戊  辰  の  役  /  殉  難  者

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]     [メニュー]

鶴   ヶ   城   内


 [閑話]   [遺命]    [長賊らの悪行の数々]

梨子園跡

仮埋葬した梨子園跡

 二ノ丸伏兵郭にあった。
 籠城戦の中、次々に倒れていく戦死者を、この地に葬った。
 藩主/松平容保は、開城後まず梨子園跡と空井戸に香華を供え礼拝をしてから、城を後にし謹慎先の妙国寺に入った。

 現在、テニスコートになっている。

空井戸

仮埋葬した空井戸

 三の丸にある古井戸。
 籠城戦の中の戦死者は梨子園跡に埋葬していたが、多数におよび、使用していなかった空井戸にも仮埋葬した。
 藩主/松平容保は、開城後まず梨子園跡と空井戸に香華を供え礼拝をしてから、城を後にし謹慎先の妙国寺に入った。

「萱野国老殉節碑」 は、こちら。

天神橋

天神橋

 慶応4(1868)年8月23日、主力部隊不在の城下に怒涛の如く押し寄せたは、藩境の守備をしていた主力部隊が帰城する前に、何としても落としたかった。
 味方と思わせ裏で寝返っていた卑劣な三春藩は、熊野口と呼ぶ南側が防御面で城の弱点と進言する。
 は、対岸の静松寺墓地内に大砲を据え終ると、密かに湯川を渡り、熊野口の南門から三の丸への侵入を図った。
 が偵察していることを察知していたものの、兵士の余力はなかった。
 急きょ、役人、文官、学者、使役人など38名をもって、守備隊を結成した。
 が南門に近づいた時、門を開き、たまたま滞在していた水戸藩脱藩者も加わり80余人が槍を携えて一気に突入した。
 突然の白兵戦に驚愕し混乱したは、次々に槍の餌食となった。
 しかし、文官などの速成部隊の悲しさ、逃げ惑うを深追いした。
 対岸からの狙撃兵の一斉射撃を受け、渡川中では隠れる場所もなく、多くが戦死した。
 湯川は敵味方の屍で、真っ赤に染まったという。 [戦闘図]
 その後、執拗な攻撃に対しても鶴ヶ城の守りは堅固で、開城をするまでの1ヶ月もの間、籠城戦が続くことになる。

<「鶴ヶ城の郭門」と併記>    .
 ▲(天神橋付近)

佐川官兵衛顕彰碑

 平成13(2001)年9月22日、三の丸跡に建立。
 陸上競技場と文化センターの間で、分かりづらい。
 戦死した熊本県阿蘇郡から寄贈された石で造られている。
 別撰組/隊長として京都市中の警護にあたり、鳥羽・伏見の戦い後は、越後口や鶴ヶ城外など各地で奮戦した。
 無類の強さを発揮し 「鬼官兵衛」 「鬼佐川」 の異名で恐れられた。
 西南の役が起きるや否や、受けた屈辱を晴らすべく、豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として旧藩士の巡査隊を率い参戦。
 明治10(1877)年3月18日、想いを吐き出すように奮戦し、阿蘇山中の黒川村にて散った。
 警視局指揮旗に自筆で「勝軍」と記し、すべての手持ち品を宿泊所の人に託し、「世話になった」 と別れを告げ、それまで見せた事もない穏やかな顔で出陣したという。
 享年47歳。
 墓は、大分県護国神社境内の警視局墓地にある。

<喜多方市/佐川官兵衛夫妻の墓と一部併記> .
 ▲(三の丸を横断する道路沿い)

《鶴ヶ城からの逃亡者は、一人も出なかった》
 は、籠城戦がはじまると、鶴ヶ城の南口をわざとあけておいた。
逃亡者を捕まえて、城内の内部事情を知ろうとしたのである。
 の意に反し、女子供すら一人も逃げ出なかった。
(西郷頼母/父子を除いては!)
 逆に城外で戦っていた会津藩士は、敵の兵力が少ないことに目を付け、
開城まで城への補給路に利用した。

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]     [メニュー]