偉     人     伝

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名 君 / 保 科 正 之 公 の 略 歴

 保科正之公の生涯は、3つの時代に分けられる。

 ◇ 父子と名乗れぬ不遇な時代
   将軍/秀忠の4男として生れながら、恐妻家の父ゆえに身元が明かされず、信松尼見性院に庇護されながら転々と居を移し、最後には小藩の養子となる。
 しかし、この時代の苦労が、後に開花する才能を育むことになる。
 ◇ 幕閣として開花する時代
   実直な人柄に、家光は惚れ、重用するようになる。
 弟であると知った家光の信頼は、さらに確定的なものとなり、終生続く。
 正之公は期待に答え、影となり幕府を支える。
 次兄の忠長にも大変気に入られ、祖父/徳川家康の遺品などを贈られる。
 ◇ 後見人として幕政を担う時代
   幼い将軍/家綱(甥)の輔弼役(実質的な副将軍)を全うし、幕府の武断政治から文治政治へ転換を成し遂げる。家綱時代の3善政 (三大美事) といわれる
  「末期養子の禁の緩和」「殉死の禁止」「大名証人制度の廃止」
は、すべて正之公の提言である。

幕 閣 と し て 開 花 す る 時 代

寛永9(1632)年  〈22歳〉

増上寺安国殿裏の徳川家墓所

1月24日
 実父の2代将軍/徳川秀忠が死去。
 享年54歳。
 台徳院と諡する。
 母/於静が落髪して、浄光院と称する。

2月
 秀忠の遺品 (形見の品) と銀500枚を賜う。

3月
 家光が父の台徳院霊廟を増上寺に建立する際、普請を受け持つ。

4月
 家康17回忌のため日光東照宮へ参拝し、太刀と白銀30枚を奉納する。

12月28日
 従四位下に昇任。

秀忠の子であることを極秘にしていたとされるが、即座に母/於静が剃髪し、形見の品が渡され、小藩にもかかわらず霊廟建立にも携わっている。
 年末には従五位下から一足飛びに従四位下に昇叙したことから、家光をも含め周知の事実だったことは明らかであろう。

寛永10(1633)年  〈23歳〉

2月15日 (13日とも)
 外桜田門内に屋敷を拝領する。
 旧/鍛冶橋保科邸は、養父/正光の異母弟/保科正貞に譲る。

10月6日
 磐城平藩主/内藤政長菊姫が、正室として入輿。
 前々の会津藩主/蒲生家は、忠郷公の死去で無嗣断絶を免れ、弟の忠知に伊予松山藩24万石が与えられたが、忠知の正室が菊姫の実姉である。

12月
 兄/忠長が、高崎の配所で自刃。

寛永11(1634)年  〈24歳〉

3月
 兄の将軍/家光に召され、親しく話し合う。
 家光自ら茶を点じて差し出した。
 取り巻きも少なく、素性を打ち明けるかと思ったが、正之は身分通りの作法で対応するだけであった。
 正之公の真摯な人柄に触れ、これ以降、絶大な信頼を寄せる。
  《逸話

4月17日
 家光に従い、日光東照宮を参拝。

7月18日
 明正天皇即位の祝賀には、家光からの命で同行し、上洛する。
 天皇から天盃を受け、侍従に任じられる。
 その後、家光が大阪城を案内する。

12月21日
 正室/菊姫が、長男/幸松を出産。

寛永12(1635)年  〈25歳〉

9月17日
 実母の於静 (浄光院) が、息子の立身に安堵したのか、死去。 52歳。
  「淨光院殿法紹日慧大姉」
 高遠/長遠寺 (後に浄光寺となる) に埋葬。

寛永13(1636)年  〈26歳〉

2月
 江戸城/西の丸が完成し、その留守居を任じられる。

7月21日
 3万石から、出羽国/山形藩20万石へ加増され移封。
 7月7日に山形藩主/鳥居忠恒が世継が無いまま廃藩となったが、その後2週間という異例の短さで決定された。
 家光が、加増の機会を待ち望んでいたかを窺える。
 大加増により、高遠藩士は勿論、鳥居家臣のみならず、全国各地から才覚ある仕官希望者が召し抱えられ、後に桃源郷とまで称賛される会津藩誕生の起点ともなった。

8月25日
 高遠城を幕府に返上する。

「高遠の百姓別を惜み歌謡を作りて悲嘆すと云う」

8月27日
 山形城に入る。

9月
《藩政》 山形藩領内の巡察をし、諸法度を発令する。

寛永14(1637)年  〈27歳〉

1月
 将軍/家光から、江戸城/二の丸の留守居を拝命する。

5月14日
 正室/ 菊姫が死去。 享年20歳。

10月
島原の乱が勃発したため、山形に戻り、同調者を防ぐ策を取る。
 家康の遺訓 「西国に変らば東国に注すべし」 の実施である。

(この年)
◇ 徳川一門となったため、廃嫡となっていた保科正貞に保科氏正統を継承させるべく、
 保科家累代の品々を譲る。
  保科正光の弟で正光の養子になっていた正貞は、幸松丸が正光の養子になったため、
 元和8(1622)年に正光の許を去っていた。
  後に、正貞が1万7千石の大名として取り立てられ、上総飯野藩/保科家を立藩。
  上総飯野藩とは、幕末まで特別な関係が続いた。
◇ 全国的な飢饉になるが、山形藩では備えをしていたため餓死者は出なかった。

寛永15(1638)年  〈28歳〉

6月
 家康の遺訓通り、近在の幕領/安達郡白岩村で恐れた農民一揆が起こり、代官/小林十郎左衛門時喬からの懇願を受け、首謀者35人を捕えた。
 処置について老中/酒井忠勝に伺いをたてたが、いつになっても返事がなく、島原の乱により改定された武家諸法度に則っとり首謀者を磔刑、速やかな処置をとったことで幕領の騒ぎは収まった。

6月27日
 長男/幸松が夭折。 5歳。

寛永16(1639)年  〈29歳〉

1月
 将軍/家光から、幕政へ参加するよう命じられる。

「大將軍、正之に命じ太政を與り議せしむ 曰く 忌諱を憚る勿れと」

8月21日
 江戸城/本丸で火災が発生、家光に付き従い警護を命じられる。

9月26日
 芝新銭座に、3万余坪の地を与えられ、中屋敷とする。

寛永17(1640)年  〈30歳〉

4月
 将軍/家光に従い、日光東照宮を参拝。

8月
 江戸城/西の丸の中門番を命じられる。

12月 4日
 継室/於萬が、次男/虎菊 (正頼) を出産。

寛永18(1641)年  〈31歳〉

8月 3日
 後に将軍/家綱となる家光の嫡子が誕生する。
 天海大僧正が、竹千代と命名する。

11月14日
 継室/於萬が、長女/媛姫を出産。
 (徳姫、春姫、清光院、後に米沢藩主/上杉綱勝へ嫁ぐ)

寛永19(1642)年  〈32歳〉

4月
 将軍/家光に従い、日光東照宮を参拝。

10月
 家光より鷹2羽を貰い受け、将軍家猟地での鷹狩が許される。
 居並ぶ老中より格が上、すなわち将軍の弟君、暗に副将軍を意味するものである。

12月20日
 江戸城の修復のための漆を献上する。

(この年)
 寛永の大飢饉と呼ばれる大凶作に見舞われるが、山形藩では備えの御蔵米を大放出したため、領民の餓死者は出なかった。

寛永20(1643)年  〈33歳〉

5月 3日
 幕府は、加藤明成公の会津藩40万石を、御家騒動の不手際で没収。

5月13日
 継室/於萬が、次女/中姫を出産。

7月 4日
 山形藩から、会津藩23万石と新田2万石、預所の南山5万5千石へ移封となる。

「二十三萬石、其の他古新田二萬石あり、又南山五萬五千石與の地を預からしめ、
 命じて曰く、之を處置すること封地と同じくすべしと」

 御三家の水戸藩25万石とのバランスから、預所とした妙案だった。
 全国各地の天領預りの中でも、藩領と同じに支配が許されたのは会津藩だけである。

7月18日
 家綱の誕生と日光廟増築の祝いで350人を超える朝鮮通信使が来日し、将軍/家光への拝謁の際に束帯して将軍側に坐し、水戸藩などと共に応接役を執り行う。  [朝鮮使]
 日光参詣では、案内役を取り仕切きる。
 通信使の信頼は絶大で、これ以降、来日の度に贈り物を持参して藩邸へ挨拶に訪れるようになった。

8月
 会津へ向けて、江戸を出立。

8月 8日
 一箕山八幡神社の前の道路で、一列に並んだ町方の有力者、代表者や有志たち大勢の出迎えを受ける。 正之公の良き評判は領民に伝わっており、前藩主の御家騒動の件も加わって、かつてない大歓迎であったという。
 鶴ヶ城に入る。
 会津への転封は3万石の微増であり、前藩主/加藤家の旧臣の多くは召し抱えられなかったが、浮洲重次・横田俊益・林安治や、萱野長則 (翌年の9月)などが家臣となる。

8月12日
《藩政》 大町/札之辻に、五ヶ条の高札を出す。
 一、喧嘩口論の事
 一、押買い狼藉並びに賭博類の事
 一、当所他国の者に拠らず切支丹の宿致すの事、付けたり何者たりと
   いえども怪しき輩見通し候事
 一、山林、寺社、在家へ乱入し竹木を伐採せしむる事
 一、旅人を煩はせ往還を滞らしむる事
 右違背の輩は速やかに厳科に処すべき者也
 次いで諸定が年内に公布される。

8月15日
《藩政》 領内の14寺社に、田地を寄進する。

10月 2日
 会津で生まれ育った天海大僧正が、寛永寺で死去。 108歳。
 東京/上野公園に、天海僧正毛髪塔がある。

12月 1日
《藩政》 産業の育成と振興を目的に、留物令を発布する。
 漆・鉛・蝋・熊皮・巣鷹・女・駒・紙の8品目の藩外持ち出しを制限し、漆木など許可なしに伐採を禁止した。
 留番所の設置場所 (年代にり若干の統廃合がある)
  ・ 糸沢、横川(南山通り
  ・ 勢至堂、三代(白河街道
  ・ 中地、唐沢、馬入新田(湖南)
  ・ 赤谷(越後街道
  ・ 壷下(二本松街道
  ・ 桧原(米沢街道
  ・ 酸川野(福島街道)
  ・ 叶津、檜枝岐(沼田街道
  ・ 栃堀、五十島、石間、谷沢、釣浜、田子倉(越後)
  ・ 津川、浜坪(船番所)

寛永21〜正保元(1644)年  〈34歳〉

6月 8日
 法用寺の水飴を初めて幕府に献上。

8月18日
 幕命により、佐賀藩主/龍造寺高房の子/龍造寺伯庵季明を会津藩で預かる。
 子孫は会津藩士として幕末まで仕える。

9月
 加藤明成公の改易に従って石見国へ赴いた重臣/萱野権兵衛長則を、明成公からの勧めで会津藩に召し抱える。
 子孫は代々/権兵衛を名乗り会津藩士として幕末まで仕え、戊辰の役では藩主をかばって責任を一身に背負い切腹している

(この年)
《藩政》 領内の巡察を行う。

正保2(1645)年  〈35歳〉

1月 5日
 継室/於萬が3男/将監を出産するも、同年閏5月7日に夭折。

2月
 瀬戸 (愛知県) の陶工/水野源左衛門らを招き、本格的な陶器/本郷焼の基礎を築く。

4月21日
 左近衛権少将を受任する。

4月23日
 家綱が元服し、武門最大の名誉とされる役柄/鳥帽子親を正之公が務める。
 御三家を差し置いての台命は、いかに信頼しているかを老中並びに大名たちが認識することになる。

閏5月 7日
 次男/将監が夭折 (1歳)。

7月14日
 従四位上に昇任。

7月27日
 側室/於塩が、3女/菊姫を出産。

11月 3〜17日
 将軍に代わって、日光東照宮への勅使を応接する。

(この年)
 後に側室となる富貴 (栄寿院、沖氏) が、江戸で誕生。

正保3(1646)年  〈36歳〉

 会津惣絵図、高辻帳を、幕府へ提出する。

5月23日
 正保3(1646)年5月23日、高遠藩主/保科正光の養子として江戸を出立する時から山形藩・会津藩へと生涯 従った甥の神尾友清 (母/於静の兄/政秀の3男) が、会津藩主就任を見極めたかのように死去。

12月27日
 継室/於萬が、4男/大之助 (2代藩主/正経公) を出産。

正保4(1647)年  〈37歳〉

3月 6日
《藩政》 漆の苗木の植栽を奨励する。

6月15日
《藩政》 諸宿駅を定める。

9月
 帰国する。

11月27日
 領地巡視を兼ねて、河沼郡八田野原での鳥狩りなどを行う。

12月 4日
 3女/菊姫が死去。 3歳。

慶安元(1648)年  〈38歳〉

1月 3日→ 9日
 江戸に向かう。

1月12日
 側室/於塩が、4女/摩須を出産。
 (松姫、松嶺院、後に加賀藩主/前田綱紀へ嫁ぐ)

1月
 江戸に赴き、太刀や黄金1枚、綿200把、?燭1千挺を献上する。
 この日以降、23年間 帰国をせず、幕政に全身全霊を捧げる。

4月13日
 兄の将軍/家光に従い、日光東照宮を参拝。

5月 3日
 継室/於萬が、5女/石姫を出産。
 (宮姫、後に佐倉藩主/稲葉正往へ嫁ぐ)

11月 1日
 嫡子/虎菊丸 (正頼) が、初めて将軍/徳川家光に謁見。

(この年)
《藩政》 人身売買を禁止する。

慶安2(1649)年  〈39歳〉

4月
 将軍/家光・大納言/家綱に従い、日光東照宮を参拝。

10月 4日
 継室/於萬が、6女/風姫を出産。

11月 1日
 10歳の次男で嫡子/虎菊 (後の正頼) が、家光に謁見する。 慶安元(1648)年とも。

12月 4日
 次女/中姫が夭折。 享年7歳。

慶安3(1650)年  〈40歳〉

浄光院の墓 (於静)

3月12日
 関東地方に大地震が発生。 日光東照宮も被害がでる。

 母/浄光院の遺骨を、身延山久遠寺の篤信廟に納める。


閏10月 3日
 継室/於萬が、7女/亀姫を出産。

慶安4(1651)年  〈41歳〉

2月
 加藤清正・寺沢広高らに仕え浪人になっていた原田伊予種次を召し抱え、承応3(1654)年に表留守役を命じ鶴ヶ城に赴かさせる。
 子孫は会津藩士として幕末まで仕える。

4月 4日
 7女/亀姫が夭折。 2歳。

4月 6日
 将軍/家光から萌黄色の直垂を賜り、「代々使用せよ」と付け加えられる。
 家光が好む萌黄色の直垂は、遠慮して誰も同色の直垂を身に着けなかった。
 家光が使っていた同色の直垂を「使用せよ」とは、将軍の代理、すなわち実質的な副将軍として知らしめる行動だった。
 異例中の異例な台命は、家光の病重く、死が近いことを悟ったからと言われる。

「四月六日大將軍服するところの萌黄直垂、及び烏帽子を正之に賜ひて曰く、自今代々此の色の直垂を用ふべし、平生の行装も亦大將軍の鹵簿を模すべしと」

4月18日
 兄の3代将軍/家光の病状が悪化したため、この日より江戸城に詰める。

4月20日
 羊の刻 (午後2時)頃、死に臨んだ家光は枕元に正之公を呼び寄せ、手を取り、
  「大納言は幼少なり 今 汝に託す 善く之を補佐を頼みおく」
と息絶え絶えに遺言した (家綱は11歳)。
 正之公は涙ながら、
  「死生之を奉じ誓ひて他なし 複た台慮を労する勿れ」
と答えると、家光は喜色し、
  「吾が心 始めて安し」
と言い終わるや昏睡状態に入り、2時間後に息を引き取った。 48歳。

「大將軍家光病大に漸む、正之を寝殿に召し其の手を執りて曰く、嗣子家綱尚ほ幼なり、今汝に託す善く之を輔佐せよと、正之涙を揮ひて曰く、死生之を奉じ誓ひて他なし、複た台慮を勞する勿れと、大將軍喜色あり曰く、吾が心始めて安しと、言ひ終りて瞑す」
 この後、約束を守るべく家綱の後見人として幕政に全精力を注ぎ、寛文10(1670)年までの長きにわたり、藩には家老へ指示をするだけで、帰国しなかった。

5月8日
 家光の遺骸を、日光の輪王寺に埋葬。

6月25日
 側室/於塩が死去。 25歳。

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