戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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旧 市 街 中 心 周 辺


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戊辰の役・殉難 「阿弥陀寺で眠る殉難者」 は、こちら。

「斎藤一 (藤田五郎) の墓」(阿弥陀寺)は、こちら。

戊辰の役・殉難 「長命寺で眠る殉難者」 は、こちら。

戊辰の役・殉難 「興徳寺で眠る殉難者」 は、こちら。

蜷川友次郎、蜷川文次郎の墓 (実成寺)

蜷川友次郎の墓

蜷川友次郎 .

 青龍足軽三番隊/中隊頭。
 慶応4(1868)年8月23日、鶴ヶ城で戦死。
蜷川文次郎の墓  (8月23日に負傷し、9月22日に死去とも)。
 33歳。

蜷川文次郎         .

 朱雀士中四番隊/町野隊   .
  友次郎の弟。        .
 慶応4(1868)年8月11日、    .
越後/石間口小松関門で戦死。
 (8月12日とも)。 19歳。     .
蜷川一族の墓群
蜷川一族の墓群
≪蜷川貞介≫
  慶応4(1868)年8月23日、若松の自宅で自刃。
≪蜷川貞介の母≫
  同日、若松の自宅で死。

 ▲(会津若松市大町2-6-35 Tel. 0242-22-3553)
   ・実成寺については、こちら。

広澤安任 (弥勒寺)

   通称:富次郎。 広沢庄助の子。
 戊辰の役では、江戸に残留し長賊らと交渉するも、話しを聞くどころか即残に投獄される。
 元薩摩藩/大久保利通から政府要職へ幾度となく招聘されるが、裏切った薩奸の言葉など信じられないとし、「野にあって国家に尽くす」と固辞、洋式牧場の発展に生涯を尽くす。
 明治24(1891)年2月5日、東京にて死去。 享年62歳。
 墓碑名は、「廣澤家祖先之墳墓」。
 本墓は、三沢市高野沢の元/広沢牧場の地にある。
広沢安任の墓
 ▲(会津若松市大町1-5-1 Tel. 0242-22-6197)
   ・弥勒寺については、こちら。

澤田鉄左衛門、澤田治助、梅宮源蔵などの墓 (常光寺)

沢田鉄左衛門、沢田治助の墓

澤田鉄左衛門 .  熊蔵の父。
 慶応4(1868)年8月23日、糠塚裏で戦死。
 76歳。 「心釼院忠誠一翁居士」。
 墓誌には、「澤田鉄右衛門 七十九才」。

澤田治助  熊蔵の兄。
 青龍足軽隊/嚮導。
 戊辰(1868)年9月20日、鶴ヶ城内で戦死。
 51歳。 「釼照院義英賢光居士」。

梅宮源蔵の墓

梅宮源蔵 .

 軍事方世話役。
 戊辰(1868)年9月18日、鶴ヶ城内で戦死。
 通説の「8月16日」は間違い。
 「教誓淨證信士」。
中條茂平の墓

中條茂平      .
 詳細不詳。     .
 「寶山浄恵〇〇士  .
 慶應四年八月廿三日.
 中條茂平
」    .

 ▲(会津若松市七日町7-36 Tel. 0242-22-8530)
   ・常光寺については、こちら。

法華寺

戊辰殉難 木村一族之墓
 (裏 面)
木村一族之墓の裏面

戊辰殉難 木村一族之墓 .

≪木村兵庫≫
  青龍寄合一番隊/中隊頭。
  慶応4(1868)年6月24日、棚倉/郷戸の戦いで負傷。
  8月23日、治療中の自宅にて家族8人と自刃。
  39歳。


  ・木村幸蔵 実父 68歳
  ・木村ナミ実母59歳
  ・木村カヨ32歳
  ・木村スカ8歳
  ・木村エン6歳
  ・木村忠右衛門養父60歳
  ・木村ナヲ養母50歳
  ・木村コト義妹25歳
傍らに一族と共に殉じた女中の「忠婢清女之墓.」があり想いが深まる。

中村新八 .

 名:成義。
 上田隊。
 慶応4(1868)年1月5日、鳥羽で戦死。
 17歳。
 京都黒谷に慰霊碑がある。

復族碑

復族碑

 明治36(1903)年7月に建立。.
 松平容大公の筆による。

 

鈴木為輔

 大賄役。 青龍寄合一番隊
 川村三介とともに、捕虜の土佐藩の人足/作吾を案内人として、降伏の使者を務めた。   [略歴]
鈴木為輔

 ▲(会津若松市蚕養町8-1 Tel. 0242-22-4032)
   ・法華寺については、こちら。

野矢常方翁拝石 (大運寺)

野矢常方翁拝石

 惣五郎常利の子、良助の父。
 宝蔵院流槍術師範。
 和歌にも長じており、和学所師範でもあった。
 慶応4(1868)年8月23日、桂林寺町で戦死。 67歳。
 戦後に長男や門人たちが遺体を捜すも見つからず、菩提寺に遺詠を埋め、旧邸内の庭石を運び遥拝石にした。
 門人/星暁邨は、終生、8月23日の供養を怠らなかったという。
 「晧月院覺譽涼齋居士」。
 墓は大窪山墓地顕彰碑諏方神社にある。
 自宅近くの桂林寺町口郭門で、敵兵1人を十文字槍で仕留めるも、銃弾を浴び戦死した。
 槍先には、一首の歌が結び付けられていたという。
    弓矢とる 身にこそ知らぬ 時ありて ちるを盛りの 山桜花
 後の教科書「修身」に常方の歌が載り、全国的に知られることとなる。
    君がため 散れと教えて 己まず 嵐にむかう 桜井の里

<大窪山墓地諏方神社と併記>    .

 ▲(会津若松市日新町9-24 Tel. 0242-27-2580)
   ・大運寺については、こちら。

真龍寺

柿澤勇記重任 .

 慶応4(1868)年4月23日、下野/壬生で負傷。
 同月27日に日光で死去。 (宇都宮の戦いで負傷したとも)。
 墓碑は「四月廿三日」とある。 36歳。
 会津藩士であるが、大鳥圭介軍 (伝習第二大隊) の参謀であった。
 別称は、森三之丞。
 「厚源院釋清耀居士」。
 日光市の観音寺にも墓がある。

柿澤重任墓

 一族の墓域は手入れがされておらず、雑草に覆われている。
 先祖墓「勇八」「源右衛門」などあるが、唯一の子孫「柿澤任墓.」には、勇記の孫である母の実家/柿澤家に世継がなかったため名乗った、とある

福原勝吾の墓

福原勝吾 .

 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。
 34歳。

宇南山壮平の墓

宇南山荘平     .

 進撃隊/小室隊。      .
 慶応4(1868)年8月29日、 .
長命寺で戦死。 38歳。  .

大橋源蔵・愛助の墓

大橋源蔵 .
 常行の3男。
 慶応4(1868)年8月23日、天寧寺町口で戦死。
 20歳。
大橋愛助
 常行の5男。 鈴木佐内の家来。
 慶応4(1868)年8月23日、天寧寺町口で負傷し、9月8日に死去。
 (ただし、戒名に「義」がない)
 18歳。

阿部某の墓
阿部[某]          .
 戦死者らしいとのこと。    .
 阿部と読めるが、詳細不詳。
 「慶応四年九?月十二日」  .
河井善順

河井善順
 天保7(1836)年〜明治26(1893)年8月20日
 名:順。 別称:智海。
 真龍寺の8世/善教の子として誕生。  子のない長兄の養子となり、真龍寺の10世/住職となる。
 19歳で越後での遊学を経て、京都/西本願寺の学寮に入る。
 会津藩が京都守護職に就くと、藩士たちと交流するようになる。
 禁門の変が勃発した年は、敗走した賊軍/ 長賊を匿った京都/西本願寺にて修業をしていた。
 後に西本願寺の大講義の職に就く。
 戊辰の役では、開城の際にとの会談を取り持ち、山川健次郎小川傳八郎(亮)を人質として預けることなど降伏条件の仲介をした。
 その後は、北海道を含む布教活動など、宗派の発展に尽力。
 ▲(会津若松市行仁町12-53 Tel. 0242-22-4526)
   ・真龍寺については、こちら。

佐治治助 (本覚寺)

佐治治助の墓

 一族の墓群の中にある。
 軍事方兵粮方。治太郎の父。
 慶応4(1868)年9月4日、本郷で戦死。
 「荒覚院殿忠譽貫日壽仙居士」
 墓には、「次助 48歳」とある。


 ▲(会津若松市行仁町12-59 Tel. 0242-22-5396)
   ・本覚寺については、こちら。

山室鉄蔵・鉄三郎 . (極楽寺)

山室鉄蔵・鉄三郎の墓

山室鉄三郎
 卯之助の子。 別撰組/佐川隊。
 慶応4(1868)年1月5日。鳥羽で戦死。 28歳。
 「明治元年正月四日 喚譽得忠居士
山室鉄蔵
 卯之助の倅。 右筆上席。 青龍士中三番隊/木本隊。
 慶応4(1868)年9月、飯寺で負傷し、10月27日に死去。 36歳。
 「明治元年十月廿七日 勇譽義消居士


  宗川茂弘
 名は勇之進。 藩の儒学者。
 後に「余市開拓の父」と称される。
 戊辰の役では老齢ながら容保の側近く仕え、非はにあり、会津藩には何ら咎はないと励まし続けたという。 墓には記載なし。
 経歴については、こちら
宗川茂弘の墓

 ▲(会津若松市本町7-1 Tel. 0242-26-8940)
   ・極楽寺については、こちら。

吉川寅松 . (久福寺)

吉川寅松の墓

 並んでいる3基の中央の墓石。
 慶応4(1868)年8月26日。天神橋で戦死。
 所属部隊や享年など詳細不詳。
 墓には、「義達院清身居士」と刻まれている。

 ▲(会津若松市馬場本町2-6 Tel. 0242-22-6802)

梅宮源五郎 . (清林寺)

 戊辰(1868)年9月22日、戦死。
 墓碑は、9月25日。
 寄合隊、詳細不詳。
 「真譽寶相清居士」。

 ▲(会津若松市馬場本町3-1 Tel. 0242-22-6654)
   ・清林寺については、こちら。


妙法寺

中野平内の墓 中野平内忠順 .
 文化7(1810)年〜明治11(1878)年9月13日
 名:忠順。 号:磐水。
 江戸常詰勘定役 (納戸役)。 書法/持明院流の師範。
中野こう子の墓  中野竹子優子の父。
 江戸常詰だったため会津には家がなく、米代二之丁の遠縁/田母神兵庫の書院を借りて住む。

中野こう子 (孝子) .
 足利藩士/生沼喜内の娘。
 中野平内に嫁ぎ、竹子・優子など3子をもうける
 娘など総勢20名ほどで婦女隊を結成 (指図役)。
 山門前に案内標柱がある。

 ▲(会津若松市馬場本町3-34 Tel. 0242-22-6803)
   ・妙法寺については、こちら。

融通寺

町野家の家族墓

町野家の家族墓 .

町野家の墓域

 ・町野おきと 47歳  (主水の母)
 ・町野おやよ24歳 (同/妻)
 ・町野おなお7歳 (同/娘)
 ・町野源太郎3歳 (同/伜)
 ・町野ふさ子31歳 (同/姉)

 城下は大混乱し、町野おきとは鶴ヶ城に入れなかった。
 止む無く幼子2人を抱えて、戦火のない城西の方面へ逃れた。
 しかし、村人らは後難を恐れ、誰一人として泊めてくれる家は無かった。
 放浪している途中、妹の南摩勝子と偶然にも遭遇する。
 一緒に逃げ延び、しばらく彷徨っていたが、やっと勝方寺に宿を得た。
 しかし、慶応4(1868)年9月7日、勝方寺の裏山で一家全員が惨殺された。 合掌。
 余りの惨い殺され方に、落ち延びた8月25日を殉難の日にしたと伝え聞く。
 墓碑には、「九月七日」と刻まれていた。
 事件場所には、平成になって「町野家・南摩家 家族殉難(自刃)の地」の碑が建立された。

町野久吉の首塚

町野久吉の首塚 .

 慶応4(1868)年閏4月24日、越後/三国峠で戦死した。
 享年17歳。
 長槍をふるって単身敵陣に突入し奮戦するも、銃弾を浴び壮烈な戦死であった。実質的な自刃であった。
 白虎隊初の戦死者であり、郡奉行/町野源之助 (後の主水) の実弟。
 墓は、群馬県の旧/新治村 (みなかみ町)
 碑は、小出島陣屋跡

町野主水の墓

町野主水 . (源之助)

 藩主の京都守護職に随行したが、桑名藩士と口論となり2人を斬った。
 その咎で入牢させられていたが、蛤御門の変が起きたとの報を聞き、牢を破って参戦し勇名を挙げるなど、豪快な人物であった。
 越後小出島の奉行任命時に、随行していた弟の久吉を失っている。
 戦後は、戦死者の埋葬の交渉に奔走した。
 大正12年6月9日没。 享年85歳。


武藤英惇の墓

武藤英惇 .

 英淳とも。 医師。
 朱雀士中四番隊/町野隊付。
 慶応4(1868)年9月5日、小田村で自刃。
 51歳。

小池源五郎勝春の墓

小池源五郎勝春   .

 福明の3男。   .
 慶応4(1868)年  .
8月24日、戦死。 .
 27歳。       .
長谷川栄助の墓

長谷川栄助 .

 月割。
 慶応4(1868)年8月15日、赤谷で戦死。
 43歳。
 「慈光院常譽忠勇居士」。

忠譽義法醫士の墓

忠譽義法醫士     .

 戦死とのことだが詳細不詳。 .
 確かに戒名に「忠・義」はある。
 「明治元辰年八月廿三日」  .

 ▲(会津若松市大町2-7-45 Tel. 0242-22-4320)
   ・融通寺については、こちら。

専福寺

穴沢吉之助 .

 進撃隊/小室隊独礼。
 慶応4(1868)年8月29日、長命寺で戦死。
 36歳。 「忠誠義信居士」

  野出蕉雨 .
 本名/善次、通称/平八。
 京都では小森砲兵隊に所属、戊辰の役では白河口や三の丸で奮戦。
 戦後は近代を代表する日本画家となり、会津能楽にも貢献。 陶祖廟にも画がある。
 昭和17(1942)年没、享年96歳。
野出蕉雨の墓
 ▲(会津若松市千石町6-35 Tel. 0242-22-5688)
   ・専福寺については、こちら。

自在院

斎藤新吾の墓

斎藤新吾 .

 慎吾、清俊とも。 権三郎の伜。
 機械方。
 慶応4(1868)年7月27日、越後/水原で戦死。
 20歳。
 「忠良院勇讃道悟光居士」

佐藤喜七の墓

佐藤喜七       .

 独礼。 進撃隊/小室隊。 .
 慶応4(1868)年8月29日、 .
長命寺で戦死。        .
 37歳。            .
 「勇諦院争戦道照居士」 .

 白虎足軽隊/古川深松は、慶応4(1868)年8月23日に城下へ乱入したを迎撃するも被弾し、入城は叶わぬとして当寺で自刃したのだが、埋葬場所・墓碑は不詳。

 ▲(会津若松市相生町2-18 Tel. 0242-22-3245)
   ・自在院については、こちら。

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 [閑話]

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