ネ ッ ト で 参 拝
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土 津 神 社
▲(猪苗代町見弥山1番地 Tel. 0242-62-2160)
保科正之公については、こちら。
以下の緑色の文は、現地の「説明板」から
画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり
県道7号から角を曲がると、緩やかな坂道の先に純白な鳥居が見える。
鳥居の手前、参拝の際の歴代藩主/休憩所 (積慶寮) のあった場所に、近年、駐車場・トイレが設けられた。
現地板(135KB)
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世界的に有名な医聖/野口英世の恩師/小林栄が学んだ見弥山幼学所があった場所でもあるとのこと。
土津神社の完成に併せて、正之公の霊廟を護り維持し、祭事を執り行う人々のために新たな集落も拓き、「
土町」と名付けた。
亀ヶ城代の直轄となり、年貢や賦役などが免除された。
移住した人々は、建造物などの維持管理を行う大工から、庭木の植木職人、お供えする食事などの調理人まで、生活に欠かせない技術を高度に有する者たちが選ばれた。
祭事の時には、南に隣接する中町や新町の民家が宿として提供されていた。
現在でも、「猪苗代町土町」の地名として残っている。
その遺伝子が受け継がれているのか、近年に民宿が人気のころ、一般的な民宿とは違って心遣いの快い接客対応が、全国的に評判を呼んでいた。
近くに、保科正之公を崇拝し、初代神官として土津神社を護り続けて生涯を終えた服部安休 (森蘭丸の孫) の墓がある。
右折し坂道を走ると拝殿脇にも駐車場があり、途中に当時の全国一の家老と評された田中正玄の墓がある。
Here are the remains of “Okyusokujyo”.
今回は、大鳥居の前の駐車スペースに車を停める。
[鳥瞰図]
会津藩祖・保科正之公を祀り、延宝三年 (一六七五年) に造営された神社。 その豪華絢爛な様式は日光東照宮にも比されたと言われています。 惜しくも戊辰戦争の戦火に遭 消失してしまいましたが、明治十三年 (1880年) に再建され現在に至っています。
保科正之公は、徳川二代将軍 秀忠の子として慶長十六年 (一六一一年) に生まれ 四代将軍 家綱の後見役として二十年間 幕政の実権を握るとともに 会津藩の好学・尚武の藩風を築いた名君と敬われています。
猪苗代町 .
神橋
神橋を渡ると、聖地に入る。
勢いよく流れている川は、土津神社を永代守っていく神領を開田するため、友松氏興が開墾した用水路 (土田堰()。
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始めは、土津神社神領の水田開墾の用水として、会津藩家老 友松勘十郎氏興が、神社落成の翌年1674年に開削されました。 現在は、猪苗代町内の約1/3の980haの水田を潤しています。
この水路は、裏磐梯から流れる長瀬川より長坂の上流で取水し、末端まで約12Kmあります。 末流は、高橋川へつながり猪苗代湖へ流れています。 裏磐梯には広大な森林があり、その森林が雨水を蓄えてくれるおかげで、私たちは豊かな水を利用することができます。
私たちの大地を潤す水は、森林によって育まれた水なのです。
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社地復故記 (社地復古記念碑) .
明治11(1878)年12月1日建立。 .
松平容保の撰文ならびに題。 .
保科正之公三百年祭碑 .
奔雷瀑 カエルが、瀧を護っている。
土津神社は、二代将軍秀忠の第四子 会津藩松平家の初代藩主 保科正之公 (一六一一〜一六七二) をお祀りした神社である。
正之公は吉川惟足、山崎闇斎、横田俊益等 当時の最高学者を師とせられ殊に当時殆んど絶えなんとした日本古来の卜部神道の大家 吉川惟足を師とせられ 四重の奥秘を受け継がれ体得されると共に領内の政治、産業、文化、教育、武道の基盤を定められ、是が実践を図られた。
幕府には神道方を置き、神道精神の復興に大きな貢献をされた為、土津霊神の霊号を受けられたのである。 記
祭神 土津大明神正之公の霊号 相殿客神 高良玉垂(の大明神
武内宿称の神号 相殿合祀 三代〜九代歴代藩主
亀石 (保科正之公の石碑) .
日本最大の石碑で、亀跌が支えている。 .
高さが7.6メートルで、重さは30トンもある。 .
死者を護るといわれる想像上の動物。 .
亀と違い、歯も生え、耳もあり、指も5本ある。
若松/院内御廟も、同様になっている。 .
土 津 霊 神 之 碑
この碑は御祭神保科正之公の事績を大義名分を最も重視された大学者 山崎闇斎先生が心血を注いで綴られた大文章である。 字数 一、九四三文字、日本最大のものである。
碑石高 五m四五 (一丈八尺) 幅 一m八三 (六尺)
厚 一m五一 (五尺) 重量 三〇屯余 (八千貫)
台石 (亀石) は土町、碑石は河東村八田野より採石す。
会津初代藩主保科正之公の履歴を刻んだ石碑で、碑文は山崎闇斎が選文し、字数は一九四三、筆者は当時 第一等の能筆家 土佐左兵衛高庸である。
神社の碑石としては日本最大のもので石柱の高さ一丈八尺、幅六尺、厚さ五尺余、土台の亀石は長さ一丈六尺、幅一丈一尺三寸、厚さ二尺五寸で、竿石は八田野 (河東町)、亀石は猪苗代町土町の東から取り出した。
伝説によると、始めの亀石は南向きに置かれたが、眼下には猪苗代湖が見え、亀は一夜のうちに湖まで這い出してしまった。 そのため亀を北向きにしたところ、二度と這い出すことはなかったという。
亀は中国伝来の瑞獣の一つで、松平家の将来の繁栄を祈願したものと考えられる。
猪苗代町教育委員会 (平成八年二月設置) .
この右の方向の傍らに、駐車場がある。
先の石段が男坂、右手が女坂。
秋篠宮悠仁親王の健やかな成長を願う高野槇が植栽されている。
・徳川家や会津松平藩「葵の御紋」のもとである二葉葵
・保科正之公の分霊を祀っている琴似神社から奉納の2樹
社務所
御神符頒布所、各種御祈祷受付所。
奥が、土津神社社務所。
御水小屋
とても冷たく、心まで洗われる。
神楽殿 .
拝殿
保科正之公については、こちら。
向かって右手の末社
向かって左手の末社
≪進功霊社≫
≪忠彦霊社≫
墓は、大窪山墓地。
霊社は土田堰にもある。
≪石彦神社≫
墓は、院内御廟。
拝殿脇の末社裏から、正之公墓所への奥之院参道がある。
今回は車で向かうため、駐車を停めた所へ戻ろう。
「参道石畳遺構解説」の現地板(245KB)
The ancient approach to the grave of Masayuki Hoshina, the first Aizu lord
道なりに山麓を上る。
左手に土津神社、右手に磐椅神社の間の道路を通過。
やがて、奥之院参道を横切る。
奥之院参道を横切って、すぐに右の方へ道なりに進む。
まもなく、正之公墓所の脇にある駐車スペースに至る。
直線距離では500メートルもないが、迂回するので1キロ強。
保科正之公墓所
「土津霊神」
会津藩初代藩主 保科正之公は寛文十二年 (一六七二) 十二月十八日江戸において、六十二歳で亡くなられた。 正之公は「我 死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」と自らの埋葬地を猪苗代湖が一望できる磐梯山麓に決めていたので、二代藩主 正経は遺言どおり墳墓の造営にあたった。
最初 南北六十間 東西五十間を整地し、その中央に小屋を建て棺を安置し、その周囲 南北三十間 東西三十二間に柵を作り四方に鳥居を立て、三月二十六・二十七の両日にわたって葬儀をとり行なった。 その後 棺の所に円墳を築き頂上に「土津神墳鎮石」と刻んだ八角形の鎮石を建てた。
猪苗代町教育委員会 (平成八年二月設置) .
《 略 歴 》
寛文11(1671)年、
正之公が吉川神道の奥義「四重奥秘」と「土津」の霊神号を受ける。
寛文12(1672)年8月11日、見祢山へ登り、
磐椅神社を参拝した折、国家老/
田中正玄が
眠るこの地を気に入り、同月21日に自らの寿蔵 (墓所) とするように遺言する。
寛文12(1673)年12月18日、死去し遺言通り見祢山の磐椅神社の西方に埋葬される。
延宝2(1674)年3月26日夕方、
正経公のもと、
山崎闇斎、
西郷頼母、
服部安休、
井深茂右衛門、
戸枝彦五郎、
友松勘十郎などが列席し、翌27日にかけて葬儀が催された。
惣司に家老/友松勘十郎、奉行に
木村忠右衛門、
高橋市郎左衛門、棟梁に宮大工/鷹谷弥十郎宗清が就任する。
延宝3(1675)年8月19日、神殿が竣工し、遷宮式が執り行われる。
日光東照宮と比較されるほどの絢爛豪華な神殿造だったという。 当時を偲ぶ物として境内の
亀石に乗った石碑は、高さ7メートル・重さ30トンもあり日本最大。
慶応4(1868)年8月22日、の来襲により、猪苗代城代/高橋権太輔は社司/桜井豊記に御神体を
鶴ヶ城へ奉持させ、社殿に火を放った。
鶴ヶ城の開城により、御神体が磐椅神社に仮遷宮される。
明治2(1869)年12月11日、御神体が共奉者7名で磐椅神社から
斗南藩へ出立する。
同年12月28日、三浦家の御倉に安置される。
明治4(1871)年、廃藩置県により斗南藩が消滅したため、磐椅神社へ仮遷宮される。
明治5(1872)年、社殿再建の募金を旧藩士6名が
旧会津藩領全域に呼びかける。
明治6(1873)年、社地が買い戻される。
明治7(1874)年、再建が着手。
明治13(1880)年、現在の社殿が竣工。
同年7月28日、磐椅神社から土津神社に遷宮された。
平成23(2011)年3月11日の東日本大震災で、墓域にある左側の石灯籠が転倒した。
「災害復旧」の現地板 (206KB)
Restoration work in 2013
明暦3(1657)年、“明暦の大火”の時、焼け出された庶民の救済に、幕府の蓄財のすべてを支出するなど、迅速な対応は見事なものであった。
居並ぶ老中や長老たちの大反対を押し切って、今でいう「ハコモノ」は要らぬと無駄な出費をさせず、江戸城の天守閣再建は着手すらさせなかった。
復興後、あれほど反発した老中たちも正之公の手腕に感服し、幕末まで天守閣が再建されることはなかった。
現政権下の無策を、どのような想いで見ておられていたであろうか。
被災地への支給が「“おにぎり”やパン、カップラーメン」と聞くにつけ、「お年寄りの炊き出しは粥にするように」 とまで指示した正之公の心配りが偲ばれる。
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