会  津  の  著  名  人

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《 お 》 幕 末 よ り 前

 大河原 臣教  おおかわら おみのり、天明元(1781)年〜天保3(1832)年2月
 安永6(1777)年に誕生とも。
 通称:長伯、長八。 号:弦斎。
 養純武貴の子。 会津/藤樹学の祖/養白幸重からの5代目。
 幼くして学才に優れ、17歳の時には一晩に漢詩を100首詠み、世人を驚愕させた逸話を持つ。
 儒学と医学の学者であるが、郡奉行から用人にも就任している。
 文政11(1828)年9月18日、保科正之公の言行録「千歳之松 (せんねんのまつ)/全5冊」を著す。 昌平坂学問所旧蔵 (東京/ 国史研究会)。
 本書には、後に長賊らが意図的に隠ぺいした明暦の大火での江戸城天守閣再建をさせず民衆の援助を優先させたことや、「牛裂」「釜煎」などの酷刑を禁止させるなど名幕閣であった事実のみが記載されている。
 大河原 養伯
[肖像]
 おおかわら ようはく、寛永12(1635)年〜元禄12(1699)年6月(65歳)
 名:幸重。 号:養伯。  <真庵と共に会津/藤樹学の祖>
 9歳の時、父を失う。
<荒井真庵と併記> .
 墓は、大塚山墓地。 「心譽養伯道安居士」
 子孫は、代々医師として会津藩に仕えている。
 大河原臣教は、5代目の孫。
 大塩
  平左衛門
 おおしお へいざえもん、生年不詳〜貞享3(1686)年2月17日
 五十嵐平左衛門吉実。 耶麻郡大塩村の代官の子。
 明暦3(1657)年、雄国山麓の新田開発を願い出る。
 万治3(1660)年、予想を超える丸3年もの難工事であったが、小沼峠の山腹180間 (約226m) を掘り抜き雄国沼から水を引くことに成功し、約7千ヘクタールの新田を開拓した。
大塩平左衛門の墓  この大工事の費用は、家屋敷のすべてを売り払ってのことだった。
 寛文5(1665)年、藩への返済金を着服した役人を訴え勝訴するが、喧嘩両成敗により代官職と知行が召し上げられ平百姓に降格 (雄国新田事件)、郷里の大塩村で隠居する。
 貞享3(1686)、聴許がなく、不遇のまま大塩にて死去する。
 墓は、長泉寺
 「省巌道悟信士」

 元禄8(1695)年、雄国新田村の農民らは恩を忘れず、供養碑を建立、平左衛門の御霊を貴船神社に合祀して徳を崇敬した。
大塩平左衛門の供養碑  ▲貴船神社 (喜多方市雄国道南乙165-イ)
 ▲供養碑  (喜多方市雄国獅子沢)

貴船神社
 大須賀 清光  おおすか せいこう (きよみつ)、
 文化6(1809)年4月〜明治8(1875)年6月17日
 通称:喜知松。 号:蘭斎、後に皎斎。
 商家に生まれるが、絵師を目指し商いを捨て、四条派/佐藤香斎、狩野派/島貫盤月に師事する。
 嘉永5(1852)年、「鶴城風雅集」を撰述。
 故郷/会津を題材に郷土愛あふれる多数の作品を残す。
 後年、遠藤香村に師事し、歴史や地理画へと移行する。
 幕末の鳥瞰図「若松城下絵図屏風」「岩代国会津明細図」「東山温泉絵図」「蛤御門合戦図」「大野ヶ原追鳥狩図」など作品としてだけでなく、歴史資料としても貴重。
 書画だけでなく、漢学を山内穆斎、和歌を相川功垂に師事している。

 先祖は蒲生家に仕え、蒲生家が去っても商人となり会津に残留した。
 [群鶴]  [若松城下左] [若松城下右] [長尾家屋敷] [賤ヶ岳戦陣] [岩代国会津地理]
 大庭
  三左衛門
 おおば さんざえもん、生年不詳〜天正12(1584)年10月6日
 須賀川/諏訪大明神の神官の子と云われる。
 二本松義継に仕える。
 「一日で三度の武功を上げた」ことから三左衛門と名付けられた。
 蘆名盛隆公の目にとまり、譲り受けて自らの家来とし、刀番の役に抜擢されたが、徐々に疎んじられ、家中でも孤立していく。
 天正12(1584)年、黒川城 (鶴ヶ城) 内で縁側に座って鷹に餌やりしていた主君/盛隆公を背後から斬り付け殺害する。
 逃走を図るが、登城してきた家臣/種橋大蔵によって討ち取られた。
 領主/盛隆公の早すぎる突然の死が、蘆名氏滅亡を早めた。
 岡 左内  おか さない、生年不詳〜没年不詳
 源八、岡越後守、岡定俊、岡野左内、岡野定政、岡野定俊とも。
 若州太良庄城主/岡和泉守盛俊の子。
 元亀4(1573)年、織田信長の若狭制圧で若狭を離れ蒲生氏に仕官。
 天正18(1590)年、蒲生氏郷公の加増移封に従い、会津入りする。
 慶長3(1598)年、蒲生秀行公の減移封には従わず、上杉景勝公の家臣/直江兼続の家来となる。
 慶長6(1601)年、松川の戦いでは伊達政宗公を完全に打ち負かす戦功をあげている。 景勝公が米沢藩に減移封されると、再び会津藩に復帰した蒲生秀行公に帰参し、猪苗代城/城代となる。
 稀な蓄財家であり、部屋中に小判を敷き詰め、その上で裸になって昼寝するのが無上の楽しみであったという。
 単なる守銭奴だったのではなく、関ヶ原の戦いに備えて戦費の調達に苦労する主君/上杉景勝公に多額の財貨を献上し、借金を願い出る同僚の家臣たちにも惜しむことなく金を貸し与えた。
 米沢藩へ減移封の際には、催促するでも無く借金の証文を焼却して見送った。 直江兼続が「惜しい人物を失った」と嘆いたという。
 蒲生家へ帰参し猪苗代城/城代の時も蓄財したが、自費で教会や神学校を建て宣教師を招くなどキリスト教の布教に費やし、大半の領民を改宗させたと云われる。
 岡 重政  おか しげまさ、天正5(1577)年〜慶長18(1613)年12月8日 (36歳)
 通称:半兵衛、片岡半七、政。
 元亀4(1573)年、兄/岡左内と共に蒲生氏郷公に仕官。
 天正18(1590)年、氏郷公の加増移封に従い会津入りし、小姓となる。
 慶長3(1598)年、蒲生秀行公の減移封には従わず、上杉景勝公の家臣/直江兼続の家来となる。
 慶長6(1601)年、景勝公が米沢藩に減移封されると、再び会津藩に復帰した蒲生秀行公に帰参し、津川城主となる。
 大火による津川を再建させるなどの行政手腕が認められ、家老に準ずる仕置奉行に抜擢される。
 慶長16(1611)年、大地震が発生し甚大な被害を被り、翌年に秀行公が急死すると、蒲生忠郷公の藩政をめぐって激しく対立、重政派が有利に傾くと勝気な生母/振姫 (コ川家康の3女) は父/家康に訴える。
岡重政の墓とされる五輪塔  慶長18(1613)年、重政は家康から駿府に呼び出され切腹となった。
 なお、地震で倒壊した鳥追観音を再建したのは重政である。
 一昔前までは、岡の装束屋敷があった融通寺町の西の通りを半兵衛町と呼んでいた。
 墓は極楽寺五輪塔とされる。 [位牌]
  「寶相院殿江寒石照大禅定門
      慶長十八年丑十二月八日



 重政には、死に追い込んだ振姫と同名の孫/振姫「通称:お振の方 (自証院)」がいた。
 「お振の方」は将軍/徳川家光の側室となり長女/千代姫を産む。
 千代姫は尾張藩主/徳川光友に輿入れ (正室) し、次男/徳川義行が分家「高須松平家」を興し祖となる。
 その子孫/松平容保が幕末に会津藩へ養子に入ると藩は消滅した。

 その一方では、尾張藩主を継いだ嫡男/徳川綱誠の子孫が、今上天皇へとつながる。
 ◇ 岡重政 = 石田三成の次女
  岡吉右衛門 = おたあ (町野幸和の娘)
  お振の方 (自証院)=将軍/徳川家光
  千代姫 (霊仙院) = 徳川光友 (尾張藩/2代藩主)
  徳川綱誠 (尾張藩/3代藩主) = 本寿院
  徳川吉通 (尾張藩/4代藩主) = さん (随縁院)
  千姫 (信受院) = 九条幸教 (公卿)
  二条宗基 (公卿) = 不詳
  二条治孝 (公卿) = 樋口信子 (樋口基康の娘)
  九条尚忠 (公家) = 唐橋姪子 (松梅院禅泰の娘)
  九条道孝 (公爵) = 野間幾子 (松梅院禅泰の娘)
  貞明皇后 (九条節子) = 大正天皇
  昭和天皇 = 香淳皇后 (良子、久邇宮邦彦王の娘)
  今上天皇 (明仁) = 正田美智子
  秋篠宮文仁親王
    = 親王妃紀子 (川嶋紀子 ⇔ 藩士/池上四郎直系子孫)
  悠仁親王
 縁とは、不可思議なものである。
 小笠原 長時  おがさわら ながとき、
 永正11(1514)年10月23日〜天正11(1583)年2月25日 (70歳)
 幼名:豊松丸。 通称:又二郎、右馬助、湖雲斎。
 小笠原長棟と母/浦野弾正忠の娘の長男。
 天文10(1541)年、家督を継ぐ。
 弓馬礼/三法の名家として歴代 信濃/林城主だったが、武田晴信 (信玄) に敗れ、長尾景虎 (上杉謙信) の越後へ落ち延びる。
 その後、親戚の三好長慶を頼り上洛して将軍/足利義輝の弓馬指南役を務めていたが三好長慶が病死し、将軍/義輝も暗殺され、織田信長が上洛して三好氏の勢力が失われる。
 止む無く再び上杉謙信を頼って越後に移る。 謙信が病死すると跡目争い「御館の乱」が起こり越後を彷徨う。
 蘆名盛氏公に客分として迎えられるが、蘆名四天王の1人/富田氏実邸の酒席で、家臣/坂西勝三郎の妻に手を出し妻子共々斬り殺される。
 前年の天正10(1582)年、宿敵/武田氏が織田信長に滅ぼされ、3男/小笠原貞慶に与えられた旧領に戻る直前の出来事であった。
 廃寺になっていた慶山寺の「西の榎樹の下」に埋葬されたという。
小笠原長時の墓  「長時院殿麒翁正麟大居士」
 大龍寺にある現在の墓は、天保2(1831)年に豊前小倉藩 (豊津藩)/藩主になっていた宗家の家老が建てたもの。
小笠原長時の墓
 小笠原 長政  おがさわら ながまさ、延享4(1747)年〜文化9(1812)年12月27日
 下総の医師/有益長秀の子。
 祖父は、豊前/小倉で小笠原候に仕えていた。
 享保年間(1716〜1736)に下総に移り住む。
 城之助と称し、晩年に出家して松斎。
 祖父と父は医者であり、15歳で医師/村田長蒼に師事したが、医業を好まず若くして武芸を好んだ。
 武術の才能があり、香取神道流/飯篠直可、無極流/金丸政秀などに師事し、手裏剣を含む多くの流派を究め、神道精武流を興す。
 享和2(1802)、幕府が由縁のない武術の指南を禁止したため、門戸を閉じ北越へ向かう。
 寛政6(1794)年、江戸から会津に入り教えていたところ、会津藩に召し抱えられる。
 寛政8(1796)年、日新館で剣術師範となる。
 禅や生花などにも造詣が深かったという。
 於静
 (於志津)
[肖像]
[系図]
 おしづ、天正12(1548)年〜寛永12(1635)年9月17日 (52歳)
 北条氏直の家臣/神尾伊予栄加の4女として小田原にて誕生。
 母は、杉田氏。
 天正18(1590)年、秀吉の小田原攻めで氏直が敗れ父が浪人したため、一家は江戸に出て、於静は将軍/秀忠の御乳母/大姥局の侍女となる。
 慶長14(1609)年晩秋、秀忠の寵愛を受け懐妊したが、正室/於江與の異常に嫉妬深いことを恐れ、兄/神尾嘉右衛門宅で最初の子を堕胎。
 慶長16(1611)年、秀忠は於静を忘れられず再度の懐妊となる。
 兄/神尾嘉右衛門宅に下がり、嫉妬深い於江與を恐れ、再び堕胎しようとするが、弟の神尾才兵衛政景が大反対した。
正しく天下将軍様の御子を再度まで水と成し奉り候儀天罰恐ろし義
 皆が賛同し、一族に累が及んでも、出産させる事に決した。
 その日の夜、姉婿/竹村助兵衛次俊 (神田白銀丁) 宅に身を寄せた。
 その後、武田信玄の娘/見性院信松尼の姉妹に庇護される。
 武蔵野国/氷川神社に、安産の願文を奉納している。
 同年5月7日、徳川秀忠の4男/幸松丸 (後の保科正之公) を出産。
 元和3(1617)年、保科正光の養子になるった正之公と高遠城に移る。
 寛永9(1632)年、秀忠が死去したため落髪して、浄光院と称する。
 高遠で死去、その後は、正之公の山形藩、会津藩への加増移封に伴い墓と菩提寺/浄光寺も移る。
 「淨光院殿法紹日慧大姉」
 慶安3(1650)年、身延山久遠寺の篤信廟に遺骨が納められる。
 位牌は、今も浄光寺に安置。

 なお、時は流れて幕末、孝明天皇からの御宸翰・御製が明治末期に明るみに出て長賊らの歴史捏造の疑惑が知れわたるや、大正6(1917)年に「柳営婦女傳系」で「大将軍秀忠公の御末男・保科肥後守正之の御母堂は、武州板橋郷竹村の大工の娘にして素賤女なり」などと、会津松平家の藩祖について、卑劣な長賊らは呆れる誹謗中傷をしている。
 大奥勤めには、それなりの教養が必要であり「素賤女」が採用されるはずもなく、ましてや大奥で将軍に近づけることなどありえない。
 篤信廟の墓碑にも「生于相州小田原城下」と刻まれている。 [系図]
<「極悪非道の長賊に関する参考資料」と併記>  .

神尾家
 永禄2(1559)年の「小田原衆所領役帳」には、下記3名の名が記載されており、いずれかが祖父か曾祖父と推察される。
  ◇ 神尾越中守   御馬廻衆/御旗本四十八番将の一
  ◇ 神尾善四郎   松山衆知行役
  ◇ 神尾新左衛門  半役被仰付衆/御馬廻衆一手持
 会津/神尾家の祖は、甥の神尾六左衛門友清。
 母/於静の兄/嘉右衛門政秀の3男で、正之公が高遠藩主/保科正光の養子として江戸を出立する時から山形藩・会津藩へと生涯 従った。
 淨光寺に、神尾家の墓域がある。

 小野小町については、こちら

 小原家
 おばらけ、小原五郎右衛門家。
 武田家家臣の高祖父/丹後守俊記が、信州伊那郡/小原村を拝領し、移った際に「小原」を名乗る。
 次男/小原美濃守俊胤が武田家家臣/保科氏に仕え、当主/保科正俊の次女を娶る。
 俊胤の曾孫/光俊が保科正之公に仕え、会津小原家の祖となる。
 その孫が、俊玄。
《初代・小原五郎左衛門光俊》
 文禄2(1593)年〜明暦2(1656)年2月8日 (64歳)。
 初名 : 内記。 名 : 光俊。 通し名 : 五郎右衛門。
 小原右近俊玄と母/大熊氏との倅。
 家督を継く際、保科正光から「光」を拝領し「光俊」を名乗る。
 寛永13(1636)年、保科正之公の出羽国/山形藩への移封に従い、家老職となる。
 会津藩になると、吉田印西に師事し射術を修めて、政務の合い間に藩士に教授し、会津藩/印西派の祖となる。
 寛永10(1633)年、門弟/原俊明に譲り、隠居。
 以降、家老九家として歴代家老2名が務める。
 墓は浄光寺。「光融院殿秀譽高心順忍居士」
 道路拡張工事により、新たに墓に合葬。
 小原 光聰  おはら みつふさ、
小原光聰の墓  安永2(1773)年〜文化5(1808)年
 通称:内記。
 <新夢想流兵学家>
 新夢想流の居合術を究め、印可を受ける。
 日新館猪苗代校にて新夢想流居合術を教える。
 天明8(1788)年、家督を継ぐ。
 寛政4(1792)年、姑兼奏者番に就く。
 寛政5(1793)年、小姓頭に就任。
 寛政7(1795)年、番頭に就任。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。
 於萬  おまん、元和6(1620)年〜元禄3(1690)年7月18日 (71歳)
 於萬の方、於万とも。
 京都上加茂の神主/藤木織部 (弘之) の娘。
 寛永11(1634)年に保科正之公の継室として輿入れ、とされる。
 寛永17(1640)年12月 4日、次男/虎菊 (正頼) を出産。
 寛永18(1641)年11月14日、長女/媛姫(徳姫、春姫)を出産。
 寛永20(1643)年 5月13日、次女/中姫を出産。
 正保2(1645)年 1月 5日、3男/将監を出産 (1歳で夭折)。
 正保3(1646)年12月27日、4男/大之助 (2代藩主/正経公) を出産。
 慶安元(1648)年 5月 3日、5女/石姫 (宮姫) を出産。
 慶安2(1649)年10月 4日、6女/風姫を出産 (3歳で夭折)。
 慶安3(1650)年閏10月3日、7女/亀姫を出産 (2歳で夭折)。
 承応元(1652)年 5月 9日、5男/新助 (正純) を出産。
 万治元(1658)年 7月25日、媛姫事件」を起こす。
 側室/於塩が生んだ摩須姫 (松姫) が、自分の娘の嫁ぎ先/米沢藩より大きい加賀藩に嫁ぐのに嫉妬し、毒殺を謀ったとされる事件。
 前日、江戸藩邸での祝いの席に、華やかな膳が運ばれた。
 正之公が摩須姫の宴席であるからと、いつもの上席にいた媛姫の席と入れ替えさせたため、於萬の娘が毒の盛られた膳を食べてしまった。
 摩須姫付きの老女/野村おさきが毒殺の企てを察知し、媛姫の膳とを入れ替えたためとの説もある。
 同月28日、長女/媛姫は、3日間、もがき苦しみ死去。 19歳。
 これを知った正之公は激怒し、於萬付きの老女/三好ら18名の関係者を処刑・処罰したが、於萬は嫡男/正経公の生母ということで処罰は免れたが、これ以降、遠ざけられた。
 10年後に正之公が策定した「家訓」の中の、
 「婦人女子之言 一切不可聞 (婦人女子の言 一切聞くべからず)
は、この媛姫事件をがあったからといわれている。
 後に死に臨んだ正之公は、於萬に「政治に口を出さぬこと」と命じている。「牝けいは古賢の戒むる所 吾が没後汝必ず政事をいふなかれ
 しかし、正之公の死後は、藩主の生母という立場を利用し、実家/藤木一族を京都から呼び寄せ要職に就け、徐々に復権し権勢をふるう。
 正経公が嫡男を設けないまま若くして死去し、3代藩主に側室/富貴の生んだ正容公が就くや藤木一族は失脚、放逐された。
 切望していた故郷/京都への帰参も許されず、隠居地の目黒行人坂上にある大崎村別邸で寂しく死去した。
聖光院之墓  墓は箕田藩邸近くの実相寺。
 「聖光院殿隠誉寂照清安大師」 .
 ▲(東京都港区三田4-12-15
     Tel. 03-3451-4245)
実相寺 実相寺
 
成瀬主計重次
 高頭時代の保科正之公に、近習として召し抱えられる。
 その後、山形から会津へと従い、3千石までに出世する。
 しかし、正経公付きの家老に就くと、傲慢で専横の行いが多くなり、不忠不義の所業/不穏分子と判断した正之公は、所領を没収し蟄居・流罪を命じる。
 一説では、媛姫事件を起こした於萬 (正経公の生母) と結託し、正之公の暗殺まで計略したとも。
 寛文9(1669)年、家督を譲り正経公が藩主に就くや、御側役/名倉半左衛門らと徒党を組み、再び権勢を振う。
 寛文12(1672)年、正之公は死に臨み、家老/友松氏興に成瀬重次一派の処刑と、正経公の次期藩主は正容公 (生母/富貴) とするよう遺命する。
 延宝元(1673)年4月、流罪先 (小川庄実川村) で斬首の命が下る。 重次に与した一味も誅殺、御納戸役/高木孫四郎以下4名は流罪となる。 於萬が4名の助命嘆願をした。
 
 円城寺 豊貞  おんじょうじ とよさだ、
 寛永2(1625)年〜元禄14(1701)年4月14日 (77歳)
 名:吉忠のち豊貞。 通称:彦九郎。 号:古暦。
 円城寺吉武の子。 高橋家の養子となり高橋市郎左衛門と名乗るが、後に実家に復して円城寺彦九郎と称する。
 紀州/内田吉政に道雪派弓術を学んで印可を得る。
 松平信綱を通じて、保科正之公に召し抱えられる。
 正之公に弓術の編纂を命じられ、研究を重ねて、弓術新流派「円城寺派」を創始、後に会津藩弓術3流派の1つ「日置豊秀派」となる。
 江戸期の弓術「天下の三射人」の一人。
 藩主/正容公の代まで、3代の藩公に仕える。
 天寧寺に埋葬。
 墓は東京/興禅寺にもあったとのことだが不詳。
 81歳。
 「元心院殿英岳道雄居士」

大岩嘉蔵 大庭太郎左衛門 小椋光政 小原俊周 小山田盛信(伝四郎)

《 お 》 江  戸  幕  末

 大野 英馬  おおの ひでま (えいま)、
 文政9(1826)年〜慶応4(1868)年8月23日 (43歳)
 猪苗代十騎の1人/大野伝九郎の子として誕生。
 父/伝九郎が江戸詰となり、英馬も江戸に移り住み育つ。
 妹/瀬山は江戸御殿奥勤。
 幼き頃から活発で才気あり、江戸湾で操舟や水泳を会得。
 父/伝九郎の亡き後、会津に戻る。
 文久元(1861)年、御供番となる。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任の際して、才を見込まれ公用方に抜擢され上洛。
 程なく国産奉行副役に就任。
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に迫ると滝沢村で奮戦するも、東名子屋町の人参役場付近で戦死。
 墓は阿弥陀寺に合祀。
 大庭 恭平  おおば きょうへい、天保元(1830)年〜明治35(1902)年1月5日(73歳)
 名:景範、機 (はかる) とも。 号:松斎。
 藩士/大庭正吾弘訓の次男として江戸藩邸にて誕生。
 文久2(1862)年、松平容保が京都守護職就任で上洛する前に、家老/田中土佐や公用人/野村左兵衛たちと上洛、密偵として身を隠し、過激派や浮浪者らの動向を探る。 公には脱藩との扱い。
 文久3(1863)年、恭平の通報により「足利将軍木像梟首事件」の首謀者の ほとんどが捕えられ、恭平も信州上田藩に永代謹慎となる。
 慶応4(1868)年1月16日、戊辰の役が勃発したため釈放。
 帰藩後は、幕軍/衝鋒隊に加わり、北越戦線各地で奮戦する。
 援軍要請のため仙台藩へ経て庄内藩へ赴いたが開城、高田幽閉 (真宗寺内林西寺) を脱走し居残り組として、戦死者の埋葬に尽力した。
 恭平筆「殉難之墓」の墓標も、 (民政局) が削り取った。
 明治3(1870)年、斗南藩へ移住し、少属刑法掛に出仕する。
 その後、開拓使中主典、札幌資生館/初代校長、若松県司法省判事補、秋田県判事、青森・函館・新潟の属官など多くの官職を歴任。
 晩年は弟のいた室蘭へ移り、この地で死去したという。
 小笠原 午橋  おがさわら ごきょう、
 文政5(1822)年〜明治14(1881)年8月14日 (60歳)
 名:勝修。 通称:常次郎。 号:雄山。
 藩士/長坂勝満の次男。
 日新館での成績優秀が認められ、昌平坂学問所(昌平黌) へ遊学。
 帰国後は、日新館の教授として子弟の教育に尽力。
 戊辰の役では、籠城戦を戦い抜く。
 開城に際して、降伏文 (謝罪文) を草案したという。
 開城後は、小笠原に改姓し、開拓使に出仕するが、病のため辞職。
 明治13(1880)年、栃木に移住し、翌年に死去。
 著書「続国史略後篇」「愛国偉績」など。
 小川 清流  おがわ すがる、
 文政3(1820)年6月12日〜明治25(1892)年9月21日 (73歳)
 通称:伝吾。 号:紫蘇園。 晩年に清流を名乗る。  <歌人>
 戊辰の役では、山川隊として日光口で奮戦。
 長男/直道(後の亮)白虎寄合一番隊として越後口に出陣の際、強烈な歌を送っている。
  「むくゆへき時はこの時国のためしねや直道しねや直道
   (報ゆへき 時は この時 国のため 死ねや直道 死ねや直道)
 直道は、開城後に謹慎中の猪苗代から脱走。
 明治18(1885)年、若松中学校の国語科教師に就くが1年で辞職。
 明治21(1888)年、伊佐須美神社の主典に就任。
 澤田名垂野矢常方に師事し和歌や書に才能を発揮する。
 明治25(1892)年、赤坂村八木沢で急死。
 著書「栂木抄」「見禰山年中御神式略」「番頭年表」「柞の風」。
 墓は、神官共同墓地.
 小川 渉  おがわ わたる、天保14(1843)年7月22日〜明治40(1907)年
 藩士/小川常有の次男として、日新館の官舎にて誕生。
 慶応元(1865)年日新館での成績優秀が認められ、昌平坂学問所(昌平黌) へ遊学。
 慶応3(1867)年10月、幕府若年寄/平山図書頭が朝鮮出張する際の随員を命じられる。
 戊辰の役では新潟港の重要性を説き、守備する軍艦購入に奔走。
 開城後、斗南藩移住し、藩が消滅後も残留。
 明治4(1871)年、青森田名部支庁に入り、田名部支庁長や青森県議会書記長を歴任し、県政の功績により町名/小川町が残っている。
 明治8(1875)年、自由民権運動の必要性から仲間たちと青森県に北斗新聞社を創立し「北斗新聞」「青森新聞」「青森新報」を発刊し県民の啓蒙に努め、今なお“青森新聞界の父”と称されている。
 青森県新聞記者第1号としての記事も「公議正論の人」と称賛され、度々 投獄されるが、後に社主となる。
 明治19(1886)年、長崎県尋常中学校教諭に就任。
 明治22(1889)年、尋常中学校を辞任し、会津に戻り、日本教育史書として名著の評される「会津藩教育考」の執筆に着手し、明治38(1905)年に完成させる。
 後に、喜多方で漢学塾を開いている。
 他にも「斗南桜叢書」「志ぐれ草紙」「考古集」などを著す。
 晩年、青森に赴き、漢学の塾を開く。
香取神社  墓は青森市/香取神社との資料もあるが、境内の左奥は雑木林に変わり果て、今では実在していない。
 沖津 醇  おきつ じゅん、天保2(1831)年〜明治44(1911)年
 名:重成。 旧通称:甚太夫。
 文久2(1862)年、京都守護職就任に従い、京都へ赴く。
 戊辰の役では、中隊長として白河口で奮戦。
 しかし、父/市太夫が、9月5日の高久村で戦死 (58歳)。
 開城後は、斗南藩へ移住し、権少属として尽力、
 斗南藩の消滅後も残留し、青森県庁に仕官。
 明治6(1873)年、田名部小学校の開校で初代主座 (校長) に就任。
 翌年、東京師範学校と東京府講習所へ研修で長期出張、修了し青森へ戻ると視学官として県内の小学校を巡回して訓導 (教諭) を指導。
 県庁に再び戻り庶務課学校係/史生 (書記官) に就任すると、抜本的な教育改革の必要性を説いた「学校興起ノ鄙見」を提出する。
 その後も、先進的な教育法を導入するなど、地元教育の充実と発展に尽力し多大な功績を残す。
 明治16(1883)年、招聘され青森師範学校の校長に就任。
 明治17(1884)年、貧民の子弟の教育をすべく校長の職を辞す。
 同校の嘱託訓導 (教諭) に残り、私学の設立準備に入る。
 明治19(1886)年、嘱託訓導 (教諭) も退官。
 同年初冬、杉原凱先生之墓/建立の1人として携わる。
 明治20(1887)年、私塾青湾学舎(青森市松森)を開校(設立は前年)。
 苦しい経営の中、安い授業料で12年間にもわたり、公立小学校に通えない学費困窮者の教育に尽力した。
 県内最初の夜間部も設け、勉学の機会を増やしている。
 明治32(1899)年、健康上の理由で閉塾、晩年は東京へ移る。
 明治39(1906)年、「近世会藩士人偉行録並補遺」を著す。
 後に、校舎は桔梗学院附属小学校の校舎となっている。
 小野木
   源次郎
 おのき げんじろう、
 安政元(1854)年10月28日〜大正14(1925)年9月11日
 戊辰の役では、白虎隊にも入れぬ15歳であったが、白河口で奮戦し負傷している。 籠城中、城外戦にも参加したため、開城後も年少者だが塩川謹慎を経て高田へ幽閉 (善行寺内幸林坊) される。
 挙藩流刑の斗南藩となり、三戸へ移住する。
 明治7(1874)年、藩が消滅したため若松へ戻るが、間もなく上京して警視庁に就く。 陸軍省・内務省勤務を経て、沖縄・宮崎・福島・北海道など1府8県の警務長・警部長・警察部長など事務官を歴任。
 明治19(1886)年、長崎/梅香崎警察署長の時に、清国北洋艦隊水兵が起こした暴動/長崎事件が起きている。
 明治40(1907)年、官界を引退して信濃電気鉄道の社長に就任。
 大正元(1912)年12月18日、5代目の若松市長に就任 (59歳)。
 大正 2(1913)年、「田島〜若松間軌道敷設速成ニ関スル意見書」を提出・陳情するなど、地域のインフラ整備に尽力。
 大正3(1914)年6月18日、若松市長を退任。
 小野 権之丞  おの ごんのじょう、
 文政元(1818)年3月〜明治22(1889)年4月2日 (72歳)
 名:義忠。 権之丞は通り名。
 藩士/小野権之丞義行の長男として本二之丁で誕生。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、公用人兼御聞番御内用勤として諸藩間や朝廷との折衝に尽力する。
 戊辰の役では、抗戦を支持する輪王寺宮を奉じて随行し、同盟諸藩との交渉に注力する。
 開城の時、仙台にいたため会津遊撃隊加わり蝦夷/箱館に渡り、箱館病院掛頭取 (事務長) として敵味方の区別なく看護する。
小野権之丞の墓  明治2(1869)年5月11日、負傷して入院中の諏訪常吉を、旧知の薩摩藩士/池田次郎兵衛・黒田清隆らが見舞いと称し訪ね来て和平斡旋を依頼する。
 了承した常吉が榎本武揚への書状を託したのが権之丞で、函館戦争終結の発端となる。
 古河藩下屋敷に幽閉 (謹慎) され、赦免後は神田佐久間町で清貧な余生を過ごす。
 資料としても貴重な「小野権之丞日記」を著わしている。
 墓は、青山霊園
 小原 治八  おばら じはち、天保6(1835)年〜元治元(1864)年9月16日(38歳)
 名:俊長。 通称:保之進。
 鶴ヶ城下の花畑にて誕生。
小原治八俊長  5歳の時に父が死去、母の実家/黒河内氏にの支援を受け、貧しいながらも藩校/日新館に学ぶ。
 嘉永6(1853)年、江戸湾警備 (房総) に従軍。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い外様士として上洛。
 御用所密事仮役、軍事方心得を歴任。
 元治元(1864)年7月19日、禁門の変が勃発し、内藤介右衛門隊 (神保内蔵助隊とも) として奮戦するも御所唐門前で被弾し、9月16日に死去。
 墓は黒谷会津墓地。 「岩立神霊」

 小原庄助については、こちら


《殉難者》 大岩元四郎 大竹一郎・善吾 大竹喜三郎 大竹佐兵衛
大竹主計 大戸新八郎 大庭久輔 大橋源蔵・愛助
小笠原主膳 小川勝之進・求馬 小川郷左衛門・鉱太郎・房次郎
小川勇之助 小沢新十郎 音次郎 小沼雄八
小田磯之助 小野田午太夫俊章 小原忠次郎・房橋  
大沼城之助 大塚録四郎 沖津卓英 小田切外三郎

《 お 》 幕 末 よ り 後

 大島 破竹郎  おおしま はちくろう、
 明治15(1882)年12月〜昭和28(1953)年6月12日 (70歳)
 若松町 (会津若松市) にて誕生。
 明治34(1901)年、会津中学校 (会津高校) 黒河内を卒業 (中7回)、黒河内四郎は同級生。
 明治42(1908)年、東京帝国大学を卒業し、文官高等試験の合格者106名中8番で合格、大蔵省に入る。
 警視庁方面監察、兵庫県事務官などを歴任。
 大正3(1914)年、群馬県警察部に移る。
 石川県警察部、熊本県警察部、佐賀県警察部で県警察部長を歴任。
 大正10(1921)年、徳島県に移り、朝鮮総督府忠清南道の内務部長、岡山県の内務部長を歴任。
 1927年(昭和2(1927)年、第23代/佐賀県知事に就任。
 第27代/高知県知事を経て、南太平洋貿易の役員などを歴任。
 昭和17(1942)年、第5代/郡山市長に就任。
 昭和28(1953)年、東京駿河台/日本大学病院で脳出血にて死去。
 大竹
  作右衛門
 おおたけ さくえもん、名:元一。
 戊辰の役では、御聞番所物書として各地で奮戦。
 開城後は、蝦夷に渡り函館戦争にて会津遊撃隊として奮戦し、戦い後に彦根藩にて幽閉。
 明治 3(1870)年、斗南藩/五戸村に移住
 明治 6(1873)年、北海道開拓の拠点となった小樽に移住し、旧藩士/高野源之助とともに大竹回漕店を創立し事業を開始。
 明治13(1880)年、海軍省に届けた輸送船/高嶋丸の船旗は、奥羽越列藩同盟の同盟旗とそっくりの五芒星の中に五稜星が描かれていた。
 明治14(1881)年、風帆船/札幌丸七十六トンを所有。
 明治15(1882)年、小樽港から札幌を経て幌内炭山に至る鉄道の完成で、事業は急成長。
 明治16(1883)年、小平蘂川流域の石炭調査を実施。
 明治20(1887)年、ヲキナイ上流の石炭を開採。
 明治21(1888)年、銀銅鉱を発見した中村留吉・竹内孫兵衛・小黒喜三郎らと共同で許可を受け試掘。
 明治22(1889)年、「ユーナイ銀銅鉱」として開坑事業に参画 (後に住友合資会社に売却)。
 明治26(1893)年に刊行の「開拓指鍼北海道通覧/久松義典」に「小樽大竹回漕店」と記載されるほど隆盛を誇る。
 明治28(1895)年、小樽高島/児童水泳場を開設し、日本古来泳法「向井流水法」を小樽へ伝える。
 幕末に江戸湾警備を命じられた会津藩は、御船手奉行の旗本/向井家に代々伝わる水軍法を藩士たちに学ばせ、藩校/日新館でも指導がおこなわれていた。
 岩内町でも牧場経営を成し遂げている。
 養子に迎えたのが大竹多気
 墓は、小樽市営中央墓地

 その後も泳法は脈々と継承され、小樽市教育委員会も普及に尽力。
 平成 3(1991)年、「向井流水法」が小樽市の無形文化財に指定。
 現在は、向井宗家直属の指導が行われているとのこと。
 大竹 作摩  おおたけ さくま、
 明治28(1895)年3月5日〜昭和51(1976)年7月16日 (81歳)
 北塩原村の中農の長男として誕生。
 高等小学校を卒業後、家業に就くが鎌で左手の人差し指を切断してしまい、農業の道を断念して政治家となる。
 昭和2(1927)年、北塩原村の村議に当選。
 同村外2ケ村組合長を歴任。
 昭和6(1931)年、県議会議員選挙に当選、連続4期務める。
 第二次世界大戦中は政党解散に反対し、憲兵隊に3回連行される。
 昭和22(1947)年、県議会の議長に就任。
 昭和25(1950)年、県知事選挙に当選、2期 務める。
 只見川開発に尽力し、田子倉ダム建設では農家側を考慮し、国と電源開発に対して強硬な姿勢で、補償問題の解決に尽力する。
 昭和35(1960)年、衆議院議員総選挙に当選。
 昭和38(1963)年、引退。
 昭和49(1974)年柳津町の只見川を望む所に銅像が建立
 昭和51(1976)年、脳卒中と肺炎を併発して死去。
 北山小学校で、県民・村民の合同葬が行われた。
 大竹 秀蔵  おおたけ しゅうぞう、
 天保8(1837)年4月8日〜大正14(1925)年5月11日
 (但し、伝承は没86歳、法泉寺過去帳は没82歳)
 父/新十郎と母/シヲの4男として鶴ヶ城下にて誕生。
 
 自邸は、本二之丁と三日町通の北西角。
 父/新十郎は、嘉永年間(1848〜1855)に死去。
 母/シヲは家老/諏訪伊助の娘で、生家は大竹家と真向かい。
 斗南藩へ移住する直前、明治3(1870)年1月13日に死去。
 長兄/主計は、面川で戦死。
 次兄/梶之助は、越後/石間宝昌山で戦死。
 三兄/富記は、越後/新発田で戦死。
 
 明治3(1870)年、叔父一家とともに斗南藩/三戸へ移住。
 三戸に鶴ヶ城下 (若松) 出身で財を成し、屋号「若松屋」と名前から通称「若庄」と呼ばれる商家/小笠原庄三郎がおり、世話になる。
 同じく三戸に移住した大庭勇助とも仲良く、心の支えだった。
 明治4(1871)年1月13日、観福寺の境内に全国初の白虎隊供養碑を建立する。
 1月13日は母/シヲの一周忌に当たる。 募金をした記録がないことから白虎隊碑建立は「若庄」の助けによるものと思われ、表立って言えず白虎隊供養碑としたが、墓碑の右側面に
  「会津産諏訪伊助娘為大竹親君妻哉
と刻まれていることから、母の供養のためだったと推察される。
 大正2(1913)年3月3日、向村/古牧 (南部町) に移り住み、旧南部藩士/宮久七(みやきゅうしち)の次男/末太郎を養子にする。
 農業には向かなかったようで、飴売り・易者などをして生き延びていたという。
 大正8(1919)年11月14日、養子/末太郎が死去。
 大正9(1920)年8月11日、末太郎の後妻/ヤエが死去。
 大正14(1925)年、「五戸の親戚へ行って死ぬ」と言い残し世話になった御礼にと、「若庄」には刀3振り、大庭勇助には易に基づく占い用具/筮竹と書物を渡して去った。
 その38日後に、独身を貫いた生涯を終えた。
 「泰翁是安信士」
 大竹 多気
 (気のメが米)
 おおたけ たけ (たき)、
 文久2(1862)年10月7日〜大正7(1918)年7月19日 (満58歳)
 ペンネーム:大竹美鳥、みどり。 雅号:碧玉。
 藩士/松田俊蔵の4男として赴任地の蝦夷/戸切地 (北斗市) で誕生。
 慶応 3(1867)年、藩士/大竹作右衛門の養子になる。
 兄/精介は鳥羽伏見の戦いに参戦し、養父/作右衛門とともに会津遊撃隊として箱館戦争まで戦い抜く。
 明治 3(1870)年、斗南藩に移住、養父/作右衛門は会計掛を務めていたが、藩の消滅で事業の失敗を繰り返したものの回漕業で成功。
 明治 6(1873)年、上京し、有馬私学校、攻玉社、工部寮小学部で勉学に勤しむ。
 明治10(1877)年、工部大学校の官費生となる。
 明治16(1883)年、工部大学校機械工学科を卒業し千住製絨所に就職。
 明治18(1885)年、英国派遣決定  明治19(1886)年、ヨークシャー大学 (リーズ大学) へ入学。
 明治21(1888)年、ヨークシャー大学を首席で卒業。
 明治35(1902)年、千住製絨所の所長に就任、「自働織機」を著す、
 明治37(1904)年、特許局技師に就任、
 明治38(1905)年、羊毛買い付けのため豪州に派遣。
 明治43(1910)年、東北帝国大学の教授に就任、特許局技師と米沢高等工業学校長事務取扱を兼務。
 明治44(1911)年、米沢高等工業校の校長に就任、
 大正 5(1916)年、桐生高等染織学校の初代校長に就任 (米沢高等工業校の校長も兼任)
 大正 7(1918)年、日本で初めて染色技術を学び、工学博士として毛織物工業の近代化に貢献した人生を、東京府小石川で終えた。
 ウォルター・スコットの詩集「湖上の美人」を翻訳するなど文学にも秀でていた。
 明治43(1910)年に鶴ヶ城を訪れた時の和歌。
 「そのかみの うらみも深く 紅の ちしほ染め出す 城のもみぢ葉
 大竹 保順  おおたけ もりみち (ほうじゅん)、
 慶応3(1867)年、藩士/大竹倉司と母/たけの長男として鶴ヶ城下にて誕生。 幼名:倉太郎。
 明治3(1870)年、斗南藩へ移住し、法光寺に逗留するが生活は困窮を極め、やがて普賢院 (三戸郡豊崎村) の弟子となる。
 明治9(1876)年、神官/松田仙陸 (三戸郡館村) 宅に滞留。
 伝昌寺 (三戸郡新井田村) の住持/下内順法の弟子となり、名を保順に改め、大慈寺 (三戸郡糠塚村) に弟子入りする。
 才を見出した大慈寺の援助により東洋大学哲学科に入学する。
 明治13(1880)年、卒業するや月窓寺 (六戸村鶴喰) に入る。
 明治14(1881)年高雲寺の住持/太田祖海が死去したため、1年足らずで月窓寺から高雲寺 (五戸)へ移る。
 15年間も高雲寺の住職を勤めた太田祖海は、以前に月窓寺9世を務めていた縁から俳句の手ほどきを受けており、後任として乞われ高雲寺21世住職に就任する。
 たんなる住職の任のみならず、地域の文化・教育に尽力し、地域の発展に多大な貢献を残している。
 高雲寺には、家老/内藤介右衛門信節倉澤平治右衛門など元/会津藩士の墓がある。
 父が僧侶であった与謝野鉄幹とは、出身校も同じだったことから、会津をこよなく愛した妻/晶子ともども頻繁に手紙のやり取りをするなど親交を深めていた。
 大正14(1925)年、保順宅に宿泊し、滞在中に歌を残している。
 すでに著名人となっていた与謝野夫妻の色紙は1枚3円・短冊は8円が贈られたという。 1回の講演料にも50円が支払われ、博労町/菊万の庭園で撮影した記念写真が現存している。 [写真]
翌日、みぞれが降る十和田湖の奥入瀬渓流を散策し帰途についた。
 保順と妻/ハナには、長女/“こと”・次女/“てい”の娘がいる
 次女/“てい”が小石川高等女学校 (日本文華学園) へ入学する際の保証人が晶子で、在学中は晶子宅に下宿している。
 大竹 豊  おおたけ ゆたか、昭和20(1945)年〜
 会津若松市にて誕生。
 昭和44(1969)年、「少年ジャンプ」と「少年サンデー」の2誌で同時デビューした漫画家。
 「まんが王」、「冒険王/巨人の豆選手など」、「少年アクション/南のトンブー」などにも連載。
 昭和59(1984)年からは、幼児向け絵本・児童向け作画も手がける。
 ◇ 別冊少年ジャンプ
   「一日かあちゃん」     「怪童Xくん」
   「くたばれ! ホーム     「大ルーキー」
 ◇ 別冊少年チャンピオン
   「スーパー佐助 (1970〜1974)」
   「つっぱれチビちゃん (1970〜1974)」
 ◇ 少年アクション  「よろしく夢丸」
 ◇ 偕成社
   「おもしろことばブックス 1 あ〜こ」
   「おもしろことばブックス 2 さ〜の」
   「おもしろことばブックス 3 は〜わ」
 ◇ ひかりのくに
   「あいうえおパズル」
   「とびだすきせかえ 20 立体工作シリーズ ウルトラマン」
 ◇ 集英社
   「宇宙のしんぴ (学習漫画理科 5)」
   「かがくものしり百科 科学の質問箱(こども学習まんが 22)」
   「なんでもせかいいち (こども学習まんが 21)」
 など
 大橋 知伸  おおはし ちしん、
 天保7(1836)年2月13日〜明治39(1906)年8月14日 (71歳)
 知信(とものぶ)とも。 幼名:忠蔵。 字:古玉。 号:醒仙。 俳句名:水香。 珍とも名乗る。
 父/大橋守行と母/塩原氏の長男として滝沢村にて誕生。
 父から彫技を受け継ぎ、江戸末期から明治に活躍した仏師で、仏像や福の神を残した。 また、画・墨画、書、俳諧、漢学、篆刻など多彩な才能の持ち主でもあった。
 9歳で萩原磐山に師事し狩野派の画風を学び、荒川梅二根本精器に俳諧を学び、越後/長谷川嵐渓に墨画を学ぶ。
 明治23(1890)年、自刃した隊士19人をフランス流の軍服姿とした霊像が、飯盛山宇賀神堂に祀られた。
宇賀神堂  この堂は寛文年中(1661〜1672)建立され三代藩主松平正容公が弁財天像と共に、五穀の神、宇賀神をも奉祀された。
 堂には、飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像が安置してあり、像はフランス流の洋服姿であり、霊像に明治23年白虎隊墳墓改修の際、大橋知伸、田中治八の両氏によって製作されたものである。
/現地説明文」

 先祖は加藤明成公に仕え、会津騒動で明成公が去っても残留し、4代から仏師となる。 父/守行は9代目。
 大原 光憲  おおはら みつのり、
 昭和元(1926)年5月1日〜平成4(1992)年7月23日 (満66歳)
 会津若松市にて誕生。
 昭和23(1948)年、旧制/水戸高等学校を卒業。
 昭和28(1953)年、中央大学法学部を卒業。
 昭和31(1956)年、中央大学法学部の助手に就任。
 昭和35(1960)年、中央大学法学部の助教授に就任。
 昭和42(1967)年、中央大学法学部の教授に就任。
 昭和58(1983)年、法学博士 (中央大学) を取得。
 平成3(1991)年、東京都知事選挙に出馬するが落選。
 落選後に体調を崩し、翌年に中央大学の教授在職中のまま死去。
 著書「現代政治過程論」「都市問題と住民運動 都市政治学」「都市自治の革新」「現代政治過程論 国家と地域社会の政治」「都市政治の変容と市民」などのほか共著・編著・訳書も残している。
 大平 善梧
[肖像]
 おおひら ぜんご、明治38(1905)年9月19日〜平成元(1989)年3月10日
 会津若松市にて誕生。
 大正12(1923)年、会津中学校 (会津高校) を卒業 (中29回)。
 大正15(1926)年、小樽高等商業学校を卒業。
 昭和 4(1929)年、東京商科大学を卒業し、同大学の助手に就く。
 昭和 5(1930)年、高等試験司法科試験に合格。
 昭和 6(1931)年、東京商科大学助手に就く。
 昭和10(1935)年 東京商科大学予科教授に就任。
 昭和11(1936)年、東京商科大学助教授に就任し、予科教授に就任。
 昭和17(1942)年、東京商科大学の教授に就任し、予科教授も兼務。
 昭和26(1951)年、一橋大学法学部教授に就任。
 昭和34(1959)年、一橋大学法学部長に就任。
 昭和35(1960)年 「安全保障と国際法」で法学博士(慶應義塾大学)。
 安保反対の論調の学会で、同じ考えの5教授と安保改定支持声明し、話題を呼ぶ。
 昭和44(1969)年、一橋大学を定年退官し、同校の名誉教授となる。
 同年、青山学院大学学長に就任し、異常事態を収拾するため機動隊を導入、「学長は秩序維持の仁王様」との名文句を残す。
 昭和49(1974)年 青山学院大学法学部教授を退任し、同年に青山学院大学名誉教授と亜細亜大学法学部教授に就任。
 昭和51(1976年、亜細亜大学大学院法学研究科委員長に就任。
 その他の活動として、高等試験臨時委員、国際法学会理事・同名誉理事、学術奨励審議会科学研究費等分科審議会委員、国際法協会日本支部理事、アジア政経学会常務理事・同名誉理事、日本国際連合協会理事、日本国際政治学会理事・同名誉理事、日本国際問題研究所常任理事、日本学術会議会員などを歴任。
 剣道5段、50余年の短歌歴と多彩。
 著書「支那の航行権問題」 「日本の安全保障と国際法」 「集団安全保障と日本外交」 「アジア外交と日韓関係」 「会津の葵 歌集
 大平 善蔵
[肖像]
 おおひら ぜんぞう、
 明治7(1874)年10月12日〜昭和27(1952)年11月27日 (78歳)
 金物問屋/江戸屋の長男として一之町で誕生。 号:射仏、素弓。
 明治20(1887)年、元会津藩の弓術師範/鈴木寿衛に師事し、日置流道雪派の弓道を習得する (13歳)。
 明治30(1897)年、戊辰の役でに略奪など悪逆非道の限りを尽くされ荒廃し、いまだに復興できないのを憂い、産業振興を図るべく実業青年会を結成し、先進地/播州 (兵庫県) を自ら視察、初代重正や2代重道たち職人を派遣し技術を習得させた。
 程なく、刃物職人の技術刷新の成果が表れ、のこぎりが高品質かつ均一に改善され、北海道開拓で需要が急拡大していた森林伐採に販路を広げた (23歳)。
 明治35(1902)年、私財を投じて会津金物品評会や全国鋸材木品評会を2年連続で開催し、ノコギリの品質に関して全国的な名声を不動なものとする。
 明治40(1907)年、最先端のスプリングハンマーを備えた「日本鋸工場」を創設、会津の鋸ハンマー打ちの創始者と称される (33歳)。
 明治42(1909)月、上京し本多利實に師事、竹林派弓術を学ぶ
 明治44(1911)年、本多利實から皆伝を受け、本多門下の 三ゾウ」 日本五人男 」と称される (37歳)。
 大正12(1923)年、「大日本射覚院」を創立 (東京/大森) し、雑誌/射覚を創刊 (49歳)。 「射禅見性」を提唱。
 大正14(1925)年、大日本武徳会の最高位/弓道範士に就任するや、「弓道日本一」と称賛される (51歳)。
 昭和7(1932)年、事業を息子に譲り、隠居後は弓道に専念 (58歳)。
 朝鮮や中国などへの弓道普及にも尽力。
 没後に全日本弓道連盟から十段を追授される。
 飯盛山に、「大平善蔵先生頌徳碑」。
 会津出身の武道家として「剣道の和田晋」「柔道の西郷四郎」はあまりにも有名だが、実業家としても名を成した「弓道の日本一/大平善蔵」を忘れてはなるまい。
 大八木 弘明  おおやぎ ひろあき、昭和33(1958)年7月30日〜
 河沼郡河東町 (会津若松市河東町) で誕生。
 会津高田町立第一中学校 (会津美里町立高田中学校) 2年生の時、校内マラソンで優勝したのがきっかけで陸上競技に目覚める。
 中学3年生の時、ジュニア選手権 (ジュニアオリンピック) の3,000mで全国5位 (9分09秒6)。
 県立会津工業高等学校に進みインターハイ出場を目指すが、走りすぎによる疲労骨折や貧血などで実現できず、家庭事情で大学進学も断念し、小森印刷 (小森コーポレーション) に就職する。
 陸上競技の夢は捨てきれず、早朝などに練習を重ね続けた。
 昭和55(1980)年、第25回全日本実業団対抗駅の6区 (最長区間23.2Km) で区間3位を達成、走りたい気持ちは増すばかり。
 昭和57(1982)年、川崎市役所に転職し、夜は駒澤大学経済学部2部入学 (24歳) し、本格的な練習を継続。
 徐々に頭角を現し、念願の箱根駅伝で好成績を収める。
  ◇ 昭和59(1984)年 (1年生)
     第60回大会 5区 (20.7km) 1時間12分41秒 (区間賞)
  ◇ 昭和60(1985)年 (2年生)
     第61回大会 2区 (22.7km) 1時間11分43秒 (区間5位)
  ◇ 昭和61(1986)年 (3年生)
     第62回大会 2区 (22.7km) 1時間10分00秒 (区間賞)
  ◇ 昭和62(1987)年 (4年生)
     第63回大会 年齢制限で出場できず
 大学を卒業すると、箱根駅伝などの成績を評価されヤクルトに入社し、陸上競技部のコーチ 兼 実業団の選手となる。
 平成 7(1995)年、乞われて母校/駒大の陸上競技部コーチに就任。
 駒澤大学の陸上競技部の強化に着手、就任以降の駒澤大学の成績は飛躍的に向上し、その指導力を高く評価される。
 平成12(2000)年、第76回箱根駅伝で駒澤大学が総合優勝。
 平成14(2002)年、同大学/陸上競技部の助監督に就任。
 平成16(2004)年、同/監督に就任。
 同年11月、第36回全日本大学駅伝で駒澤大学が総合優勝。
 平成20(2008)年、第84回の箱根駅伝で駒澤大学が総合優勝。
 平成25(2013)年、第25回出雲駅伝で駒澤大学が総合優勝。
 令和 4(2022)年、後任として同陸上競技部/藤田敦史ヘッドコーチを指名し、翌年の箱根駅伝を最後に退任を表明。
 令和 5(2023)年、第99回箱根駅伝では選手たちが力走、2年ぶり8度目の総合優勝すると同時に、史上5校目の学生駅伝三冠を達成し、恩師の花道を飾ってくれた。
 指導した選手たちが多いことでも知られており、就任中に学生三大駅伝 (出雲・全日本・箱根) の三冠を含む通算27勝を達成。

 選手たちが各々で自炊していたが、食生活の意識改革を図るべく、寮母が朝昼晩の食事提供することにした。
 寮母に大八木の妻/京子が就任し、夫婦一体による食事管理は、ほどなく選手たちの快進撃となって表れた。
 妻/京子は、専門学校に通いつつ栄養士免許を取得、食育インストラクターとして25年もの間、夫を支援し続けた。
 令和3(2021)年、「駅伝ごはん 駒澤大学陸上競技部のスポーツ応援レシピ/ベースボール・マガジン社」を刊行するまでになっていた。
(裕) .

 大山捨松については、こちら

 奥田 重栄  おくだ しげよし、
 明治 5(1872)年7月10日〜昭和31(1956)年1月10日 (満83歳)
 藩士/奥田鉱一郎の養子。  <陸軍少将>
 明治27(1894)年、陸軍士官学校 (5期) を卒業し陸軍歩兵少尉に任官、歩兵第五連隊付に配属、日清戦争へ出征。
 同期に、黒河内信次松江豊寿がいる。
 明治28(1895)年、龍睡島へ上陸、寧海州 (山東省)などへ転戦し、威海衛の戦いに参戦。
 次いで、台湾北端/基隆に上陸、急水渓の河口などへ転戦。
 明治37(1904)年、日露戦争では歩兵第三十七連隊第十二中隊長として出征し、河会戦でロシア軍の猛攻を撃退するも負傷する。
 歩兵第十六連隊附中佐、福知山連隊区司令官を歴任。
 大正6(1917)年、歩兵第四十連隊長に就任。
 大正10(1921)年、少将に昇進し、台湾第二守備隊司令官に就任。
 大正13(1924)年、予備役編入。
 京都に移り住み、自宅に財団法人黒谷会津墓地保護会/京都支部を置き活動している。 時折、山本八重を訪ねては「お八重さま、お八重さま」と姉のように呼んでいたという。
 奥田 誠治  おくだ せいじ、昭和(1956)年〜
 <映画プロデューサー>
 会津で生まれ、東京都文京区音羽で育つ。
 昭和55(1980)年に日本テレビ入社。
 昭和59(1984)年のテレビ放送「風の谷のナウシカ」が契機で、「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「猫の恩返し」「ハウルの動く城」の製作に映画プロデューサーとして参加。
 平成17(2005)年、「イノセンス」で第10回AMDアワード大賞/総務大臣賞を受賞。
 同年、「ALWAYS 三丁目の夕日」で第25回藤本賞/特別賞を受賞。

 「おけい」については、こちら


大石邦子 太田原高昭 大沼龍太郎 大沼蓮斎 大庭勇助恒次郎
大橋薫 大原光憲 小川常有 小川亮 奥田鑛太郎 小熊慎司
小沼喜代作 小野徳吉 小野美希 小原直 折笠重康 小山満雄

 大林 素子  おおばやし もとこ、昭和42(1967)年6月15日〜
 元バレーボール選手で、現在はスポーツキャスター・タレント・女優・モデルとして活躍中。
 大の歴史好き、特に新選組/土方歳三の大ファン。
 (生れ故郷/東京都小平市の多摩地区は、新選組の発端の地)
 新撰組の後ろ盾となった会津藩の地を訪れるや、風土・人情と触れ合い、たちまち会津 大好きになってしまう。
 そして、毎週 (年に50〜60泊) のように会津を訪れるようになる。
 平成30(2018)年2月、会津若松市観光大使に就任。
 同年、大好きが高じて会津に居住地を確保し、第二の故郷として東京と「二地域居住」を始める。
 令和2(2020)年10月、会津大学の非常勤講師 (体育実技でバレーボールの指導) に就任。
 令和3(2021)年、東京五輪/聖火リレーのランナーとして、鶴ケ城公園を駆け抜ける。

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