戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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小  出  島 (魚沼市/新潟県)

戦死者姓名碑、懐旧碑、輪形月歌碑

戦死者姓名碑、懐旧碑、輪形月歌碑

 戊辰の役の、激戦地でもある。
 陣屋通りの案内板の右手の路地を、10メートルほど入った右手の住宅地の中に、ひっそりと3つの碑が建っている。
 正面の大きなものが「懐旧碑」。
 篆額は藩主/松平容大公で、撰文は南摩網紀。
 「小出島陣屋の跡」については、こちら。

戦死者姓名碑  右の小さな墓碑には、小出島と三国峠で戦死した会津藩士14名が刻まれている。

 白虎隊初の戦死者/町野久吉の名もある。
 久吉の墓は、三国街道の永井宿近く融通寺にある。
 派遣された郡奉行/町野源之助 (後の主水) の弟である。

町野久吉≫ 白虎隊。閏4月26日、三国峠で戦死。16歳。
≪郡内半五郎(範五郎)≫ 名倉新兵衛の弟。遊撃井深隊。閏4月27日、小出島で戦死。46歳。
好川龍之助≫ 弥一右衛門の伜。第二遊撃隊/井深隊。閏四月24日、三国峠で戦死。21歳。
≪渡部源次郎≫ 源蔵の伜。第二遊撃隊/井深隊。閏四月27日、小出島で戦死
≪佐藤源左衛門≫ 割元。閏四月27日、小出島で戦死。55歳。
≪松尾延蔵≫ 延之助の父。第二遊撃隊/井深隊。閏四月27日、小出島で戦死。29歳。
≪澤田伝吉≫ 伝右衛門の伜。第二遊撃隊/井深隊。閏四月27日、小出島で戦死。29歳。
小沼雄八≫ 山内大学の家来。閏4月18日に小出島で負傷し宮下で死去。27歳。
望月武四郎≫ 新兵衛の3男。第二遊撃隊/井深隊。4月24日、小出島で負傷し自刃。22歳。
≪古川深次郎≫ 深蔵の伜。町野隊。閏4月26日、三国峠で戦死。24歳。
小桧山包四郎≫ 鉄蔵の伜。町野隊付。閏4月23日に三国峠で負傷し小千谷で死去。26歳。
≪湯浅六弥≫ 牧五郎の弟。第二遊撃隊/井深隊。閏4月24日、三国峠で戦死。21歳。
≪須佐留四郎≫ 山内大学の家来。 閏4月27日、小出島で戦死。42歳。
樋口常作≫ 閏4月27日に小出島で負傷、5月1日に青島で自刃。20歳。


望月武四郎の辞世の句  左端の歌碑は、望月武四郎の辞世の句「輪形月歌碑」である。
 昭和63(1988)年「戊辰120周年記念行事」の時に建立。

輪形月歌碑の説明文
 藩士/望月武四郎は、負傷していた。
 傷の療養のため、地元領民にかくまわれていた。
 長賊らの惨忍な残党狩りが始まった。
 隠れていては領民に累が及ぶと判断、民家を出て自刃した。
    筒音(つつおと)に 鳴く() (やす)めし ほととぎす 会津に告げよ 武士(もののふ)の死を
    〔津々於登耳 鳴久ね や春免し 本と々幾須 会津尓 告希よ 毛能々ふの死を〕

 多くの負傷した藩士も、迷惑を避けようと自刃し散っていった。
 深手を負って自刃すらできなかった藩士は、見つかり次第、惨殺された。

 ▲(魚沼市諏訪町1 陣屋通り)

大龍和尚碑 (正円寺)

正円寺の大龍和尚碑

 正円寺入口の右手大龍和尚の碑がある。
正円寺
 会津藩兵の遺骸10体を、小出島立之内の共同火葬場の一角に、戒名を付け埋葬した和尚である。

 ▲(魚沼市小出島952 Tel. 025-792-0529)

戊辰戦死者墓 (大塚墓地)

戊辰戦死者墓 戊辰戦死者墓

 旧/小出郷図書館 (平成22年取壊し) 裏手の墓域内で、向かって右側の奥にある。

 昭和4(1929)年、小出島の有志により戊辰戦死者墓が建立。
 その際に「会津藩10名の墓」と「会津藩1名の墓」が、移された。

戒名を刻んだ墓

会津藩士10名の墓

 大龍和尚からの戒名が刻まれているが、姓名は不詳。
鉄慶義肝信士  智格義方信士  円心義誠信士  清庵義純信士  本量義等信士  諦然義徹信士  大道義玄信士  高岳義秀信士  源心義光信士  法猷義道信士

戒名を刻んだ墓

鉄應義謄居士 (樋口常作)

 作左衛門の伜。
 第二遊撃隊/井深隊。
 20歳。
 慶応4(1868)年閏4月27日、小出島で負傷し、5月1日に青島で自刃。
  「青島で自刃し、林昌寺より戒名を受けて建てられた墓

 ▲(魚沼市大塚新田116辺り)

会津藩烈士之碑 (諏訪神社)

四日町の諏訪神社

 樹齢300年以上の大欅などの樹林群を有する神社。
 慶應4(1868)年、郡奉行として着任した町野源之助 (後の主水) は、この神社で武運長久の祈願をした。
 ここも激戦の地となり、10数人が戦死している。
 本殿内の丸柱には、大きな弾痕が残っている。

会津藩烈士之碑  平成8(1996)年、小出町の町制施行百年記念して「会津藩烈士之碑」が、境内に建てられれた。
会津藩烈士之碑文




        建 立 の こ こ ろ
 作家の司馬遼太郎氏は幕末期の会津藩とその人々を「人間秩序を磨き上げた光沢の美しさ」と称賛していますが、会津藩と小出とは、一七〇〇年代、享保時代から一つの文化ルートとして密接につながっていました。
 戊辰の役の時も、小出の奉行は典型的な会津藩士で、薩・長・土軍の悲惨極まる小出における殺戮と放火に対し、身をもって抵抗しました。 このため多くの会津藩士が小出の地で非命に倒れたのです。
 あれから、星霜百二十余年の歳月は過ぎ去りましたが、小出に生まれ育った者として、今日の小出の街の繁栄を思う時、志を後世に問うと死をもって、小出の地を守り殉じた会津藩烈士の魂を慰めずにはおられません。
 戊辰戦争殉難者の皆様、どうか安らかにおねむりください。
  一九九六年六月二十二日           小出町町制一〇〇周年を記念して建立

<緑色の文は現地板から/画像クリックで拡大表示>  .

 ▲(魚沼市四日町527)

林昌寺

林昌寺

 戊辰の役には、会津藩の本陣が置かれた。
 慶応4(1868)閏4月27日、激しい戦いが始まった。
 飛び交う銃弾でイチョウの根元は葉で覆われ、境内には多くの肉塊や指などが散らばっていたという。
 焼失は免れたので、本堂内には無数の弾痕・刀傷が残っていたのだが、その後の火災で焼失した。

大銀杏の幹  「林昌寺の銀杏が銃弾を抱いている」 と口伝されてきた。

 樹勢の衰えが、著しくなった。
 台風などで倒れたら、危険な状態でもあった。
 平成20(2008)年、止む無く伐採。
 言い伝え通り、幹から銃弾が出てきた。
 [逸話]

 今では、切り倒された幹の脇から、若枝がすくすくと育っている。
 ▲(魚沼市四日町738 Tel. 025-792-1802)

旧/小出島墓地

 14名が埋葬されていた。
 昭和4(1929)年、区画整理のため大塚墓地に移された。
 正円寺/大龍和尚が葬った10名と樋口常作の墓碑はあるが、下記3名の墓は見当たらず不明。

≪多賀谷勝之進の墓≫
   朱雀士中四番隊/佐川隊小隊頭。 20歳。
   慶応4(1868)年6月24日、福井村で戦死 (6月15日とも)。

≪三宅九七郎の墓≫ 小左衛門の伜。
   朱雀士中四番隊/佐川隊。 18歳 (19歳とも)。
   慶応4(1868)年5月24日、杉沢村で戦死。

≪鈴木豊三郎の墓≫ 与之吉の伜。
   朱雀士中四番隊/佐川隊。 25歳。
   慶応4(1868)年6月23日、古志郡大黒村で戦死。

萬行寺

萬行寺 (まんぎょうじ)

 会津藩菩提寺。
 慶応4(1868)年2月、戊辰の役が勃発したため、町野源之助 (主水) は代官ではなく初の奉行として小出島陣屋に赴任。
 源之助の死後、偲んだ子息たち関係者によってイチョウ (銀杏) が植栽され、現存している。
 ▲(魚沼市中島1066 Tel. 025-792-1734)

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