会  津  の  著  名  人

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《 も 》 幕 末 よ り 前

 最上 義姫  もがみ よしひめ、
 天文17(1548)年〜元和9(1623)年7月17日 (享年76歳)
 通称:お東の方、最上御前。 出家:保春院。
 出羽国の戦国大名/最上義守の娘。
 伊達輝宗の正室として政宗公の母。
 永禄 7(1564)年、対立していた伊達輝宗に政略結婚として嫁ぐ。
 永禄10(1567)年、伊達政宗公を出産 (19歳)。
 〜〜〜
 天正17(1589)年、政宗公が摺上原の戦いで蘆名義広公に勝利し、居城を移した黒川城 (鶴ヶ城) に入る。
 天正18(1590)年、次男/小次郎を溺愛するあまり、豊臣秀吉の命により小田原征伐に出陣する政宗公の毒殺を謀り、毒入りの膳を自らが差し出す。 解毒剤で助かったとか、御膳番衆が気付き取り替えたとか諸説があり、兄/最上義光から指令ともいわれ、真偽のほどは不明。
 この事件により、政宗公が弟/小次郎を斬殺する。
 天正19(1591)年、秀吉の奥州仕置により、岩出山へ移る。
 文禄 2(1593)年、政宗公が朝鮮出兵で京都へ赴いている時、岩出山から出奔して山形の実家/最上家へ戻る。
 元和 8(1622)年、最上氏が改易となり、行き場を失う。
 元和 9(1623)年、再び政宗公を頼って居城/仙台城に入り剃髪するが、同年に死去。
 墓は、覚範寺
 望月 安光










 望月 安勝
 もちづき やすみつ、永禄6(1563)年〜承応3(1654)年11月29日
 通称:三清入道。  <武田家の遺臣、武術家、安光流の始祖>
 清和天皇の4皇子/貞元親王の子/滋野幸恒の3男/三郎重俊の子孫。
 父から太子流の兵法を会得し、聖徳太子流の軍法を極める。
 武田家滅亡後、出家 (入道) して諸国を放浪していたが、会津に至り博労町に居住しているところを加藤明成公から厚遇される。
 明成公が石見国へ移る際、従わず会津に残留する。
 保科正之公が入府すると、倅/安勝が召し抱えられる。
 「望月家三代墓 (安光・安勝・安次)」が、実相寺/本堂の左奥にあったのだが、行方が不詳。  [写真]
 もちづき やすかつ、
 寛永20(1643)年〜享保3(1718)年閏3月25日 (76歳)
 慶長16(1611)年〜貞享3(1686)年とも。
 通称:新六郎、新兵衛。
 三清入道安光の子。
 父/安光に教えを受け、奥義を極める。
 父の興した家伝の太子流兵法を更に進め、父の名に因んで流派名を安光流とする。
 「初心・仲位・老功・許・印可」の5段位。
 来半上剣・無上応剣の極意が特徴で、他流試合を一切禁じている。
 後に、物頭に就く。
 多くの門弟を育て、門下の中林尚堅は太子流を編み出している。
 会津に教えを求めてきた山崎闇斎にも軍法の印可を伝授し、仙台藩・尾張藩など広く伝わる。
 のちに、会津五流 (溝口派一刀流、真天流、神道精武流、聖徳太子流) の1つとの剣術流派となり、藩校/日新館でも採用される。

 以仁王については、こちら

 桃沢 惟一  ももさわ ただいち、生年不詳〜(1677)年
 幼名:三弥、熊之助。 通称:彦五郎、重良。
 藩士/戸枝市郎左衛門の末子。
 小禄なのに兄弟が多く生活が苦しく、出稼ぎに出たいと思っていたが、母は年少との理由で許可されなかった。
 目付/戸枝平兵衛の江戸赴任の見送りをした際、連れて行ってくれるように強硬に願い出て、ようやく上京できた。
 この話を聞いた保科正之公に見い出されて小姓となり、元服の時に彦五郎 (後に重良) と改名し小番頭に就く。
(higasi-西端中)  正之公の近くに仕え、友松氏興が記していた正之公の記録を引き継ぐ。
 寛文12(1672)年、正之公の遺命で副奉行就任。
 後に、桃沢惟一と改名。
 吉川惟足と協力して見弥山神廟(土津神社)の神楽歌を詠作する。
 死の直前の遺言により、葬儀は儒葬式にて友人/横田俊益たちが執り行った。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり) .
 「桃澤彦五郎惟一墓
 森川家





 8代目/
  宗久
[肖像]
 もりかわけ、
 蒲生氏郷公に従って、近江から会津へ移住。
 蒲生秀行公が死去した際に、森川若狭守重則らが他2名が殉死し、重則の弟/昌茂は町人となり薬種商に転身し、初代/森川善兵衛となる。
 藩御用の薬種商として、森川家は大いに栄える。

 もりかわ ぜんべえ、文化2(1805)年〜明治19(1886)年8月21日(81歳)
 初名:亀蔵。 名:昌茂。 通称:善兵衛。 号:指月庵宗久。
 7代/昌儀の子。
 戊辰の役で開城後に、鶴ヶ城は取り壊しとなる。
 明治5(1872)年、千利休の子/少庵ゆかりの茶室/麟閣が失われるのを惜しみ買い取り (冥加金10円)、甲賀町の自宅に自宅へ移築した。
 茶室は朽ち果てており、松の床柱以外は原型を忠実に復元し、指月庵と名付けた。
 「指月院満譽湛然宗久居士」 .
 平成2(2000)年、会津若松市の市政90年を記念して、鶴ヶ城内の元の場所に再び移築され、公開されている。
 墓は、本覚寺。  [史料]
 森 雪翁
[肖像] 
 もり せつおう、
 寛永19(1642)年11月28日〜宝永8(1711)年2月5日 (70歳)
 名:守次。 通称:與兵衛、與一郎。
 米穀・酒造業の父/政次の長男として鶴ヶ城下で誕生。
 陸象山と王陽明の学派/陸王学 (儒学) を修める。
 道教や仏教の他に、民間に伝わる歴史にも長じていた。
 20歳の頃、稽古堂の堂主/如黙に請われ「小学」の講義を担う。
 31歳で町名主役に就き、51歳まで勤める。
 宝永7(1710)年、忠孝の伝書「会津孝子伝」を著す。 [史料]
  ※ 刊行 (全5巻) されたのは、死後の寛保2(1742)年
 為政者側から見た理想的な忠孝者としての農民・商人・職人が述べられており、当時の庶民の暮らしや生き方を伝えている。
 他の著書「小平瀉」「会津続孝子伝 (子/守命が編集)」など。
 親子の墓は、極楽寺に向き合ってあったが廃基。
 「釋雪翁」 [雪翁墓]
 「森與兵衛守命」(嫡男/守命) [守命墓]

《 も 》 江  戸  幕  末

 望月 武四郎  もちづき たけしろう、弘化4(1847)年〜慶応4(1868)年4月24日(22歳)
 藩士/望月新兵衛の3男。
 遊撃隊士として小出島に布陣し、700人の来襲を藩士200人で迎撃するも負傷してしまう。
 四日町の民家/覚張常五郎宅に匿われ手当てを受けるが、 による残忍な残党狩りが始まったことを聞き及び、冤罪がでることを恐れ、民家を出て辞世の句を残し自刃した。
   筒音(つつおと)に 鳴く() (やす)めし ほととぎす
          会津に告げよ 武士(もののふ)の死を

   〔津々於登耳 鳴久ね や春免し 本と々幾須
          会津尓 告希よ 毛能々ふの 死を  輪形月〕
 「輪形月」とは満月のことで、「望月」を指す。
 多くの負傷した藩士も、迷惑を避けようと自刃し散っていった。
 深手を負って自刃すらできない藩士は、見つかり次第、惨殺された。
 墓は大塚墓地の墓碑とされる。
 昭和63(1988)年6月12日、小出島陣屋に戊辰百二十年記念事業として辞世碑「輪形月歌碑」が建立。
 この時に初めて武四郎の辞世の句と知った参列者も多く、皆々 慟哭したという。

《殉難者》 元木喜代之助 元木吉之助 茂原岩之助 籾山充盛
百瀬外次郎 桃澤[某] 森山八郎末廣 両角大蔵

《 も 》 幕 末 よ り 後

 森 俊六郎  もり しゅんろくろう、
 明治10(1877)年3月6日〜昭和32(1957)年3月19日 (満80歳)
 森惣左衛門の5男として若松町 (会津若松市) にて誕生。
 <大蔵官僚、銀行家>
 会津中学校 (1回生、県立会津高等学校) から、二高第一部法科を首席で卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に進む。
 明治35(1902)年、東京帝国大学を卒業し、大蔵省に入省。
 同年、文官高等試験に合格。
 明治36(1903)年、主計局司計課長に就任し参事官を兼任。
 明治39(1906)年、大蔵大臣/阪谷芳郎の秘書官に就く。
 欧米出張で見聞を広め、大臣官房文書課長、専売局主事、専売局長官官房、銀行課長、銀行局長、理財局長などを歴任。
 大正 9(1920)年、大蔵省理財局長を辞職し、台湾銀行副頭取に就任。
 大正11(1922)年も満鉄理事に就任。
 その後、破綻した十五銀行の常務に就任し再建に尽くす。
 帝国倉庫運輸 (テイソウ) 会長、園池製作所 (アマダホールディングス) 会長、蓬莱殖産 (ホウライ) 常務なども務める。
 著書「独逸帝国及普魯士王国ノ財政/全3巻」など。
 両角 三郎  もろずみ さぶろう、
 慶応3(1867)年11月2日〜昭和26(1951)年6月28日 (満83歳)
 <陸軍中将>
 祐筆の藩士/両角衛門の子。
 陸軍教導団を経て、陸軍士官学校を卒業 (1期)。
 明治27(1894)年、日清戦争に出征。
 明治37(1904)年、日露戦争に出征。
 歩兵第六十連隊長、近衛歩兵第四連隊長を歴任。
 大正5(1916)年、少将へ昇進
 台湾第二守備隊司令官、歩兵第18旅団長を歴任。
 大正10(1921)年、中将へ昇進し、後に予備役編入。
 日本徴兵保険顧問、在郷軍人会審議委員などを務める。
 諸積 兼司  もろづみ けんじ、(1969)年5月29日〜
 愛称:モロさん、モロ。
 会津若松市にて誕生。  <元プロ野球選手/外野手>
 学校法人石川高校に入学し野球部に入る。
 法政大学を卒業後、日立製作所に入社。
 平成5(1993)年、ドラフト5位で千葉ロッテマリーンズに入団。
 平成6(1994)年4月13日、初出場し、1回表に初安打。
 平成7(1995)年、2年目にしてボビー・バレンタイン監督に見いだされ1番センターに定着する。
 同年5月24日、西武ライオンズ戦の3回裏に初盗塁。
 同年5月30日、近鉄バファローズの7回裏に初打点。
 同年7月 7日、福岡ダイエーの3回裏に初本塁打(逆転決勝2ラン)。
 この年、打率ベストテンの6位 (.290)、24盗塁を記録。
 平成11(1999)年、2度目の規定打席を果たし、打率.280を記録。
 平成14(2002)年5月25日〜7月17日、連続試合安打 24を達成。
 平成16(2004)年9月14日、1,000試合出場を達成 (史上399人目)。
 平成18(2006)年9月24日、日本ハムファイターズ戦にて引退。
 そして、好かれるキャラクターから、守備に就く際にスタンドから沸き起こる「モロ」コールが聞けなくなった。
 なお、千葉ロッテに入団時の背番号は「00」、平成8(1997)年から「0」に変更するも、“0”は引退時まで変えなかった。
 同年、千葉ロッテマリーンズのコーチに就任。
 平成23(2011)年、同チームのフロント入り。
 平成29(2017)年、8年振りに二軍外野守備走塁コーチで現場復帰。

森雅守          

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