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ご   縁   の   あ   る   地

東 京 都 と の“ご 縁”

保科正之との ご縁については、こちら

他の東京との ご縁については、こちら

東京で会津を味わうについては、こちら

殉難者については こちら (都下 / 関連)。

≪ 天 海 大 僧 正 と の ご 縁 ≫

寛永寺

 天台宗の関東総本山 (東叡山)。 幕末までは天台宗の総本山として機能。
 寛永2(1625)年、会津生まれ天海大僧正が発願し開山 (徳川家光が創建)。
 開山した時の年号を寺名にした珍しい寺。 本尊は薬師瑠璃光如来。
 境内地は約35万5千坪に及び、その他に約1万2千石の 寺領 を有した。
 子院 (塔頭) は36院あったが、現在では 20院 (19院とも)。
 3代目の住職から皇族が就任することとになったが、明治時代に入り制度が廃止され、境内地・寺領も没収された。
 慶応4(1868)年の上野戦争の際、の略奪・放火により大半の伽藍が焼失した。
 五重塔・清水観音堂・東照宮などが炎上を免れ、現存している。
 天海は、日光山の造営や、比叡山の復興にも尽力した。
 天海大僧正の略歴については、こちら。

根本中堂
 天台宗での本堂のこと。
 正式な名称は、東叡山寛永寺円頓院。
 元々の本堂は東京国立博物館前の大噴水の場所にあったが、上野戦争の際にの放火で焼失した。
 現在の建物は、明治12(1879)年に喜多院の本堂を移築し再建したもの。
 ▲(台東区上野桜木1-14-11 Tel. 03-3821-1259)  古絵図(125KB)

本覚院 (元々は現/天海僧正毛髪塔の地にあった)
 寛永14(1637)年、将軍/家光が東照宮を江戸城の鎮守としたため、それまでの紅葉山山王社が移され、天海大僧正の弟子/晃海僧正(初代寛永寺執当)を住職とする寛永寺の子院として創建。
 寛永20(1643)年、本覚院にて天海大僧正が示寂。
 108歳。
 遺言により、家康の眠る日光山に葬られたる。
 慶安元(1648)年〜承応元(1652)年、本覚院の境内に毛髪を納めた毛髪塔が、弟子/晃海により建立された。
 ▲(台東区上野公園16-22)


天海僧正毛髪塔



天海僧正毛髪燈(上野公園)
 慶安元(1648)年〜承応元(1652)年、弟子たちが建立。
 本墓は日光山/輪王寺。 比叡山/慈眼堂や埼玉/慈眼堂、会津/両親の墓がある。
 ▲(台東区上野公園1  彰義隊の墓の背面)

開山堂 (輪王寺両大師、慈眼堂)
 正保元(1644)年、慈眼大師 (天海大僧正) を奉祀し創建。 天海が尊崇していた慈惠大師 (良源) も祀ったことから通称「両大師」と呼ばれ大いに信仰された。 良源は延暦寺の第18代天台座主で、中興の祖とされる。


 隣接している輪王殿(斎場)の前に、移築された寛永寺の旧/本坊表門がある。
 上野戦争の時、が神仏に向かって撃った弾痕が数多く残っている。
 ▲(台東区上野公園14-5 Tel. 03-3821-4433)

上野東照宮
 ここが正式名称の「東照宮」である。
 元和2(1616)年、天海と高虎が徳川家康を見舞った際、魂が末永く鎮まる場所を作ってほしいと家康から依頼された。
 寛永4(1627)年、藤堂高虎の敷地内に創建された。
 寛永8(1631)年、佐久間勝之が創建されたばかりの東照宮に石灯籠が少なく寂しいととして、通称「お化け灯籠」を寄進した。
 慶安4(1651)年、徳川家光が改築し、現在に至る。
 金箔を使って豪華であったことから、「金色殿」と呼ばれている。
 保科正之が奉納した青銅灯籠2基が現存。
 ▲(台東区上野公園9-88 Tel. 03-3822-3455)


不忍辨天堂

 天海大僧正が寛永寺の開山に当り、琵琶湖/竹生島に見立てて不忍池に中之島を築き、観音堂を建立した。
 本尊は、竹生島/宝厳寺から勧請した辯財天。
 古絵図(304KB)

 ▲(台東区上野公園2-1)


清水観音堂

 寛永8(1631)年、天海大僧正が摺鉢山の上に建立した。
 京都の東山/清水寺に見立てた舞台造りの堂宇。
 元禄7(1694)年、現在地に移転した。
 本尊は、清水寺から勧請した恵心僧都作の千手観音。
 国の重要文化財に指定。
 ▲(台東区上野公園1-29 Tel. 03-3821-4749)  古絵図(204KB)

  吉野山の桜樹を移植している。
  古絵図(201KB)

  また、江戸湾の海苔が精進物として献上された際、
 天海大僧正の目に留まり「浅草海苔」と命名した。

徳川歴代将軍御霊廟

   勅額門
(家綱)   (綱吉)

厳有院霊廟 常憲院霊廟

徳川歴代将軍御霊廟/ 徳川綱吉霊廟勅額門
 天海大僧正が、天台宗の根本聖典/法華経の考えに基づいて、霊廟の構造を決めた。
 6名の将軍が埋葬 (合祀) されている。
   ◇ 厳有院霊廟 (4代/家綱)  10代/家治  11代/家斉
   ◇ 常憲院霊廟 (5代/綱吉)  8代/吉宗  13代/家定
 太平洋戦争の空襲で大半が焼失し、家綱や綱吉の勅額門・宝塔などが残るのみ。
 ▲ (台東区上野桜木1-16)

江戸五色不動

 天海大僧正の進言により、将軍/家光が天下太平を祈願するため5つの方角の不動尊を割り当て、江戸五色不動が発足。
 五色とは、密教の陰陽五行思想に由来した青・白・赤・黒・黄で、東・西・南・北・中央を表す。  火災や、明治政府が施行した大罪/神仏分離令 (廃仏毀釈) による廃寺や統合などで不動尊が移動しており、今では本来の結界の役目を失っている。
 会津にも、会津五色不動尊がある。


目青不動(教学院) 目青不動 (教学院)

 目青不動尊は、慈覚大師/円仁の作。
 元々は観行寺 (麻布谷町) の本尊であったが廃寺になったため、明治15(1882)年に教学院 (青山南町) へ移された。
 竹園山最勝寺、天台宗。
 関東三十六不動の第16番札所。
 ▲(世田谷区太子堂4-15-1 Tel. 03-3419-0108 )
<御詠歌>
 あらたなり うきよにくるしむ もろびとは たすけたまへる めあをふどうそん


目白不動(金乗院) 目白不動 (金乗院)

 目白不動尊は、弘法大師 (空海) の作 (伝)。
 新長谷寺(文京区関口)の本尊であったが金乗院と合併。
 神霊山慈眼寺、真言宗豊山派。
 関東三十六不動霊場の第14番札所。
 江戸三十三観音の第14番札所。
 ▲(豊島区高田2-12-39 Tel. 03-3971-1654)
<御詠歌> うつし世の まことの道を たずぬれば しるしまみえん 宿坂の里


目赤不動(南谷寺) 目赤不動 (南谷寺)

 目赤不動尊は、万行律師が夢枕のお告げにより、伊賀国/赤目山の山頂で授かったという。 後に徳川家光の命で赤目不動から目赤不動に改められた。
 大聖山東朝院、天台宗。
 関東三十六不動霊場の第13番札所。
 ▲(文京区本駒込1-20-20 Tel. 03-3942-0706)
<御詠歌> 聖童の 夢から醒めるや 赤目より まばゆき不動の 五色曳きたり


目黒不動(瀧泉寺) 目黒不動 (瀧泉寺)

 目黒不動尊は、慈覚大師/円仁の作。
 泰叡山、天台宗。
 関東三十六不動霊場の第18番札所。
 江戸三十三観音の第33番結願所。
 山の手七福神の恵比寿神も祀られており、サツマイモの栽培を広めた青木昆陽のもある。
 ▲(目黒区下目黒3-20-26 Tel. 03-3712-7549)
<御詠歌> 清らけき 目黒の杜の 独鈷滝 災厄難を 除ける不動尊


目黄不動(最勝寺) 目黄不動 (最勝寺)

 目黄不動尊は、良弁僧都の作。
 元々は東栄寺の本尊であったが、明治時代に入って廃寺となったため最勝寺に移された。
 牛宝山明王院、天台宗。
 関東三十六不動霊場の第19番札所。
 ▲(江戸川区平井1-25-32 Tel. 03-3681-7857)
<御詠歌> ありがたや 目黄に托して 祈る身は 心願叶えて 光り輝く


目黄不動(永久寺) 目黄不動 . (永久寺)

 目黄不動尊は、慈覚大師/円仁の作。
 養光山、天台宗。
 関東三十六不動霊場の札所ではない。
 ▲(台東区三ノ輪2-14-5 Tel. 03-3801-6328)


江戸の守護神/平将門

 天海大僧正は、江戸の都市造りにあらゆる手を打った。
 その1つが、江戸の守護神として平将門の部位を要衝に配置した。
 主要街道と江戸の堀の交点に架けられた橋の出入口「見附」に将門の地霊を祀り、江戸の地に街道から邪気が入り込むのを防ごうとしたと伝わる。
 その位置が、北斗七星に相応した魔方陣との説がある。
 北極星を中心に無数の星がめぐるため、北極星は宇宙を支配する神と信じられていた。
 江戸から日光の男体山を眺めると、真上に北極星が輝く。
 宋の時代には、北斗九星だった
 なお、平将門の3女/滝夜叉姫は会津に逃れ、出家して如蔵尼の名で生涯を過ごした。


鳥越神社(頭部 or 手) 鳥越神社 (手 or 頭部)

 頭 (or 手) を祀り、奥州道の浅草橋門に鎮座。
 ドゥーベ(Dubhe、おおぐま座α星)。
 白雉2(651)年、白鳥神社として創建。
 祭神は「日本武尊・天児屋根命・徳川家康」。
 鳥が隅田川の浅瀬を教え越せたことに由来。
 京都で晒された将門の首が、この地を「飛び越えた」ことからとも。
 ▲(台東区鳥越2-4-1 Tel. 03-3851-5033)


兜神社(頭部) 兜神社 (頭部)

 兜 (頭部) を祀り、東海道の虎ノ門に鎮座。
 メラク (Merak、おおぐま座β星)。
 天慶3(940)年、藤原秀郷(俵藤太)が、平将門の兜(胴衣)を埋めて塚にした。 永承5(1050)年に源義家が東征の際、兜岩に戦勝を祈願したとも。
 元和2(1616)年、兜岩の隣りに平将門を祀った鎧稲荷が創建。
 明治4(1871)年、鎧稲荷と兜岩を合祀し兜神社となる。
 日本橋兜町 (東京株式取引所) の由来にもなっている。
 ▲(中央区日本橋兜町1-12)


平将門の首塚(頭部) 平将門の首塚 (頭部)

 首(頭部)を祀り、奥州道の大手門に鎮座。
 フェクダ(Phecda、おおぐま座γ星)。
 将門の首級は都大路で晒されたが、3日目の夜空に舞い上がり、故郷の この地に落ちたとされる。
 現地の説明文は、こちら。
 徳治2(1307)年、時宗二祖真教上人が日輪寺で将門の供養をしたが、塚前に法名「蓮阿弥陀仏」の板石塔婆を建て、近くの神田明神に霊を合祀した。
 将門の「体 (からだ)」が訛って「神田」になったとのこと。
 供養塔に触ると呪われるという噂があり、ご注意を。
 ▲(千代田区大手町1-2)


神田明神 (頭部)

 首(頭部)を祀り、日光道・上州道の神田橋門に鎮座。
 メグレズ (Megrez、おおぐま座δ星)。
 天平2(730)年、創建。
 延慶2(1309)年、時宗/真教上人が将門を合祀。
 元和2(1616)年、首塚を残して現在地に遷座され江戸総鎮守となる。
 祭神は「大己貴命・少彦名命・平将門命」。
 ▲(千代田区外神田2-16-2 Tel. 03-3254-0753)


筑土八幡神社(足 or 頭部) 筑土八幡神社 (足 or 頭部)

 足 (or首) を祀り、中山道の牛込門に鎮座、
 アリオト(Alioth、おおぐま座ε星)。
 大同4〜弘仁14(809〜823)年、創建の村社。
 天慶3(940)年に密かに京都から平将門の首が持ち返り、武蔵国/上平河村津久戸(大手町辺り)の観音堂に祀られた津久戸明神が始まりとも。
 ▲(新宿区筑土八幡町2-1 Tel. 03-3260-2701)


築土神社(頭部) 築土神社 (頭部)

 首を祀り、中山道の牛込門に鎮座、
 アリオト(Alioth、おおぐま座ε星)。
 天慶3(940)年、津久戸村(大手町辺り)に平将門の首を祀り、津久戸明神として創建。
 祭神は「天津彦火邇々杵尊・平将門公・菅原道真公」。
 太田道灌が江戸城/田安郷(九段坂上)へ遷座し田安明神として江戸三社の一つとなる。
 元和2(1616)年、筑土八幡神社の隣に遷座し津久戸明神社となる。
 元和2(1616)年、筑土八幡神社の隣りに遷座し築土明神となる。
 昭和20(1945)年、太平洋戦争の空襲で焼失し現在地に遷座。
 ビルに囲まれた中にある。
 ▲(千代田区九段北1-14-21 Tel. 03-3261-3365)


稲荷鬼王神社(鎮魂) 稲荷鬼王神社 (鎮魂)

 魂を祀り、中山道の田安門に鎮座。
 ミザール(Mizar、おおぐま座ζ星)。
 承応2(1653)年、村の氏神として稲荷神社が創建。
 宝暦2(1752)年、百姓/田中清右衛門が紀州熊野 (廃社) から勧請し鬼王神社を創建。
 天保2(1831)年、稲荷神社と鬼王神社を合祀。
 将門の幼名「鬼王丸」に由来し、将門を祭神としたとの言い伝えもある。
 ▲(新宿区歌舞伎町2-17-5 Tel. 03-3200-2904)


鎧神社(胴部) 鎧神社 (胴部)

 鎧 (胴部) を祀り、甲州道の四谷門に鎮座。
 ベネトナシュ(Benetnasch、おおぐま座η星)。
 江戸時代は「鎧大明神」として親しまれていた。
 昌泰元〜延長7(898〜929)年、円照寺として創建。
 祭神は「日本武尊・大己貴命・少彦名命・平将門公」。
 天暦年間(947〜957)年、将門の鎧を埋めたと云う。
 藤原秀郷(俵藤太)が病床に伏し、将門の祟りを恐れて鎧を埋めたとも。
 明治政府の命で将門が祭神から外されたが、太平洋戦争後に氏子らにより復帰した。
 ▲(新宿区北新宿3-16-18 Tel. 03-3371-7324)


水稲荷神社(調伏) 水稲荷神社 (調伏)

 北斗七星の魔方陣位置から外れているが、平将門すら調伏できる神社として選ばれた。
 天慶4(941)年、藤原秀郷(俵藤太)が平将門の乱を鎮圧できた御礼に“冨塚稲荷Wとして創建。 当社の神託により源経基が平将門の謀反を朝廷に誣告したとも。
 別名:戸塚稲荷神社、高田水稲荷神社。
 元禄15(1702)年、神木の根元から霊水が湧きだし、眼病に利くとして評判となり“水稲荷神社”に改名。
 昭和38(1963)年、早稲田大学と土地交換し、現社地 (清水徳川家/下屋敷の甘泉園) に遷座。 入ってすぐに堀部安兵衛之碑がある。
 ▲(新宿区西早稲田3-5-43 Tel. 03-3200-4621)


烏森神社(調伏) 烏森神社 (調伏)

 北斗七星の魔方陣位置から外れているが、平将門すら調伏できる神社として選ばれた。
 天慶3(940)年、藤原秀郷 (俵藤太) が戦勝祈願をした。
 平将門の乱を鎮圧できた御礼として創建とも。
 ▲(港区新橋2-15-5 Tel. 03-3591-7865)

日本橋

 慶長8(1603)年、天海が発案した東海道五十三次の起点として江戸/日本橋に木造の橋が架設され、全国へ通じる各街道の起点ともなる。

 現在の橋は明治44(1911)年に建立した19代目の橋で、文珠菩薩の化身である翼を持つ獅子像が由来を暗示させるのみ。
 獅子像は、橋の両端を含め32頭 (橋=8×4 ) が隠れていると云われている。
 話のタネに探してみるのも一興かも。
 ▲(中央区日本橋室町1-1)

御殿御茶屋「府中御殿」

御殿御茶屋「府中御殿」の碑

 元和3(1617)年3月21〜22日、天海大僧正が導いて保科正之の祖父/家康の遺骸を日光遷座する途中で2泊した家康専用の御殿御茶屋「府中御殿」があった。
 JR武蔵野線/府中本町駅の改札口先の一帯が御殿跡。
 天正18(1590)年、家康が江戸入府してすぐ、甲州街道の府中宿/国司の館跡に造営された。 鎌倉街道とも交差しており、多摩丘陵を一望でき、江戸防衛の要衝でもある。
 正保4(1647)年、大火で焼失したが、すでに主は亡くなっており、再建されなかった。
 平成20〜21(2008〜2009)年に開発計画の事前発掘調査で遺構が見つかり伝承が確認され計画は中止になり、平成23(2011)年に武蔵国府跡の一部として国の史跡に指定された。
御殿坂
 今では、府中御殿のあった東側近くの府中街道に、「御殿坂」の名と、 地元の人が「御殿山」、多摩川へ至る道を「御茶屋街道」と呼んでいるだけで、面影は何もない。
 ▲(府中市本町一丁目一帯)

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