県道7号から角を曲がると、緩やかな坂道の先に純白な鳥居が見える。
鳥居の手前、参拝の際の歴代藩主/休憩所 (積慶寮) のあった場所に、近年、駐車場・トイレが設けられた。
現地板(135KB)
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世界的に有名な医聖/野口英世の恩師/小林栄が学んだ見弥山幼学所があった場所でもあるとのこと。
近くに、保科正之公を崇拝し、初代神官として土津神社を護り続けて生涯を終えた服部安休 (森蘭丸の孫) の墓がある。
右折し坂道を走ると拝殿脇にも駐車場があり、途中に当時の全国一の家老と評された田中正玄の墓がある。
Here are the remains of “Okyusokujyo”.
今回は、大鳥居の前の駐車スペースに車を停める。
会津藩祖・保科正之公を祀り、延宝三年 (一六七五年) に造営された神社。 その豪華絢爛な様式は日光東照宮にも比されたと言われています。 惜しくも戊辰戦争の戦火に遭 消失してしまいましたが、明治十三年 (1880年) に再建され現在に至っています。
保科正之公は、徳川二代将軍 秀忠の子として慶長十六年 (一六一一年) に生まれ 四代将軍 家綱の後見役として二十年間 幕政の実権を握るとともに 会津藩の好学・尚武の藩風を築いた名君と敬われています。
明治11(1878)年12月1日建立。 .
松平容保の撰文ならびに題。 .
奔雷瀑 カエルが、瀧を護っている。
土津神社は、二代将軍秀忠の第四子 会津藩松平家の初代藩主 保科正之公 (一六一一〜一六七二) をお祀りした神社である。
正之公は吉川惟足、山崎闇斎、横田俊益等 当時の最高学者を師とせられ殊に当時殆んど絶えなんとした日本古来の卜部神道の大家 吉川惟足を師とせられ 四重の奥秘を受け継がれ体得されると共に領内の政治、産業、文化、教育、武道の基盤を定められ、是が実践を図られた。
幕府には神道方を置き、神道精神の復興に大きな貢献をされた為、土津霊神の霊号を受けられたのである。 記
祭神 土津大明神正之公の霊号 相殿客神 高良玉垂
武内宿称の神号 相殿合祀 三代〜九代歴代藩主
日本最大の石碑で、亀跌が支えている。 .
高さが7.6メートルで、重さは30トンもある。 .
死者を護るといわれる想像上の動物。 .
亀と違い、歯も生え、耳もあり、指も5本ある。
若松/院内御廟も、同様になっている。 .
先の石段が男坂、右手が女坂。
秋篠宮悠仁親王の健やかな成長を願う高野槇が植栽されている。
徳川家や会津松平藩「葵の御紋」のもとである二葉葵、保科正之公の分霊を祀っている琴似神社から奉納の2樹、その他にも
畑俊六の奉稙1樹、
小泉純一郎
などの著名人も数多く植栽している。
御神符頒布所、各種御祈祷受付所。
奥が、土津神社社務所。
とても冷たく、心まで洗われる。
拝殿脇の末社裏から、正之公墓所への奥之院参道がある。
今回は車で向かうため、駐車を停めた所へ戻ろう。
「参道石畳遺構解説」の現地板(245KB)
The ancient approach to the grave of Masayuki Hoshina, the first Aizu lord
道なりに山麓を上る。
左手に土津神社、右手に磐椅神社の間の道路を通過。
やがて、奥之院参道を横切る。
奥之院参道を横切って、すぐに右の方へ道なりに進む。
まもなく、正之公墓所の脇にある駐車スペースに至る。
直線距離では500メートルもないが、迂回するので1キロ強。
会津藩初代藩主 保科正之公は寛文十二年 (一六七二) 十二月十八日江戸において、六十二歳で亡くなられた。 正之公は「我 死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」と自らの埋葬地を猪苗代湖が一望できる磐梯山麓に決めていたので、二代藩主 正経は遺言どおり墳墓の造営にあたった。
最初 南北六十間 東西五十間を整地し、その中央に小屋を建て棺を安置し、その周囲 南北三十間 東西三十二間に柵を作り四方に鳥居を立て、三月二十六・二十七の両日にわたって葬儀をとり行なった。 その後 棺の所に円墳を築き頂上に「土津神墳鎮石」と刻んだ八角形の鎮石を建てた。
平成23(2011)年3月11日の東日本大震災で、墓域にある左側の石灯籠が転倒した。
「災害復旧」の現地板 (206KB)
Restoration work in 2013
明暦3(1657)年、“明暦の大火”の時、焼け出された庶民の救済に、幕府の蓄財のすべてを支出するなど、迅速な対応は見事なものであった。
居並ぶ老中や長老たちの大反対を押し切って、今でいう「ハコモノ」は要らぬと無駄な出費をさせず、江戸城の天守閣再建は着手すらさせなかった。
復興後、あれほど反発した老中たちも正之公の手腕に感服し、幕末まで天守閣が再建されることはなかった。
現政権下の無策を、どのような想いで見ておられていたであろうか。
被災地への支給が「“おにぎり”やパン、カップラーメン」と聞くにつけ、「お年寄りの炊き出しは粥にするように」 とまで指示した正之公の心配りが偲ばれる。