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慶長5(1600)年2月から、会津120万石の藩主であった上杉景勝公によって築城された城。
[本丸図]
[A] 鶴ヶ城は、 ◇ 周辺の山などに近く、砲撃戦に弱い ◇ 浅瀬の湯川を利用しており、守りに不安がある との判断で、はるかに大きい大川の水を利用できる この地に、築城を始めた。 |
来るべき徳川家康との合戦に備えて築城を急いだといわれるが、本来の目的は新たな城郭を中心とする大きな町づくりにあったという。
12万人を動員し、昼夜にわたる突貫工事で進められた。
この時の総監が、直江兼続である。
弟の大国実頼が普請を務め、甘槽景継も兼続のもとで普請奉行を務めている。
この築城が、逆に家康に上杉公征伐の口実を与えてしまう。
直江兼続が全国的に名を知られるようになった「直江状」へとつながる。
完成していれば、鶴ヶ城の2倍の面積55ヘクタールの巨大な近代城郭で、東日本最大の城となり、後の戊辰の役でアームストロング砲の餌食にもならずにすんだと思われる。
関ヶ原の戦いの後に、景勝公の改易により、未完のまま破棄される。
現在は、本丸跡と二の丸の一部の跡が残っているだけ。
自然景観指定緑地の1つ (第19号)。
≪高瀬の大木(ケヤキ)≫
幹周り : 13メートル、樹高 : 25メートル。
推定樹齢 : 800〜1000年。
慶長5(1600)年に、上杉景勝公が神指城を築く前から、東北隅の土塁上にあった。 幹の中は空洞になっており、昭和24(1949)年の台風で大枝も折れたが、ケヤキの巨樹としては全国有数のものだけに、今なお樹姿は堂々としている。
周りには、その子のケヤキも、大きく生育している。
県指定緑の文化財。
昭和16(1941)年に、国指定天然記念物となる。
≪本丸の石垣の基礎石≫
この巨石はここより南方三百米の本丸に慶山村
「現・東山町」の山中から運んだといわれる石垣の
基礎石で昭和五十八年に ここに移し保存するもの
である。 (説明板より)
▲(会津若松市神指町大字高瀬字五百地)
鶴ヶ城から 4.9km
・見学自由
中野竹子の終焉の地。
昭和13(1938)年、建立。
江戸常詰勘定役/中野平内の長女として江戸に生れ、学問と薙刀を修める。
戊辰の役がぼっ発したため、会津に戻る。
父親の許可をもらい、鶴ヶ城に入るべく従軍したが、と遭遇し戦闘となる。
参加した女人 (婦女隊) は、
◇ 中野孝子(こう子) | 44歳、竹子の母 | |
◇ 中野竹子 | 19歳 | |
◇ 中野優子 | 16歳、竹子の妹 | |
◇ 依田まき子 | 35歳、依田源治 (京都/伏見で戦死) の妻 | |
◇ 依田菊子 | 18歳、まき子の妹、後に水島 | |
◇ 神保雪子 | 23歳、神保修理 (自刃) の妻 | |
◇ 岡村すま子 | 30歳位 | |
◇ 平田小蝶 | 18歳、竹子の義妹、後に戸田 | |
◇ 平田吉子 | 16歳、小蝶の妹 |
慶応4(1868)年9月4日、の奇襲を受ける。
壮絶な戦いで 19名中 13名が戦死した。 当初は全員討ち死とされたが、斎藤一たち6名は生き残っていた。
ここは、神指城/二の丸土塁の遺構の一部でもある。
樹齢は不明だが、樹高25メートルほどのイチョウの木がある。
激しい戦いを目撃していたのは間違いあるまい。
自然景観指定緑地の1つ (第33号)。
戦死者 13名 (新井破摩男、小幡三郎、清水卯吉、高田文二郎 高橋渡、森権次郎、森庵六之助、円尾啓二郎、 姓名不詳/夫卒 5名) 生存者 6名 (斉藤一、久米部正親、吉田俊太郎、 池田七三郎、志村武蔵、河合鉄五郎) 斎藤一の墓は、阿弥陀寺にある。 |
皆鶴姫は、源義経の後を追って、苦難の末に会津に至る。
しかし、この地で平家の追っ手と出会い、義経との間に生まれた赤子/帽子丸は、沼に投げ入れられ溺死してしまう。
憐れんだ村人たちは、沼を「帽子沼」と呼ぶようになった。
帽子丸の墓は、産土地蔵尊の隣りに、ひっそりと佇む。
寛永12(1635)年、幕命により加藤明成公は、キリスト教徒の横沢丹波一族と信者60余名を捕らえ、15人を処刑した。
キリシタン大名/蒲生氏郷公の入府により会津にもキリスト教が伝播し、一時的ではあったが若松では3割強、猪苗代では8割もがキリシタンになった。
昭和32(1957)年の農地整備の際、言い伝え通りの場所から人骨が見つかったため、昭和37(1962)年に塚碑が建立。
人骨が誰のものかは、分かっていない。
▲(会津若松市神指町黒川字薬師川原) 鶴ヶ城から 3.4km
・見学自由
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1千4百平方メートルほどのミニミニ公園に、身長2メートルほどの赤べコがいる。 揺れる首だけは再現されていないけれど、実にリアルに作られていて、どの角度から見ても可愛すぎる。 体内からの滑り台になっており、世界でただ一つの赤べコ遊戯だそうだ。 水飲み場や子供向けの腰掛も赤ベコで、取り囲むフェンスにも赤べコが描かれている。 |
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天元12(1543)年、越後の栖吉城主/長尾信景が上杉謙信に追われ、蘆名盛舜公を頼って会津へ逃れ、庇護の下、会津藩の豪商となる。
保科正之公が名付け、正容公が目黒浄庭に改築させた。
幕末には容敬公の信任が篤かった家老/丹羽能教 (丹羽五郎の曽祖父) が隠居後に住んでいた。
庭園内に、容保の歌碑が残っている。
「風をのみ いとひし庭の もみぢばを けふは雨にも 散らしぬる哉」
かつては御薬園・可月亭とともに会津三庭とされたが、今では雑草に覆われており、いずれ歴史から消えるのであろうか。
▲非公開 (会津若松市柳原町2-2) 鶴ヶ城から 2.2km