戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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阿 弥 陀 寺 (ネットで墓参)

戦死墓の墓域
戦死墓の墓域
▲(会津若松市七日町4-20
  Tel. 0242-27-7445)
阿弥陀寺については、こちら。

戊辰戦争戦没者

戦死墓の墓域

 藩士たちは、猪苗代と塩川に謹慎させられていたが、戦死者を放置するなど民政局 () への不満が高まり、“開城をすべきでなかった”との意見まで出るようになった。
 不満の爆発を恐れた民政局は、雪解けとともに埋葬することを密約し、藩士たちを松代藩 (後に東京に変更) と高田藩に「永の預け」と称し、正月明けから1月末までに移動を終えた。
 当然、各々の菩提寺への埋葬と、だれもが思っていた。
戦死墓の石柱  ところが、雪が解け死臭が漂い始めた2月になって、小田山の西南方の畑地脇、通称/五社壇と呼んでいた場所を指定してきた。
 古くから藩士の馬や罪人を埋葬してきた不浄の地である。
 とても、呑める条件ではない。
 あまりの反発に驚いた民政局は、藩の処刑場近くなら黙認すると言い出した。
 そこで、涙橋近くの寂れていた阿弥陀寺に埋葬することになった。

 その際でも、家族・縁者には、遺体に触ることすら許さなかった。
 当初の餞民 (非人) による遺骸の取り扱いは、ごみを扱うように穴に投げ入れられた。
 余りのひどさに、伴百悦が餞民に身を落とし、指導することになる。
 この後も伴百悦の活躍は続き、阿弥陀寺と長命寺の他にも、光明寺妙国寺戸ノ口原、猪苗代/西円寺など 16か所で、総数で 2,033体 (1,634体とも) の遺体を埋葬したという。

 春と秋の彼岸には、供養祭が営まれている。

戦死墓 (会津藩戦死者の墓)

戦死墓 (会津藩戦死者の墓)

 掘られた穴の大きさは、東西に約4間、南北に約12間、深さは数間ほどであった。
 伴百悦が指導してからは、ムシロを敷き、遺体を並べ、さらにその上にムシロを敷き、遺体を重ねていった。
 頭だけは、北向きにしたとのことである。
 1,281体で満杯になったため、残りの145体は長命寺に運んだ。
 しかし、墓標を建てることは許されず、建てた墓標は撤去された。
 壇に設けた小さやかな拝台までも壊された。
 古来より日本には、死ねば敵も味方も、すべてが仏になるという死生観があったのだが、無知蒙昧で卑劣な長賊ら下郎は黙殺したのである。
 明治6(1873)年になって墓碑を建てることになったが、「殉難之碑」は許されず、単なる「戦死墓」の3文字しか刻むことができなかった。
 大庭恭平筆「殉難之墓」の墓標は 、 (民政局) が削り取った。

萱野長修遥拝碑

萱野長修遥拝碑

 家老/萱野権兵衛(かやの ごんべえ、ごんのひょうえ)。
 開城後、藩主/松平容保を命がけでかばい、長賊が要求する戊辰の役の責任を一身に背負う。
 明治2(1869)年5月18日、東京の飯野藩保科家下屋敷にて切腹。
 享年40歳 (42歳とも)。
 墓は、天寧寺と東京白金の興禅寺にある。
 鶴ヶ城内に萱野国老殉節碑、余市町に殉節碑がある。
 次男が、悲劇の郡長正 (萱野乙彦) である。
 一刀流溝口派の相伝者であった萱野は、秘伝が絶えないようにしようと、切腹前に井深宅右衛門に火箸を使って奥義を伝授したという。

報国尽忠碑

報国尽忠碑

 明治10(1877)年、積年の恨みを晴らすため、真の官軍/警視隊として西南戦争に多くの旧会津藩士が馳せ参じた。
 明治11(1878)年、慰霊碑/忠魂碑として建立。
 殉ぜられた佐川官兵衛ほか70名の名が刻まれている。

復禄記念碑

戊辰戦争五十年記念碑

 昭和4(1929)年、建立。
 戦死墓の柵の門扉手前
向かって左手にある。

戊辰戦争五十年記念碑  .

 大正6(1917)年、戊辰の役  .
から50年を記念して建立。   .
 戦死墓の柵の門扉手前、  .
向かって右手にある。      .
奉請廬舎那仏鎮座

奉請廬舎那仏鎮座

 明和4(1767)年、高さ1丈2尺 (3.7m)の大仏が、飯盛山にあった正宗寺 (戊辰の役でに焼き払われ廃寺) に建立。
廬舎那仏
 戊辰の役の時、は寺宝のみならず青銅製の大仏すら略奪・解体したが、あまりの重さに運ぶことをあきらめ、町民たちへ強制的に買い取らせた。
 頭・手・胴・蓮華座などバラバラのまま野ざらしにされていたが、ようやく2年後につなぎ合わされ、同じく野ざらしにされていた藩士たちが眠るこの地に再建された (写真提供:山口新吉 氏)。
 しかし、太平洋戦争の金属類回収令でお出かけになったまま、いまだお帰りになっていない。  [資料]

墓地前の灯籠

 墓地前の灯籠2基は、鶴ヶ城内にあった東照宮に奉納されていたものである。
 開城後に、東照宮はに破壊され撤去されたが、灯籠だけは篤志家の尽力により消滅を免れ、この地に移された。
 明和5(1768)年の年代が刻まれている。
  「明和五年戊子」


黒河内伝五郎、百太郎、百次郎 .

黒河内伝五郎、百太郎、百次郎の墓

黒河内伝五郎
  慶応4(1868)年8月23日、若松の自宅で自刃。
  居合術の師範を務め、一刀流剣術、柔術、薙刀術、手棒術、手裏剣術、鎖鎌術まで指南する無類の武芸者で、和歌にも秀でていた。
 老いて失明したが、日々の鍛錬は怠らず心眼を得るに至り、手裏剣などは老いても百発百中であったという。
現地文  後に座頭市のモデルになったとされる。
 の来襲を聞き、床に伏していた次男/百次郎を介錯し自刃した。
 65歳。 「進義院剣巧盡忠居士」

黒河内百太郎
  伝五郎の長男。 名:義次。
  大砲士中二番千葉隊。
  慶応4(1868)年8月23日、天寧寺町口で負傷し、翌24日に自刃。
  43歳。 「勇進院鐵生義柱居士」
黒河内百次郎
  伝五郎の次男。  名:義兼。
  朱雀士中四番隊/佐川隊。
  慶応4(1868)年6月に越後で負傷し、8月23日に療養中の自宅で自刃。
  36歳。 「清義院剣応浄忠居士」

「斎藤一(藤田五郎)の墓」は、こちら。

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