天文22(1553)年、正福寺 (黒川三ノ丁) の僧/称節が再興。
お日市 7月14日。
▲(会津若松市馬場町)
お日市 7月10日。
▲(会津若松市馬場町)
長照山、日蓮宗。
慶長9(16904)年、佐渡の妙宣寺/日円上人が移り住み開山。
日円上人は妙宣寺も兼務するが、35年間住み続け寛永16(1639)年3月24日に この地で寂滅した。
宗祖御尊像は、かつて軽井沢銀山の珍宝山法華寺にあったものが銀山衰退で廃寺となり、本山であった久福寺へ移ったと伝わる。 冬の間は寒さを防ぐため真綿がかぶせられる。
境内の御堂には、鬼子母神が従仏10体と共に安置されている。
参道脇にも、お稲荷さんが祀られている。
吉村寛泰の母が奉納した灯籠1対は、本堂前に現存している。
殉難者墓あり。
▲(会津若松市馬場本町2-6 Tel. 0242-22-6802)
元徳2(1330)年、葦名盛宗公の重臣/富田祐義の帰依により、福菴宗己禅師が開山。
禅師は、元の国で修業し、帰国して会津を巡錫していた。
元徳2(1328)年に大光禅師が開山とも。
安吉山、臨済宗妙心寺派。 本尊は聖観世音菩薩。
永正11(1514)年、関東十刹に列せられる。
文禄元(1592)年、蒲生氏郷公の町割のため現在地に移る。
戊辰の役でに寺宝は略奪され堂宇すべてが焼き払われたが、隠した「実相寺文書」だけは免れた。
飯盛山にある「さざえ堂(正宗寺)」は、実相寺の末寺であった。
歴代の刀工/古川兼定の菩提寺であったが、平成に入り墓は富山県に移された。
また1つの歴史が消えた。
お日市 7月17日。
町廻り三十三観音の第八番 馬場五之町。
▲(会津若松市馬場本町2-28 Tel. 0242-22-0623)
天文19(1550)年、佐原義連公が、黒川城の西南に真言宗/東典寺として創建。
照光山東典院、浄土宗。 本尊は阿弥陀如来。
高厳寺の末寺。
天文19(1550)年、隣海上人が浄土宗/清林寺に改めて開山。
文禄元(1592)年、蒲生氏郷公の町割りで、現在地に移る。
昭和42(1867)年、老朽化のため堂宇が新築される。
源義経は、皆鶴姫の霊を弔うため難波寺を創建し、阿弥陀三尊 (作/恵心[源信]) を安置した。
慶長年間(1596〜1615)、難波寺が荒廃したため、三尊像は清林寺に移された。
戊辰の役から逃れた三尊像だったが、明治初期の火災で焼失してしまった (戊辰の役で焼失とも)。
殉難者墓あり。
▲(会津若松市馬場本町3-1 Tel. 0242-22-6654)
・祭礼 7月25日
延宝2(1674)年、長命寺の住持/行春が隠居寺とし、長命寺の境内に草創。
慈眼山、真宗大谷派。
本尊は、阿弥陀如来。
本山は、京都/東本願寺。
戊辰の役で堂宇すべてが焼失、日新町から現在地に移る。
戊辰の役では、長命寺の攻防で激戦地となったが、長命寺の「親鸞絵伝 (親鸞一代絵巻四巻)」を密かに移して隠したため、の略奪から奇蹟的に免れ、今に残っている。
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▲(会津若松市馬場本町4-10 Tel. 0242-22-2868)
至徳元(1384)年、葦名直盛公が東黒川館の築城時に勧請。
寛文6(1666)年、保科正之公が三の丸から本丸に移築。
明治に入り、鶴ヶ城が取り壊されたため、城内にあった稲荷神社の御神体を合祀安置し、鶴ヶ城稲荷神社と改称。
その後、遠藤啓士が鶴ヶ城跡地を買い取り消滅が免れたため、鶴ヶ城の帯郭に再建されたが、御神体 (狐を乗せた神) は残っている。
お日市 7月13日。
▲(会津若松市馬場町)
明徳2/元中8(1391)年、葦名盛政公が創建し、会津生れの僧/日什大正師が開山。
正和3(1314)年に母/清玉姫の実家/蘆名氏が創建とも。
宝塔山。 顕本法華宗の別格山。
伊達正宗公の会津侵攻により破壊されたが、文禄2(1593)年に蒲生氏郷公が現在地に再建。
宝永6(1709)年、火災で焼失した堂宇を再建。
戊辰の役で、すべてが焼失。
現在の堂宇は、明治44(1911)年から大正初期にかけて再建されたもの。
自然景観指定緑地の1つ (第9号)。
開祖/日什大正師の入滅の地でもある。
什門ノ三本山の1つ (「涅槃ノ寺」、京都/妙満寺「転法輪ノ寺」、静岡/玄妙寺「得道ノ寺」)。
法要毎の御報恩謝徳の塔が、本堂の左手前に並び建立されている。
会津藩校/日新館の石橋の一部/欄干と、烈婦/中野竹子の父/平内・母/こう子の墓がある。
▲(会津若松市馬場本町3-34 Tel. 0242-22-6803)