不  思  議  な  ご  縁

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忠 臣 蔵 と の 関 わ り

 ご縁とは不思議なものである。
 敵味方として赤穂浪士と吉良上野介側が争った「忠臣蔵」。
 会津は、その両方に関わりがある。

≪ 吉 良 家 側 ≫

保科正之公と米沢藩

 寛文4(1664)年閏5月7日、米沢藩の第3代藩主/上杉綱勝が、世嗣を指名しないまま急死してしまった。 無嗣子のため、御定法により上杉家は断絶になるはずであった。
 徳川家光の遺言により、将軍/家綱の後見人として手腕を発揮していた保科正之公に処分が一任された。
 正之公は、驚くべき秘策を打ち出した。
  「綱勝は生前に妹/富子の長男/吉良三之助を養子として迎えており、
      すでに、世嗣に指名していた

と裁定したのである。
 綱勝の祖父/上杉景勝公は かつて会津藩を治めており、正之公の長女/媛姫が綱勝の正室として嫁いでいた (すでに夭折) ことも理由のようである。
 併せて、幕府の首脳陣や各大名から異論が出ないように、世嗣の届けが遅れた不行き届きで 30万石から 15万石へ減封とはしたが、お家断絶にはしなかった。
 同年翌月の6月5日、三之助は上杉景倫 (後に元服で綱憲) と改名し、第4代米沢藩の藩主として認定された。
 前年の10月28日に生まれたばかりの乳飲み子であった。
 三之助の父が、後に忠臣蔵の敵役とされた吉良上野介 (吉良義央) である。
 なお、上杉家/米沢藩は この恩義を忘れず、戊辰の役で会津藩と共に戦った。
 保科正之公の略歴については、こちら。

吉良家上屋敷跡

吉良邸 吉良邸  記録では、
 ◇ 東西  73間(134m)
 ◇ 南北  34間( 63m)
 ◇ 坪数 2,550坪
 ◇ 建坪  ・母屋 381坪
      ・長屋 426坪
吉良邸のみしるし洗いの井戸 吉良邸の吉良像 吉良邸

 昭和9(1934)年、消え去るのを惜しんだ地元の有志が、一画を購入し史跡公園として東京市 (墨田区へ移管) に寄付した。
 「みしるし洗いの井戸」や、邸内の「松坂稲荷 (兼春稲荷)」などが残っている。

 ▲(東京都墨田区両国3-13-29  本所松坂町公園)

≪ 赤 穂 藩 側 ≫

山鹿素行

 貞応元(1652)年、会津出身の山鹿素行は赤穂藩に請われ、1千石で仕官する。
 万治3(1660)年、赤穂藩への仕官を辞して江戸へ戻るが、後に朱子学を非難した内容の著書「聖教要録」を著した。 幕府の正学である朱子学の非難は幕府への非難であり、見過ごすことのできない出来事であった。
 寛文6(1666)年、徳川家光の遺言により将軍/家綱の後見人として幕閣の中心人物であった保科正之公は、赤穂藩にて謹慎する裁定を言い渡した。
 約10年間も謹慎することになる。 儒学者ではあるが軍学者としても名を馳せており、赤穂藩は山鹿流軍学を採用している。
 仕官と併せると約20年間、赤穂藩士に多大な影響を与えた。
 その集大成が「吉良邸討入り」であろう。
 映画などの討入りに「山鹿流陣太鼓」は欠かせないものの創作であろうが、いかに山鹿の思想が藩内に浸透していたかの一例であることは間違いあるまい。
 皮肉にも討入り後、山鹿流が「実戦的な軍学」として大いに評価される。
 山鹿素行の略歴については、こちら。
 山鹿素行/生誕の地については、こちら。

赤穂義士墓所 (泉岳寺)

泉岳寺の墓域 赤穂義士の碑  元禄15(1703)年12月14日深夜、
主君/浅野長矩(内匠頭)の仇を
討つべく、吉良邸に討入る。
 見事に吉良義央(上野介)の 首級をあげ、主君の墓前に捧げた。

 主君/浅野とともに、大石良雄(内蔵助)ら赤穂義士と、討入り前に自害した萱野重実(三平)の48基が眠っている。
 参道には、吉良上野介の首を洗った「首洗井戸」や、大石主税らが切腹した場所の樹木「主税の梅」、浅野内匠頭が切腹した場所にあった「血染の石 血染の梅」、「赤穂義士記念館」などもある。
 毎年12月14日には義士祭が催され、大勢の参拝者であふれる。

 ▲(東京都港区高輪2-11-1 Tel. 03-3441-5560)

赤穂義士休息の地
 (両国橋傍ら)

 ▲(墨田区両国1-9 辺り)

赤穂義士休息の地.
(永代橋傍ら) .

 ▲(江東区佐賀1-6-2) .

  浅野内匠頭邸跡
 水野監物邸跡
 赤穂浪士史蹟
伊予松山藩屋敷跡
  一之橋

堀部安兵衛の墓 . (泉岳寺)

堀部安兵衛の墓

 義士/堀部安兵衛は、会津坂下町で生れ幼少まで育つ。
 四十七士の中では、一番の剣客であった。
 主君の仇を討つべき、と主張し続けた急進派だった。
 討入り時は、裏門から突入し大太刀を振って奮戦。
 その後は、伊予松山藩の江戸屋敷に預けられた。
 元禄16(1703)年2月4日、切腹。
 享年34歳。
 法名「刃雲輝劔信士」
 大石良金 (主税) の墓の隣りで眠りに就いている。

堀部安兵衛武庸之碑

堀部安兵衛之碑 (水稲荷神社)

 天海大僧正江戸の守護神として平将門を配置した1社の水稲荷神社にあり、碑に「堀部武庸加功遺跡之碑」とある。
 「堀部武庸」は本名で、「加功」は助太刀のこと。
 元禄7(1694)年2月11日、高田馬場の武勇により、赤穂藩/堀部彌兵衛の娘/幸(ほりorさち)の婿養子に入り浅野家に仕える。
 元禄15(1702)年、吉良邸討入りに加わり主君の仇を討つ。
 明治43(1910)年、旧高田馬場 (茶屋町通りの傍ら) に建立。
 昭和46(1971)年、水稲荷神社の現在地に移された。
 ▲(新宿区西早稲田3-5-43 Tel. 03-3200-4621)

堀部安兵衛武庸之碑

堀部安兵衛武庸之碑

 水谷町 (八丁堀1丁目付近) に居住していた。
 剣道の達人として、赤鞘安兵衛と称していた。
 昭和44(1969)年、八丁堀一丁目町会が建立。
 亀島橋の傍らにある。
 ▲(中央区八丁堀1-14)

 その他、合祀墓は福泉寺、両親の墓は貴徳寺、貴徳寺の近くに 銅像 もある。
 青松寺は墓参すら不許可。

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