戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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大 窪 山 墓 地 (西麓)

大窪山墓地 大窪山墓地の説明文


(資料提供) 栗城英雄 氏「会津先賢者の墓石を訪ねて/栗城訪霊著」
 

町田高恒

 詳細不詳。
 高義とも。
 慶応4(1868)年8月12日没。
 (明治2(1869)年没とも、戦死ではない?)
町田高恒の墓
 

友松氏興 .

 元和8(1622)年、高知/土佐の城下に生まる。
 13歳の時、信州高遠城主/保科正之公に仕える。
 保科正之公の命により「会津風土記」を編纂し、後に運命を変える「家訓15力条」制定にも携わる。
 「東奥散士友松氏興之墓
 土津神社の末社「忠彦霊社」に祀られている。
友松氏興之墓

高橋栄次郎の墓

高橋栄次郎

 兵粮方。
 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。
 30歳。
 「忠達義照居士」


高橋の墓

高橋伴治

 慶応4(1868)年4月19日、戦死。
 詳細不詳。


河原善左衛門、勝太郎、岩次郎の墓 河原善左衛門、勝太郎、岩次郎 .
 慶応4(1868)年8月23日、滝沢村/一箕山八幡神社の境内で奮戦、親子兄弟3人とも戦死。
河原善左衛門政良
   国産奉行。    43歳。 「政良神霊」
≪河原勝太郎
   善左衛門の伜。 15歳。 「政誠神霊」
≪河原岩次郎≫
   善左衛門の弟。 39歳。 「政忠神霊」

 同日、善左衛門の母/キク (68歳) と、娘/クニ (9歳) が石塚観音堂の前で自害。
   右側に 「登美媛神霊 (キク)」  左側に 「久仁媛神霊 (クニ)」

町田兵太輔の墓

町田兵太輔

 詳細不詳。
 源八郎の父/兵太夫とも。
 「今回墓地整理ニ當リ止ムナク先祖遺骨ヲ茲に合葬ス 昭和十五年」とある。


向山利信の墓

向山利信

 戊辰(1868)年9月24日、戦死。
 「壽昌院義山忠道居士」
 詳細不詳。


佐川直邑妻之墓

佐川直邑妻

 佐川官兵衛の母の墓。

 夫/幸右衛門 (軍目付) は、8月29日の長命寺で負傷。
 9月3日に鶴ヶ城内で死去。


杉浦家の墓

杉浦家の墓

≪杉浦丈右衛門≫  正奇隊/中隊頭。 46歳。
   慶応4(1868)年8月29日、長命寺で負傷し、城内で死去。
≪杉浦弥次郎≫  丈右衛門の次男。
   進撃隊/小室隊世話役物頭席。 28歳。
   慶応4(1868)年8月29日、長命寺で戦死。
≪杉浦弥五郎≫  丈右衛門の5男。
  大砲一番田中隊。 21歳。
   慶応4(1868)年9月5日、住吉河原で戦死。


杉浦小膳の墓

杉浦小膳

 通称/勝之助。丈右衛門の伜。
 妹1人を含み、家族11人の墓。
 大砲二番高橋隊。
 慶応4(1868)年6月26日、白河で負傷し、
   7月29日に若松で死去。
 18歳。


鈴木義衛の墓

鈴木義衛


 独礼、徒目付。
 慶応4(1868)年8月27日、鶴ヶ城で戦死。
 (24日とも)。
 31歳。
 「忠了院義運日明居士」


榎田[某]

 詳細不詳。
 「明治元戊辰年十月朔日」
 「心空了圓信士」


高橋啓四郎

 大砲白井隊。
 慶応4(1868)年1月5日、鳥羽で負傷、2月5日に江戸で死去。
 24歳。
 京都/黒谷に慰霊碑がある。


田代仙太郎の墓

田代仙太郎 .

 明治元年(1868)年10月23日に青木の病院で死去。
 資料に病死とあるが、病院に収容されているので戦傷であろう。
 所属部隊、戦闘地など詳細不詳。
 「一應了心信士」
 田代家墓内で、まとめられた墓群の中。
 墓碑の裏に、名が刻まれている。


志賀勘兵衛の墓

志賀勘兵衛

 孫太郎の父。
 青龍士中一番隊/鈴木隊。
 慶応4(1868)年5月1日、白河で戦死。
 48歳。


木本内蔵丞成紀之墓

木本内蔵丞成紀 .

 通名:内蔵丞。 名:成紀。
 藩士/木本蔵登と母/とき (山内氏) の倅。
 青龍士中一番隊/中隊頭。
 慶応4(1868)年8月27日、新橋で負傷。
 翌28日に鶴ヶ城内で死去。
 (29日に死去とも)。
 の大砲部隊が陣取る小田山を奪還すべく突撃。
 38歳。
 慶応4(1868)年3月20日、青龍士中一番隊の中隊頭を命じられる。
 4月 5日、白河戦撤退の報を受け、白河街道の要衝/勢至堂に向けて出陣し赤津村に宿陣。
 5月25日、飯土用村に宿陣していたが、白河へ出陣の命が発令される。
 5月26日、白河/金勝寺山に布陣して戦うが、利あらず飯土用村へ撤退する。
 6月12日、奥羽列藩同盟軍と呼応して白河総攻撃に参戦するも、利あらず上小屋に撤退。
 6月27日、再び白河城攻撃を敢行するも、奪回できず。
 8月16日、今泉村の戦闘でを撃退し、さらに進軍するが、8月23日に鶴ヶ城下にが侵入との報を受け撤収することになる。
 8月25日、東山方面から敵中を突破して不明門から帰城する。
 8月27日、極楽寺の僧侶が裏切り、城の弱点である小田山にを案内し大砲部隊が構築中との報を受け、攻撃するも奪回出来ず。
 翌日に藩境から帰城する主力部隊が、攻め難い小田山に陣を構える予定だった。
 再び薄暗い時刻 (28日早朝とも) に隊士58人を率いて攻撃を仕掛けるが、猛烈なる狙撃を受けて負傷し、城内に搬送されるも当日に死去した。
 開城後、裏切りを知った藩士/武田宗三郎によって、極楽寺の僧侶は斬殺された。

木本蔵登成光 .

 寛政4(1792)年9月19日〜慶応4(1868)年 (77歳)
 木本成完の嫡男。 内蔵丞の父。
 文化6(1809)年、家督を継ぐ。
 文政2(1819)年、江戸詰/表留守居役となる。
 慶応4(1868)年8月23日、鶴ヶ城下で負傷し、
  10月に青木/御山病院で死去。
  77歳。 「成光彦神霊」
 妻は、とき (山内氏)。 沼沢道子が次女。

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