戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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中 通 り 地 方 (福島県)

以下の緑色の文は、現地の「説明板」から  .
画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり  .

二    本    松    市

二本松少年隊の供養塔 (大隣寺)

二本松少年隊
二本松少年隊の墓(右側) 二本松少年隊の墓(左側)
二本松少年隊の説明文

 戊辰の役で奮戦した12歳から17歳の総勢62名の少年達。
 当時には、隊名は付けられていなかった。
 戊辰戦没者五十回忌記念に刊行の「二本松戊辰少年隊記」からである。
 勇猛果敢な戦いをするも、犬畜生にも劣る三春藩の裏切り (面従腹背) により、輝く未来が待っていたはずの多くの若い命が、無残にも散った。

副隊長/二階堂衛守と隊士/岡山篤次郎戦死の地碑 《戦死の地碑 (二階堂衛守・岡山篤次郎)》 .
 特に、木村銃太郎率いる総勢27名は大壇口での戦いで奮戦、隊長/木村が戦死したため、副隊長の二階堂衛守と隊士/岡山篤次郎が隊長の首を持ち帰る。
 大隣寺の門前まで来たところで、狙撃されて戦死した。
 副隊長の二階堂は33歳、岡山は13歳だった。
 隊長と副隊長を含め、10名が戦死、5名負傷している。
 大隣寺は、二本松藩主/丹羽家の菩提寺である。
 白虎隊と同様、故郷を守るために義に殉じ、若い命を散らした悲しい出来事の1つである。
 霞ヶ城跡にも、群像彫刻と顕彰碑が建立されている。

会津藩仙台藩戊辰役供養塔

会津藩兵と仙台藩兵の戊辰戦役供養塔

 二本松で戦死した会津藩兵と、仙台藩兵の慰霊碑もある。
 会津藩は、桜井弥一右衛門率いる朱雀足軽二番隊が日光口から本宮へ入り、井深兵之進率いる猪苗代隊は本堂口から入り奮戦。
 戦死者30名を超え、負傷者は数知れず。
 仙台藩も、戦死44名、負傷34名を出す。


成田才次郎 .

 二本松藩/成田外記右衛門の次男 (嫡男)。
 母:文久2(1862)年5月に死去。 姉:いち (佐倉強哉の前室)。
 所属隊は、銃太郎隊。
 慶応4(1868)年7月29日、二本松城郭内で長賊/小隊長/白井小四郎を討ち取るが、一斉射撃を受け戦死。
 14歳。
 「一透院鉄関了重居士」


二階堂衛守 .

 諱:信近。 二本松藩家老/大谷信義の次男。
 二本松藩番頭/大谷鳴海の弟。
 妻/あさが、戦後に男児を出産。
 鎌倉時代の遠祖の姓/二階堂を名乗る。 銃太郎隊の副隊長。
 慶応4(1868)年7月29日、木村銃太郎隊長を介錯したあと、隊士/岡山篤次郎と共に その首を運んでいるところを、大隣寺門前で狙撃され戦死 (即死・33歳) した。 「円成院卍相意得居士」
 隊員のうちで三十三歳と最年長であった。
 隊長・副隊長を失った二本松少年隊は、大混乱に陥り、大半が戦死することになった
 ▲大隣寺 (二本松市成田町1-532 Tel. 0243-22-1063)

      道路の向かい側の建物 (土産店・食事処) に、
     少年隊の勇士像がある。


青山霊園の「二本松藩士戦死者慰霊塔」「武将戦死者慰霊塔」は、こちら。

宇南山父子. (台運寺)

宇南山父子(台運寺)

宇南山政吉
 生駒五兵衛の家来。
 慶応4(1868)年8月23日、大町通りで戦死。 44歳。

宇南山芳樹
 政吉の伜。 大砲士官。
 慶応4(1868)年8月23日、金堀で戦死。 18歳。


奥田午之助 .

 二本松藩士/奥田権之助の長男。 弟:房次郎。
 所属隊は、高根隊を経て銃太郎隊。
 慶応4(1868)年7月29日、成田村竹ノ内で戦死。
 15歳。 「全勇了光居士

 同日。父/権之助も二本松城郭外で戦死。
奥田権之助
 二本松藩/広間番。 「正進院覺全浄徹居士


中村久次郎 .
 二本松藩士/中村幾馬の弟。
 所属隊は、樽井弥五左衛門隊。
 慶応4(1868)年7月27日、糠沢村上ノ内で戦死。
 17歳。 「大誉勇進居士」


上崎鉄蔵 .
 諱:正吉。 二本松藩士/上崎織衛と母/スマの長男。
 所属隊は、大谷志摩隊。
 慶応4(1868)年7月29日、二本松城郭内で戦死。
 16歳。 「清勇院光嶽自性居士」
 出陣する際、見送りの母と祖母が「行ってこいよ」と言うと、「今日は、行けよでしょう」と微笑み、頭を下げ駆け足で出かけたという。
 戊辰戦争五十年忌法要で、母/スマは句を捧げた。
  「言の葉の 耳に残るや 今朝の秋

根来梶之助
 二本松藩大城代/内藤四郎兵衛の3男。 根来市左衛門の養子。
 長兄:内藤隼人、叔父:高根三右衛門。 所属隊は、大谷志摩隊。
 慶応4(1868)年7月29日、二本松城郭内/箕輪門前で戦死。
 16歳。 「大進全勇居士」
台運寺  墓石の腐朽が激しく識別不可。

 少年隊士たちの他にも、滝川九右衛門 .、久保彦次郎 .
、原兵右衛門 .、月岡貞之介 .など二本松藩士の殉難者が
数多く眠っている。
 ▲(二本松市竹田2-142 Tel. 0243-22-3665)


戦死七人之碑 . (取揚坂)

戦死七人之碑(取揚坂)  慶応4(1868)年7月29日、善戦虚しく二本松城 (霞ケ城) は落城したが、二本松藩士は諦めず戦い続けた。
戦死七人之碑(取揚坂)  同年8月17日、会津方面に退却しつつも、会津藩・仙台藩・米沢藩と協力して霞ケ城を奪回すべく進軍を開始した。
 取揚坂で敵兵と激突し激しく戦った。
 その戦いで戦死した東軍7名の供養碑だが、会津藩士はいない模様。
 ▲(二本松市渋川字取揚)

木村銃太郎 . (正慶寺)

 二本松藩の武衛流砲術師範/木村貫治と母/センとの長男。
 継母/ミテ、妹/たに・のぶ (ミテの連れ子)、弟/彦吉。  曾祖父:渡辺東岳。  広間番。 丹羽右近隊大砲方で、少年隊/隊長。
 慶応4(1868)年7月28日、大壇口で左腕と腰に被弾。
 翌7月29日に死去。 22歳。
 「功光院武勇居士」

 身動きが出来なくなり、副隊長/二階堂衛守に介錯させた。
 少年たちは素手で土を掘って、隊長の遺体を埋めたという。
     [逸話]
 ▲(二本松市竹田2-132 Tel. 0243-23-0322)

岡山篤次郎 . (蓮華寺)

 幼名:徳治-篤治-篤次。 諱:道貫。
 山奉行/岡山持二と母/”なお”との次男。 兄:昇。
  所属隊は、銃太郎隊大砲方。
 慶応4(1868)年7月29日、副隊長/二階堂衛守と2人で隊長/木村銃太郎の首を運んでいるところを、大隣寺門前で狙撃される。
 13歳。
 「孝徳院忠隆日満居士」

 の宿舎に寺が接収され、肉食禁止の本堂客殿で鶏などを屠殺し、その肉を貪り食うなどの傍若無人に、十九世住職/日勇は抗議して、の目の前で割腹している。

 ▲(二本松市松岡37 Tel. 0243-22-4177)


小澤幾弥 . (法輪寺)

 名:正直。 二本松藩士/小澤左内の弟。
 江戸定府の父の倅として江戸にて誕生。
 所属隊は、朝河隊。
 慶応4(1868)年7月29日、二本松城郭内で戦死。
 17歳。 「自休院本源正直居士」


 ▲(二本松市松岡37
    Tel. 0243-22-4177)



小澤幾弥戦死の地


▲(二本松市本町一丁目)
   二本松商工会議所と市立図書館の傍ら

心安寺墓地

木村丈太郎 .

 諱:正明。
 二本松藩士/木村五右衛門の長男。
 所属隊は、銃太郎隊。
 慶応4(1868)年7月29日、二本松城郭内新丁で戦死。
 14歳。
 「透雲院大道了閑居士」


徳田鉄吉 .

 諱:茂勝。
 肝煎/徳田茂承(文久3年5月30日死去)のと母/秀との倅。
 弟:肝煎/徳田佐七郎。
 所属隊は、銃太郎隊。
 慶応4(1868)年7月29日、大壇口で奮戦後、二本松城郭内新丁坂の麓/自宅付近で戦死。
 13歳。 「覚性院哲顔英居士」


  高橋辰治
 墓面の劣化が激しく、識別不可とのこと。
 二本松藩士/高橋文平の3男 (次男とも)。 所属隊は、銃太郎隊。
 慶応4(1868)年7月29日、大壇口の戦いで顔面を負傷し、帰宅の途中、二本松城郭外で激戦に遭遇し堀の中に身をひそめていた時、通りかかったに単独で切り込み戦死した。 13歳。

 称念寺/畠山家の墓地の裏側にある。
 少年たちの墓域は大隣寺が管轄とのこと。

 ▲(二本松市本町1-148
      称念寺墓地に隣接)

大桶勝十郎 . (善性寺)

 二本松藩士/大桶源太夫の長男。
 所属隊は、銃太郎隊大砲方。
 慶応4(1868)年7月29日、大壇口で奮戦後、二本松城郭内新丁で戦死。
 17歳。 「勇情院誠誉主心居士」


 ▲(二本松市根崎1-249
      Tel. 0243-22-0938)


遊佐辰弥 . (本久寺)

 諱:正道。 与力/遊佐昇之進の3男 (弟とも)。
 所属隊は、銃太郎隊。
 慶応4(1868)年7月29日、二本松城郭外で戦死。
 13歳。 「専義院正道日心居士」

 ▲(二本松市根崎1-267-1
      Tel. 0243-23-7681)


田中三治の墓については、こちら

大      玉      村

戊辰戦争三十一人戦士の墓 . (山入古戦場)

戊辰戦争三十一人戦士の墓 (山入古戦場)

 慶応4(1868)年8月20日、幕軍伝習隊を主力とした東軍は、二本松を奪還すべく母成峠より進出し、山入村にてと戦闘になった。
戊辰戦争三十一人戦士の墓 (山入古戦場)  翌日にわたる戦いで、会津藩士3名、二本松藩士1名、伝習隊士39名が戦死した。 内31名は包囲され戦利あらずと自刃したという。

 平成3(1991)年10月、玉井史談会によって、戦死者43人の名を刻んだ碑が建立された。

後 世 に 語 り 継 ぐ
 戊辰の役山入村 (玉井村) の戦い
 慶応四年 (一八六八) 一月三日、京都 鳥羽伏見において 徳川幕府軍十五代将軍徳川慶喜と薩摩長州、土佐等の (西軍) との間に戦端を開いた戊辰戦争は 西軍の勝利となり 四月十一日江戸城は開城となり 徳川幕府崩壊し明治新政府が誕生した。 しかし西軍はあくまでも会津討伐を目的とし進軍し 奥羽攻防となり白河城、棚倉城、三春城が落城 そして七月二十九日には二本松城が落城した。
 山入村 (玉井村) の戦いは 八月二十日会津侵攻に向けて本営宿より玉井村に進軍した西軍と 会津母成峠より出撃し山入村に進軍した会津軍との間に 山入村の西の内、黒沢、五ノ神、宇津野地区を中心に起こった戦いで 本宮、二本松に終結した西軍三千名は一部二百名を陽動部隊として中山峠攻撃に向け 残る二千七百名の主力は 玉井村に滞陣した会津軍が山入村に進軍しているとの情報を得た西軍は 五百名が進撃を開始した  一方会津軍の陣営は 手志子森に旧幕府伝習第二代替二百名が陣を構え 左翼の西の内には二本松兵 右翼の五ノ神、宇津野方面には会津仙台兵二百を配置した布陣であった。
 左翼の二本松兵に攻撃を加えた西軍は 本道をさけて竹の内地区の南を流れる安達太良川を越えて進み 途中で流れが二手に別れ北の寺沢川を進んだ一隊は左翼の兵に 西に進んだ一隊は右翼の兵に攻撃を加え 又林道を進んだ西軍は六角本揃、小菅と侵攻し 油渕の北側シダ林周辺より伝習隊に銃撃を加えた。
 伝習隊の陣地には大砲一門据え西軍を迎え撃ち 又先鋒隊は各所で西軍と銃撃戦や白兵戦を展開した  八月二十日午後3時頃に両軍兵が激突した戦闘は薄暮れ過まで続き 会津軍の両翼の兵に戦力が乏しく敗退、伝習大隊のみが奮戦するも西軍に三方より包囲され 多大の損害を受て母成峠に向けて敗走した 二本松少年隊の説明文  後に残る会津軍有士三十一人 戦利あらずと枕をならべ腹かっきり討死した  その後九月二十二日会津城が開城した  山入村の戦死者は 会津軍四十三名 西軍四名 二本松少年隊本村死二名であった。
 以上語り継ぐ
玉ノ井史談会    .

会津藩(3名)
 猪苗代勇壮隊井深組
  梶田銀蔵  8月20日に戦死 埋葬地
  原政治  8月20日に戦死 埋葬地
  吉田長治  8月20日に戦死 埋葬地
   
二本松藩(1名)
 大谷鳴海隊
  松本織之助  8月20日に戦死 大組広間番 埋葬地
   
旧幕府軍(39名)
 伝習第二大隊
  浅井清之丞  8月7日に戦死 差図役並
  秋山仁助  8月9日に戦死 嚮導役
  磯村悦次郎  8月9日に戦死 嚮導役
  梅里保三郎  8月9日に戦死 喇叭役
  玉木久次郎  8月9日に戦死 嚮導役
  西宮浅吉  8月9日に戦死 雇夫取締
  山本稲之助  8月9日に戦死 差図役
  山本房二郎  8月9日に戦死 嚮導役
  丸尾三郎  8月20日に戦死 調方
  浅右衛門  8月9日に戦死 雇兵
  亀三郎  8月9日に戦死 雇兵
  勘右衛門  8月9日に戦死 
  勘吉  8月9日に戦死 雇兵
  喜兵衛  8月9日に戦死 雇兵
  金蔵  8月9日に戦死 雇夫
  金八  8月9日に戦死 雇夫
  慶三郎  8月9日に戦死 雇夫
  仁三郎  8月9日に戦死 雇夫
  発市  8月9日に戦死 雇兵
  政吉  8月9日に戦死 雇夫
  松五郎  8月9日に戦死 雇夫
  元二郎  8月9日に戦死 雇夫
  要助(要蔵とも)  8月9日に戦死 雇夫
  米蔵  8月9日に戦死 雇夫
  良平  8月9日に戦死 雇夫
  熊二郎  8月20日に戦死 歩兵小頭
  竹二郎  8月20日に戦死 歩兵小頭
  源助  8月9日に戦死 雇兵
  源太  8月9日に戦死 雇兵
  小三郎  8月9日に戦死 雇兵
  小兵衛  8月9日に戦死 雇兵
  庄七  8月9日に戦死 雇夫
  甚之介  8月9日に戦死 雇夫
  清吉  8月9日に戦死 雇夫
  清七  8月9日に戦死 雇兵
  清助  8月9日に戦死 雇兵
  竹三郎  8月9日に戦死 雇兵
  藤吉  8月9日に戦死 雇夫
  吉蔵  8月9日に戦死 歩兵小頭
戦死者氏名の碑      ・松本織之助は、石莚村で戦死、
      それ以外は、山入村で戦死
     ・石莚村は会津領、山入村は二本松領
     ・年代は、慶応4(1868)年
二本松少年隊
 左手前に、久保兄弟の新しい墓標が建てられていた。
 墓は、玉泉寺にある。

  二本松少年隊  両名とも7月29日の二本松大壇の戦いで負傷。
   久保鉄次郎 (十五才) 12月6日に玉井の野戦病院で死去
   久保豊三郎 (十二才) 11月1日に玉井の野戦病院で死去

 ▲(大玉村玉井字亀山)

久保鉄次郎・豊三郎 . (玉泉寺)

 に野戦病院 (玉泉寺など) と称する収容所へ家畜同様に詰め込まれ、まともな治療も施されないまま、豊三郎は11月1日、鉄次郎は12月6日に破傷風が悪化し死去した。
 両名とも重症であったため、同じ所に詰め込まれているとは知らず、お互い兄弟を心配しつつ亡くなったと云う。
 山入古戦場に墓標がある。

久保鉄次郎
 安政元(1855)年〜明治元(1868)年12月6日 (15歳)
 諱/常智。 二本松藩軍事調役/久保与十郎の次男。
 長兄/猪之吉 (常保)。 弟/豊三郎。
 大谷鳴海隊士として本宮村の戦いで奮戦するも、犬畜生にも劣る三春藩の裏切り (面従腹背) により敗戦、負傷してしまう。
 自宅で療養中に弟が出陣したと知り、後を追って銃太郎隊に参加し大壇口へ再出陣するが重傷を負い、後に死去。
 「寒麟院奇誉良瑞居士」
久保豊三郎
 安政4(1857)年〜明治元(1868)年11月1日 (12歳)
 諱:常忠。 二本松藩軍事調役/久保与十郎の3男。
 長兄:猪之吉(常保)、次兄:久保鉄次郎。
 銃太郎隊士として大壇口で奮戦するが、犬畜生にも劣る三春藩の裏切り (面従腹背) で態勢立て直しが遅れる中、二本松隊は壊滅してしまう。
 会津藩士/丸山四郎右衛門胤道 (秋月悌次郎の父) に保護され会津へ逃れる。
 二本松奪還作戦のため再集結との報を聞き、再び出陣する。
 銃太郎隊士として奮戦するが負傷してしまい、後に死去。
 「清涼院雪誉養林居士」

 ▲(大玉村玉井字薄黒内161 Tel. 0243-48-2469)

西      郷      村

戦死墓 (大龍寺)

 山門手前の山際にある。
 慶応4(1868)年7月1日、羽太村の戦いで会津藩士15名と飯野藩士5名が戦死した。
 飯野藩士28名は、長賊らに与するのは“義”に反すると脱藩し、会津軍に加わった。
 飯野藩は会津松平家の末家であることから、内密の派遣であった。

 (会津藩士)
   北原軍太夫  朱雀士中三番隊/上田隊小隊頭 享年33歳
   合祀された残り14人の名前は不明。
 (飯野藩士)
   森要蔵  千葉周作道場の四天王と称された剣客 享年59歳
   森寅雄  要蔵の次男 享年16歳 (虎尾とも)
   花澤金八郎  要蔵の剣の弟子
   小林虎之助  (寅之助とも)
   多湖宗三郎
 森要蔵は講談社創立者/野間清治の祖父 (母/ふゆの父)で、供養塔が浄信寺にある。


斎藤久太郎の墓 住職の墓所

斎藤久太郎 .

 鉄之助の伜。
 新錬隊/土屋隊。免許。
 慶応4(1868)年6月12日、白河古天神山で戦死。 20歳。
 墓には、会津と刻まれている。
 歴代住職の墓所の中の向かって右端にある。



 ▲(西郷村大字羽太字狸屋敷164 Tel. 0248-25-3507)

戦死供養塔 .

戦死供養塔

 道路沿いの斜面にある。
 会津藩8名の供養塔。
 詳細不詳の東軍戦死者との説も。
 左側に、「慶応四戊辰六月十二日」とある。
 5月朔日には、この地に会津藩士400名が駐屯していた。

 ▲(西郷村大字熊倉字道場久保)

戦死供養塚 .

戦死供養塚

 道路角の一画にある東軍戦死者43名の供養塚。
 氏名などの詳細は不明であるが、全員が会津藩士と伝わる。
 熊倉の戦死供養塔に比較的近い。
   戦死供養塚
     明治元年戊辰年五月

 隣接して「故山川将軍乗馬之碑 . 」もある。
 山川浩が金勝寺の桜山にあった白河城主/松平定信の別荘跡に別邸を設け、愛馬「千里」で乗馬を楽しんだという。 この地は馬の産地だったためか、碑が馬頭観音に囲まれている。

 ▲(西郷村大字米字杉山前)

福      島      市

小峠古戦場

 慶応4(1868)年4月20日、会津藩と仙台・筑前藩との戦闘地。
小峠古戦場  長賊らから会津出兵を強要された仙台藩は、事前に会津藩士/一柳四郎左衛門と仙台藩士/瀬上主膳の間で空砲を撃ち合う不戦協定を結んでいた。
 ところが長賊らに与した筑前藩兵が来てしまい、やむなく実弾を撃ち合うが、戦う意思のない戦闘であった。
 この後、長賊らの悪逆非道を知った仙台藩は、長賊らと戦う決意をし、奥羽越列藩同盟結成へと舵を切ることとなる。
 ▲(福島市土湯温泉町)  [布陣図] [図2]

南部精一郎(飯坂八幡寺)

本      宮      町

石雲寺

安部井壽太郎
  見つけられず。

小田井蔵太 .
 天保元(1830)年、江戸にて誕生。
 幼くして父を失い、母に連れられ二本松鈴石 (二本松市) に移る。
 15歳の時、江戸に出て幕臣/川窪駿河守に仕える。
 幕末三剣客  嘉永6(1853)年、幕臣として召し抱えられる。
 慶応4(1868)年3月、上野戦争直前に彰義隊の隊頭に就く。
 上野戦争で敗退後、会津にて奮戦。
 鶴ヶ城開城後は、庄内藩に移り戦うも、この地で降伏。


 ▲(本宮市本宮字坊屋敷1 Tel. 0243-34-2346)


浜 通 り 地 方 (福島県)

萱野権兵衛の母/ツナ (長源寺)

萱野権兵衛の母/ツナ(長源寺)

 家老/萱野長裕の妻で、故なく問われた藩の責を、藩主の代わりに一身に背負い切腹した家老/萱野権兵衛の母 (井上家)。
 家名が断絶させられたため三淵家を名乗る。
 西白河郡長を務めていた子/三淵隆衡が、明治23(1890)年4月から明治27(1894)年9月まで菊田・磐前・磐城の郡長に就いたため移り住む。
 明治25(1892)年4月10日、身を切られるよりも辛かったであろう人生に幕を閉じた。
 「会津人萱野櫻所妻之墓
  明治二十五年四月十日卒 四男正七位勲六等三淵隆衡建之

長源寺

 ここにも殉難者が、人知れず静かに眠っていた。
 なお、隆衡の長男/忠彦は、初代最高裁判所長官である。

 ▲(いわき市平胡摩沢130 Tel. 0246-23-1789)

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