会  津  の  著  名  人

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《 む 》 幕 末 よ り 前

 無為庵 如黙  むいあん にょもく (よもく、じょもく)、
 寛永4(1627)年〜元禄4(1691)年11月13日 (65歳)
 本名:岡田幸免。  <僧侶、学者、稽古堂主>
 肥前国 (佐賀県・長崎県) の出身。
 17歳で両親と死別し上洛、様々な師に学び、30歳で仏門に入る。
 出羽、陸奥などを、学僧として行脚。
 明暦3(1657)年、実相寺を訪ね会津に留まる事を決意し、左下り観音堂 (会津美里町) の麓に草庵を結ぶ。
 風景を楽しみ、学者・文人たちと親交を深め、修業に励んだという。
 寛文2(1662)年、横田俊益たちと共に落合村 (磐梯町) に茅舎/無為庵を開き、経義を講義する。
 寛文4(1664)年、俊益たち有志によって桂林寺町の北端/赤岡分に学問所/稽古堂が開設され、招かれて初代/堂主に就く。
 身分を問わず武士に限らず農工商の庶民でも学ぶことが可能で、講義の評判は非常に良く大盛況となり、家老/田中正玄など役人も聴講。
 聞き及んだ保科正之公は、地租を免じ修繕料を与えるなど経済的な支援を惜しまず、学問を奨励した。
 貞享2(1685)年、松平正容公から罪を問われ、真木村 (喜多方市慶徳) に流罪される。
 元禄4(1691)年、赦免されることなく、同地で死去。
無為庵如黙の墓  墓は阿賀川沿岸の丘上 (泡ノ巻公園) 。
 遺書「謫居(たつきょ)随筆」「配所の月」。
 ▲(喜多方市慶徳町山科字泡ノ巻)

無為庵如黙の墓


無為庵如黙の墓

 後に稽古堂は、藩校/日新館へと発展する。
 延宝2(1674)年、「講所」が開設。
 元禄2(1689)年、「郭内講所」とは別の「町講所」が開設。
 天明8(1788)年、「郭内講所(東講所)」とは別に「西講所」が開設。
 寛政11(1799)年、「藩校/日新館」となる (4年後に完成)。
 向井 吉重  むかい よししげ、寛永3(1626)年〜元禄7(1694)年4月28日 (69歳)
 <漢学者、歴史家>
 通称:新兵衛。 諱:吉重。 号:斗半軒。
 父/角兵衛は、仕えていた田丸家が蒲生家に所縁があり会津入りし、蒲生家断絶後も残り、加藤家、保科家の陪臣として仕えていた。
 幼き頃から、歴史に関する学問を好んだ。
 万治2(1659)年、家督を継ぎ、生駒家の旗与力に就く。
 寛文2(1662)年、領主の蘆名蒲生上杉伊達による会津支配の事跡を編集した「会津四家合考」を著す。
 さらに、地誌編纂の始まりとされる「会津風土記」編纂に携わる。
 寛文12(1672)年、直参となり、保科正之公の命により会津における旧事「会津旧事雑考」を著す。
 延宝3(1675)年、藩士たちの旗幟を編纂した「旗幟図」を著す。
 元禄4(1691)年、辞任し隠居する。
 その他の著書「会津要害録」「当剣雌雄之巻」「見弥山葬誌」。
 実相寺に埋葬されたが今はない。 「嘯山常笑居士」
 [史料]
 室井
 杢左ヱ門
 むろい もくざえもん、
 室井杢左ヱ門は、田島の初代検断です。 田島検断は当初、駅検断の役目を負い、下野街道の秩序と安全を保つことを任務としておりましたが、後世になると代官所と郷頭の取り次ぎ役など行政的な面にも介入しておりました。
室井杢左ヱ門の五輪塔  杢左ヱ門は、検断とすえ立場を利用して、田島村の百姓が採草地が少なく困っているのをみて、隣接する各村の山々へ入会できるように取り計らったことで、村民から感謝され妥島村より検断林が贈られました。 杢左ヱ門は、万治二年 (一六五九年) の田島地震後に亡くなったと言われており、当町の初代検断として、歴史上欠くことのできない人物であります。 この五輪塔は、室井検断家断絶後、杢左ヱ門の生家である猪俣氏により建立されたと伝えられております。
         田島町教育委員会
/現地板より
 五輪塔は徳昌寺

《 む 》 江  戸  幕  末

 武川 信臣  むかわ のぶおみ、
 弘化3(1846)年〜明治元(1868)年10月9日 (享年24歳)
 通称:三彦。
 家老/内藤介右衛門信順 (号:可隠) の3男。
 家老/内藤信節、主席家老/梶原平馬の実弟。
 嫡男以外は内藤を名乗れない習わしのため、武川姓を名乗る。
 鳥羽伏見の戦い後、帰国せず彰義隊の別働隊幡随院分屯信意隊長として上野で奮戦するも、利あらず江戸市中に潜伏し再起を計る。
 使用人/宗兵衛の裏切りによる密告で捕縛され、会津藩家老の実弟の疑いから、連日 苛烈な拷問を受けるも最後まで口を割らず節を守る。
 三角木の上に正座させ、その膝の上に大石を積んでいく“石抱きの責め”だが、積石の限度がなく肉は裂け骨も砕けるも顔色ひとつ変えず、途方に暮れた長賊らによって小伝馬町の獄中にて斬首された。
 立つこともできず、刑場に引きずられていったという。
 「拷問で足の骨は砕け薩長の暴横を論ずること甚だ痛烈なり
 すでに会津では終戦しており、大赦令が出る予定の3日前でもあり 明らかに見せしめの処刑で、惨殺という犯罪行為であった。
 獄中の句
 「君と親の 重きめぐみに くらぶれば 千引の石の 責はものかは
 辞世の句
 「暫し世に 亦き心を 見すれども 散るにはもろき 風のもみじ葉
 遺体は、会津藩の御用商人/中島屋忠次郎が引き取り、小塚原回向院に埋葬し石碑を建てた。
 実兄/内藤信節が伝え聞き訪れたが、すでに墓碑の所在は不明で何も残っていなかったため、慰霊墓を故郷/泰雲寺に建立した。
 宗川 茂弘  むねかわ しげひろ、
 寛政9(1797)年9月〜明治15(1882)年6月6日(86歳)
 宗川安右衛門茂京と母/上島氏の長男として誕生。
 名は勇之進。  <藩の儒学者、余市開拓の父>
 10歳で史記評林、17歳で五経正義を学び、儒者/安部井帽山に師事。
 文政6(1823)年、家督を継ぐ。
 松平容敬公松平容保の侍講も務める。
 安政4(1857)年3月、隠居する (60歳)。
 慶応4(1868)年、戊辰の役により軍事局に出仕。
 72歳の老齢にして容保の側近く仕え、非はにあり、会津藩には何ら咎はないと励まし続けたという。
 開城後は、による捕虜の蝦夷追放 (小垂/小樽・石狩・発作部/発寒) の一員として、嗣子/熊四郎(茂友)・次男/長崎尚志たちと共に蝦夷に送られ小樽を経て余市へ移住し、郷校/日進館の教授として多くの子弟を教授し育てる。
宗川茂弘の墓  嗣子/茂友も余市の総取締に就き、開拓と入植者のまとめ役として大活躍。
 後に、札幌資生館/館長に就任。
 明治10(1877)年、高齢で館長を辞任すると、開拓が軌道に乗ったことから一家と共に会津へ帰ることが許される。
 窪村 (会津坂下町) の自宅に「遷喬庵」を開き、子弟教育に尽力。
 明治15(1882)年、河沼郡窪村にて死去。
 墓は、極楽寺

宗川 茂友
 むねかわ しげとも、
 天保元(1831)年12月5日〜明治37(1904)年3月8日 (満74歳)
 通称:熊四郎。
 藩士/宗川勇之進茂弘の3男としてに鶴ヶ城下にて誕生。
 2人の兄が天折し、家督を継ぐ事になる。
 藩校/日新館で学ぶと、家系的には武道でないのに武術に秀でて、師範/安藤市蔵に師事し、宝蔵院流槍術の名手と称される。
 嘉永6(1853)年10月、江戸で初御目見している (23歳)。
 嘉永7(1854)年、御備組付となる。
 安政6(1860)年、武芸が認められて御供番に加わり、藩主/松平容保の身辺護衛役に就く。
 文久2(1862)年、京都守護職就任に従い、護衛役・侍講として上洛。
 慶応4(1868)年、軍事方、歩兵隊、朱雀隊士中隊/半隊頭として奮戦。
 籠城戦では、砲兵二番隊/隊長として戦い抜く。
 明治2(1869)年、東京謹慎 (小川講武所で幽閉) 中の最中、長賊らに贖罪の名目で父と共に蝦夷地に送り込まれる。  入植の札幌郡に入れずに待機していると、長賊らは支給する約束を「扶助などの一切を旧藩に仰ぐべし」と手のひらを返し反故にする。
 止む無く未開の地/与市の開拓を決意し、193名 (219名とも) のまとめ役/隊長として入植し、その後も取締役として開拓に尽力する。
 明治11(1878)年、開拓が軌道に乗ったことから、会津へ帰る。
 明治25(1892)年、会津尋常中学校の武芸教師に就く (嘱託)。
 武藤 恪弥  むとう かくや、天保10(1839)年〜大正9(1920)年10月9日
 名:尚徳。 通称が恪弥。
 忠助尚証の子として河原町(一番町) にて誕生。
 文久2(1892)年、家督を継具。
 禁門の変鳥羽伏見の戦いで奮戦し、帰国後も籠城戦を戦い抜く。
 開城後は、猪苗代を経て東京にて幽閉(謹慎) させられる。
 開城からの記録「被仰聞之扣/戊辰後の降人記録」を著す。
 余市開拓に参加するも、各地の警察官を経て若松に戻る。
 大正9(1920)年、郡山にて死去。

《殉難者》 向山利信 武藤英惇 武藤善治 村井藤造
村上六郎兵衛 村松栄五郎 村松栄次郎 村松忠三郎
村松常次郎 村松吉敏    
村岡滝三郎      

《 む 》 幕 末 よ り 後

 村野 守美  むらの もりび、
 昭和16(1941)年9月5日〜平成23(2011)年3月7日 (69歳)
 本名:佐藤 守(さとう まもる)。 <漫画家、アニメーター>
 満洲国/奉天省大連市で誕生。
 敗戦で日本に引き揚げる時 (6歳)、集合場所/学校の窓から転落し脊椎を損傷、車椅子生活となる。
 会津若松市で育ち、 いわき市平 (平一高/中退) を経て上京する。
 リハビリで何とか歩けるようになったものの、普通の仕事は出来ないので、漫画家になることを決意する。
 昭和35(1960)年、「少年 夏休み増刊号」掲載の「弾丸ロンキー」で、本名のままデビュー。
 昭和36(1961)年、手塚治虫のアシスタントに就く。
 昭和37(1962)年、虫プロダクションに正式入社し、手塚治虫に師事しつつ、「鉄腕アトム」などのアニメ制作に携わる。
 昭和44(1969)年、虫プロの「千夜一夜」の原画を担当。
 アニメでは原画・脚本・演出・絵コンテなど様々な役割をこなしており、アニメ「カムイの剣」には「キャラクター」で名前を連ねている。
 漫画は続けていたが、アニメ仕事との二足草鞋、ほとんどが短編。
 虫プロを退社し、再び漫画を描くことに専念する。
 昭和53(1978)年、「ボクサー」が好評を得る。
 昭和54(1979)年、「垣根の魔女」で人気を博す。
 昭和55(1980)年、「ほえろブンブン」がテレビアニメ化される。
 昭和58(1983)年、手塚治虫原作「ユニコ魔法の島へ」で監督に抜擢。
 「カムイの剣」でも、キャラクターデザインに参加。
 平成15(2003)年、監督をした石ノ森章太郎原作「小川のメダカ」が、東京国際アニメフェア作品賞を受賞。
 平成23(2011)年3月7日、心不全のため東京都府中市の病院で死去。
 素晴らしい作品が数多くあれど、下記作品は必読。
 垣根の魔女」 職人尽百景」 草笛の季節」
  「恋忘れ草」 おせん」
 室井 光広  むろい みつひろ、昭和30(1955)年1月7日〜令和元(2019)年9月27日
 <小説家、文芸評論家>
 農家の子として下郷町にて誕生。
 会津高等学校から早稲田大学政治経済学部へ進むも、中退。
 一時 帰省するが、慶應義塾大学文学部に再入学し、哲学科に移り卒業 (卒論/ミシェル・フーコー) する。
 拓殖大学図書館の司書となるが、32歳で退職し文筆活動に専念。
 昭和63(1988)年、「零の力 J.L.ボルヘスをめぐる断章」で第31回群像新人文学賞を受賞。
 平成3(1991)年、駿台予備学校英語科講師に就く。
 同年、「群像」に「猫又拾遺」を著し、小説家として本格デビュー。
 平成6(1994)年、「おどるでく」で第111回芥川龍之介賞を受賞。
 平成7(1995)年、東京工業大学の講師となる。
 平成10(1998)年、立教大学の講師となる。
 平成13(2001)年、慶應義塾大学や早稲田大学の講師となる。
 平成18(2006)年、東海大学文学部文芸創作学科の助教授に就任し、神奈川県大磯町西小磯に移り住む。
 平成19(2007)年、東海大学の准教授に就任。
 平成23(2011)年の東日本大震災を契機に商業的な文筆をやめ、翌年に東海大学からも退職、「文学塾てんでんこ」を立上げて主宰に就く。
 ※「てんでんこ」とは、方言で「避難する際は各自がてんでバラバラ”に逃げろ」。
 令和元(2019)年、敗血症性ショックで死去。 64歳。
 著書「そして考」「おどるでく」「そして考」「あとは野となれ」、評論「キルケゴールとアンデルセン」など。

武藤志津夫 室井平蔵        

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