会 津 若 松 市 の 見 ど こ ろ

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飯  盛  山  周  辺

 飯盛山観光案内所については、こちら。


《現地観光案内板》
  いにしえ夢街道(406KB) まちなか周遊バス(229KB)

飯盛山 (いいもりやま)  ネットで参詣

 市の中心部の東側にあり、標高314メートルの山で市内が一望でき、飯を盛ったような山の形から名付けられた。
 山頂には、4世紀代の前方後円墳 (65m) と円墳があり、その後に山城 (飯盛山城) にもなっている。  [城図]
 白虎隊自刃の地としても知られ、「白虎隊十九士の墓」には年間200万人もの観光客が訪れる。
 日本で初めてお土産用の木刀が発売された場所でもある。
 慶応4(1868)年8月22日、新選組などの旧幕府軍700名が守る母成峠で、西軍2,000もの兵による侵攻があり、破られるとの一報が入った。
 主力部隊は、他の地域の守備に当たっており、不在だった。
 やむなく、白虎隊士中二番隊に出陣を命じ、松平容保みずから滝沢本陣にて指揮をとる。
 白虎隊は、15歳から17歳の少年たちで構成された藩主警護・後方支援の部隊である。
 少年兵たちは初陣であったが、戸ノ口原の戦いで勇敢に戦う。

戸ノ口堰洞門  圧倒的に多い敵兵の数に力およばず、撤退を余儀なくされる。
 戦闘中に隊長とはぐれた20名は、疲労と空腹に耐え、負傷者を抱え城に向かう。
 敵兵の目を逃れるため、猪苗代湖の水を若松に引くための戸ノ口堰洞穴をくぐりぬけ、やっとのことで飯盛山にたどり着く。

白虎隊十九士の自刃の地  そこで仰ぎ見たものは、城下全体をおおう大火災だった。
 鶴ヶ城も、すでに火焔に包まれていた。
 もはや藩主も生きてはおられまいと、誰もが考えた。
 西軍に屈するよりも会津藩と運命を共にしようと決意し、一刻も早く黄泉路を辿る藩主のもとに馳せ参じようと次々に自刃。
 蘇生した飯沼貞吉を除き、全員が死亡した。
 強制されたものではなく、指揮官なしで、最後まで統率が乱れなかった行動は、日本史上、稀有の出来ごとである。
 幼少期の「什の掟」と、当時の最高レベルであった藩校「日新館」での教育の賜物といわれている。

 実際は、城の周辺の武家屋敷などが燃えていただけだった。
 この後も、1か月の籠城戦を戦い抜くことになる。

白虎隊十九士の墓  ここでも西軍は、死体をそのまま放置しておくよう命じたため、埋葬もできなかった。
 見かねた肝煎によって埋葬された隊士の遺体は、再び掘り起こされ、元の地に打ち捨てられている。
 明治17(1884)年に、やっと墓が建てられる。
 白虎隊士の墓は、遠く鶴ヶ城の方を向いている。

 皮肉にも1人だけ生き残った飯沼貞吉によって、忠義の経過が語られ、広く知られるところとなった。
 一緒に死ねなかったことから、二度と若松を訪れることはなかった。
 後に、友が眠っているこの地へ、分骨された歯と遺髪が埋葬された。
 彼らの精神は日本のみならず、海外でも名が知れわたっている。
 特に、騎士道を重んじる欧州の国々などで賞賛されている。
 ローマから記念碑が送られ、ドイツからは石碑が建てられた。
 今も、墓前には香煙の絶えることはない。
 そして、霊を慰める 剣舞 が、春と秋の年二回、墓前で奉納され続けている。
 白虎隊の歌詞については。こちら。
 [閑話]

 ▲飯盛山スロープコンベア(会津若松市一箕町大字八幡字弁天下) 鶴ヶ城から 3.1km
   ・運行時間 8時〜17時
   ・運行期間 4月〜11月末日(降雪期は運休)
   ・見学時間 40分
   ・丁字路の信号を50メートル下った所に、市営の無料駐車場がある。
    無料の土産店の駐車場も多数あるが、地元ナンバーの車まで呼び込むほどの商魂。

さざえ堂 (栄螺堂、旧正宗寺三匝堂/さんそうどう)

さざえ堂

 寛政7(1795)年、僧/郁堂と棟梁との創意により飯盛山の中腹に着工され、翌寛政8(1796)年に完成した。
 旧正宗寺三匝堂として、国指定重要文化財
 高さ16.5メートル、真径6.3メートルの六角形の三層の不思議な建物で、木造二重らせんは世界で唯一とのこと。
 時計周りに螺旋状のスロープで上り、頂上の太鼓橋で反時計回り下りとなり、裏面から出る。
 上りと下りがつながっており、一方通行になっている。
 サザエの巻貝殻のの中のようで、平衡感覚がおかしくなような体験ができるだろう。
 堂の中を3回めぐることから、三匝堂の名がある。
 戊辰の役で奇蹟的に現存する江戸期建築の三仏閣の1つ(善龍寺/山門・法用寺/三重塔)。
 以前には、通路の内側に西国三十三観音像が祀られ、一回ですべての巡礼を終えることができるように造られていた。
 仏像は、戊辰の役での西軍による略奪と、大罪/神仏分離令 (廃仏毀釈) の強要により、残っていない。

 ▲(会津若松市一箕町飯盛山 Tel. 0242-22-3163 <旧/滝沢村> ) 鶴ヶ城から 3.2km
   ・8時15分〜日没まで(冬季は、9時30分〜16時)
   ・年中無休

旧滝沢本陣         ネットで見学

滝沢本陣

 文禄4(1596初)年建築の横山家主屋を、本陣としたもの。
 延宝6(1678)年に藩から本陣の命を受け、東側の追加増築に着手し、翌年から本陣として使用される。
 古い農民住居の姿を残しており、屋根は茅葺きで書院づくりの建物。
 現存する東北地方最古の民家である。
 横山家は、飯盛山城を城館としていた現在16代の旧家。
 国の史跡に指定、横山家住宅主屋と座敷は国指定重要文化財
 白河街道の滝沢口にあるため、領内巡視時の休憩場としてや、土津神社の祭礼、参勤交代の時の旅装を整える場として用いた。
 当時のままの御入御門、御座之間、御次之間などが保存されている。
 藩主の身回り品、参勤交代の道具類、古文書なども保管されている。

 戊辰の役では、藩主/松平容保が本陣をおく。
 白虎士中二番隊が、戸ノ口原戦場への初陣命令を受けた場所でもある。
 無数にある弾痕や刀傷が、戦闘の激しさを物語っており、生々しい。
 城下の建造物は、略奪後に焼き払われるか破壊されたが、当時の戦いの痕跡が完全な形で残っているのは、ここ滝沢本陣だけである。 開城後に は居残り組の監禁場所として使われた。

 ▲(会津若松市一箕町大字八幡字滝沢122 Tel. 0242-22-8525) 鶴ヶ城から 3.1km
   ・早朝から夕刻まで (8時〜18時)
   ・休館 年中無休 (冬季は予約が必要)

白虎隊記念館

白虎隊記念館

 士中二番隊19人の少年たちの自刃を通して、会津藩のみならず、武士の終焉を後世に伝えようとする資料館。
 飯盛山の参道を挟んで、スロープコンベアの反対側にある。
 肖像写真・肖像画などや幕府軍の資料、四斤大砲、鉄砲などの武器など1万2千点が展示されている。
 西軍が名付けた娘子隊と記載したり、案内のビデオで降伏開城を落城と呼ぶなど史実に難点はあるが。
 日本経済新聞の「女性がすすめる歴史資料館」では、5位にランキングされている。
 「会津復古会」加盟館。

 ▲(会津若松市一箕町大字八幡字弁天下33 Tel. 0242-24-9170 〔HP〕) 鶴ヶ城から 3.2km
   ・8時〜17時(12月から3月は、8時30分〜16時30分)
   ・年中無休
   ・館内撮影禁止

白虎隊伝承史学館

白虎隊伝承史学館

 白虎隊を中心にして、戊辰の役の資料を約5千点が展示されている。
 隊士が学んだ会津藩校日新館、戊辰の役にまつわる新選組なども含め、会津藩の歴史を今に伝える資料館。
 一昔前には、館長みずからが、わかりやすく解説してくれていたのだが。

 ▲(会津若松市一箕町大字八幡字弁天下 Tel. 0242-26-1022) 鶴ヶ城から 3.1km
   ・8時〜17時(12月から3月は、9時〜16時30分)
   ・年中無休
   ・館内撮影禁止

白虎隊士最初の埋葬地 (妙国寺)

白虎隊士最初の埋葬地(妙国寺)

 飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体を、最初に葬った場所。
 戊辰の役で開城後に、松平容保・藩主/喜徳公の父子などが約1か月間 (28日)、蟄居謹慎した寺でもある。
妙国寺の説明文
   [逸話]

 西軍は戦いが終了した後にも、遺体の埋葬を禁じた。
 自刃した白虎隊士の屍も例外ではなく、放置された。
 滝沢村の肝煎/吉田伊惣次 (治) が、密かに西軍の目を盗んで、この寺に仮埋葬した。
 すぐに発覚し捕らわれ、遺体は掘り起こされて元の場所に投げ捨てられた。

<町野主水/伝幕末の軍制(続き)と併記>  .

 ▲(会津若松市一箕町八幡墓料78 Tel. 0242-25-3337) 鶴ヶ城から 3.3km
   ・妙国寺については、こちら。
   ・見学自由


  「名刹と神社」は、こちら

会津大学 (University of Aizu)

 平成5(1993)年4月、コンピュータサイエンスに特化した日本初のコンピュータ専門大学として開校。
 全世界から教師を募集し開校時の82人中48人が外国人教師、語学系学部でもないのに学位論文の執筆および発表に英語を義務付ける日本で前例のない体制でスタートを切った。
 以降、創立間もない大学にもかかわらず、次々と功績を残している。
 藩校/日新館の例をとるまでもなく教育に力を入れる地域である。
 しかし、長賊末々の卑劣な妨害により短期大学しか開校できなかった。
 優秀な人材は進学のため会津から去らざるを得ず、4年制大学の設置は長年にわたる会津人の悲願であった。
 技術の進化が大きく変革する世界情勢を鑑み、姑息な邪魔だての続く中、平成4(1992)年4月に国立を断念し、公立大学として文部省に設置認可を申請、同年12月に認可を取得する。


 なお、北関東と東北地方における国から支給されている一人当り教育費は、現在でも西日本地方に比較して半分にも満たないことが、ほとんど知られていない。

 ▲(会津若松市一箕町鶴賀字上居合90 Tel. 0242-37-2500 〔HP〕)

舟 石            ネットで見学

舟石

 古道/滝沢坂の中間ほどにある大きな石。
 太古の昔、神が会津に来る際に乗ってきた船が、後に石と化したと語り継がれている。
 厚さ1メートル、幅3メートルほどで、座イスの形にも見える。
 平らな石の背に、船の帆のような八角形の岩が直立している。 昔は、民踊/磐梯山の歌詞に載るほどの名所であった。
 近くに舟石茶屋跡芭蕉の歌碑がある。
 滝沢本陣の前の道を直進し古道/滝沢街道を進めば至るが、お勧め道順は、金堀集落から古道/滝沢街道の長坂を上り、車止めから徒歩で5〜10分ほど下る。
 戊辰の役には、悲劇も起こっている。

 ▲(会津若松市一箕町八百山近く) 鶴ヶ城から 9.4km

大塚山古墳

 前方部は幅23メートル高さ3.5メートル、後円部は径45メートル高さ6メートルあり、全長114mの前方後円墳である。
 4世紀末に造られたと推測され、東北地方最古の古墳の一つ。 国指定の史跡
 大きさは、東北地方で第4位で、県内では会津坂下町の亀ヶ森古墳に次いで第2位の大きさ。
 飯盛山古墳、堂ヶ作山古墳などの一箕古墳群の中の一つ。
 昭和39(1964)年5月14日〜27日、発掘調査。
 昭和52(1977)年、出土品が一括して国指定重要文化財/考古資料になる。
 出土した三角縁神獣鏡や三葉環頭太刀、銅鏃など多くの遺物は、県立博物館天守閣郷土博物館に保管 (一部は展示) されている。   [獣鏡]
 大塚山城として蘆名氏の家臣/大塚氏の居城があった。
 土塁、堀、平場、虎口などが残るのみで、墓園になっている。

 ▲(会津若松市一箕町北滝沢) 鶴ヶ城から 3.6km


大塚山から眺望する堂ヶ作山古墳と飯盛山古墳

 右の写真をクリックで、現地案内板の文。
≪堂ヶ作山古墳≫
 大塚山古墳より小さいが、4世紀前半に築造と年代は古い。
 前方後円墳、全長84m、標高380mの山頂に築造。
≪飯盛山古墳≫
 4世紀前半か、5世紀前半に築造と推定されている。
 前方後円墳、全長70m、一箕町弁天の丘陵上に築造。

天子宮古墳
戸ノ口堰 戸ノ口堰第二発電所

長門屋会津駄菓子資料館

 東日本大震災で被災したため、閉館

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