戊辰の役に関する参考書籍 (非公開/スタッフ専用)

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]     [メニュー]

会津人の書く戊辰戦争 [宮崎一三八/恒文社]

<※ 上記書籍から抜粋>  .

《 帯 》
 会津の人びとにとって「この前の戦争」とは―ーー。
 それは太平洋戦争でも日中戦争のことでもなく、戊辰戦争を意味する。 薩長藩閥政府によって“朝敵”“賊軍”の汚名をきせられた会津人の痛憤と悲しみを、地元出身の著者が、独自の史眼をもって綿密な資料収集の末に描いた、鎮魂の書−−−
《 47ページ 〜 》
《 53ページ 〜 》
《 63ページ 〜 》
《 69ページ 〜 》
《 70ページ 〜 》
《 84ページ 〜 》

 <239〜255ページに、飯盛山の白虎隊士墓整備の経過や、
            苦難、論争などが爽々と記載されている>

《 アーネスト・サトウ (E.M.Satow) 》
 19世紀末から20世紀当初のイギリス極東政策の指導的外交官。
 文久2(1862)年9月から前後27年間日本に滞在した。
 1842(天保14)年ロンドンで誕生。
 少年時代に兄が図書館から借りてきた日本を記載したローレンス・オリファントの本を読み、日本に憧れるようになる。
 18歳でイギリス外務省の通訳官試験に合格。
 1862(文久2)年9月8日、憧れの日本駐在となり、横浜港に到着。
 1866(慶応)年明、横浜の領事館から公使館に転勤移動。
 同年12月12日、情報収集の任を受け、長崎・宇和島・鹿児島・兵庫などを巡覧する。

 1843(天保13)年6月30日〜1929(昭和4)年8月26日 (86歳)
 <イギリスの外交官、公使館の通訳、駐日公使、枢密顧問官>
 1843(天保13)年、ソルブ系ドイツ人の父/デーヴィッドとイギリス人の母/マーガレットの3男としてロンドン北部クラプトン (ミドルセックス州ハックニー区)で誕生 (6男5女)。
 「サトウ」は、スウェーデン領生まれドイツ系人である父のスラヴ系の姓/サトウで、日本の姓/佐藤とは無関係なのだが、日本姓として漢字/薩道・佐藤を名乗っていた。
 本名  : サー・アーネスト・メイソン・サトウ (Sir Ernest Mason Satow)
 日本名 : 薩道愛之助、薩道懇之助。
 日本滞在(含/一時帰国) : 1862年〜1883年、1895年〜1900年 (駐日公使)。
 1862年9月8日(文久2年8月15日)、イギリス駐日公使館の通訳生として横浜に着任。
 1865(慶応元)年4月、通訳官に昇進。
 1870(明治 3)年、1年間の賜暇で横浜港からオタワ号でイギリスへ帰国。
 1870(明治 3)年11月、賜暇が終わり日本に戻る。
 1871(明治 4)年、日本人女性/武田兼 (カネ、内妻) と結婚
 1875(明治8)年、2度目の賜暇でイギリスへ帰国。
 1877(明治10)年1月、日本に戻る。
 1880(明治13)年、長男/栄太郎が誕生。
 1883(明治16)年、次男/久吉が誕生。 後の植物学者・7登山家/武田久吉で、尾瀬の保護に尽力し「尾瀬の父」で知られており、ミニ尾瀬公園に武田久吉メモリアルホールがある。
 同年、3度目の賜暇でイギリスへ帰国。
 1884年、内妻/兼の名義で、麹町区富士見町4丁目 (千代田区富士見2丁目、現/法政大学の80年館/図書館・研究室棟) の旧旗本屋敷/約5百坪を購入。
 シャム駐在総領事代理、ウルグアイ駐在領事、モロッコ駐在領事などを歴任。
 1895(明治28)年7月28日、駐日特命全権公使として日本に戻る。
 明治33(1900)年、第6代/駐日特命全権公使を退任。
   ※ 薩長との海戦に勝利したイギリスが、植民地としての監視の任を受け、
     役割を遂行していたことも忘れてはならない。
 これ以降、来日はしなかったが、内妻/兼、子供への経済的支援は続けていた模様。

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]     [メニュー]
《戊辰の役に関する参考書籍》