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滝   沢   本   陣

▲(会津若松市一箕町大字八幡字滝沢122 Tel. 0242-22-8525)

駐車場入口  駐車スペースは、5〜6台の大きさ。
 観光シーズン時は、380メートルほど離れた市営駐車場へ。
 飯盛山入口下にあり、もちろん無料。

 以下の緑色の文は、現地の 「説明板」 から
 画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり

御入御門

 藩主が出入りする門。
 普段は、閉じられている。

冠門

 客人などが出入りする門。
 夜明けと共に開かれ、日没と共に閉じられる。

高札場

高札

 旧滝沢本陣は、江戸への主要な街道であった旧白河街道筋に位置し会津藩主参勤の滝沢峠越えに備えられ、延宝年間 (一六七三〜一六八〇) に滝沢組郷頭であった横山家に設けられた。
 以後、歴代藩主の参勤交代、領内巡視、藩祖保科正之を祀る土津神社への参詣に際し、休息所として使用されてきた。

 戊辰の役のときは、本営となり、慶応四年 (一八六八) 八月二十二日、藩主松平容保が白虎隊士中二番隊に、敵を迎え撃つべく戸ノ口原への出陣を命じたところでもある。
 平成十六年三月

会津若松市教育委員会

受付所

受付所

 参観料を支払う受付所は、一般の住宅。

 誰もおらず、赤い矢印の付いた手書きの紙が貼ってあった。
   受付不在の時には、玄関のベルを押してください。

大戸口 ( = 参観入口)

大戸口 (参観入口)

 拝観入口には、皇室の御来臨についての案内板が置かれている。
   御小休
  有栖川熾仁親王殿下御来臨  明治十四年十月
  三笠宮崇仁親王殿下御来臨  昭和四十七年七月
  秩父宮勢津子妃殿下御来臨  昭和五十三年六月

 中に入ると、案内の音声テープがエンドレスで流れている。

にわ ( = 土間)

にわ (土間)

 「にわ」とは、屋内にある床のない土間のこと。
 作業場でもある。
 「庭の続き」という意味から呼ばれている農家の言葉。
 当時の暮らしに使われていた農具が、所狭しと展示されている。
 大かまど、唐箕(とうみ)、田の草取機"ころばし"、八貫目30kg炭俵(楢炭)、醤油しぼり等の石臼が数種類、馬具など。
 なぜか、"北海道そり"もある。

唐箕(とうみ)、田の草取機 石臼や馬具 八貫目30kg炭俵(楢炭)

おめえ ( = 居間)

おめえ (居間)

 囲炉裏のある茶の間、居間のことで、板張り。
おめえに展示されている日用品  「御前」から生まれた言葉といわれている。
 「にわ」との間には、仕切りがある。

 当時の食器や酒壷などの日用品も展示。
中庭
 北と南側に窓が設けられ、光が入るようになっている。
 北側の窓からは、中庭らしき空間も見える。

納戸 (なんど)

なんど (納戸)

 季節の衣類や、日常使わない物をしまっておく物置部屋。
 寝室にも使われた。
 本陣になってからは、御膳仕立之間になった。


 本陣用の食器類や古文書などの史料が、ガラスケースに入って展示されている。
古文書などの史料 本陣用の食器類

座敷 (ざしき)

座敷 (ざしき)

 本陣になってから、三之間となった。

 当時の家具や日用品などが展示。
 畳敷きであるが狭く、御次之間への通路の感あり。

御座之間 (藩主の間)

御座之間

 左右は障子戸で、やわらかい外の光が差し込んでいる。

御次之間

御次之間 (武士の間)



遠州流庭園 遠州流庭園

遠州流庭園

 藩主の座の右手には、遠州流庭園が見渡せる。

夫婦松
夫婦松
 左手は、畳廊下の向こうの御入御門両脇に、
夫婦松が見える。


松平容保の肖像画松平容保の肖像画
 室内には、歴代藩主が愛用した身回り品や、参勤交代の道具などが陳列されている。
只見石 (ただみいし)
只見石 (ただみいし)
  藩主御愛用の 置石
  旧会津領 只見川産

彼岸獅子の図彼岸獅子
 朱雀隊を率いる日光口総督/山川大蔵は、五十里周辺の国境守備を指揮し田島村に宿陣していた。
 8月24日、母成が破られ、西軍が鶴ヶ城下に来襲の報・帰城の命が届けられた。
 「城中の兵少なく守備薄弱なり 速やかに帰城すべし 但し途中の戦闘は避くべし
 直ちに一部の守備隊を残すと出立した。
 本郷に至ると夕暮れとなったため、下小松村で宿営することにした。
彼岸獅子  一帯の村では戦火を逃れるため老人・婦女子は山中に避難しており、村には僅かばかりの者しかいなかった。
 放った密偵により鶴ヶ城は包囲されていることが判明、無傷での入城を思案していたところ、水島純から伝統芸能の獅子舞「彼岸獅子」に扮して入城する奇策が進言された。
 村の長老/大竹重左衛門と斎藤孫左衛門に計画を話すと、
  「松平三百年の恩顧に報いる時
と危険を承知で協力を快諾、村人を集め協議した結果、隊長/高野茂吉と独身の少年の計10名が選抜された。
 飯寺の西方で彼岸獅子の姿に着替えて勢揃いし、少年獅子隊を先頭に囃子を吹鼓しながら敵陣の中を進む。 あっけに取られ呆然と見送るだけの敵兵の前を威風堂々と通過して、味方と気付いて開かれた西追手門から、1兵の損失もなく入城を成し遂げた。
 獅子舞は形は違っても全国各地にあり、川原町大橋近くに布陣していた長賊と大垣藩兵などは、鉄砲を杖がわりにして眺めていた。
 城下に攻め込んだ敵の各藩は服装がばらばらで、敵・味方の区別ができなかったことと、あまりにも堂々としていたので味方の余興と勘違いしたのである。
 米代一ノ丁を抜けて西出丸から隊列が城内に入るや大歓声が上がり、ようやく会津藩兵だったと気付き地団駄を踏んで悔しがった。

畳廊下

畳廊下 弾痕

 弾痕

  戊辰戦争弾痕
  慶応四年八月二十三日

弾痕 弾痕 弾痕
 畳廊下の両側の仕切り障子腰板や柱には、無数の貫通痕が残っている。
 弾道から見ると、本陣の正面からの銃撃である。
 9センチ角の柱をも貫通しており、当時の戦闘の激しさを物語っている。

 穴の大きさが、様々に違う。
 使用されていた銃が、まちまちだったことが分かる。
 米国/南北戦争は、銃器が飛躍的に改良された戦争だった。
 たまたま終結直後だったため、武器商人たちは不要になった銃器を東西両軍に売り込んだ。
 両軍合わせて、30種類もの銃があったという。
鶴ヶ城老杉の大砲弾片

大砲弾片

 戊辰の戦役で西軍の砲撃を受け砲弾を撃ち込まれたお城の老杉です。破片を残しています。

刀傷 刀傷
 慶応四年八月二三日
 戊辰戦争、刀傷

 刀傷は、後に屯所として使った西軍が、余興にか切り付けたものである。

湯殿

湯殿 湯殿の入口

 歴代藩主ご使用の御湯殿。
 その奥に、御厠がある。

手塚治虫

 会津を愛した手塚治虫は、会津を題材にした作品を数多く描いている。
 それらについて、説明している真新しい案内板があった。


名子屋 (なごや)

 名子とは、本百姓の指示で労働に従う身分の低い農民のこと。
 屋敷外に住む者もいたが、ほとんどは本百姓の屋敷内に住んでいた。

 本来の使用目的は、土津神社祭礼や領内巡視の際に休息するための本陣であった。
 天和3(1683)年に発生した地震による山崩れのため、参勤交代で通る下野街道が不通となり、白河街道に変更された。
 その際でも、江戸へ向かう旅装を整える場所であって、砦などの軍事施設ではなかった。
 他の藩主が訪れる際、服装の着替えなどにも使っていた。
 文化財と聞くと、荘厳な建築物をイメージするが、普通の民家、むしろ雪国としては小さめである。
 大軍による攻撃にも耐え抜いた鶴ヶ城と比較しても、余りにも普通の建物である。
 それだけ平和だったことが偲ばれる。

 その平和は、戊辰の役で様変わりする。
 母成が破れたとの報により、この本陣に藩主/容保が出向き、指揮を取ることになる。
 主力部隊は、日光口や越後口などの守備に就いており、鶴ヶ城には老人と少年だけだった。
 そのため藩主警護のために同行したのが、白虎隊士中二番隊である。
 頼みとした十六橋までも突破されるとの悲報に至り、やむなく隊士にも出陣命令が出されたのである。
 主戦場の戸ノ口原は10キロほど先だったのに、皮肉にも自刃した地は、初陣の命を受けたこの本陣から、直線距離にして300メートルしか離れていない。

 歴史の1コマを想い浮かべて訪れれば、東北地方で1番古い農家も、建物とは別の顔を見せてくれるはず。

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