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会 津 武 家 屋 敷

▲(会津若松市東山町石山院内1 Tel. 0242-28-2525)
 「会津武家屋敷」のホームページは、こちら。
下記表記は、数年前の訪問時による。

 戊辰の役で焼失した家老/西郷頼母邸が、忠実に復元されている。
 敷地約7千坪に、中畑陣屋や茶室なども移築・復元。
 全国に数ある武家屋敷の中で、唯一、昔の香りが残っているといわれている。
会津武家屋敷の説明板
  右図をクリックで拡大。

上図および以下の緑色の文は、現地の「説明板」から

冠木門

 見学ルートは決まっており、迷うことはない。

冠木門前の入場券売場 冠木門前の太鼓
冠木門を入って、左側へ向かう。

御写真処

御写真処

 時代衣装とカツラが準備されており、記念写真ができる。
御写真処  冠木門を入って、すぐ左わき。

 撮影代は別途料金だが、楽しい思い出・記念には良いかも。

西郷四郎の像

 西郷邸の入口に建っている。
 西郷頼母の長男/吉十郎が22歳の若さで病死したため、養子になった。 吉十郎 (保科有鄰) の墓は東京/長谷寺にある。
 柔道の達人で、講道館四天王の1人。
 富田常雄の柔道小説「姿三四郎」のモデルである。
 現地の説明文  「西郷四郎 」 「西郷四郎と合気道
 碑は津川城址に、墓は正法寺にある。
  慶応2 (1866)年
    2月4日
 会津藩士/志田貞二郎の3男として誕生。
  慶応4 (1868)年  戊辰の役が勃発したため、会津藩領/津川に避難。
  明治14(1881)年  西郷頼母の養子となり、柔術を伝授される。
  明治15(1882)年  上京し、成城学校(新宿区原町・陸軍士官学校予備校)に入学。
 嘉納治五郎の目にとまり、講道館に移籍する。
  明治19(1886)年  警視庁武術大会で優勝、講道館柔道が警察の正課科目に採用される。
 得意技は天下無敵の「山嵐」で、後に嘉納治五郎が碑に刻んでいる。
  「講道館柔道開創ノ際 予ヲ助ケテ研究シ 投技ノ薀奥ヲ窮ム
  其ノ得意ノ技ニ於テハ 幾万ノ門下未ダ其ノ右ニ出デタルモノナシ 〜
  明治22(1889)年  講道館の師範代となる。
  明治23(1890)年  「支那渡航意見書」を著し講道館を去る。
 憂国の大陸問題運動家として活躍する。
  明治35(1902)年  「東洋日の出新聞」が創刊されると、編集長に就任。
 長崎で、柔道、弓道、水泳の指導などもしている。
  大正11(1922)年
   12月22日
 神経痛の療養のため滞在していた広島県尾道の吉祥坊で死去。
 享年57歳。 星光院北州達観居士

西郷頼母邸



 藩祖から続く重臣で、戊辰の役の際は家老職。
 その時の当主が、西郷頼母近悳(たのもちかのり)である。
 屋敷は、鶴ヶ城正面の追手町にあった。
 大邸宅の割には小さい池だが、趣がある。
 主の人柄が偲ばれる。


式台玄関

 玄関土間に式台 (敷台) を設置することで段差が分割して昇降しやすくし、履物を履くときに腰掛ける。
 現在の建築では、ほとんど見ることはなくなった。
≪式台玄関≫
 家老屋敷の正面に位置する表玄関である。
 公式の出入り口として、お客様の送り迎えや、挨拶の場として使われた。

≪御成の間≫
 御成御殿とも呼ばれ、藩公や上級武士など身分の高い方々をお迎えした。中は書院造りで書院壱(しょいんいち)の間、(つぎ)の間、茶室、(くさり)の間などから構成されている。

鎖の間

 来客時に料理や膳立てをする場所で、炉を切り釣釜を下げた書院風の茶室。
(くさり)の間≫
 釣釜(つりがま)を掛ける鎖がこの部屋にあったことから、この名が付いた。大勢の来客の場合は、ここでも茶をたてた。

書院壱(しょいんいち)の間≫
 お客様が通された部屋。この部屋にだけ、畳に高麗縁(こうらいべり)を用い、格式の高い部屋であることを示している。

≪容保公接見≫
 家老屋敷を訪ねた藩主松平容保公に、屋敷の主人西郷頼母近悳(ちかのり)が挨拶している場面。

茶室

≪茶室≫
 御成の間に来客があった時、茶をたてる部屋。

釘隠(くぎかく)し≫
 他の部屋の釘隠しは銅製ですが、この部屋だけは瀬戸物でできています。  理由は、湯気(ゆげ)で銅が()びると緑青(ろくしょう)という毒物が発生し、体の害になるからです。

釘隠し
 格式のある書院造りの住宅で、長押(なげし)などに打った大釘の頭を隠すための化粧金具。
 「釘覆い」とも呼ばれ、通常は金属や木製。

≪使者の間≫
 城からの使者が、家老と会った部屋。

(やり)の間≫
 玄関番が常時二〜三名詰めており、緊急事態に備えていた部屋。

(とお)(だたみ)
 中央の畳の敷き方を通り畳といいます。
 玄関番が敵の侵入(しんにゅう)などの緊急(きんきゅう)の際に、畳の(へり)に足がつまづいたりしないようにとの配慮(はいりょ)です。

客待の間

客待(きゃくたい)の間≫
 家老の応接間としてつかわれた。

岩浅松石(いわさしょうせき)筆≫
 松石は新潟県水原に生まれ、大正4年 (1915) 若松に来住、以後仏画師として画業に専念しました。
 この屏風の画題は江戸時代後期に描かれた年中行事の原画がもとになっており、現在では当時の会津の風俗を知る上での貴重な資料となっています。


表居間

表居間(おもていま)
 家老の執務室として使われた。書院造りになっている。

入側

 書院造りで、濡れ縁と座敷との間にある1間の畳敷き廊下。

入側(いりがわ)
 「家の入り (内)の縁側(えんがわ)」を意味する。 また、畳が敷いてあることから、「縁座敷(えんざしき)」とも呼ばれた。

角金具
≪角金具 (すみかなぐ)≫
 引戸(ひきど)を九十度回転させるために用いる金具です。

自刃(じじん)の間≫
 慶応四年 (一八六八) 八月二十三日早朝、西軍は会津城下に総攻撃を開始した。 お城より全員登城の命が下ったが、西郷家の婦女子は「足手まといになるまい」と考え、この部屋にて自らの命を断った。

 敵兵の恥辱は決して選ばないとの考えがあり、状況は風雲急を告げていた。
 頼母と長男/吉十郎の登城を見送った後、籠城戦では婦女子は足手まといになると、家族9人を含む一族21名が各々辞世の歌を詠み自刃し、頼母の後顧の憂いを絶った。

  母 律子 58歳   秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高
  (秋霜飛んで金風冷ややかなり 白雲去って月輪高し)
  千重子 34歳   なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ
  眉寿子(みすこ) 26歳   死にかえり 幾度世には 生るとも ますら武夫と なりなんものを
  由布子(ゆうこ) 23歳   武夫の 道とききしを たよりにて 思ひ立ちぬる 黄泉の旅かな
  長女 細布子(たえこ) 16歳   下の句 「いざ たどらまし 死出の山道」
  二女 瀑布子(たきこ) 13歳   上の句 「手をとりて 共に行きなば 迷はじよ」
  三女 田鶴子(たづこ) 9歳  
  四女 常盤子(とわこ) 4歳  
  五女 季子(すえこ) 2歳  
  親戚の小森駿馬の家族5人
     祖母/ヒデ (77歳)、妻/ミワ (24歳)、子/千代吉 (5歳)、ツネ(10歳)、
     ミツ (2歳)
  親戚の町田伝八 (軍事奉行) 一家3人
     伝八 (61歳)、妻/ふさ子 (59歳)、姉/浦路 (65歳)
  遠縁 (支族) の浅井信次郎の妻子2人
     妻/たつ子 (24歳)、長男/彦 (2歳)
  西郷鉄之助夫妻
     鉄之助 (67歳)、妻/きく子 (59歳)

 善龍寺には、同様に自刃した殉難婦女233名の名前が刻まれた碑が建っている。
 妻/千重子の辞世の歌から、"なよ竹の碑"と名付けらた。

<ネットで供養「善龍寺」と一部併記>
 後記に、≪西郷頼母一族の自刃≫がある。

奥一(おくいち)の間≫
 家老の寝室として使われ、書院造りとなっている。
 この場面は、父の寝室で遊んでいる子供達を、母の千重子が(しか)っている所である。

風呂場

≪風呂場≫
 家族が使用した(ひのき)造りの風呂。 かまどが無いので、裏手の台所で()かし、手桶(ておけ)で運んだ。 火災予防のため広い邸内で火を使えるのは、台所だけに限られていたからである。

藩米精米所 (はんまいせいまいじょ)

藩米精米所

 今から百七十年前に建てられた精米所で、当時、白河藩で使用していたものを移築した。
 水力を利用し、一日に四斗俵(とたわら) (約六十(キロ)) の玄米を十六俵程精米していたといわれる。

 当時は、東北一の規模だったとのこと。

会津歴史資料館

会津歴史資料館


 館内撮影禁止のため、訪れる時のお楽しみ。
 近世を中心に貴重な資料などが展示されている。

西郷頼母邸 (続き)

子供部屋 ≪子供部屋≫
 長男は家督(かとく)を継ぐことから、床の間がある右側の部屋を与えられた。 しかし次男、三男などは、中央の部屋を一緒に使用した。

化粧の間 ≪化粧の間≫
 頼母の妻、千重子が化粧や身じたくを整えた部屋。

女中部屋

女中(じょちゅう)部屋≫
 行儀見習いの女中達 (藩士の子女) 十数名が、(あい)部屋で寝食を共にしていた。

女中頭部屋

≪女中(がしら)部屋≫
 女中頭一人に一部屋が与えられていた。 奥の二畳間は、女中頭付女中の部屋である。

奥玄関(おくげんかん)
 家族の出入り口として使用された。 女中たちの出入り口は台所であった。

台所

≪台所≫
 土間(どま)(たま)り、料理の間、配膳の間から構成されている。
 天井は木組みが美しく、左右に走る(はり)には表面を(ちょうな)(けず)って仕上げる「釿削り」が(ほどこ)されている。 また、雪の重さに耐えられるよう横の梁が ゆるやかな弧を描いている。

溜り 土間の炉

若党部屋

若党部屋(わかとうべや)
 来客の従者(じゅうしゃ) (士分以下) が、(あるじ)の用件が済むまで待っていた部屋。

番所(ばんしょ)
 屋敷内警備の家来達が詰めていた部屋。

役人所

役人所(やくにんどころ)
 屋敷内の事務処理をしていた部屋。

片長屋 (かたながや)

片長屋

 江戸時代の武家邸宅の回りには、長屋を設け下級の家来を住まわせ、屋敷の警備にあたらせた。
 この長屋は、表門の片側についている所から、片長屋という。

駕籠部屋

駕籠部屋(かごべや)
 中の駕籠は、江戸時代末期の物で、重さは約三十(キロ)。 当時は家老といえど特別な場合以外使用できなかった。

家臣の居宅

≪家臣の居宅≫
 独身で持ち家のない家臣が警備を兼ね住んでいた。

酒槽

酒槽(さかぶね)
 この中に(もろみ)の入った酒袋をたくさん入れ、押しぶたを押すと底の蛇口からしぼったばかりの酒が流れ出て、袋の中には酒の粕だけが残るしくみになっている。

西郷頼母一族の自刃

西郷頼母(さいごうたのも)一族の自刃(じじん)
 慶応4(1868)年8月23日、会津藩主力兵の留守に乗じて、西軍は城下になだれ込んだ。
 土佐藩兵が西郷邸に銃弾を浴びせるも、まったく反応がない。 土佐藩兵の1人が邸内に踏み込むと、血潮に染って倒れている女性たちを発見した。
 驚愕して立ち去ろうとすると、血の気を失った少女が、かすれた声で、
  「お味方ですか、敵ですか」
と問う。 「見方じゃ」と答えるとホッとした表情に変わり、介錯して欲しいと頼む。
 首を落とした後、悲惨な状況に号泣したという。
 少女は長女/細布子 (16歳)、土佐藩兵は小隊長/中島信行とされている。
 しかし、この時点で中島信行は土佐藩を脱藩しており、会津戦には参加していない。
 ここの説明文には、薩摩藩士となっている。
 自刃の際の作法通り、逆屏風(さかさびょうぶ)になっているのも、お見逃しなく。

山川捨松 山川捨松

山川捨松

 現地版は、こちら。

 万延元(1860)年〜大正8(1919)年。
 幼名は咲子、2男5女の末娘として生まれ育つ。
 兄には、東京帝大総長山川健次郎、陸軍少将を経て貴族院議員となった山川浩がいる。
 8歳の時、家族とともに籠城して、弾薬筒運びなどを手伝っている
 斗南藩の時代に、北海道開拓使が募集した女子留学生に応募し、11年間アメリカに渡る。
 渡米が決まった時に母/えんは、
  「お前を捨てたつもりで許すが、立派になって帰ってくる日を心待ちに待つ
との思いで、“咲子”から“捨松”に改名させた。
 地元高校をから、ニューヨーク州ポキプシーの名門校ヴァッサー大学に入学。
 2年生の時には学生会長に選ばれ、3番目の成績で"偉大な名誉(magna cum laude)" 称号を得て、卒業生総代の一人に選ばれる。
 帰国後、薩摩出身の大山巖と結婚。
 日本人離れした長身と、流ちょうな英会話を活かし、「鹿鳴館の華」、「鹿鳴館の貴婦人」 と呼ばれ、外交親善にも貢献する。
 看護婦養成の資金を得るため、日本初のチャリティーバザーである「鹿鳴館慈善会」を開催する。この資金をもとに、日本初の看護婦学校「有志共立病院看護婦教育所」が設立された。
 日本赤十字社でのボランティア活動にも取り組む。
 大山捨松の略歴については、こちら。

<「大山捨松/生誕の地」と併記>    .

西郷四郎着用の柔道着 (複製)

≪西郷四郎着用の柔道着 (複製)≫
西郷四郎  四郎は猫のような柔らかい身のこなしと足の指が隈でのように内側に曲っていて、相手のくるぶしや膝の横に蛸の足の如く吸いついて離れないという特異な身体をもち、身長150cm、体重53kg小柄な体格が柔道着から偲ばれる。

資料 資料 資料

 様々な資料や複製品などが、整理されて展示されている。
 時の流れに翻弄されつつも、それぞれ信じる道を貫き通した情熱がヒシヒシと感じられる。

中畑陣屋

 天保年間(1830〜1843)、旗本/松平軍次郎の代官陣屋として、西白河郡矢吹町に建築された。
 東北に現存する唯一の代官所。
 昭和49(1974)年、現在地に復元移築。
 残存する旗本陣屋は珍しく、保存状態も良く、歴史を伝える資料としても貴重な建物である。

のっこみ

≪のっこみ≫
 「のりこみ」とも呼ばれ、代官と身分の高い客の出入り口。 役所造りで、時に御白州(おしらす) (裁判の場) としても使用された。

台所 奥座敷

≪台所≫



≪奥座敷≫  .

茶室 (嶺南庵麟閣 れいなんあんりんかく)

 江戸時代、茶道は武士の(たしな)みの1つとして重んじられていた。
 会津藩主蒲生氏郷(がもううじさと)庇護(ひご)を受けた、千利休(せんのりきゅう)の子少庵(しょうあん)は、鶴ヶ城本丸内に茶室「麟閣」を造った。 戊辰(ぼしん)の戦火を奇跡的に逃がれ、明治七年鶴ヶ城取壊しの際に移築されたが、この茶室はその「麟閣」を再現したものである。

茶室(嶺南庵麟閣) 茶室(嶺南庵麟閣)

 麟閣については、こちら。

弓道体験場

弓道体験場

 結構賑わっている。
 係員が親切に教えてくれた。
 初めての人でも、充分楽しめる。
 的に当たると、景品がもらえる。

会津くらしの歴史館

会津くらしの歴史館

 天保年間に建てられた養蚕農家を移築。
 昔の日用品 (土器、焼物漆器など)、衣料、会津三縁起 (初音起き上がり小法師風車)や民芸品 (赤ベコ唐人凧天神さま)、屏風、掛け軸などが展示されている。
 館内は、ゆっくり時が流れている。

佐々木只三郎の墓

佐々木只三郎の墓

 藩士/佐々木源八の3男として、鶴ヶ城下に生まれる。
 神道精武流を究め、「小太刀日本一」と称される。
 27歳の時、幕臣/佐々木矢太夫の養子となる。
 幕府講武所の剣術師範などを歴任し、京都見廻組を率い (与頭)、新選組と最後まで京都の治安維持に努める。
 鳥羽伏見の樟葉で負傷し、慶応4(1868)年1月12日の江戸に向かう途中に和歌山/紀三井寺で死去。 35歳。
 昭和50(1975)年8月、和歌山/紀三井寺から移された。
 後に岡山県吏・岡山区長となった手代木勝任は実兄。
佐々木只三郎の墓の説明文  くちはてて かばねの上に 草むさば 我が大君の 駒にかはまし
 千万(ちよろづ)(あだ)も草木と 散りぬらん 君の一刃の 露とふりなば
 先がけて 折れし忠義の ふた柱 くづれんとせし 軒を支へて
 弓馬も 剣も鉾も 知らずとも 恥をだに知れ 武士(もののふ)の友
<辞世の句>
 世はなべて うつろう霜に ときめきぬ 心づくしの しら菊の花

戊辰戦争 戦没者供養塔

戊辰戦争 戦没者供養塔

 佐々木只三郎の墓の隣りに建てられている。
佐々木只三郎の墓

心の美術館 青龍

    14体の御仏のお姿が描かれている。
    心休まる不思議な空間。
    お姿は、訪れる時のお楽しみ。
.

会津天満宮

 かつて、西郷頼母邸に祀られていた菅原神社。
 戊辰の役で八角(やすみ)神社などに仮安置されていたが、頼母邸が復元されたため、再び遷座された。

会津天満宮の説明文

撫で牛 撫で蛙()で牛≫
 牛は、もう1頭

()(かえる)≫      .
祈願           .
一路平安 無事かえる

土産、食事         詳しくは、こちら。

土産エリア

 「武家屋敷」に入場しなくても利用できる。
 通常のお菓子などの土産物だけでなく、会津地方の民芸品類や特産品が、ほぼ揃っている。
 市内の土産店の中でも、品種も多いし品数も豊富だ。
 店内を回れば、大半の名物に出会える。

九曜亭 郷工房 古今
  ◇ 土産(1階)
     「郷工房 古今」
  ◇ 食事(2階)
     「九曜亭」


 「敷地7千坪、部屋数38の邸宅」から受ける感覚からすると、小ぶりな造り。
 だが、小さめの空間からは、人々の息吹、そして暖かい(ぬく)もりが感じられる。
 選んだ道は、あまりにも悲し過ぎる、と人は言う。
 豊かで平和な現在の感覚で、とやかく言えまい。
 当時は、こうするより選択の道はなかったのである。
 そこには、究極の家族愛すら感じる。

武家屋敷の案内図 (現地板)  会津を訪ねた時は、ぜひ立ち寄ろう。
 ネットでは味わえない「温もり」に会いに。

 宿泊が東山温泉なら、入口の信号から500メートル弱。
 歩いても、すぐである。
 弓道以外にも、様々な 体験教室がある。

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