戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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大  戸  町  周  辺


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内藤一族、上田一族、家臣の墓 (泰雲寺)

内藤一族の墓群の入口

 本堂脇の坂道を進み、車の行止りの左側。
 石段を上った墓域にある。
 こじんまりした墓石が並ぶ。
内藤一族の墓誌
 戊辰(1868)年9月17日、が侵入したとの知らせを聞き、家老/内藤一族と、上田一族、内藤家の家臣が、菩提寺である泰雲寺で自刃した。
 信節の墓は、五戸町/高雲寺にある。

内藤家之墓

内藤家之墓 .

 内藤介右衛門信節の一族 9名
  ・父/可隠(信順) 67歳      
 ・母/モト58歳 
 ・妻/フサ(ツヤ)23歳 
 ・長男/英馬3歳 ・娘/ヒデ6歳 
 ・妹/トク19歳 ・妹/ツグ17歳
 ・姪/ジュウ23歳 ・伯母/セイ 

 内藤介右衛門信順、38歳で家老を辞し隠居して可隠と号す。
 辞世の句 「世の中は 時雨となりて きのふ今日 ふみとどむべき 言の葉もなし

上田家之墓

上田家之墓 .

 戊辰(1868)年9月17日、泰雲寺で自刃。
 上田八郎右衛門の一族 5名
  ・父/伊閑 61歳  
 ・母/ナオ58歳 
 ・娘/チヱ9歳 
 ・叔母/ミネ56歳 
 ・妹/ジュン30歳 

内藤家家臣之墓

内藤家家臣之墓 .

 内藤家家臣 4名
 
  ・古川十兵衛  47歳  
 ・石野八四郎31歳 
 ・安部重次郎30歳
 
 ・元木喜代之助35歳 

元木吉之助の墓

元木吉之助 .

 元木喜代之助か。
 内藤介右衛門の家来。
 戊辰(1868)年9月17日、泰雲寺で自刃。
 35歳。

武川信臣 (内藤三彦) 之墓

武川信臣 (内藤三彦) .

 内藤信順の3男、長男が介右衛門、次男が梶原平馬である。
 会津藩が江戸を引き払うも残留し、彰義隊に入る。
 上野戦争が終結した後に、密告で捕えられる。
 主席家老/梶原平馬の実弟との疑いから過酷な拷問を受けたが最後まで口を割らず、小塚原処刑場で処刑された。 享年24歳。
 拷問で足の骨は砕け、立つこともできなかったという。
  「拷問で足の骨は砕け薩長の暴横を論ずること甚だ痛烈なり
 会津では終戦している後の10月9日、見せしめの処刑であった。
 獄中の句 「君と親の 重きめぐみに くらぶれば 千引の石の 責はものかは
 辞世の句 「暫し世に 亦き心を 見すれども 散るにはもろき 風のもみじ葉

原早太之墓

原早太 (隼太とも) .
 さらに奥の1段上の歴代住職墓域にある。
 天保3(1832)年、藩士/原市之助利昭の嫡男として田誕生。
 慶応4(1868)年7月15日、白虎寄合一番隊/中隊頭として越後口へ出陣、赤谷口から新谷、津川口と連戦。
 8月29日に舟渡、9月11日に熊倉で激戦を続け、南に転じて塩川で諸隊と合流し一ノ堰へ急行する。
 9月15日、一ノ堰の激戦で被弾し右腕を砕かれるも、左手で刀を拾い隊士を励ましながら指揮をとり続けるが、腰部に2弾目が貫く。
 面川に収容されるが、翌16日に出血多量で死去。 37歳。
 新しい供養塔には「白虎寄合二番隊長」とある。 原早太・大竹主計の墓 原早太・大竹主計の墓



大竹主計之墓

大竹主計(かずえ) .

 原早太の墓の隣りにある。
 父/新十郎と母/シヲの倅。
 禁門の変では、弐番隊組頭として奮戦。
 軍事奉行番頭対席。 遊撃隊頭 (純義隊総督)。
 慶応4(1868)年9月5日、面川 (御山口とも) で戦死。  46歳。
 墓碑には「大竹親豪之墓」、新しい供養塔には「純義隊主将」とある。
 長弟/梶之助は、越後/石間宝昌山で戦死。
 次弟/富記は、越後/新発田で戦死。
 三弟/秀蔵は、斗南藩の三戸へ移るや、いち早く飯盛山で自刃した白虎士中二番隊の墓を観福寺に建立


梶原平馬景雄之墓 梶原平馬景雄之墓

梶原平馬景雄 .

 内藤信節の弟。梶原家の養子となる。
 家老で、斗南藩に移り、廃藩置県で藩が消滅すると行方不明。 根室に移住し、生涯を終えたという。
 近年、根室に本墓が見つかった。
 「鳳樹院泰庵霊明居士」
 平成25(2013)年、新しい供養塔が建立。

永井富太郎之墓

永井富太郎 .

 梶原平馬の家来。
 梶原平馬に従事し、斗南藩に移住。
 その後は詳細不詳。

内藤得道之墓

内藤得道 .

 越後生まれ、12歳で材木町の渋川家の養子となるも、善龍寺で僧侶となる。
 第28世住職。
 会津藩の命を受け、僧籍のまま密偵となる。
 内藤一族の自刃を見届け、遺品や遺言を介右衛門のもとへ届けた。
 堂宇の焼け跡から、19人の遺骨を掘り出して埋葬した。
 後に、信節から分家としての内藤姓が与えられた。

 ▲(会津若松市門田町大字面川字舘堀64 Tel. 0242-28-0215)
   ・泰雲寺については、こちら。

鈴木重光、重季の墓 . (常金寺)

 戊辰の役での激戦地の一つで、翌年の春に鈴木平吉、玉木大太郎、 目黒六郎、森田辰之助、渡部源三郎や白骨化した確認できない多数 (主に結義隊) の戦死者が合葬されたが、墓碑を建てることすら許されず、今では存在すら不詳。
 鈴木重季と重光兄弟の自然石の墓は、土中に埋もれていたが、昭和52(1977)年に当時の住職が発見し、境内の現在地に移した。
 本堂と公民館建物の間、墓域の入口に並んで建っている。


鈴木重光之墓

鈴木重光

 通称/忠之助。 清吾の伜。
 年割。
 慶応4(1868)年8月23日、笹山で戦死。
 29歳。
 墓碑には「明治元年辰十二月六日」とある。
 墓石の刻印は、遺骸の名が判明し、極秘に埋葬した日とされる。

鈴木重季之墓

鈴木重季

 通称/五郎。 清吾の5男
 白虎寄合一番隊/原隊。
 戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で負傷し、10月8日に雨屋で死去。
 16歳。
 「戊辰十月戦死」と読める。
 飯盛山長命寺多磨霊園にも、墓がある。

 ▲(会津若松市大戸町上雨屋125)
   ・常金寺については、こちら。

戊辰年戦死十三人之墓 . (洞雲寺)

戊辰年戦死十三人之墓墓

 右手前の一番大きい墓が、会津藩士13人の墓。
 姓名など詳細不詳。
戦死墓



 ▲(大戸町上三寄大豆田100)
   ・洞雲寺については、こちら。


保福寺
 翌年の春、篠田儀三郎の父/篠田兵庫の遺骸が埋葬されたが、墓碑を建てることすら許されず、今では存在すら不詳。
 ▲(会津若松市大戸町上三寄香塩479)

正念寺
 翌年の春、大熊勝治、大関寅之助、栃木勝治などの遺骸が合葬されたが、墓碑を建てることすら許されず、今では存在すら不詳。
 ▲(会津若松市大戸町大字上三寄南原916)

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