藩士たちは、猪苗代と塩川に謹慎させられていたが、戦死者を放置するなど民政局 () への不満が高まり、“開城をすべきでなかった”との意見まで出るようになった。
不満の爆発を恐れた民政局は、雪解けとともに埋葬することを密約し、藩士たちを松代藩 (後に東京に変更) と高田藩に「永の預け」と称し、正月明けから1月末までに移動を終えた。
当然、各々の菩提寺への埋葬と、だれもが思っていた。
ところが、雪が解け死臭が漂い始めた2月になって、小田山の西南方の畑地脇、通称/五社壇と呼んでいた場所を指定してきた。
古くから藩士の馬や罪人を埋葬してきた不浄の地である。
とても、呑める条件ではない。
あまりの反発に驚いた民政局は、藩の処刑場近くなら黙認すると言い出した。
そこで、涙橋近くの寂れていた阿弥陀寺に埋葬することになった。
その際でも、家族・縁者には、遺体に触ることすら許さなかった。
当初の餞民 (非人) による遺骸の取り扱いは、ごみを扱うように穴に投げ入れられた。
余りのひどさに、伴百悦が餞民に身を落とし、指導することになる。
この後も伴百悦の活躍は続き、阿弥陀寺と長命寺の他にも、光明寺、妙国寺、戸ノ口原、猪苗代/西円寺など
16か所で、総数で 2,033体 (1,634体とも) の遺体を埋葬したという。
春と秋の彼岸には、供養祭が営まれている。
掘られた穴の大きさは、東西に約4間、南北に約12間、深さは数間ほどであった。
伴百悦が指導してからは、ムシロを敷き、遺体を並べ、さらにその上にムシロを敷き、遺体を重ねていった。
頭だけは、北向きにしたとのことである。
1,281体で満杯になったため、残りの145体は長命寺に運んだ。
しかし、墓標を建てることは許されず、建てた墓標は撤去された。
壇に設けた小さやかな拝台までも壊された。
古来より日本には、死ねば敵も味方も、すべてが仏になるという死生観があったのだが、無知蒙昧で卑劣な長賊ら下郎は黙殺したのである。
明治6(1873)年になって墓碑を建てることになったが、「殉難之碑」は許されず、単なる「戦死墓」の3文字しか刻むことができなかった。
大庭恭平筆「殉難之墓」の墓標は 、
(民政局) が削り取った。
家老/萱野権兵衛(かやの ごんべえ、ごんのひょうえ)。
開城後、藩主/松平容保を命がけでかばい、長賊が要求する戊辰の役の責任を一身に背負う。
明治2(1869)年5月18日、東京の飯野藩保科家下屋敷にて切腹。
享年40歳 (42歳とも)。
墓は、天寧寺と東京白金の興禅寺にある。
鶴ヶ城内に萱野国老殉節碑、余市町に殉節碑がある。
次男が、悲劇の郡長正 (萱野乙彦) である。
一刀流溝口派の相伝者であった萱野は、秘伝が絶えないようにしようと、切腹前に井深宅右衛門に火箸を使って奥義を伝授したという。
明治10(1877)年、積年の恨みを晴らすため、真の官軍/警視隊として西南戦争に多くの旧会津藩士が馳せ参じた。
明治11(1878)年、慰霊碑/忠魂碑として建立。
殉ぜられた佐川官兵衛ほか70名の名が刻まれている。
昭和4(1929)年、建立。
戦死墓の柵の門扉手前
向かって左手にある。
明和4(1767)年、高さ1丈2尺 (3.7m)の大仏が、飯盛山にあった正宗寺 (戊辰の役でに焼き払われ廃寺) に建立。
戊辰の役の時、は寺宝のみならず青銅製の大仏すら略奪・解体したが、あまりの重さに運ぶことをあきらめ、町民たちへ強制的に買い取らせた。
頭・手・胴・蓮華座などバラバラのまま野ざらしにされていたが、ようやく2年後につなぎ合わされ、同じく野ざらしにされていた藩士たちが眠るこの地に再建された (写真提供:山口新吉 氏)。
しかし、太平洋戦争の金属類回収令でお出かけになったまま、いまだお帰りになっていない。
墓地前の灯籠2基は、鶴ヶ城内にあった東照宮に奉納されていたものである。
開城後に、東照宮はに破壊され撤去されたが、灯籠だけは篤志家の尽力により消滅を免れ、この地に移された。
明和5(1768)年の年代が刻まれている。
「明和五年戊子」
黒河内伝五郎
慶応4(1868)年8月23日、若松の自宅で自刃。
居合術の師範を務め、一刀流剣術、柔術、薙刀術、手棒術、手裏剣術、鎖鎌術まで指南する無類の武芸者で、和歌にも秀でていた。
老いて失明したが、日々の鍛錬は怠らず心眼を得るに至り、手裏剣などは老いても百発百中であったという。
後に座頭市のモデルになったとされる。
の来襲を聞き、床に伏していた次男/百次郎を介錯し自刃した。
65歳。 「進義院剣巧盡忠居士」
黒河内百太郎
伝五郎の長男。 名:義次。
大砲士中二番千葉隊。
慶応4(1868)年8月23日、天寧寺町口で負傷し、翌24日に自刃。
43歳。 「勇進院鐵生義柱居士」
黒河内百次郎
伝五郎の次男。 名:義兼。
朱雀士中四番隊/佐川隊。
慶応4(1868)年6月に越後で負傷し、8月23日に療養中の自宅で自刃。
36歳。 「清義院剣応浄忠居士」