戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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会  津  坂  下  町

戊辰の役・殉難 「ネットで墓参/中野竹子」 は、こちら。

「中野竹子の墓 (法界寺)」 は、こちら。

「中野竹子殉節の碑」 は、こちら。

江川銀平 . (貴徳寺)

 慶応4(1868)年8月23日、滝沢峠で戦死。
 昭和43(1968)年8月、明治百年祭に曾孫が建立した。
 「義心院孝譽励忠賢全清居士」

 ▲(会津坂下町字茶屋町甲3873 Tel. 0242-83-2656)
   ・貴徳寺については、こちら。

松坂平左衛門 . (気多宮墓地)

 国道49号沿いの気多宮墓地の奥の方にある小さな墓。
 松坂三内の父。 父/三内の敵討ちをした鯛二の祖父。
 玄武士中一番隊/伊与田隊。
 慶応4(1868)年9月5日、気多宮で戦死。 66歳。
 再訪したが、前と違う場所に整理された新墓石になっており、元の墓石が見当たらない。

 ▲(会津坂下町塔寺 塔寺駅信号手前)

道標の弾痕 気多宮に立つ道標


≪弾痕の残る気多宮の道標 (追分石)≫
 旧/越後街道沼田街道の分岐点に建つ道標。
 「是より右 越後路」 「是より左 柳津路」 と刻まれている。  尖頭角石柱、高さ2mほど。
 戊辰の役での弾痕が確認できる。

<「塔寺・気多宮宿」と併記>  .

町野家・南摩家 家族殉難の地 (勝方寺)

法要の看板

 墓域の奥を10メートルほど上った林の中にある。
 平成5(1993)年9月7日に碑を建立とある。
 平成20(2008)年9月7日、町野家・南摩家合同の初の慰霊法要が営まれた。

 隣りの「三関忠衛門」墓は詳細不詳とのこと。
(南摩家)
 幼子2人を抱えては迷惑になると考えた南摩勝子は、城に入らず城西の方面へ逃れた。
 しかし、村人らは後難を恐れ、誰一人として泊めてくれる家は無かった。
(町野家)
 城下は大混乱し、町野おきとは鶴ヶ城に入れなかった。
 止む無く幼子2人を抱えて、戦火のない城西の方面へ逃れた。
 しかし、村人らは後難を恐れ、誰一人として泊めてくれる家は無かった。

 放浪している途中、妹の南摩勝子と姉の町野おきと が偶然にも遭遇する。
 一緒に逃げ延び、しばらく彷徨っていたが、やっと勝方寺に宿を得た。
 しかし、慶応4(1868)年9月7日、勝方寺の裏山で一家全員が惨殺された。 合掌。
  ・南摩勝子 42歳  (弥三右衛門の母)
  ・南摩壽8歳 (同/弟)
  ・南摩辛4歳 (同/弟)
  ・町野おきと47歳 (主水の母)
  ・町野おやよ24歳 (同/妻)
  ・町野おなお7歳 (同/娘)
  ・町野源太郎3歳 (同/伜)
  ・町野ふさ子31歳 (同/姉)

 町野家の墓は融通寺に、南摩家の墓は天寧寺に、それぞれある。
 [逸話]

 ▲(会津坂下町大字勝大字沢口1336 Tel. 0242-82-3204)
   ・勝方寺については、こちら。

佐瀬嘉左衛門 . (徳正寺)

佐瀬嘉左衛門の墓

 玄武寄合一番隊 (寄合組)。
 慶応4(1868)年9月5日、福原で戦死。
 (8月下旬に自宅で自刃とも)。
 56歳。
 “嘉左衛門”は通字。
徳正寺

 浄土宗。   .

 ▲(会津坂下町大字福原字福川原951)

束原墓地

山村多膳の墓

山村多膳 .

 富左衛門の伜。
 青龍士中一番隊/有賀隊付。
 戊辰(1868)年9月14日、諏方神社で負傷、29日に御山で死去。
 (8月29日七日町で負傷し、青木で死去とも)。
 43歳。
 壹百年祭に建立の碑文
  「旧會津藩士御家人勘定所定番格

城取やいの墓

城取やい

 無類の強さを誇った朱雀寄合三番隊の隊長/城取新九郎の妹。
 戊辰(1868)年9月13日、城内で戦死(被弾)。
 (14日に死去とも)。
 43歳。
 墓誌には、記載されていない。

 ▲(会津坂下町大字束原)

山田清太郎 . (青津墓地)

 清助の伜。
 朱雀士中四番隊/佐川隊。
 慶応4(1868)年5月24日、越後/杉沢で戦死。
 18歳。
 「貫○院勇譽義居士」
 忠死尊霊塔

 ▲(会津坂下町大字青津字本丁)


市川権次 . (新村墓地)

市川権次の墓  詳細不詳。
  「水心本無信士
   権次 二十三
   戊辰戦死

 墓は、昭和8(1933)年建立。


 ▲(会津坂下町大字開津)


石田和助 . (真福寺墓地)

石田和助(真福寺墓地)

 医師/石田龍玄の次男。
 白虎士中二番隊/日向隊。
 慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自決
 16歳。
 遺品を合祀したとのこと?
 墓は、飯盛山にある。


 ▲真福寺 (会津坂下町大字新開津字村内1)

真島儀右衛門 . (定林寺)

真島儀右衛門の墓

 雇夫。 所属隊や戦闘日など詳細不詳。
 負傷し治療をしていたが、明治元(1868)年12月12日に死去。
 51歳。 「歓喜院仁譽道義清居士」
 禮助、病死とも。

国岡親子の墓
国岡親子の墓  国岡政吉と武次郎。 軍雇。
 慶応4(1868)年8月23日、金堀で戦死。
 墓は別々に建てたと伝えられているが、整理され消滅した模様。
 

渋谷東馬については、こちら


 ▲(会津坂下町字舘ノ内甲2561 Tel. 0242-83-3626)
   ・定林寺については、こちら。

竹田(武田)惣吉 . (西光寺)

竹田(武田)惣吉の墓

 大関/白糸の名の宮力士。 足軽分。
 次男/武田惣角は、大東流合気柔術の創始者。
 力手組を統率して京都に従い、蛤御門の変や鳥羽・伏見で戦う。
 帰郷するや力士隊として石筵口に布陣、白河城の奪還作戦にも参戦。
 山川大蔵隊と合流し、奇策/彼岸獅子で堂々と入城を果たしている。
 開城後は、越後/高田に幽閉。
 明治5(1872)年、武田姓を名乗る。
 明治39(1906)年1月23日、死去。 87歳。
▲(会津坂下町大字御池田字寺ノ前152 Tel. 0242-82-2479)
   ・西光寺については、こちら。

束松事件現場

  明治2(1869)年7月12日、伴百悦は、高津仲三郎井深元治、武田源三(源蔵)たちと計らい、悪業を繰り返し住民たちを苦しめ会津藩を誹謗中傷していた民生局監察兼断獄の極悪人/久保村文四郎を、この地で天誅を下した。
 伴百悦の墓は、後に自刃した新潟県 (会津藩飛び領地) の慶雲庵と、善龍寺などにある。

 ▲(会津坂下町片門重門治 周辺)

佐々木父子 (光照寺)

≪佐々木佐左衛門≫
 左衛門とも。 悦太郎、新六郎の父。
 玄武寄合一番隊一柳隊。
 慶応4(1868)年8月15日、赤谷で戦死。
 59歳。  墓碑は赤谷にもある。

≪佐々木悦太郎≫
 佐左衛門の伜。
 慶応4(1868)年1月4日、京都/淀で戦死。 32歳。
 墓は、京都/悟真寺にもある。
≪佐々木新六郎≫
 佐左衛門の3男。
 白虎寄合一番隊/原隊。 16歳。
 慶応4(1868)年8月15日、赤谷で戦死。
 墓は飯盛山、墓碑は赤谷にもある。

 いずれも墓碑に記載はない。

長岡藩士の墓 (無縁塔)
 酒井金四郎小林国蔵岡村滝左衛門清水春弥寺田九郎右衛門本木京五郎小野与平次野口京左衛門・他に姓名不詳1名の墓碑もあったのだが、すでに無縁塔へ合祀とのこと (ご住職)。

 ▲(会津坂下町大字茶屋町甲3911 Tel. 0242-83-2770)
   ・光照寺については、こちら。

茂原岩之助 . (光明寺)

茂原岩之助の墓

 牛兵衛の叔父。
 玄武士中一番隊/伊与田隊。
 戊辰(1868)年9月17日、一ノ堰で戦死。 58歳。
 大正元(1912)年11月3日建立とある。

 ▲(会津坂下町字茶屋町甲3913 Tel. 0242-83-3527)
   ・光明寺については、こちら。



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