戊 辰 の 役 / 殉 難 者
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天 寧 寺 (ネットで墓参)
▲(会津若松市東山町大字石山字天寧208 Tel. 0242-26-3906)
・
天寧寺については、こちら。
「近藤勇の墓」 は、こちら。
萱野権兵衛長修
.
家老/
萱野
(
かやの
)
権兵衛
(
ごんのひょうえ
)
。 本名は
長修
(
ながはる
)
。
文久3(1863)年、父の隠居により家督を継ぐ。
慶応元(1865)年、36歳で権兵衛を襲名し、家老に就任。
慶応4(1868)年、戊辰の役が勃発、
鶴ヶ城
が攻囲されるや、城外に転進し城内への食糧を供給し続けた。
開城後は藩主/
松平容保公
を命がけでかばい、戊辰の役の責任を一身に背負った。
明治2(1869)年5月18日、東京の飯野藩保科家の下屋敷/広尾別邸にて切腹して果てた。
享年40歳 (42歳とも)。
墓碑には、夫婦の法名が刻まれている。
「報國院殿公道了忠居士」 「紫雲院殿鏡光妙心大姉」
一刀流溝口派の相伝者であった萱野は、絶えないようにしようと、切腹前に
井深宅右衛門
に火箸を使って奥義を伝授したという。
墓は、東京/白金の
興禅寺
にもある。
鶴ヶ城内に
萱野国老殉節碑
、阿弥陀寺に
萱野長修遥拝碑
、余市町に
殉節碑
がある。
次男が、悲劇の郡長正 (萱野乙彦) である。
最後は、行き止まりのような墓域の、さらに1段上った所にあり分かりづらくなっている (現在は裏ルートで
案内
)。 当時の置かれた境遇が目に浮かぶ。
郡長正
.
父が藩の責任を一身に背負い切腹したため、先祖の姓に改める。
家老/萱野権兵衛長修の次男。
「
明治四年五月十八日 清心院殿覺道宗性居士
萱野乙彦後ニ郡長正ト改ム
」
後に、長正の弟/寛四郎が豊津の墓を探し、土と化した一握の枯骨を持ち帰り建立した。
文武両道に秀で、九州/小笠原藩への留学生7名(斗南藩)に選ばれた。
食べ物が味が合わなかったようで、母への手紙で愚痴をもらす。
母よりの戒めの返信を落としてしまい、小笠原藩士の子弟に大衆の面前でののしられる。
迫っていた藩対抗の剣道大会で全勝した後、会津武士の名誉のため切腹して果てた。
16歳の若さであった。
田中土佐
本名は田中玄清(はるきよ)で、土佐は通称。
玄良の長男。 家老。
幕府から京都守護職就任を命じられた時、江戸に出向き藩主/
松平容保公
に強く反対を説いている。
慶応4(1868)年8月23日、
甲賀町口郭門
を守り善戦するも、銃弾を浴び重傷を負う。 五之丁の医師/土屋一庵邸で、家老/
神保内蔵助
と刺し違えて自刃した (墓碑には戦死とある)。 49歳。
上田新八郎
家老/学太輔の伜。砲兵頭。
慶応4(1868)年8月23日、沓掛峠で戦死。
20歳。
南摩弥三右衛門
大砲一番小原隊組頭。
慶応4(1868)年8月23日、鶴ヶ城の埋門で負傷。
その後、城内で死去。
南摩勝子、節、寿、辛の墓
.
≪南摩
節
(
みさお
)
≫
弥三右衛門の弟。
戊辰(1868)年9月14日、
護衛隊
として城内で活躍中、片峰小次郎・木村庄次郎と共に胸壁をよじ登り 「薩奸長賊」 と叫んだところ狙撃され、右腕と肋骨に貫通被弾 (砲撃とも)。
城内に搬送されるが、介護虚しく死去。 15歳。
片峰小次郎も狙撃され即死、木村庄次郎は負傷するも生き残る。
墓は「9月10日歿?」と読める。
≪南摩勝子≫
42歳 (弥三右衛門の母)
≪南摩
壽
(
たもつ
)
≫
8歳 (同/弟)
≪南摩
辛
(
かのと
)
≫
4歳 (同/弟)
幼子2人を抱えては迷惑になると考えた南摩勝子は、城に入らず、負傷者の倅/荘司と嫁のフサ子と僕2人を伴って、城西の方面へ逃れた。
しかし、村人らは後難を恐れ、誰一人として泊めてくれる家は無かった。
放浪している途中、姉の
町野おきと
と偶然にも遭遇する。
一緒に逃げ延び、しばらく彷徨っていたが、やっと勝方寺に宿を得た。
しかし、慶応4(1868)年9月7日、勝方寺の裏山で一家全員が惨殺された。 合掌。
家族を守ろうと幼い摩が、襲ってきた1人を刺殺したとも伝わっている。
事件場所
には、平成になって 「町野家・南摩家 家族殉難(自刃)の地」 の碑が建立された。
倅/荘司 (弥三右衛門の弟、故あって姓は佐野) は、5月1日の白河の戦いで負傷し骨が砕けて歩くのですら困難であり、自宅に戻り療養中であった。
母/勝子に家族を連れて城に入るように勧めたが、
「
汝一人を棄てるに忍びよう
」
と僕2人に担がれ、戦場と化した城下から逃れるため、城西の方面へ向った。
足手まといになると考えたのか、途中で 「喉が渇いた」 と偽り、僕が離れたすきに自刃した。
21歳であった。
嫁のフサ子は、夫と一緒に戦いたいと、僕2人に護られながら入城を目指すことになった。
間瀬利直拝石
通称/岩五郎。
新兵衛の倅。
朱雀足軽二番隊
/中隊頭。
慶応4(1868)年8月29日、
長命寺の戦い
で戦死。
29歳。
相馬孫市
孫一とも。 直登の伜。
諸生組
/日向隊組頭。
慶応4(1868)年4月23日、宇都宮城下で戦死。 28歳。
(壬生で戦死とも)
戊辰之役戦死墓
(六道口)に埋葬。
日光/観音寺に葬ったともいわれるが、墓は確認できない。
「二十二日没 義玄忠清居士」
伊東慎吾祐辰
隠居組。
慶応4(1868)年8月23日、甲賀町口で戦死。
73歳。
伊東悌次郎
左太夫の次男。
白虎士中二番隊
/日向隊。
慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃。
17歳。
墓域への道順は、こちら。
墓は、
飯盛山
にもある。
伊東左太夫祐順
伊東慎吾祐辰の倅、伊東悌次郎の父。 大目付。
京都守護職時には公用人として京都へ赴く。
戊辰の役の時は、米沢藩などへの使いもしている。
明治2(1867)年、天山公(喜徳公)の侍講として上京したが、翌々年に病気で急逝した。 46歳。 聡明院英俊智達居士。
一瀬晴治
勘三郎の従弟。
青龍士中三番隊
/木本隊。
慶応4(1868)年7月24日、越後/大山で負傷。
8月16日、十二所村で死去。
(与板の戦いとも)。
37歳。
遠山為善
.
慶応4(1868)年6月27日、白河で戦死。
佐川隊。
「勇進院忠山誠劔居士」。
木村常之助
青龍足軽隊。
戊辰(1868)年9月18日、五十里越で戦死。
47歳。
「義山顕忠居士」
墓誌には、「
野州三斗小屋ニテ戦死
」 とある。
南摩家の右手1段下で城が良く見える場所にあったが、新墓に合葬されていた。
簗瀬[某]
「
八月廿三日
」と刻まれている。
梁瀬勝三郎
(
白虎士中二番隊
/日向隊、飯盛山で自刃) とも。
梁瀬武治
(白虎士中二番隊/日向隊、飯盛山で自刃) とも。
酒井安平
会津藩士。
南摩家の墓域にあり、南摩家の陪臣とも。
戦死かは不明。
酒井伊佐美 (峰治)
.
[肖像]
安平の次男。
白虎士中二番隊
。
戸ノ口で戦うが皆とはぐれてしまい、ひとり
山中を彷徨い
自刃を考えたその時、出迎えた愛犬「クマ」と飯盛山麓で遭遇し生き抜くことになった。
銅像が
白虎隊記念館
の前にある。
入城後は、
白虎士中隊
として戦い抜く。
昭和7(1932)年2月22日、死去。 80歳。
生涯、白虎隊であったことすら明かさなかったが、死後「
戊辰戦戰争實歴談
」が発見され、詳細な経過が知られるようになる。
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