3(1870)年、斗南藩に移住し小参事に就き藩財政に尽力。[辞令]
 明治 4(1871)年、廃藩置県による斗南藩の消滅後も残留し、合県運動に邁進して現在の青森県の基礎を作る。 同年10月22日、英人/セル・マキノンを雇用し、洋式牧場開設を申請する。
 明治 5(1872)年、旧藩士のため牧畜経営を決意し、谷地頭 (三沢市) に酪農を中心とした洋式牧場「開牧社」を開設。
 30余年の間に2千町を超える開墾 (2,383町) を成し遂げ、経営の成功のみならず、驚くべき偉業を成した「牛馬王」と称されるほど日本の畜産界に多大な貢献をした。
からの再三再四の任官要請を断り続け、明治9(1876)年に元薩摩藩/大久保利通から直々の要請あるも、裏切った薩奸の言葉など信じられないとし、
 「野にあって国家に尽くす
と拒否している。
 明治10(1877)年、経営は軌道に乗り、広沢牧場出張所を東京府豊島郡淀橋村角筈 (新宿区三井ビル辺り) に開所。
 明治11(1878)年、「開牧五年紀事」を記す。
 明治19(1886)年、前年に駒場農学校獣医科を次席で卒業した養子/弁二に経営を譲り、上京。
 明治11(1878)年、「開牧五年紀事」を著す。
 序文として福澤諭吉が寄稿している。
 明治24(1891)年、インフルエンザが悪化し、死去。
 墓は、元/広沢牧場の地と、故郷の弥勒寺 (合祀)。
 [史料]

 大正4(1915)年、従五位が贈位。
 昭和60(1985)年、役目を終えた「広沢牧場」が閉鎖。
 平成 7(1995)年、斗南藩記念観光村として一般開放される。

《殉難者》 樋口常作 樋口又右衛門 樋口勇四郎  
日向左衛門・新太郎 日向勝見 平向重房(熊吉)
廣澤庄助 平山元之助 廣田勝武  

《 ひ 》 幕 末 よ り 後

 樋口 伊都羽  ひぐち いづは、明治5(1872)年〜昭和31(1956)年1月12日 (85歳)
 元会津藩士/樋口真彦の子として東京で誕生。
 番町小学校を卒業。
 明治30年代、生活の困窮から逃れるべく、朝鮮で警察官となる。
 明治40年頃、スケトウダラ漁の盛況を目にするや、漁業を目指す。
 ※ スケトウダラは、かつて韓国語で明太(ミョンテ)と書かれており、その卵なので後に「明太の子」として売り出す。
 明治40年頃、元山で明太漁業などに従事する。
 しばらくすると、元山の漁民らが明太の魚の身だけを陰干しし、卵巣は僅かに自家用にする以外は大半が捨てられているのを見て、貧しい生活の中で育った伊都羽は、もったいない気持ちが抑えられず、商品化を目指すことを決意する。
 当時は各家で塩辛 (内臓と一緒に塩漬け) にして食していたが、まったく商品になる代物ではなかった。
 生臭さを消すなどの改良に改良を重ね、寝ても覚めても創意工夫に明け暮れる。 豊臣秀吉が唐辛子を朝鮮に伝えて出来たキムチに目を付け、唐辛子を加えることを考案、改良を続けて商品化に成功する。
 明治38(1905)年、日露戦争終結すると日本本土との物流が活発となったため、朝鮮で食卓の友として定着した明太子を、日本人向けにすべく、風味の改良に重点を置く。
 明治41(1908)年、店を元山から釜山 (大廳通り富平町1丁目2番地)に移す。 時35歳になっていた。
 今に伝わる当時の看板には
  「明太子製造元祖(ヒ)(マルヒ) 創業明治四十年 樋口伊都羽商店
とあるので、元山の店は1年前に開店したようだ。
 大正13(1924)年には、行政が水産物による外貨獲得策として明太子製造を奨励するなど、日本だけでなく台湾・中国までも需要が拡大。
 昭和2(昭和2)年2月25日、会津にいる弟/良乃(よしの)あての手紙に、会津で明太子の製造・販売を勧めるほど商売は繁盛する。
 昭和9(1934)年には、明太子の取扱店として樋口伊都羽の名前が「釜山商工案内」に載っており、明太子専門店としての地位を確保していたことがうかがえる。
 別の資料に、日本本土への明太子/供給量が1560トンとある。
 昭和16(1941)年、太平洋戦争が勃発すると、増産を続けていた明太子の生産量も、徐々に減少し始める。
 昭和20(1945)年 敗戦まで製造を続けていたが、一代で築いた工場・設備・物流・取引先などを含め財産のすべて失い、11月8日に失意の中、釜山から博多へ引揚げ船で戻る。  <書>
 そのまま、妻/こま・女婿/中西幸之助の郷里/三重県に移り、農業に従事するも、2度と明太子関連の事業には就かなかった
 昭和31(1956)年、激動な人生を終え、旧会津藩士たちと青山墓地で眠る。

 太平洋戦争後、朝鮮半島から大勢の人々が引き揚げてきた。
 毎日のように食していた彼らは明太子の味が忘れられず切望したが、樋口商店は廃業してしまっている。
 釜山から引揚てきた川原俊夫も その一人で、川原一家が博多/中洲市場で卸商店「ふくや」を開いたこともあって、独自の商品として明太子の試作を開始する。
 努力に努力を重ね、再現に10年近くの年月を費やす。
 昭和32(1957)年、「味の明太子」として発売を開始。
 昭和50(1975)年、新幹線開通に伴い、博多名物とまで全国的に知られるようになる。
 樋口 喜吉  ひぐち きよし、  <陸軍少将、発明家>
 慶応元(1865)年4月15日〜昭和9(1934)年7月12日 (満69歳)
 鶴ヶ城の郭内にて誕生。
 私立日新館助教に就任。
 陸軍教導団を経て、陸軍士官学校に入校。
 明治22(1889)年、同校を卒業 (旧11期) し、陸軍歩兵少尉として歩兵第十六連隊付に就く。
 明治27(1894)年、日清戦争に出征。
 帰国後、陸軍大尉に昇進し歩兵第三十連隊付となる。
 明治32(1899)年、陸軍大学校に入校。
 明治35(1902)年、同校を卒業 (16期) し、歩兵第5連隊付となる。
 明治37(1904)年、日露戦争に出征し、 り日露戦争開戦を迎え、歩兵第五連隊第三大隊長として出征。
 歩兵第二十三連隊長、第十一師団参謀長を歴任。
 大正 4(1915)年、陸軍少将に昇進。
 予備役編入後は、光学の研究に没頭し、特許や実用新案を取得。
 ◇ 大正 5(1916)年、測距望遠鏡 (特許)、
           顕微鏡微動装置 (実用新案)
 ◇ 大正 7(1918)年、顕微鏡簡保持器 (実用新案)、集光鏡 (特許)
 ◇ 大正 9(1920)年、顕微鏡同軸式微動装置 (特許)、
           プリズム眼鏡 (特許)
 ◇ 大正11(1922)年、顕微鏡輝照装置 (実用新案)、
           縦横四線式微動装置 (特許)
 ◇ 昭和 2(1927)年、船舶推進装置 (特許)
 樋口 彦四郎












 樋口 修一郎
 ひぐち ひこしろう、嘉永5(1852)年?明治42(1909)年7月3日
 藩士/樋口勘次光武の 4男。
 戊辰の役では、白虎士中一番隊 (籠城戦では一番隊と二番隊合併後の白虎士中隊) で戦い抜く。
 戊辰の役が終わると、軍馬の需要が拡大すると予見し、長野県に移り住み、畜産会社を設立する。
 経営は順調に進展し、推されて長野市米穀取引所の理事にも就任。
 次いで、電気事業が急成長すると判断し、焼き物が盛んな会津に電圧碍子の製造工場を設立し、研究を重ねて碍子の技術革新に成功する。
 墓は、長谷寺

 ひぐち しゅういちろう、
 明治21(1888)年1月18日〜昭和24(1949)年11月24日
 藩士/樋口彦四郎の長男として誕生。
 正則中学校を卒業し、海軍兵学校へ進む。
 明治42(1909)年、海軍兵学校を卒業 (35期/172名) し、海軍少尉候補生に任官され、「宗谷」の乗組に就く。
 同期に同じ藩士の子孫/中田操と竹崎武雄がいる。
 明治43(1910)年、「伊吹」の乗組。
 明治44(1911)年、海軍少尉へ昇進し、「浅間」の乗組。
 砲術校普通科学生水雷校普通科学生となる。
 大正元(1912)年、海軍中尉へ昇進し、九艇隊附。
 「津軽」乗組甲掃海隊附「八雲」「敷島」乗組を歴任。
 大正5(1916)年、海軍大尉へ昇進し、海軍大学校乙種学生となる。
 水雷校高等科学生、一潜水艇隊艇長第二特務艦隊司附、「杉」乗組横鎮附で「関東」乗組、横須賀防備隊附、呉防備隊附呉鎮附、呉工廠建造潜水艦艤装員伊号第三十二潜水艦艤装員長心得艦本部員 (七部)、伊号第二十七潜水艦心得/潜水校教官を歴任。
 大正11(1922)年、海軍少佐へ昇進し、伊号第二十七潜水艦長/潜水校教官に就任。
 2Ss司附、伊号第二十七潜水艦長/潜水校教官、造船造兵監督官伊号第五十二潜水艦長を歴任。
 大正15(1926)年、海軍中佐へ昇進し、横鎮附で欧米各国に出張。
 帰朝し潜水校教官に就任。
 昭和6(1931)年、海軍大佐へ昇進し、18Sg司令に就任。
 「韓崎」艦長「迅鯨」艦長佐鎮附、「迅鯨」艦長呉鎮附呉防備隊司令を歴任。
 昭和12(1937)年、海軍少将へ昇進し、呉防戦司令官に就任。
軍令部出仕、艦本出仕呉鎮出仕、3F司附、上海方面根司令官軍令部出仕を歴任。
 昭和16(1941)年、潜水校長、海軍中将へ昇進。
 昭和19(1944)年、待命を受け、同年に予備役。
 昭和24(1949)年、「潜水艦の権威」と称賛された逸材が死去した。
 墓は、長谷寺の同墓。
 一柳 平太郎  ひとつやなぎ へいたろう、嘉永3(1850)年〜大正4(1915)年 (66歳)
 一柳又蔵の長男。
 18歳の時、戊辰の役に遭遇。
 斗南藩に移住後、余市入植第一陣として蝦夷地 (北海道) へ渡る。
 その後、開拓使に就き、上村村長など道内各地の郡長を歴任。
 明治23(1890)年、最後となる岩内郡長に就任。
 岩内郡長を退官し、岩内汽船(株)/取締役に招聘されて実業界入り。
 明治34(1901)年、道議会議員 (岩内支庁) にも当選し政界入りする。
 明治41(1908)年、第6代/副議長 (会派:松月組) を務める。
 会津武士らしい重厚誠実な性格で、官界・実業界でも清廉潔白を貫き通し名を残した。
 平石 弁蔵  ひらいし べんぞう、明治6(1853)年〜昭和17(1942)年
 藩士/平石甚五郎の長男。
 会津中学校 (県立会津高等学校) の1回生として入学。
 明治26(1893)年、同校を中退し、陸軍教導団歩兵科生徒隊に入る。
 明治27(1894)年、仙台連隊/歩兵第十七連隊附二等軍曹に就く。
 明治27(1894)年、日清戦争に出征し、橋頭集、楊家屯、羊亭集などを歴戦し、一等軍曹へ昇進。
 帰国後は、山形連隊/歩兵第三十二連隊附となる。
 曹長に昇進し陸軍士官学校を経て、陸軍経理学校軍吏学生となる。
 明治37(1904)年、日露戦争に出征し、少佐に昇進。
 会津中学校の軍事教官に就任、8年間勤務する。
 在任中、生存の旧藩士などからの聞き取り調査や、資料の収集などに没頭し、の捻じ曲げた作り話の戯言を1つ1つ覆していった。
 大正 6(1917)年、「会津戊辰戦争」を著す。
 その後も調査研究を続け、改訂版を著し、真実を伝える会津戊辰戦争史の定本の1つとなっている。
 信頼できる会津戦争の史家として認知され、皇室が会津を訪れるたびに御前講義を担当した。
 平田 昭吾  ひらた しょうご、昭和14(1939)年〜
 満州国 (中国/瀋陽市) にて誕生し、会津若松市で育つ。
 昭和31(1956)年、会津工業高校在籍中、笹川ひろしたちと「会津漫画研究会」を設立。
 昭和33(1958)年、会津工業高校を卒業し手塚治虫に師事、内弟子 (専属アシスタント第2号) が認められ、貸本漫画としてデビューする。
 昭和34(1959)年、手塚治虫の会津来訪に同行し各地を案内。
 向羽黒山城の伝説を聞いた手塚治虫は感銘し、5ヶ月後の「中学一年コース9月号/学研」にて「夜明け城」の連載が始まった。
 昭和35(1960)年、平田ポンの名で「こだまブック」付録に作品が掲載されると、手塚治虫の推挙でアニメ作家/政岡憲三の弟子となる。
 昭和37(1962)年、日活撮影所に入社し、特撮の技術開発に従事する。
 昭和37(1962)年、監督/舛田利雄「零戦黒雲一家」の特撮に携わる。
 翌年、監督/市川崑「太平洋ひとりぼっち」の特撮に携わる。
 昭和39(1964)年、井上智と智プロを設立し、漫画「魔神バンダー」などの原作に携わる。
 昭和40(1965)年、「マグマ大使」の一部を、手塚治虫の依頼で制作。
 昭和43(1968)年、日活撮影所研究室から智プロの全スタッフが退職し、全員が手塚プロダクションに入社。
 昭和44(1969)年、手塚治虫のマネージャーに就き、2年間務める。
 昭和46(1971)年、アニメ絵本「アンデルセンどうわ/ポプラ社」を契機に独立。
 昭和47(1972)年、特撮テレビ番組「サンダーマスク」企画に参画。
 昭和50(1975)年、特撮テレビ番組「正義のシンボル コンドールマン」に造形デザインとして参画。
 平成20(2008)年、不法残留の中国人女性を仲介したとして、偽装婚容疑で逮捕される。
 平成22(2010)年、「マンガショップ」からの単行本「魔神バンダー 完全版」全4巻には、原作「平田昭吾・井上智」と名を連ねている。
 平成23(2011)年、二階建ての自宅が全焼する。
 平成30(2018)年3月〜平成32(2020)年10月、「世界名作ファンタジー/ポプラ社」全80巻が出版。
 日本のアニメ絵本文化の先駆者 (絵本作家・翻訳家) として、絵本作品を総計330巻を出版し、平成17(2005)年までに国外の出版冊数が3億巻を突破しているとのこと。
<参照:Wikipedia> .
 平野 長蔵  ひらの ちょうぞう、明治3(1870)年8月10日〜昭和5(1930)年8月20日
 「日本の自然保護の象徴」と称される「尾瀬/長蔵小屋」初代主人。
 福島県桧枝岐村にて誕生。
 明治22(1889)年、19歳の時に燧ヶ岳に登頂、山頂への登山道を拓く。
 その後、「燧嶽神社附属愛国講社」を結成し、燧ケ岳山頂に石祠 (拝殿) を建立。
 明治23(1890)年8月1日、尾瀬沼沼尻に行人小屋を設置、俗に「尾瀬開山の年」といわれる。
 明治35(1902)年、「尾瀬沼区画漁業権」を獲得。
 明治43(1910)年、沼尻の尾瀬沼湖畔に山小屋/長蔵小屋を建てる。
 植物学者/牧野富太郎が、無闇やたらに尾瀬の植物採集するのを見て、「研究するだけでなく保護を考えろ」と叱ったというエピソードがあるほど、尾瀬を愛していた。
 大正11(1922)年、関東水力電気 (東京電力) が尾瀬水利権を獲得。
 尾瀬沼と尾瀬ヶ原間の至仏山にトンネルを掘って、尾瀬ヶ原をダムにして発電所を建設する計画を発表。
 尾瀬の自然が跡形もなく壊滅することに危機感を覚え、尾瀬に永住する決意をし、すぐに入山する。
 「尾瀬保存期成同盟 (日本自然保護協会に発展)」を結成する。
 大正12(1923)年、政府へダム計画見直しの請願書を提出。
 昭和5(1930)年、日本の自然保護の象徴と称される長蔵が死去。

 昭和9(1934)年、尾瀬沼の長蔵小屋の改装工事が完成。
 収容人数150人となり、同年10月1日から営業開始。
 遺志は、息子/平野長英に引き継がれた。
《平野長英》  明治36(1903)年5月12日〜昭和63(1988)年1月18日
 厳格な父/長蔵とは対局で、静かな人柄で、歌人の素養もあった。
 桧枝岐村にて誕生。
 長蔵小屋の2代目を継承し、ダム反対運動を続ける。
 昭和7(1932)年、尾瀬の年間入山者数を調査 (結果:2,500余人)。
 昭和10(1935)年、天然記念物指定が内定するも、なぜか見送られる。
 同年、「温泉小屋〜柴安ー」への新道 (温泉小屋道) を拓く。
 昭和22年(1947)年7月、長蔵小屋で、学者・日本発送電・農林省・文部省・群馬/福島両県の関係者40名が、尾瀬沼発電水路工事についての可否を協議、反対者は平野長英1名のみ。
 昭和34年(1959)年11月、燧新道 (長英新道、4,535m) を拓く。
 昭和41(1966)年、ダム計画は頓挫し、東電が水利権を放棄。
 昭和46(1971)年12月、息子/長靖 (長蔵の孫) が豪雪の最中、下山途中の三平峠で遭難し凍死 (36歳)。
 昭和47(1972)年4月15日、尾瀬沼の渡船を破棄、焼却。
 昭和63(1988)年1月、父の遺志を達成し、尾瀬の大自然を守り抜いた功績を残して、急性心不全のため死去。
 著書 歌集「尾瀬沼のほとり (妻/靖子との共著)」。
《平野長靖》
 昭和10(1935)年8月24日〜昭和46(1971)年12月1日 (36歳)
 平野長英と母/平野靖子の倅。
 昭和26(1951)年、群馬県立沼田高校から京都大学/文学部へ進学。
 大学卒業後は、北海道新聞社に入社。
 昭和38(1963)年、家業を継ぐ予定の弟が死亡したため退職し、山小屋「長蔵小屋」の3代目に就く。
 昭和41(1966)年、尾瀬を貫く道路建設の反対運動を開始。
 昭和46(1971)年、環境庁長官/大石武一に直訴。
 大石の視察を引き出し「尾瀬は国民の宝」として計画中止となる。
 このことは、その後の全国自然保護運動の きっかけとなった。
 しかし、同年12月1日に三平峠で遭難し凍死してしまう。
 著書「尾瀬に死す」(没年の翌年5月22日に新潮社から刊行)。
 平松 省二  ひらまつ しょうじ、昭和46(1971)年10月20日〜
 湯川村にて誕生。
 平成 2(1990)年、会津農林高校を卒業し、ヨークベニマルに入社。
 平成5(1993)年、都市対抗東北大会で3試合を連投しチームを優勝に導き、第64回都市対抗野球大会に出場。
 平成7(1995)年、日本ハムファイターズにドラフト5位指名で入団。
 同期の沼田(N)浩・黒木(K)純司と「NHKトリオ」と称される。
 平成 8(1996)年4月9日、対西武ライオンズ戦で初登板。
 同年、新人ながら20試合出場で24奪三振という結果を残す。
 平成8(1996)年5月6日、対近鉄バファローズ戦で初先発。
 平成11(1999)年9月9日、最終登板。
 平成12(2000)年、一軍未勝利のまま現役を引退し、日本ハムの打撃投手に転向。通算成績:28試合登板、通算防御率 4.18、0勝2敗。
 平成(2013)年11月7日、侍ジャパンの打撃投手に就任していたため、台湾との日本代表強化戦3試合に同行した。
 台湾入りする前日の6日に、父/義房が心不全で死去したが、訃報を伝えず職務/打撃投手を為し遂げる。
 10日、最終戦の第3試合を「0−3」で勝利、試合後のミーティングの最中、小久保監督から第3戦のウイニングボールを手渡された。
 そのことを記者たちから聞いた監督の感謝の気持からであった。
 広沢 弁二
 (廣澤 辨二)
 ひろさわ べんじ、
 文久2(1862)年6月19日〜昭和3(1928)年8月8日 (満66歳)
 <牧場主、農商務官僚、衆議院議員、東京獣医学校校長>
 藩士/廣澤安連の次男として鶴ヶ城下にて誕生。
 叔父の公用方/廣澤安任の養嗣子となるる
 養父から漢籍を学び、牧場従業員のイギリス人から英語も学ぶ。
 上京し、駒場農学校獣医科に入学。
 明治18(1885)年、駒場農学校獣医科を次席で卒業。
 明治19(1886)年、三沢の牧場に戻り、養父から経営を引き継ぐ。
 明治21(1888)年、渡米して本場の牧場を視察、馬生産の技術など学び、種牡馬・種牡牛・種牡豚を購入して帰国、
 明治29(1896)年、馬匹調査会の発足で委員に就任。
 明治31(1898)年、馬匹調査会の牧馬監督官に就任し、農商務官僚/高等官を経て農務局/牧馬課長に就任。
 明治45(1912)年、第11回衆議院議員総選挙 (郡部四区) で初当選。
 大正2(1913)年、議員在任中、東京獣医学校校長に就任。
 大正4(1915)年、馬政事務嘱託として官職に復帰。
 馬政局技師 (高等官三等) などを歴任。
 大正10(1921)年、退官するも勅任官待遇となる。
 帝国競馬協会評議員などを歴任。
 養父/安任が創立した廣澤牧場を規模拡大させるも昭和末期に解散したが、跡地には「斗南藩記念観光村」が設立されている。

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