戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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斗    南    藩

 故なき汚名を着せられ、当時としては不毛だった地に流刑された。
 見せしめと、かつての大藩による反撃を極度に恐れた長賊の恐怖からであった。
 それでも、藩士たちは最後の夢に賭けた。
《1例》
 明治3年4月20日、八戸に到着した300余人に待っていたものは、事前の条件とは違い新政府からの支給が、1人当たり2畳の住居と、1人当たり玄米4合・銭8文のみと通告され、命をつなぐにも足らぬものであった。
 さらに、同年11月8日には、突然、新政府からの支給が玄米3合に減額され、不毛の原野と戦う藩士たちは窮地に追いこまれ、餓死者が続出し埋葬する場所にも困る有様となる。
 藩は、救貧院を田名部・野辺地・五戸・三戸などに建設し職業訓練を行うが、苦境からの脱出には程遠いものであった。
 明治5(1872)年4月、扶助すら打ち切られる。

 想像を絶する過酷な現実の前に、夢は打ち砕かれた。
 しかし、今なお彼らの誇りは、この地に受け継がれている。

斗南藩については、こちら

旧斗南藩史跡分布図

斗南藩士上陸之地 / 大平浦 (大湊)

 明治3(1870)年6月10日、この地に移住の第1陣として旧会津藩士と家族 1,800人が、新潟港からアメリカ蒸気船ヤンシー号に乗船して大平浦(大湊新町) に到着。 最初の藩庁は五戸に設置されたが、まもなく、この地/田名部 (むつ市) に移した。
 平成2(1990)年3月、斗南藩120周年にちなみ、大平浦に到着した移住の史実を後世に伝えるため、むつ市政施行30周年記念事業として記念碑を建立した。
斗南藩士上陸の地の説明文  鶴ヶ城の石垣と同じ会津/慶山石を使い、会津の方角に向いている。 周囲には、むつ市の花「はまなす」と会津若松市の木「アカマツ」が植栽されている。
 明治4(1871)年2月、長崎のような国際的に開かれた「大きな湊 (港)」にしようと願って、「大平村」と「安渡村」を合併し「大湊」と名付けた。
 ▲(むつ市大湊新町)

釜臥山

釜臥山

 恐山山地の最高峰 (標高: 878.6m)。
 別名を「斗南磐梯」と呼ばれている。
 苦難な生活を強いられる中、遠い故郷を偲ぶとき、陸奥湾が猪苗代湖に、釜臥山が磐梯山に見えたのであろう。
  「斗南藩 三合扶持が 足りぬとて
         焚かぬ前から 釜臥の山

 ▲(むつ市大湊大字釜臥山)

柴五郎一家居住跡

 むつ市運動公園のテニスコート裏手にある砂利道を進み、先の林の中にある。
 明治3(1870)年6月、12歳の時に家族と斗南藩へ移住した。
 翌年の春に永住の地として“落の沢”と呼ばれた地に移り、どん底の開拓生活で辛酸をなめることになる。
 後には30余戸ほどになったが、猟師も来ない場所だった。

 食べ物にも事欠き、栄養不足などで頭髪が全て抜け落ちたという。
 毎日のように死んだ犬の肉を食するのを躊躇すると、父から
  「ここは戦場なるぞ、会津の国辱 雪ぐまでは戦場なるぞ
と叱られた。
 万延元(1860)年6月21日、会津藩士/柴佐多蔵の5男として、鶴ヶ城近くの邸宅で誕生。
 戊辰の役の時、偶然にも松茸狩りで別荘にいたため、祖母・母・兄嫁・姉妹たちが自刃した場におらず生き延びた。
 明治6(1873)年、上京し陸軍幼年学校に入る。
 その後、陸軍士官学校に進み、薩長閥が闊歩する中、陸軍大将にまで出世している。
 清国公使館の駐在武官として着任して間もなくた義和団の乱が勃発し、各国の籠城部隊を取りまとめ実質的な司令官を務めて11カ国の公使館を守り抜き、イギリス/ビクトリア女王など各国から勲章が授与されたている。
 ロンドン・タイムスの社説には、「籠城中の外国人の中で、日本人・柴五郎ほど男らしく奮闘し任務を全うした国民はいない。彼の輝かしい武勇と戦術が、北京での籠城を持ちこたえさせた」と掲載された。 加えて指揮下の日本軍の礼儀正しい態度に欧米各国は驚嘆し、「最も才能・人格に優れた人物」として、国内より欧米で著名であった。
 著書に辛酸をなめた斗南藩時代の「野辺地日記」や、不屈の生涯を記録した「ある明治人の記録」が後に出版された。
 兄/柴四朗は、衆議院議員に10回当選、農商務次官・外務参政官などで活躍し、「佳人之奇遇」の著者でもある。
 墓は、恵倫寺にある。

呑香稲荷神社
 柴五郎一家居住跡へ至る途中の左側にある。
 この地に永住を決めた時、しばらく仮住まいした所。
 雨露はしのげたが、川で汲んだ水すら持ってくるまで凍ってしまう厳寒の最中、俵やむしろにくるまって、狐の遠吠を耳にしながら眠れぬ夜を過ごした。
 社殿の柱には兄/太一朗が詠んだ歌と、五郎が隠居してから書いた歌が残っているとのこと。
 ▲(むつ市山田町   旧/落の沢
    むつ市運動公園のテニスコート裏手にある雑木林)


海中寺 海中寺 海中寺
 明治3(1870)年6月、アメリカの外輪蒸気船に乗って品川沖から野辺地に上陸した。
 上陸して島谷清五郎の呉服屋に滞在、その後、しばらく海中寺に仮住まいをする。
 近くに常光寺・西光寺もあり、同じ船の移住者が分散し宿泊したと思われるが、伝承がなく分からない。
 同年9月に田名部に移り、空き家だった地元民/工藤林蔵の家を借り冬を過ごした。
 翌年の春になって、「落の沢」を永住の地として移住した。
 ▲(野辺地町寺ノ沢38-1 Tel. 0175-64-2605)

斗南藩史跡地 (第一新建)

斗南藩史跡 斗南藩史跡の碑


獅子の時代と斗南が丘の説明文 斗南ヶ丘市街地跡の説明文


 明治3(1870)年10月、藩庁 (円通寺) の田名部村と田名部川を挟んだ丘陵地帯に、未来の藩の拠点とすべく一戸建て約30棟・二戸建て約80棟の小屋を建てて1番町から6番町の市街地を造成し、「第一新建」と名付け、200戸の移住者を入植させた。 陸稲・粟・稗・蕎麦・鈴薯・甘藷イモ・大豆・小麦・小豆・煙草・茶・藍などに加え、蜜柑の類まで栽培し、田圃造りまで挑戦した。
 産業への取り組みも怠らず、養蚕のため桑を植栽、杉苗・雑木なども植え林業にも着手した。
 会津の名産であった漆器細工に加え、鋳物の鋳造、瓦・煉瓦の製造、製紙、機織、畳造りなどの手工業も推進した。
 しかし、先住の農民ですら見捨てた過酷な土地にヤマセも加わり、あまりにも痩せた土地からの収穫は皆無に近く、努力は水泡に帰し夢はついえた。
 斗南藩権大惨事/山川浩の歌が、当時を語っている。
   「みちのくの 斗南いかにと 人 問はば  神代のままの 国と答えよ

旧斗南藩屋敷土塀跡 旧斗南藩屋敷土塀跡の碑

 志半ばにして命を落とす者が続出し、廃藩置県による藩の消滅で禄も廃止され、止む無く藩士たちは去っていった。
 最終的に残ったのは、50戸ほどとのこと。
 現在では、わずかに土の盛り上がった部分の「旧斗南藩屋敷土塀跡」が残るだけで、夢を託した市街地の痕跡は見られない。


秩父宮両殿下御成記念碑

秩父宮両殿下御成記念碑

秩父宮両殿下御成記念碑の説明文

 昭和3(1928)年9月、松平容保の孫/節子姫 (御婚後に勢津子と改名) と秩父宮雍仁親王との結婚が発表された。 汚名が雪がれた証でもあった。
 昭和11(1936)年、両殿下が斗南ヶ丘に立ち寄られた。
 昭和18(1943)年7月、藩士の遺族・子孫たちの会津相携会 (現/ 斗南会津会)により、高さ5.8メートルの記念碑が建立された。
 (むつ市大字田名部字斗南岡)

斗南藩墳墓の地

旧斗南藩士の墓 旧斗南藩士の墓の入口 旧斗南藩士の墓の入口 旧斗南藩士の墓の入口

旧斗南藩士の墓の説明文






 斗南藩史跡地より尻屋方面へ800メートルほど先の右側の高台にある。

斗南藩追悼之碑

斗南藩追悼之碑 .

 旧斗南藩士たちの墓は わずかしか残っておらず、かつての墓石は どうなったのであろうか。
 近年、生き残った子孫や斗南会津会によって建てられた「斗南藩追悼之碑」が、かろうじて往時を偲ぶ証となっている。

竹村俊秀祖母之墓 佐々木[木+聖]齋墓

竹村俊秀祖母之墓 .



佐々木[木+聖]齋墓 . .


泰齋霊神の墓 某の墓

泰齋霊神 .

某 (判読不可)  .


墓域の左側 墓域の右側

 墓域には数家のご子孫・係累の墓もあるが、墓碑に公開されている島影家のみ記載。

島影弥五七・サヨ .


石井勝吉 (願求院)

石井勝吉の墓(願求院)

 旧会津藩士。
 斗南藩へ移住し、廃藩置県後に田名部村へ入植した。
 最初の墓域の中央辺りにある。
 合葬されたとのことであるが、墓碑に記載はない。

願求院  浄土宗。
 本尊は、阿弥陀如来。
 知恩院の末寺。

 ▲(むつ市大平町54-13 Tel. 0175-24-1344)

円通寺

 当初、斗南藩庁は五戸に設けられたが、近くに開港可能な良港/大平浦 (大湊) のある田名部に移すことになった。
 明治4(1871)年2月18日、円通寺へ藩庁 (斗南陣屋) を移し、藩主の仮館も置かれた。 後に斗南日新館も移された。
 3歳の藩主/松平容大公が預かる形で、容保も移り住んだ。
 同年7月14日に廃藩置県となるとは知る由もなかった。
 [写真]

招魂之碑

招魂之碑 .

 本堂の左側正面にある。
 明治33(1900)年8月、戊辰の役の殉難者を弔う三十三回忌の大法要開催の際に建立された。
 碑面は容大公の揮毫、碑文は旧会津藩士/南摩綱紀の撰。
 ▲(むつ市新町4-11 Tel. 0175-22-1091)
招魂之碑裏面の碑文の説明文
斗南藩史跡地の説明文

徳玄寺

 円通寺の隣にある。
 山門脇に
  「斗南藩史跡地 徳玄寺」
の標柱が建っている。
 案内板「 斗南開発の館 徳玄寺」も。
 肉食や妻帯などを禁じている曹洞宗の円通寺は戒律が厳しく、藩主の仮館になっているとはいえ、寺院内で獣肉や魚介類を食することはできなかった。
 真宗大谷派の徳玄寺は当時から肉食妻帯が許されており、ここで食事をとることが多かった。 3歳と幼かった藩主/松平容大公の生活・遊びの場にもなっており、斗南藩の重臣たちの会議の場所としても使われていた。
 ▲(むつ市新町5-47 Tel. 0175-22-2963)

尻屋埼灯台 (東通村)

 明治4(1871)年、斗南藩が周辺航海の危険性を訴え、設置運動の高まりにより建設を立案し決定。
 明治6(1873)年、起工。
 斗南藩は消滅したが正津川村に残留した旧藩士たちは、藩の提案で決まった灯台建設用のレンガを焼き、陸路と海路で供給している。
 明治9(1876)年10月20日、東北初の灯台が竣工し、初点灯。
 日本の灯台50選の1つ。
 レンガ造りの灯台としては、日本一の高さとのこと。
 昭和20(1945)年、米軍に銃撃を受け、標識技手/村尾常人が殉職した。
 昭和21(1946)年、破壊された灯台が光を放つとの噂が広まり、遭難を免れたという漁船も数多く現れた。 殉職した村尾技手の霊と噂されたが、同年8月に仮の灯りが点灯されると、この現象は消えたと云う。 今でも、灯台には銃撃の跡が残っている。
 平成28(2016)年、気象通報業務が廃止。
 ▲(東通村尻屋字尻屋崎1-1)

感恩碑

 昭和11(1936)年10月、秩父宮殿下・勢津子妃が尻屋埼灯台と周りの集落を訪問した。 これを契機に尻屋地区の道路や港湾の整備などが行われ、感謝した元/斗南藩士たちが2年後に、尻屋小学校のグランドのバックネット裏に建立。
 集落から海に向かった途中にある。
 謹書は、藩士/石塚和三郎の長男で枢密顧問官/石塚英蔵。
 勢津子妃は、藩主/松平容保の孫。
 平成21(2009)年、尻屋小学校の児童数が12人となってしまい廃校、今では雑草に覆われ、分かりづらい。
    [逸話]
 ▲(東通村尻屋ツボケ沢)

《三戸三碑 (会津三碑)》
 ◇ 日本最古の白虎隊墓 (観福寺) 明治 4(1871)年1月13日建立
 ◇ 杉原凱先生之墓 (三戸大神宮) 明治19(1887)年 初冬に建立
 ◇ 旧会津藩戊辰戦死者招魂碑 (悟真寺) 明治27(1894)年8月23日建立
 三戸郡 (三戸町、田子町、五戸町、新郷村など) へは約5千6百人、その中で三戸町へは約8百人が移住した。
 三戸入りの一行は、各家に5〜10人、大家には14〜15人ずつ割り当てられ、畳もない8畳ほど広さに押し込まれ雑魚寝、雨露さえ凌げない状況に「まだ馬のほうが幸せだ」と嘆いたという。
 地元民からは、小藩に落ちぶれた「会津のゲダカ」、「会津のハド」 などと嘲笑され馬鹿にされ、付き合う者などいなかった。
 その後、土地に根ざそうとする藩士や家族・子孫たちが不屈の「会津士魂」を持って奮励努力する姿に接し、「杉原凱先生之墓」建立の頃には 「会津さま」 と称賛されるまでになった。


旧会津藩戊辰戦死者招魂碑 (悟真寺)

旧会津藩戊辰戦死者招魂碑(悟真寺)

 戊辰の役の殉難者3千人、斗南移住途中および直後の死者、佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱・思案橋事件、西南の役など会津殉難者/総5千余人の供養碑。   
 明治27(1894)年8月23日、会津殉難者二十七回忌に三戸移住の旧斗南藩士が建立。
   ◇ 題字 斗南藩主/松平容大公   
   ◇ 撰文 旧藩士/南摩綱紀
   ◇ 書   旧藩士/渡部重乕 (乕次郎とも、本名は虎次郎)
   ◇ 石材 台石・竿石とも三戸城大手 (綱御門) 高石垣の石
石材は約800貫 (約3トン) もあり、旧/斗南藩士たちに近所の人も加わり総出で運んだという
悟真寺  本堂の左脇に建立されたが、現在は移築され右手中央にある。
 萱野権兵衛の位牌も所蔵とのこと。  [肖像]

 浄土宗。 本尊は阿弥陀如来。
 ▲(三戸町大字同心町字諏訪内55 Tel. 0179-22-2573)


杉原凱、無縁の墓 (三戸大神宮)

 神殿境内の左側/手前奥にある。

杉原凱先生之墓

 本名は杉原外之助、
 文化3(1806)年、生まれ。
 天保14(1843)年、藩校/日新館の学館預となる。
 その後、医学寮師範補助、本草科などの教授を務める。
 明治3(1870)年、斗南藩へ移住し、三戸で学塾をおこす。
 明治4(1872)年2月14日、死去。 享年66歳。
 明治19(1887)年初冬、門人たち10余名によって建立。
 碑文の撰は、青森県師範学校長の沖津醇。   [資料]

会津藩殉難者無縁墓

会津藩殉難者無縁墓

 長賊らの分捕り争いで財産は全て略奪され、多くの藩士と家族が斗南藩へ向かう道中は、着の身着のままの徒歩であった。 旅籠に泊まる余裕などなく 長賊らを はばかり泊めてくれる家も無く、食料調達すら困難な旅は過酷を極め、多くの方が途中で命を失い、路傍の露と消えた。
 この地には 800人ほどが移住したが、その後も慣れない悲惨な環境のもと餓死する方や、厳冬で凍死するなど多くの方々が亡くなった。
 極貧がゆえに寺に入れなかった方も多かった。 古文書には死ぬ人が多過ぎて埋葬する場所にも困ったとの記録もある。
 昭和51(1976)年、三戸三碑修理顕彰会による“杉原凱先生之墓”の作業中、おびただしい数の人骨が墓の周りから出てきた。
 同年8月23日、顕彰会により骨を洗い清めて合同埋葬し、その上に無縁塔を建てて供養した。
 「三戸三碑」と呼ばれている1つ。


山内道義墓

 左側の1番前。
  斗南藩山内藤八
  長男諱義彦神霊
  行年二十二

美慶姫神霊

 右側の1番前。
 明治六年七月四日

山内重八墓

 左側の2番目。
  斗南藩山内藤八
  三男諱豊彦神霊
  行年八

源億誠神霊位

 右側の2番目前。
  明治六葵酉年
  二月九日

○姫神霊
 左側の裏側。
 上部が欠損。
  明治六葵酉年三月二日

源清彦神霊
 裏側3基の中央。

  義○○○○
   右側の裏側。
   1字以下は隔離している。

 万治元(1658)年、地元の有志が伊勢神宮の分霊を勧請し建立。
 祭神は、天照皇大神。
 ▲(三戸町大字同心町字諏訪内43 Tel. 0179-22-2501)


日本最古の白虎隊墓 (観福寺)

日本最古の白虎隊墓 日本最古の白虎隊墓

 明治4(1871)年1月13日、旧会津藩士/大竹秀蔵が三戸へ移住、早々に白虎隊墓を建立した。 碑には「明治四年未正月十三日」とある。
 初めて建てられた白虎士中二番隊の墓である。   
 故郷/会津では戦死者の埋葬すら禁止され、翌年に遺骸の埋葬は黙認されたが、墓碑の建立は許されなかった。
 明治6(1873)年になって、1,281体を埋葬した阿弥陀寺に「殉難之墓」の墓標を建てたが、長賊ら (民政局) によって削り取られた。
 白虎隊士も例外ではなく、ようやく飯盛山に一基の石碑が建立できたのは明治14(1881)年で、最初の慰霊祭が挙行できたのは明治17(1884)年、19隊士名の入った墓碑が建立されたのは明治23(1890)年である。
 全藩士が幽閉されていたため情報が錯綜しており、碑には17名刻まれているが、二十三回忌供養の際に19名に直されている。
 大正12(1923)年、この墓碑を訪ねた斗南藩士の倅/矢村績が檄文を観福寺に残している。
 斗南藩消滅で藩士たちの離散などにより、墓は草木に埋もれた。
 昭和25(1950)年、再発見される。 昭和39(1964)年との説も。
 昭和51(1976)年、顕彰会によって整備され、由来碑も建立された。
観福寺
 護念山。 浄土宗。
 本尊は、阿弥陀如来。
 総ケヤキ作り・薬医門形式の山門は、三戸代官所の門を移築。
 ▲(三戸町大字同心町字熊ノ林6-2 Tel. 0179-22-2272)

内藤介右衛門倉澤平治右衛門諏訪伊助妻などの墓 (高雲寺)

内藤介右衛門信節の墓 内藤介右衛門信節の墓

内藤介右衛門信節 .

 家老/内藤介右衛門信順の長男、幼名は近之助。
 家老/梶原平馬と、彰義隊に入隊した武川信臣の実兄。
 戊辰の役では勢至堂方面の陣将として出陣、家族は泰雲寺で自刃
 明治元(1868)年10月、松平容保喜徳公に従って上京し、久留米藩有馬慶頼の屋敷に幽閉。
 斗南藩/五戸へ移住し再婚、廃藩置県後も五戸に残り、開拓や子弟の教育に力を注ぐ。
 明治32(1899)年6月16日、死去。 60歳。
 「英烈寺殿信雄良節居士」。
 最初の墓域にある給水場の向かいにある。

倉澤平治右衛門の墓 倉澤平治右衛門の墓

倉澤平治右衛門

 本名は重為だが、戊辰の頃には右兵衛と称し、戦後に改名。
 上田八郎右衛門氏彬の6男。 新選組/斎藤一の妻/時尾の義父。
 斗南藩へ移住し、斗南藩の小参事に就任
 廃藩置県後は五戸町中ノ沢番外地5に永住し、私塾/中ノ沢塾を開き子弟の教育にも尽力、多くの人材を輩出した。
 明治33(1900)年12月10日、死去。 76歳。
 「曹源院範岳儒翁居士」。
  右側/中ほどにある。

諏訪伊助妻の墓 無名の墓

諏訪伊助妻 .
 後に夫/伊助は会津へ帰る。
 「旧会津藩家老諏訪伊助頼信後妻西郷十郎右衛門近登之孫母生一女明治四年辛未八月三日死歳二十六法名王量院殿○室月光大姉
        無名の墓 .  →
 「元会津藩明治戊辰之 戦争后陸奥五戸ニ移住 ○○○之二女○○○ 行年四十二歳 ○原家○○ 中興祖 荘祖院潔身妙浄大姉位 明治十有八年九月十日
  諏訪伊助妻の墓
  内藤介右衛門墓の先、墓域の縁にある。

 まだまだ数基の旧会津藩士の墓碑があるとのことだが、詳細は知らない。

高雲寺 《高雲寺》
 曹洞宗。 光明山。 本尊は、釈迦如来。
 慶長2(1597)年、木村杢助秀勝が開基とのこと。
 明治3(1870)年、斗南藩の最初の藩庁が五戸代官所に設置されたため、旧会津藩士たちの菩提寺になった。
 明治14(1881)年、藩士/大竹倉司の息子/保順が21世住職に就任。
 たんなる住職の任のみならず、地域の文化・教育に尽力する。
 大正から昭和初めまでは毎年、会津藩所縁の人々が集まり供養追悼会を開催していたが、いつしか、なくなってしまった。
 大正14(1925)年、友人の与謝野鉄幹・晶子夫妻が訪れ、歌を残している。
 ▲(五戸町字愛宕後24-1 Tel. 0178-62-3157)


 ここから1.2キロメートルほどの場所に、倉澤平治右衛門の屋敷があった。

倉澤平治右衛門の屋敷跡

倉澤平治右衛門の屋敷跡
 面影は何も残っていない。
 養女/時尾と一緒になった斎藤一夫妻も同居していた。
 明治3(1870)年、家族と共に五戸に移住すると屋敷内で私塾「中ノ沢塾」を開き、藩士の子弟のみならず地元の青少年の教育を行った。 年齢や修業年限を問わず無償で行ったため、子弟たちは薪を集めてきたり、台所を手伝ったり、野菜づくりすら進んで行っていたという。
沢平治右衛門の屋敷跡 沢平治右衛門の屋敷跡  後に地元の町長など数知れず、衆議院議員/中川原貞機、農哲学者/江渡狄嶺 (本名:幸三郎) など数多くの秀才を輩出した。
 [逸話]
 ▲(五戸町中ノ沢97
     旧/五戸町中ノ沢番外地5)
 高雲寺から向かい、国道4号の手前で左の道へ入り、間もなく右の眼下に見える家の隣り。


内藤田
 明治3(1870)年、内藤介右衛門信節は、挙藩流刑により東京の幽閉地から上市川村へ移り住むも、辛酸をなめる現実が待っていた。 藩の存続のため開拓に尽力したが翌年には廃藩、多くの藩士たちが去る中、残留して開拓と地元の子弟教育に生涯を捧げた。
 最初に移り住んだ上市川村で開墾した田は、今でも「内藤田」と呼ばれ残っている。   [逸話]
 ▲(五戸町上市川上市川)

佐川官兵衛居住地

 長命寺の戦いで父を失い、東京幽閉 (謹慎) 中に妻/カツも心労が重なり、明治2(1867)年6月14日に死去していた。
 明治3(1870)年、残忍非道な長賊の陰謀による挙藩流刑の地/五戸へ移る。
 60歳を超える老いた母/トシとの移住であった。
 明治4(1871)年7月、斗南藩/廃藩で自由の身となるや、最愛の妻/カツが眠る会津/大都村に移住する。
 帰郷すると直ちに、近郷の村に埋葬されていた妻を、長福寺に改葬している。
 ▲(五戸町倉石中市大久保平)

五戸代官所跡 (歴史未来パーク)

 斗南移住の第1陣は、明治3(1870)年4月19日に品川を出航し八戸鮫港に入港、陸路で翌20日に三戸で黒羽藩から藩領を引き継ぎ、五戸村にあった旧盛岡藩/五戸代官所跡に最初の藩庁を設置。 藩主/容大公は近くの三浦伝七宅に仮住まい。
 しかし、3か月後には、港のある田名部の円通寺に藩庁を移した。

 現在の建物は復元されたものだが、門は文久年間 (1861〜1864) の建築と推定されている。
 ▲(五戸町舘1-1)

戊辰戦争戦死者招魂碑 (澄月寺)

戊辰戦争戦死者招魂碑

 明治23(1890)年7月、戊辰の役/殉難者約3千人の二十三回忌を供養するために、地元の会津会会員によって建立された。
 自決した家老・重臣たちから、自刃した
戊辰戦争戦死者招魂碑 白虎隊士婦女子に至るまで全員が含まれている。
戊辰戦争戦死者招魂碑の裏文"  元藩主/松平容保の歌も刻まれている。
戊辰戦争戦死者招魂碑の説明文"
石川又右衛門・石川八重子

石川又右衛門・石川八重子

≪石川八重子≫  「淨明院賢室妙清善大姉」
 慶応4(1868)年8月23日 院内で自刃。 会津藩士/石川又右衛門の妻。
≪石川又右衛門≫  「清光院英山智雄禅居士」
 安政元(1854)6月15日死去。
 「明治四十年十一月処岩代国
  若松市静松寺移之改葬

石川作治の墓
石川作治        .
  高田謹慎後に、斗南藩へ .
石川家之墓
  移住し後に相坂村へ。   .
 「明治三十八年十二月十五日歿 .
    旧会津藩士 石川作治  .
       享年七十九歳
」  .


澄月寺
 曹洞宗。        .
 本尊は、釈迦如来。 .

 ▲(十和田市西三番町5-13 Tel. 0176-23-3000)

大竹保順との ご縁

 ◇ 法光寺    大竹保順が斗南藩へ移住した当初、居住。
           生活が困窮を極め、普賢院の弟子に入るまで逗留。
 ◇ 普賢院    剃髪し、仏門に入る。
 ◇ 伝昌寺    住持/下内順法に弟子として入る。
 ◇ 大慈寺    弟子として入る。
 ◇ 月窓寺    大学卒業後に入る。
 ◇ 高雲寺    住持に就き、住職の任のみならず、地域の文化・教育に尽力。

《墓碑》    井関鎮衛    立川直求など    上原安右衛門    伊藤傳伍

斗 南 藩 領 以 外 (青森県)

山浦鉄四郎中野優子 (御前神社/神葬祭墓地)

山浦鉄四郎・中野優子の墓

 墓碑は後に建立されたとのことだが、故郷/会津を向いている。
 墓碑の3側面に墓碑が刻まれている。
山浦鉄四郎≫  弘化元(1844)年、誕生。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従って上洛。
 一時、藩命により派遣された新撰組に入っている。
 戊辰の役では、籠城戦を戦い抜く。
 斗南藩へ移住し、蒲生誠一郎と改名。
 明治3(1870)年、三戸郡小中野村 (八戸市湊町) へ移住。
 明治4(1871)年、中野優子と結婚。
 明治12(1879)年、函館にて死去。 36歳。
中野優子
中野(蒲生)優子の墓所の説明文  嘉永7(1853)年、藩士/中野平内と母/こう子の娘として江戸/屋敷内で誕生。
 景や宇4(1868)年、母と姉たちと婦女隊として柳橋で戦い (当時16歳)、姉/竹子斃れたため介錯して首を回収した。
 その後、母と共に鶴ヶ城に入り籠城戦を戦い抜く。
 入城する時には斬髪にしていたので、白虎隊士に間違われたという逸話もある。
 昭和6(1931)年4月14日、死去。 79歳。

 兄/山浦鉄次郎武基一族の墓「山浦家之墓」も隣にある。
神田家之墓 山浦家之墓  他にも、八戸港の基礎を築いた神田重雄など会津藩士の子孫の墓も多いようだが、詳細は知らない。

 館鼻公園の一画にある。
 墓地の隣りにあった御前神社は対岸に移転してしまい、墓地だけが残った。

 八戸漁港を見下ろす館鼻公園内の真ん中に、大きな神田重雄の銅像が建立されている。

神田重雄の銅像

≪神田重雄≫
 明治7(1874)年4月22日、三戸郡湊村 (八戸市) に移住した会津藩士/神田小四郎の長男として、この地に誕生。
 昭和5(1930)年、八戸市/2代目市長となり、3期12年間務めた。
 八戸港の修築や市営魚市場の開設などに尽力し、現在の八戸港の基礎を築いた。 八戸銀行の経営不振の際には自ら再建に乗り出すなど、地域振興にも力を注いだ。
 昭和6(1931)年2月3日、東京日日新聞社主催の座談会の中での発言がきっかけとなって「八戸小唄」が誕生、観光にも尽力した。
 昭和22(1947)年、急性肺炎で死去。 享年74歳。
八戸港  昭和33(1958)年12月6日、八戸港を見下ろせる館鼻公園に、銅像が建立された。

 ▲(八戸市湊町館鼻78-16  館鼻公園内)

戊辰殉難会津藩士五十年祭紀念碑 (正覚寺)

 本堂の左側中ほどの塀際にある。
 明治13(1880)年から毎年9月に慰霊祭が開催されていて、戊辰の役での会津藩士/殉難者 2,790名の他に、その後も西南戦争の戦死者など追録供養していた。
 大正6(1917)年9月23日、青森県会津人会が主催した「戊辰五十年慰霊祭」の際に建立された。
正覚寺
 寛永2(1628)年、竜泉寺の住職/竜呑上人が開山。 無量山引接院、浄土宗。
 本尊は木像/阿弥陀如来。
 津軽三十三観音 (第二十二番)。
 ▲(青森市本町1-1-12 Tel. 017-776-3454)

招戦没諸士之魂碑 (青岩寺)

招戦没諸士之魂碑 招戦没諸士之魂碑

 山門を入った右手にある。
 大正6(1917)年8月23日、戊辰戦争五十年祭が開催された。
 その記念として、末永く後世に伝えようと、旧会津藩士20名により建立された。
 その旧会津藩士たちの氏名は、碑の裏側に刻まれている。
青岩寺  龍泉山。浄土宗白旗派。 本尊は、阿弥陀如来。
 天正10(1582)年、円良和尚が開山。
 安政2(1855)年、現在の本堂が再建。
 明治6(1873)年、旧七戸城本丸の城門を山門として移築。
 ▲(七戸町字町7 Tel. 0176-62-3222)

 斗南へ移住した前年、南部地方は大凶作に襲われていた。
 物価の上昇が激しく、地元民は会津藩が移住してきたからと考えた。
 明治4(1871)年5月10日から貨幣単位を両から圓 (1両=1圓) に切り替えたこともあって、米1石の金2.5両であったものが金6.0圓 (=6両) と大幅に上昇した。
 加えて、長賊らからの故なき「賊軍」という汚名の流布により、新政府を はばかって懇意にすることを地元民が躊躇した点も大きな要因であった。
 米の採れない地ゆえ、旧南部藩時代700年も年貢は金納であったのに、首脳部が気付かず米納を通達したこともあった。
 これら負の相乗効果により、地元民との間違った軋轢もあった。

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