会 津 若 松 市 の 見 ど こ ろ

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鶴 ヶ 城 の「三 の 丸」

近年、「三の丸跡 (万葉の杜)」 に記念碑などが次々と建立されている。

 佐川官兵衛顕彰碑については、こちら。

 伊東正義の銅像については、こちら。

八重之像

 平成25(2013)年9月7日、建立 (除幕式、橋本堅太郎作)。
 山本 (新島) 八重の略歴は、こちら。
 山本八重ゆかりの場所案内
山本八重の銅像     (印刷用 316KB)
山本八重の銅像




明日の夜は 何国の誰か ながむらん なれし御城(みしろ) に 残す月影

会津万葉歌碑 秩父宮妃勢津子殿下御筆

  御手植の松
 昭和51(1976)年、建立。
 碑石は群馬県赤城山産の小松石で、高さ3.5メートル (台石を含む)、幅1.5メートルほど。
 万葉歌碑としては、日本最大級。
会津万葉歌碑の説明文

 グランドの裏手にもある。

 「会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば  偲ひにせもと 紐結ばさね

会津嶺の万葉歌碑は、もう1つ磐梯町中央公民館の庭にある。

司馬遼太郎文学碑

 平成25(2013)年11月2日、建立 (除幕式)。
 「会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。

司馬遼太郎 司馬遼太郎文学碑


土井晩翠の胸像

 平成17(2005)年11月23日、建立。

 本丸にある歌碑は、昭和21(1946)年に晩翠が「荒城の月」のモデルは鶴ヶ城であると初めて明かしたため、急きょ設置の計画が持ち上がった。
 翌年の昭和22(1947)年6月5日、晩翠夫婦も列席して除幕式が執り行われた。


山ノ内磐水翁の顕彰碑、玄如節の碑



 平成21(2009)年12月19日、生誕120年記念にて建立 (除幕式)。
 会津の民踊を全国的に普及させることに尽力した先駆者。
 玄如節とは、民踊「会津磐梯山」の原点。

秋月悌次郎詩碑

 戊辰の役の時、西軍への使者の任務を終えた心境を詠んだ詩。

 名:秋月胤永
 通称=悌次郎。
 会津藩/公用人。
 戊辰の役では軍事奉行添役 (副奉行)、戦後は教育者として活躍。
 新政府からの招聘を受け、東京大学予備門や、第一高等中学校(東京大学)などの教諭を歴任し、第五高等中学校(熊本大学)の教授 (漢文・倫理) 時代の同僚には夏目漱石、小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン) がいる。
 特に、小泉八雲には父の様に慕われて「神のような人」と称賛されていた。
 平成25(2013)年、「北越潜行之詩」を詠んだ束松峠の地にも歌碑が建立された。

西郷四郎顕彰碑

 昭和40(1965)年、三の丸跡に建立。
 昭和59(1984)年、県立博物館建設のため、
陸上競技場裏・文化センター前に移す。
 珍しいジュラルミン製の碑。
 西郷四郎については、こちら


松江豊寿記念碑

松江豊寿記念碑

 平成30(2018)年9月22日、會津風雅堂前で除幕式が催された。
 ドイツ人捕虜の板東俘虜収容所/所長に就任した松江豊寿は、長賊らが跋扈する陸軍省上層部の意向に反しても「彼らは祖国のために戦った愛国者であって決して犯罪者ではない」との意思は変えなかった。
 叱責されても「武士の情け」を繰り返し、人道的な処遇を貫き通した。
松江豊寿記念碑  大正7(1918)年、感謝された松江に贈られたものは、俘虜たちによる日本で初めての「ベートーベン/第9交響曲」全曲演奏であった。
 今や年末恒例となった演奏の始まり100周年を記念して建立された。
 ▲(会津若松市城東町12-1)
   松江豊寿については、こちら

東照宮

 良く質問されるのが、会津松平家の祖/保科正之公が将軍/秀忠の次男で、家康の孫なのに東照宮はないのか、と。
 正之公が入府の時代には、すでに存在していた。
 家康が亡くなると、早々と蒲生忠郷公融通寺に菩提堂を建立した。
 追って出された東照宮/勧請願いは、忠郷公が家康の外孫であり、直ぐに認められた。
 元和8(1622)年、壮麗なる東照宮が鶴ヶ城内の東南側に創建された。
 寛永元(1624)年には大規模な法要が営まれている。
 戊辰の戦いが終わり開城後に、西軍らに宝物を略奪され、別当寺/天耀山延寿寺や豊岡神社とともに破壊・焼き払われた。
 日光東照宮の御神体が動座されたが、母成峠が破られるとの報により、再び米沢を経て仙台に駐屯の輪王寺宮に渡された。
 なぜか、いまだに再建の話しは聞こえてこない。    [絵図]

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