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名君/蒲生氏郷公“ゆかり”を巡る

  ♪  藩主在任は5年ほどと短かったが、 ♪
♪  地名「黒川」を「若松」と改め、  ♪
♪  新たな城下町造りに着手し、    ♪
♪  本郷焼など産業の基盤整備に尽力、 ♪
♪  その後の会津藩発展の礎を築いた。 ♪
  

 《会津若松IC (磐越道)》

   ↓  3. 8 Km

孫/蒲生忠郷公の墓

孫/蒲生忠郷公の墓 (高厳寺)

 慶長17(1612)年、父/秀行公が急死し、10歳で家督を継ぐ。
 元和3(1617)年、頼りの母も死去。
 内紛で苦慮する最中、疱瘡で急死、26歳の若さであった。



 ▲(会津若松市中央2-4-5)
   ・駐車場なし、近くの有料駐車場を利用

   ↓  1. 0 Km

蒲生氏郷公の墓

蒲生氏郷公の墓 (興徳寺)

 文禄4(1595)年、京都/伏見の屋敷で急死したため、能力を恐れた秀吉が毒殺したとの説もある。
 遺髪と、京都/大徳寺黄梅院の墓から分骨されているとも。
 墓の五輪塔は、子/蒲生秀行公が建立。


 ▲(会津若松市栄町2-12)

   ↓  1. 1 Km

鶴ヶ城

鶴ヶ城

 黒川城の天守閣を七層に改築し、「鶴ヶ城」に改称した。
 ▲(会津若松市追手町1-1)
   ・駐車場は有料
   ・鶴ヶ城会館の駐車場がお勧め

 茶人でもあり、千利休が切腹した後、女婿(養子)/少庵を会津の地「麟閣」で預かっている。
 少庵の子孫により、表千家、裏千家、武者小路千家へとつながる。



 北出丸の入口上菓子司 会津葵がある。
 お土産に、キリシタンの蒲生氏郷公が起点という餡入りカステラ「かすてあん(会津葵)」は、いかが。

   ↓  1. 6 Km

恵倫寺

父/蒲生賢秀の墓 (恵倫寺)

 本能寺の変で逃れてきた織田信長の妻子一族を迎え入れるなど、信長の恩を忘れなかった人物としても知られる。
 
 蒲生賢秀坐像を所蔵とのこと。

 ▲(会津若松市花見ケ丘3-3-8)

   ↓  2. 3 Km

子/蒲生秀行公廟

子/蒲生秀行公廟 (允殿館跡、弘真院)

 蒲生氏郷公と織田信長の次女/冬姫との間に誕生の武将。
 妻は、徳川家康の3女/振姫

 ▲(会津若松市館馬町8)

 
《 興 味 が あ れ ば 》

レオ氏郷南蛮館
 蒲生氏郷公を紹介する資料館だったが、東日本大震災で損傷し、残念ながら閉店となった。
 建物は現存している。
 ▲(会津若松市大町1-2-21)
    蒲生秀行公廟から 2.9 Km

赤沼稲荷神社
 天正17(1589)年、伊達軍に焼き払われれてしまったが、蒲生氏郷公が現在地に再建。
 ▲(会津若松市旭町)
    蒲生秀行公廟から 3.6 Km

蒲生氏郷公の町割のため現在地に移った名刹と神社
  ◇ 実相寺   ◇ 威徳院   ◇ 観音寺<大町>   ◇ 金剛寺
  ◇ 弥勒寺   ◇ 自在院   ◇ 本覚寺   ◇ 本光寺<南町>
  ◇ 蓮華寺   ◇ 愛宕神社    など。

   ↓  5. 8 Km

本郷焼

 文禄2(1593)年、蒲生氏郷公が黒川城 (鶴ヶ城) 改修のために、播磨国から瓦工/石川九左衛門らを呼び寄せて、黒瓦を作らせたのが本格的な始まりとされる。
 公共駐車場は、「会津美里町インフォメーションセンター」を始め、街中の所々にある。 もちろん無料。

 ▲(会津美里町字瀬戸町  旧/本郷町)

   陶芸体験も、大人気。
    ◇ 流紋焼 [HP]   ◇ 樹ノ音工房 [HP]   ◇ 酔月窯 [HP]   ◇ 陶房 彩里 [HP]
  などの他の窯元でも、体験できる。
   「会津本郷陶磁器会館 Tel. 0242-56-3007」に、お問い合わせを!

   ↓  8. 9 Km

キリシタン塚

キリシタン塚

 寛永12(1635)年、幕命により加藤明成公は、キリスト教徒の横沢丹波一族と信者60余名を捕らえ、15人を処刑した。

 ▲(会津若松市神指町黒川字薬師川原)

 
《 興 味 が あ れ ば 》

 キリシタン大名/蒲生氏郷公の入府により会津にもキリスト教が伝播し、城下町に3ヶ所の天主堂が建てられた。
   ◇ 天子神社<湊>   キリシタン塚から 20.2 Km
   ◇ 天子神社<町北>  キリシタン塚から  3.0 Km
   ◇ 天子宮古墳  キリシタン塚から  4.9 Km
 一時的ではあったが若松では3割強、猪苗代は猪苗代城主/岡越後守左内が熱心なキリシタンのため8割もがキリシタンになったと伝わる。
 ただし、個々人が信心してキリシタンになったのではなく、村全体がキリシタンになったのであり、寺の檀家を離れたのでもない。
 その中から、キリスト教を信ずる者が現れるのも自然の流れである。
 彼らの信仰は、江戸時代を通じて山奥などで、ひっそりと 「隠れキリシタン」 として続けられ、それらの遺構 (伝聞) が残っている。

切支丹地蔵 (伝)  キリシタン塚から  5.2 Km

川添隠れキリシタンの墓  キリシタン塚から 3.0 Km

天司のけやき  キリシタン塚から 26.8 Km

キリシタン地蔵  キリシタン塚から 28.6 Km

久保田三十三観音石像  キリシタン塚から 37.5 Km

切支丹石塔  キリシタン塚から 7.7 Km

隠れキリシタン石燈炉  キリシタン塚から 10.4 Km

ばてれん塚 (隠れキリシタン遺跡)  キリシタン塚から 13.3 Km

隠れキリシタン墓  キリシタン塚から 14.5 Km

マリア観音 (子安観音像)  キリシタン塚から 49.9 Km

キリシタン塚  キリシタン塚から 24.1Km (磐越道なら 28。8Km)

水無のマリア像  キリシタン塚から 48.2Km

内藤自卓の石燈籠(?)  キリシタン塚から 9.7Km

 天下人となった豊臣秀吉は、宣教師が中国・朝鮮・南蛮に日本人奴隷を売りさばき巨額の富を得て、キリシタン大名の大村純忠が自分の領地/長崎と茂木を、同じキリシタン大名の有馬晴信も浦上の地をイエズス会に寄進しており、すでに長崎がイエズス会領として要塞化されていることを知るや、天性的感性の直観から真の目的を悟り、天正15(1587)年にバテレン追放令を発令した。
 次の天下人/徳川家康は、当初キリスト教の布教に寛容だった。
 しかし、急速に信者数を増やすイエズス会の行動に疑念を抱き、背後にいるスペインの思惑を調べ始める。
 布教と称する軍事化した教会が、長崎・博多・豊後などに200ヶ所も設置され、それらの地では寺院がことごとく破壊されていた。
 ポルトガルやスペインは、世界各地で最初に宣教師を送り、次いで商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取る手段で世界中で植民地化しており、日本でも今まさに実行されようとしていた。
 イエズス会のキリスト教布教目的は日本侵略であることを確信し、侵略の意図を持たないプロテスタントの国/オランダを貿易相手を変えた。
 おかげで、どこからも日本だけは植民地化されることなく、幕末まで長らく平和を迎えることができた。
 英国との戦いに惨敗し、賠償金を払ってくれた幕府の恩義も忘れ、英国の手先となって比類のない国民310万人もの尊い犠牲を強い、隣国にも多大な迷惑をかけた極悪人/長賊らが出現するまで・・・・。

   ↓ 25. 5 Km

腹打石(北山漆薬師)

腹打石 (北山漆薬師)

 孫/亀千代丸 (蒲生忠郷公) は生まれながら病弱であった。
 様々な治療を試みるも治らない。
 蒲生秀行公大正寺に宿泊した際、住職から北山漆薬師の霊験あらたかなことを聞き、参拝の途中、参道の大きな石 (腹当石) に腹を触れさせるや、たちどころに元気になったという。
 その時の亀千代丸が2歳であったことから、後に2歳になる子供が参詣する「二つ児参り」という風習が始まった。

 ▲(北塩原村大字北山)

   ↓  7. 5 Km

《喜多方IC (会津縦貫道)》

 
《 お 土 産 に も 》

起き上がり小法師

 入府した蒲生氏郷公が下級藩士の内職として作らせた物の一つで、正月に売り出したのが始まりとされる。


赤べこ

 以前から存在していたが、入府して聞き知った蒲生氏郷公が無役武士の内職として奨励してから、今の原型が普及し殖産振興として確立したとされる。

会津塗

 以前から生業としてあったが、入府した蒲生氏郷公が近江国から木地師や塗り師を会津に呼び寄せてから、産業として飛躍的に発展する。

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