江  戸  湾  防  備  /  殉  難  者

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神   奈   川   県

横    須    賀    市

「腰越墓地 (三昧堂/さめど)」 については、こちら。

「西徳寺」 については、こちら。

「城山墓地」 については、こちら。

円照寺

円照寺の会津藩士・家族墓

会津藩士・家族墓

円照寺

 松平容衆台場構築防備任務藩士。
 藩士と家族の墓6基。

 無縁仏として集積されており、墓石の側面を読むことが出来ない。

三如院妙相日等大姉 会津 和田賢温妻之墓

三如院妙相日等大姉
 奥州会藩士水野権左衛門長寛後妻之墓父佐川幸右衛門直○嫁於水野権左衛門長寛卒年六十有五葬干東向山円照寺  文化十四年丁丑春三月  孝子水野長澄建

和田賢温妻之墓


会津 和田平次左衛門母之墓 会津 和田平次左衛門妻之墓

和田平次左衛門母之墓


和田平次左衛門妻之墓


妙華童女 会津 石澤義則三女 会津之士 柴山千代之助墓

妙華童女 石澤義則三女
 両親は、対岸の富津/正珊禅寺で眠っている。

柴山千代之助墓

 ▲(横須賀市走水2-9-9 Tel. 046-844-6288)

能満寺

無縁仏群の右側

会津藩士・家族墓

 松平容衆台場構築防備任務藩士。

能満寺



 無縁仏群に集積されており、墓碑銘は読めない。

雄正院○〜○ 梅渓○〜○ 大圓智○〜○ 覚夢玄空童子、花顔妙秀信女 渓院祖庭圓達居士ほか6仏
一勺淨光信○ほか3仏 献珠妙了信○ 寒山自徹信○
同會○〜○ 同會○〜○
同會○〜○ 同會○〜○ 同會○〜○ 同會○〜○

 会津藩関係の墓は無縁仏群の右側とのことであったが、左側にも「會」を冠している墓碑があった。

無縁仏群の右側 同會○〜○ 同會○〜○

 ▲(横須賀市鴨居2-24-1 Tel. 046-841-1668)

文覚畑 (西叶神社)

文覚畑

 明治3(1870)年、越後/高田東京での永禁固が解かれた藩士の大半は斗南へ移住したが、10年にも亘る江戸湾防備の任に就いた三浦半島の地に移住した藩士も多くいた。
東福寺
橋本家之墓 穴澤家之墓 鹿目家之墓

 墓域の石段を上り切り、民家のある頂上に出る。 さらに、フェンスと民家の間を進むと、その先に 「文覚上人の庵跡」 がある。 その区域の一番奥に3基が並んでいる。

分家 鹿目家之墓 鹿目家之墓
 鹿目常吉  進撃隊三番炮組、越後/高田で永禁固。
 碑文 鹿目家ハ旧會津藩士也、明治三年当浦賀町エ移住ス、旧墳墓は岩代国若松市南町真宗明栄寺在リ当時ノ戸主鹿目常吉ハ幼名ヲ幸之助ト云ヒ字ヲ忠屋ト稱ス
穴澤家之墓
 穴澤與十郎 (旧姓/小林繁之助)  林砲兵隊寄合組、越後/高田で永禁固。
 碑文 穴澤家者旧會津藩士也慶応戊辰役後有故移居於浦賀于時明治三年也 明治四十四年二月建之 與十郎命 大正元年八月一六日歿
橋本家之墓
 橋本猪之太(猪之多)  進撃隊二番炮組、越後/高田で永禁固。西南戦争に警官として参加し戦死。
 碑文 橋本家ハ旧會津藩士ナリ明治維新後浦賀ニ移住ス 猪之多命 明治十年五月八日肥後国大開山ニ於テ戦死ス 大正元年十一月十二日建之

 ▲(横須賀市西浦賀3 叶神社裏山)

常福寺仏堂・寿光院

会津関係者の墓?

 入口の地蔵堂裏に、3基の墓碑がある。
 判読はできないが、会津関係者と思われるとのこと。
 過去帳には会津藩士の墓があるとのことだが、今では分からないそうだ。
  願譽  可順 .   法○
常福寺仏堂・寿光院
美都姫之墓 美都姫之墓
 同じ地蔵堂の裏にある。
 数メートル後方に実家の墓があるため、この地に埋葬されたとのこと。
 小林  旧會津藩士 小林栄三郎
 明治十九年五月十四日 母 みつ  享年七十一


 ▲(横須賀市西浦賀町5-15-31 Tel. 046-841-4016)


浦賀奉行所の跡 浦賀奉行所跡の碑
近くに、三浦半島での江戸湾防備を    .
引き渡した浦賀奉行所の跡がある。    .

乗誓寺

佐伯成忠の墓

佐伯成忠 (杉浦家の墓)

 旧/会津藩士。
 本名:杉浦成忠
 裏山の中腹で、浦賀湾が望める高台にある。

 「釋妙證大姉 明治二十七年三月二十一日 シヨ 八十三才
  速證院釋一乗大居士 明治二十九年五月十七日 佐伯成忠 五十七才
  大光院釋尼妙静善女 明治三十二年八月三十九日 コウ 五十一才


 ▲(横須賀市東浦賀1-20-10 Tel 046-843-6677)

三       浦       市

大椿寺

大椿寺 大椿寺の説明板

 「椿の御所」と呼ばれ、本端寺「桜の御所」、見桃寺「桃の御所」とともに、源頼朝由来の三御所の一つ。

会津藩士墓
 松平容衆台場構築防備任務藩士。
 墓域に2基、裏山に5基。

 本堂左側の墓域で、石段を上った所に並んでいる。

長井左京 長井左京の妻

泰清院殿勇叡義容居士 長井定興。
 左京君諱定興世會津藩臣初為代官見習考定武君老以番代為外様士歴物遷組頭考卒襲禄転家老組組頭〜

寳鏡院殿真淨妙現大姉 長井定興の妻。
 長井氏奥之會津人甚右衛門定武之女定武無男子以原利隆之子左京定興為養子以配之〜


裏山への入り口

 奥の階段を上り、フェンス沿いに5〜6メートルほどの、右側の藪をかき分け上った先の裏山にある。
 トゲのある草木が数本あるので、ご注意を。
 墓碑の周りは、下草が刈り取られて清掃されている。
 草が生い茂って進むのが困難なので、枯れる冬場がお勧め、


河野通武の母 福田林助豊重 二宮正意の娘

亮鏡院湛然妙寂大姉
 (左)會津 河野通武母之墓 (右)文政二己卯年四月四日
  篤叟宗義居士
   (左)會津 福田林助豊重之墓 (右)文政二己卯年 七月二六日
    現光院明誉曜照童女
     (左)會津 二宮正意娘墓 (右)文政三庚辰年 二月十九日

能保の母 了春童女

霊松院明操守節大姉
 (左)會津族能保女之墓
 (右)文政元戊寅 九月廿一日

了春童女
 (左)會津香坂宗考○〜(埋まって読めず)
 (右)文政三寅辰年 正月十有六日

 ▲(三浦市向ケ崎町11-1 Tel. 046-881-3572)

長善寺の飛地墓地

長善寺の飛地墓地

会津藩士・家族墓

 松平容衆台場構築防備任務藩士。
 藩士と家族の墓2基。
長善寺の飛地墓地
 真浄院の真向かいで、原万堂菓子舗の隣にある墓域。
 石段を上って、すぐ右手。


象外智遊童子 帰真 無礙淨心信士

象外智遊童子
 山口氏墓 文化十癸酉年 九月十六日

無礙淨心信士
 3基の列の真ん中の墓碑。
 大森氏之墓 文化十四年丁丑正月二十八日

 ▲(三浦市三崎町諸磯963)

最福寺

高津忠貴妻之墓

高津忠貴妻之墓

 会津藩士の妻。
 山門の右手で、庫裡の傍らにある。
最福寺

 ▲(三浦市白石町6-23
    Tel. 046-881-2882)

鎌       倉       市

鎌倉霊園

  足立林太郎
 名:民治。 墓碑は「足立民治」。
 麟太郎、五郎、林五郎、林之緒介とも。
 美濃厚見郡岐阜町出身の新撰組隊士。
 慶応3(1867)年6月以降に新撰組入隊。 平隊士。
 鳥羽伏見で負傷し、江戸へ帰還後に脱走。
 「大正八年八月十六日没 行年七十三才
 墓碑には、同名のご子孫も刻まれていた。
足立林太郎
 ▲(鎌倉市十二所512 Tel. 0467-22-7238)

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