会  津  の  著  名  人

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [50音メニュー]

《 の 》 江  戸  幕  末

 野口 九郎  のぐち くろう、天保10(1839)年11月27日〜明治42(1909)年
 幼名:鉄彦。 名:成元。 通し名:九郎太夫。 通称:九郎。
 藩士/野口九郎太夫成義の嫡男として天寧寺町にて誕生。
 柴四朗・五郎の母同士がが姉妹なので従兄弟に当たる。
 藩士/野口富蔵は、実弟。
 安政4()年5月、外様付として江戸勤番に就く。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛。
 元治元(1864)年、禁門の変において大砲隊での戦功で組頭に就く。
 鳥羽伏見の戦いの後、江戸でフランス式兵法を学び、小隊頭として越後/長岡や新発田などで奮戦するも負傷。
 籠城戦に入ると、軍事奉行副役に就き、戦い抜く。
 開城の際は、参政の重臣として引き渡しの任の1人を務める。
 幽閉 (謹慎) を経て、斗南藩に移住し大属官会計係に就く。
 斗南藩の消滅後も残留し、青森県庁に仕官。
 墓は東京/妙光寺。  [墓]
 野口 富蔵  のぐち とみぞう、天保12(1841)年〜明治16(1883)年4月11日(42歳)
 幼名:彦次郎。 名:成光。 通し名:九郎太夫。 通称:富蔵。
 藩士/野口九郎太夫成義の次男として天寧寺町にて誕生。
 柴四朗・五郎の母同士がが姉妹なので従兄弟に当たる。
 藩士/野口九郎は、長兄。
 弟の留三郎は、彰義隊に加わり、上野で戦死
 万延元(1860)年、藩命により英語を学ぶため、箱館の英国領事館に赴き、英国領事/ヴァイスから習得に努める。
 慶応2(1866)年、英国公使館書記/アーネスト・サトウに気に入られ、秘書人兼用心棒として雇用され、サトウ宅にて同居する。
 国内の各地へ移動する際には、常に随行。
 実際に、浪人の襲撃を撃退したことも、度々あったという。
 慶応3(1867)年、江戸に戻る途中、掛川での宿泊所に、日光例幣使らが暴徒化し乱入してきたが、右手で抜刀し左手に拳銃を持ち威嚇射撃をすると、脱兎の如く逃げ出したという。
 松平容保の京都守護職就任に従い上洛していた梶原平馬倉澤右兵衛河原善左衛門たちをサトウに引き合わせており、英艦/バジリスク号の見学まで手配している。
 戊辰の役で、兄/野口九郎太夫は北越戦線から籠城戦を戦い抜き、開城の際に城の明け渡し人の1人となっている。
 弟/野口留三郎は、彰義隊に加わり上野で戦死。
 伯父/野口四郎三郎は、白河で戦死
 明治2(1869)年、サトウに随行しイギリスへ渡り、サトウから援助を受けロンドンの大学に入学する。
 サトウから「正直で誠実な男」として絶大な信頼を得ていた。
 サトウの著書にも「私にとっての家族と言えば第一に用心の野口である」と記されているとのこと。
 同年、兵制視察で訪英の西郷従道らは、すでに日本人の大学留学生がいるのに驚き、西郷の指示で翌々年から政府の国費留学生となる。
 明治8(1875)年、帰国し、内務省に就く。 同年に結婚。
 陸軍省・工部省を経て京都府に出張を命じられ、西陣織の改良に尽力し、さらに兵庫県庁に就く。
 明治14(1881)年、外国事務御用掛十等属判任官に就く。
 明治16(1883)年、兵庫県庁に在任中、急逝。
 墓は神戸追谷墓園
 野田 進  のだ すすむ、天保14(1843)年〜没年不詳
 親善兵衛の倅。
 8歳で三等試学を及第、10歳で一等試学を及第、14歳で講釈所試学を及第するほどの秀才。
 父/善兵衛の隠居により、16歳で家督 (外様組) を続ぐ。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し京都勤番。
 元治元(1864)年、帰国の途につくが、途中の三重で情勢が不穏との報を受け引き返し、禁門の変で京都御所を警護し長賊を撃退する。
 慶応元(1865)年、帰国。
 慶応 3(1868)年末、京都情勢が不穏により出立するが、翌年初めに途中の江戸で鳥羽伏見の戦いの報を知り、藩命により滞在し旧幕府伝習隊の練兵場でフランス式訓練を学ぶ。
 その後、江戸総引き揚げしたため、藩を離れ幕臣/古屋作左衛門の軍目に就き、行動を共にする。
 上州各地を転戦し、会津に至り福良に布陣する。
 藩に復帰し東方面機密御用に就き、間諜として棚倉藩や大田原藩などの造反の可否を探索。
 徴募にて会義隊を編成し、正規軍と変わらぬ精強の軍隊に育て、白河の戦いなどで奮戦。
 滝新田村に布陣中、 鶴ヶ城下に迫るとの報を受け、途中途中で各部隊と合流しながら背炙峠を越え帰城、おとり部隊として戦いを挑み奮戦、正規軍1千名の無傷入城を成功させる。 この軍功を讃えた容保は、会義隊士全員を上士に格上げした。
 長命寺の戦い後は城に戻らず、熊倉の戦いを経て佐川官兵衛隊に合流し、城外で戦い抜く。
 開城後は、塩川幽閉を経て、高田/旧長恩寺で幽閉(謹慎)。
 明治 6(1873)年、は第三大区小二五区石間小学校の句読師に就く。
 明治 8(1875)年、公立石戸小学校中等の訓導を経て、公立上戸谷渡小学校の訓導に就く。
 明治 9(1876)年、飯野小学校に就き、石脊小学校の監事を兼務。
 明治10(1877)年、第十七区学区取締に就く。
 明治12(1879)年、南会津郡書記に就く。
 明治17(1884)年、南会津郡第二番小学区学務委員に就任。
野田進墓  明治20(1887)年、福島県郡役所を経て、警察本部に勤める。
 明治21(1888)年、大沼郡高田村外四ヶ村の戸長役場用掛に就く。
 明治22(1889)年、郡役所筆生へ経て、大沼郡戸長に就任。
 明治25(1892)年、伊佐須美神社の主典に就任。
 明治30(1897)年、伊佐須美神社の禰宜に就任。
 墓は伊佐須美神社
 野出 蕉雨  ので しょうう、弘化4(1847)年〜昭和17(1942)年 (96歳)
 名:善次。 通称:平八。
 藩士/土屋八左衛門と母/ナヲ (直子/佐竹氏) の次男として米代三之丁で誕生。
 15歳の時゜塩田牛渚に師事し作画を学ぶ。
 後に、大内流槍術指南/上遠野保の養子となり免許を得る。 土屋家の元の「野出」姓に復す。 酒井与一郎に師事し馬術の免許を得る。
 松平容保の京都守護職就任に従い小森砲兵隊として上洛し、任に就くかたわら同じく上洛していた塩田牛渚と再会し画道に励む。
 戊辰の役では、白河口などで奮戦後、籠城して三の丸で戦い抜く。
野出蕉雨の墓  開城後は、本郷で陶画の指導に就く。
 明治17(1884)年、日本画を志し、京都に赴任した際に知遇を得た松本良順を頼り上京する。
 内国絵画共進会第2回展に入選。
 しかし、画壇は大きく変化しており、追い求める画風とは異なり、失意のうちに帰郷する。
 諸国遊学で会津を訪れた南画の大家/滝和亭の指導に学び、求める日本画の技を得る。
 謡曲にも勝れており、生田虎之助に師事し宝生流を究め、会津能楽の中興の祖といわれる。
 大正8(1919)年、七日町地蔵堂の西側に自宅を構え、妻と二人で静かな余生を過ごす。
 墓は専福寺。 七日町地蔵堂境内に頌徳碑
 [梅花] [孔雀牡丹] [双鶏白菊] [牡丹] [蓬莱] [寒紅] [短冊]
 野村 左兵衛  のむら さへえ、文化12(1815)年〜慶応3(1867)年5月19日(53歳)
 通称:源蔵。 名:直臣。 号:雅若。
 藩士/野村左馬丞直樹の長男。
 幼少時から才覚を現し、澤田名垂野矢常方に師事し和歌を学ぶ。
 長じて長沼流兵学を修め、軍事奉行に就任。
 安政6(1859)年、松平容保の命により江戸留守居役/公用人に就任。
 文久2(1862)年、藩主/容保の京都守護職就任の前に田中土佐外島機兵衛たちと先発して上洛し、事情を探索。
 文久3(1863)年、公用方に就任。
 元治元(1864)年、禁門の変後の秋、軍事奉行を免ぜられ京都筆頭公用人に就任。
 温厚篤実の性格に加えてで和歌を嗜む教養人だったことから、幕府や公家にも「先生」と敬称で呼ばれるほど人望が厚く信頼を得て、公家や諸藩との交渉で多大な貢献を果たす。
野村左兵衛の墓  藩内では、秋月悌次郎広沢安任たちを公用方へ登用するなど適材適所の人事を実施し、組織作りにも尽力する。
 神保修理と井上雪子との仲を取り持つ。
 慶応3(1867)年、激動の最中、藩主/容保の辞職帰国を策定していた在職中に、惜しまれながら京都にて病により死去。
乗りならす 駒のひづめの 香るまで
   並木の桜 春風ぞ吹く
(鶴ヶ城/桜が馬場)
 墓は黒谷会津墓地
 野村 甚兵衛  のむら じんべえ、天保3(1832)年〜慶応4(1868)年8月23日 (37歳)
 刀番。 野村与四郎の父
 慶応4(1868)年8月22日、 母成峠の藩境を突破し猪苗代に迫るとの報により、敵を迎撃する士気を鼓舞せんと松平容保自ら鶴ヶ城を出て、滝沢本陣に布陣した。
 主力部隊は日光口や越後口の藩境防備で不在のため、急きょ隠居した年寄りや少年、文官などを寄せ集めての出陣であった。
 それでも猪苗代から若松に至る「十六橋」を壊せば、敵の侵入は防げるのだが、あまりに強固のため壊すのに手間取り占拠されてしまう。
 翌23日、主力兵なしの奇勝隊游軍隊敢死隊白虎隊合せて400名弱、対する2千数百名との戦いで城下への侵入を許してしまう。
 鶴ヶ城へ向かっていた容保の乗馬が被弾し横倒しに斃れ、徒歩で甲賀町郭門を目指したが敵の銃弾が集中してきたため、両手を大きく広げて銃弾を遮りつつ、銃弾を浴びても横走りに走り続けた。
 弾が届かない所まで至り容保の無事を見届けると倒れたが、すでに絶命しており、死しても走り続けていたのだった。
 野本 恒一  のもと つねかず、弘化4(1847)年〜大正9(1920)年
 藩士/広江某の長男として猪苗代/五十軒にて誕生。
 松平容保の京都守護職就任に従い上洛した際、藩士/松本勇から剣術を学ぶ。
 めきめきと腕を上げ、北辰一刀流の奥義を極める。
 戊辰の役では、北越戦線で奮戦。
 明治5(1872)年、猪苗代に剣道の道場「尚武館」を設立し、子弟の育成・指導、武道の振興・普及に尽力する。
野本恒一の碑  門弟は3千人を超えたといわれ、財団法人/大日本武徳会から教士の称号を受けている。
 土津神社に、門弟らが奉納した奉納額があるとのこと。
野本恒一の碑  稲荷神社に碑。
 「野本恒一先生之碑」
 ▲(猪苗代町
    三ツ和五十軒)
 野矢 常方
[肖像]
 のや つねかた、享和2(1802)年〜慶応4(1868)年8月23日 (65歳)
 幼名:駒之丞。 通称:与八、 別:涼斎、蓼円、蜉蝣翁。
 藩士/惣五郎常利の長男として水主丁一番丁北 (本町) にて誕生。
 「熊の如き」といわれるほど偉丈夫に育つ。
 宝蔵院流高田派の槍術を叔父/志賀重方に学んで極め、和歌師範と槍術師範を兼務する。
 文政12(1829)年、師/重方に従って黒河内伝五郎や町田伝蔵たちと西国諸藩 (山陽・山陰・九州) へ武者修行に出向き、久留米藩との試合で敵なしの全勝する逸話を残す。
 武芸だけでなく、澤田名垂に師事し、和歌も極める。
 京都で訪ねた歌人/加茂季鷹は、田舎者だと横柄な態度だったが、添削を乞う詠草を一読するや、座り直し威儀を正した逸話も残る。
 太平洋戦争前の教科書「修身」には常方の歌が載っており、歌人として全国に知られていた。
 「君がため 散れと教えて (おのれ)まず 嵐にむかう 桜井の里
 戊辰の役では、高齢のため兵役には就かなかったが、 鶴ヶ城下に侵入するや、自宅近くの桂林寺町口郭門で迎え撃ち、敵兵1人を十文字槍で仕留めるも、銃弾を浴び戦死した。
 槍先には、一首の歌が結び付けられていた。
 「弓矢とる 身にこそ知らぬ 時ありて ちるを盛りの 山桜花
 「晧月院覺譽涼齋居士」
 墓は大窪山墓地 (遺骸は阿弥陀寺に合葬)。
 翁拝石は大運寺、顕彰碑は諏方神社にある。
 [資料]

《殉難者》 野崎友之進 野田清次郎 野村駒四郎 野出政之進蔵主
野村新平 野村悌之助 野村六郎  
野村監物      

《 の 》 幕 末 よ り 後

 野口 坤之
























 野口 尚一
 のぐち こんの、
 万延元(1860)年4月25日〜大正8(1919)年3月7日 (60歳)
 幼名:坤之助。
 藩士の子として耶麻郡五十軒村 (猪苗代町) にて誕生。
 母校/翁島小学校と伊達郡保原小学校で教員に就く。
 上京して秋月悌次郎の塾生を経て、陸軍士官学校(旧6期)へ入学。
 明治21(1888)年、陸軍大学校 (4期) を卒業。
 明治27(1894)年、第一師団参謀大尉として日清戦争に出征。
 明治30(1897)年、陸軍少佐に昇進。
 明治35(1902)年、陸軍中佐に昇進。
 陸軍教育総監部参謀、歩兵第三十三連隊長などを歴任。
 明治37(1904)年、第四師団参謀長として日露戦争に出征し、大石橋、海城、沙河会戦と歴戦するも、奉天の会戦で師団司令部が砲撃され師団長/小川又次とともに負傷。
山川家之墓  出征中、陸軍大佐に昇進。
 明治40(1907)年、陸軍中央幼年学校長に就任。
 明治41(1908)年、陸軍少将へ昇進。
 熊本・福岡・東京の各歩兵旅団長、陸軍士官学校長を歴任。
 大正 2(1913)年、陸軍中将に就任。
 大正 8(1919)年、病のため予備役に退くも、まもなく死去。
 妻は、元桑名藩士で陸軍大将/立見尚文の娘。
 墓は青山霊園
 のぐち ひさかず、明治21(1888)年12月23日〜昭和61(1986)年9月27日
 父/野口坤之の長男として東京にて誕生。
 府立第四中学校 (戸山高校) 、第一高等学校 (東京大学) を経て、東京帝国大学に入学。
 明治45(1912)年、東京帝国大学機械工学科を卒業、鉄道院に勤務。
 大正6(1917)年、母校/東京帝国大学の助教授に就任。
 大正 8(1919)年、父/坤之の死去により家督を継ぐ。
 昭和12(1937)年、東京帝国大学教授に就任、同年、特許局技師兼務。
 昭和21(1946)年、日本機械学会の24代/会長に就任。
 昭和24(1949)年、東京帝国大学名誉教授となり、工学院教授に就任。
 同年、新学制により工学院大学が設置されると初代学長に就任。
 昭和39(1964)年、学長を兼務して5代理事長に就任し、学科の拡充や大学院設置などに尽力し、大学の基盤を成す。
 昭和45(1970)年、学長と理事長を辞任。
 著作「機構学」「応用弾性学」「「技術と人の中に」」「材料力学」「工業力学」など。
 野口 佐代助  のぐち さよすけ、
 嘉永4(1851)年1月11日〜大正12(1923)年7月3日 (73歳)
 小桧山惣平の長男として中小松村 (猪苗代町小平潟)にて誕生。
 小桧山家は、連歌師/猪苗代兼載の血筋とされる。
 同地には学問の神様/小平潟天満宮があり、読み書きが出来た。
 英世が学問に目覚めたのは、父/佐代助によるものであった。
 慶応4(1868)年、戊辰の役で来襲したに脅迫され、輸送隊として強制的に徴用される (16歳)。
の虐殺・婦女強姦・略奪 (分捕り隊) ・放火などを目の当たりにし、余りの惨さに酒を覚えたという。
 明治5(1872)年、三城潟の名主/二瓶橘吾の紹介で三城潟/野口清太郎の養子に入り、一人娘/シカと結婚する。
 農業を営む傍ら、月輪村の佐瀬家で奉公して家計を支える。
 明治9(1876)年、長男/清作 (後の野口英世)が誕生。
 英世が幼少の頃、いつも一緒に小平潟天満宮を参拝し、渡米後は月に1度は欠かさず参拝し英世の成功を祈っていた。
 明治10(1877)年、関都駅逓局 (月輪郵便局) が開局され、逓送人 (郵便配達人) に就く。
 明治17(1884)年、次男/清三が誕生。
 明治20(1887)年、地元に三ツ和郵便局が開局したため同局に転勤。
 岩越鉄道 (磐越西線) が若松まで開通する約25年間、三ツ和局と関都局間、三ツ和局と若松局間の逓送人を務める。
 当時は、手紙や電信文だけでなく郵票 (現金小為替) も運ぶ重要な業務で、強盗が横行したため拳銃を携帯していた。
 明治29(1896)年、英世が医業を目指し、上京のため家を出る。
 明治34(1901)年、次男/清三が住む北海道/野付牛町 (北見市) に身を寄せる。
野口佐代助の墓  大正 4(1915)年、15年ぶりに英世が帰郷するのに合わせて帰るも、再び野付牛町に戻る。
 大正 7(1918)年、妻/シカが死去。
 その後に帰郷し、英世の恩師/小林栄宅に住み込み、農事の他にも桑園や果樹、養蚕を手掛ける。
 「多くの人は、父が酒飲みで家人に難儀をさせたことを悪く言うが、それではあまり気の毒だと思う。父上は決して悪い人ではない。まことにさっぱりとした良い人で、無邪気な人である。
 墓は長照寺。  「顯院逸産開運清居士」
 野口 シカ 野口英世記念館
[肖像]
 のぐち しか、
 嘉永6(1853)年9月16日〜大正7(1918)年11月10日 (66歳)
 野口善之助の長女として耶麻郡三城潟村 (猪苗代町) にて誕生。
 生まれた当時は、曾祖父/清太郎、祖父/岩吉、祖母/ミツ、父/善之助、母/ミサの6人家族であった。
 2歳の時、母が家を去り、曾祖父も死去、祖父と父は奉公に出てしまい、祖母/ミツと2人だけになってしまう。
 5歳ごろから近所の家の子守の手伝いをして家計を助けたという。
 7歳で同じ村の家に子守奉公へ入る。
 厳しく躾けられ辛抱強い子に育ち、戊辰の役で略奪・放火し破壊の限りを尽くすに対して、村を焼き払うのを止めるよう直訴するほど、真っ直ぐな気丈夫さも持ち合わせていたようだ。
 この家で夫となる小桧山佐代助を紹介されている。
 10歳の時、最愛の祖母/ミツが死去し一人ぼっちになる。
 明治5(1872)年、中小松村 (小平潟) の小桧山佐代助を養子に迎え結婚、まもなく男の子を産むが死産。
 明治7(1874)年、双子の長女/イヌを出産 (1人は生後10日で夭折)。
 明治9(1876)年、長男/清作 (後の野口英世、以降は英世と表記) を出産。
 明治11(1878)年、英世が囲炉裏に落ちて大火傷を負う。 40日近く不眠不休で看病しながら、治癒を願う観音経を唱えていたという。
 明治16(1883)年、英世が三ツ和小学校に入学する時、これから進むべき道について諭した。
 「左手に障害があるから農作業は無理なので、学問で生きなさい
 明治17(1884)年、次男/清三を出産。
 明治21(1888)年、英世が学業優秀な生徒が先生の代りに授業を行う役職「生長」に選ばれると、貧しい中、村で初の洋服を買い与えた。
 明治29(1896)年、英世が上京。
 英世が上京し、次男/清三も高等小学校を卒業し子育てが一段落すると、義務付けらる産婆の国家資格を取得すべく、まず近所の住職に頼み、必死に文字の読み書きを覚えた。
 明治30(1897)年、苦節を厭わず努力の末、瓜生岩子の協力も得て、産婆資格が施行される初年度に見事に取得する。 農作業をしながら副業として産婆を営み、生涯に2千人を超える子供を取り上げたという。
 明治36(1903)年、渡米の英世へ、習い覚えた平仮名の手紙を出す。
 明治45(1911)年、渡米の英世へ、2度目の手紙を出す。
 まともな教育を受けていなかったにもかかわらず、仮名のみで綴った英世宛の手紙は、文章の構成だけでなく、行間から子を想う親の愛情があふれ、読む人の胸を強く打つ。
 野口英世記念館から掲載して良いとのことであったが、この手紙は現地で ぜひ読んで欲しいので、文章は来館までのお楽しみとする。
 大正3(1914)年、英世から生家の隣に家を贈られる。
 大正4(1915)年、清作 (英世) が帰省、常に一緒にいて、東京や関西への旅行にも出かける。 この時も英世から恩賜賞の賞金で購入した田畑が贈られる。
 日本中が歓迎で沸き返っても、決して息子の自慢はしなかった。
 「英世の貰った勲章が どのように立派なものかは自分には判らない、向こうで元気にしているのなら、それで満足
 半面、猪苗代の家から30キロほど離れた中田観音に歩いて出向き、日付が変わる真夜中に到着し、一晩中、観音堂に「おこもり」をする「月詣り」をして、息子の無事を祈願し続けていた。
 お参りに行く途中で立ち寄り、食事を取ったとされる長火鉢が、嘉永蔵 (末廣酒造) の片隅に展示されている。
母・野口シカ 母/シカの墓
 大正7(1918)年、スペインかぜのため、偉大な子を産み育てあげた偉大な人生の幕を閉じた。
 葬儀は、村始まって以来の盛大なものだったという。
 「貞賢院産恵精安清大姉」。
 墓は長照寺

 野口英世については、こちら

 野口 雅昭  のぐち まさあき、昭和15(1940)年10月13日〜
 旧帝国陸軍参謀/野口省己の子として会津若松市にて誕生。
 昭和34(1959)年、東京大学教養学部文科一類に入学。
 昭和38(1963)年、東京大学教養学部国際関係論分科を卒業し、外務省に入省し、イギリス・レバノン・シリア・エジプトなどでアラビア語の専門教育を受ける。
 スペイン語が希望だったが、アラビア語になったとのこと。
 サウジアラビア大使館、国連代表部勤務を経て、本省/中近東第二課長、領事第二課長などを歴任。
 昭和57(1982)年、在エジプト大使館参事官に就任。
 昭和58(1983)年、在エジプト大使館公使に就任。
 昭和60(1985)年、在イギリス大使館公使に就任。
 昭和62(1987)年、在イタリア大使館公使に就任。
 平成元(1989)年、在イエメン大使館特命全権大使から初代大使に就任、イタリア騎士十字勲章を受賞。
 平成 2(1990)年、エジプト共和国勲章を受賞。
 平成 3(1991)年、シドニー総領事館総領事に就任。
 平成 6(1994)年、金属鉱業事業団理事に就任。
 平成 8(1996)年、在チュニジア大使館特命全権大使に就任。
 平成13(2001)年、チュニジア共和国共和国勲章受賞、外務省を退官し、アラビストとして帝京平成大学科教授に就任。
 平成17(2005)年、京都文教大学教授に就任。
 龍谷大学客員教授、京都聖母女学院短期大学非常勤講師や、中東情勢などの解説者としても活躍中。
 著書「外務省の掟-徹底検証! 外務省なんていらない」など
 登山家の野口健は次男。
 野澤 鶏一  のざわ けいいち、嘉永5(1852)年〜 昭和7(1932)年7月23日
 正しくは「鶏」の旧字。 幼名:九八郎。
 <法律家/弁護士・税関職員・判事・編纂者> 石川暎作の従兄。
 藩士の子として野沢村 (西会津町) にて誕生。
 幼くして漢籍を学分。
 慶応2(1866)年、渡部思斎 (渡部鼎の父) の私塾/研幾堂 (法政・経済・文学・医学) の創立時に入塾。
 慶応3(1867)年、長崎で医学修得を志して上洛、義兄/小林源次郎の助言で山本覚馬に師事し英語を修得中に鳥羽伏見の戦いが勃発、盲目の覚馬と共に薩摩藩に捕らわれる。
 幽閉中に、明治政府の根底となった覚馬の建白書「管見」を口述筆記し完成させるも、度重なる拷問・虐待により足が不具となる。
 明治3(1870)年、釈放後に覚馬のの勧めで大阪開成所 (京都大学/法学部・文学部) で学ぶ。
 明治4(1871)年、修文館 (横浜国立大学) に入ると頭角を現し、同校教頭の星亨を助け法整備の先駈けとなる「英国法律全書」の翻訳に従事する。 終えると星の推薦で大蔵省に入り、横浜税関職員や新潟税関長代理などを歴任。
 明治10(1877)年、弁護士に転身し、アメリカ/エール大学に留学し法律学を学ぶ。
 帰国後、星の義妹と結婚し、星の政治活動を支える。
 明治15(1882)年、自由民権運動/福島事件で星と共に弁護活動に従事し、地元支援者の援助に尽力。
 明治22(1889)年、アメリカ/ニューヘーベン法科大学に留学。
 帰国後、神戸裁判所判事、銀座の役場/公証人などを歴任。
 日本の法整備について大きな足跡を残し、同志社英学校 (同志社大学) 設立にも支援をしている。
 翻訳「英国法律全書」「海外万国偉績叢伝」など。

野田清          

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [50音メニュー]