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ご   縁   の   あ   る   地

北 海 道 と の“ご 縁”

前編については、こちら。 .

殉難者については、こちら。

せ   た   な   町

 東京/神田和泉橋警察署長まで昇進していた丹羽五郎は、青年期に被った戊辰の役での悲惨な経験から、理想郷をつくることが夢であった。
 長賊らが跋扈する世情に嫌気をさし、曽祖父/丹羽能教が私財を投じて猪苗代の荒野開拓し藩に祭田として献納に倣い、理想郷建設のため北海道開拓を決意する。 開拓資金獲得として「漢英対照いろは辞典」「和漢雅俗いろは辞典」の2冊を出版し相当の利益を得る。
 明治22(1889)年、夏休み休暇を利用して、北海道開拓地を視察。
 明治23(1890)年、北海道瀬棚郡瀬棚村/利別原野を開拓地と決める。
 明治24(1891)年、神田和泉橋警察署長を辞任し、北海道へ渡る。
道路標識  曾祖父/能教が開墾した猪苗代/南土田村から開拓移民を募集。
 明治26(1893)年、猪苗代/千里村 (南土田村) から12戸 (49人) 移住。
 3月1日に猪苗代を出立し徒歩で本宮駅へ行き、汽車で仙台に到着、徒歩で塩竈へ行き1泊、翌日塩竈より郵船定期便/東京丸で函館、さらに松前丸に乗り、19日に瀬棚に到着、事比羅神社の建物を借受け、自炊生活をし、21日に入植地 (丹羽村) へ向った。
 明治27(1894)年、猪苗代/千里村から8戸、翌年に10戸移住。
 明治28(1895)年、東京在住の家族を呼び寄せる。
 以降、理想郷の建設に生涯を捧げる。
 1戸5ヘクタールを割り当て、入植者の所有80%・永小作地20%とする「二分八法」は開拓の模範とされる。
 現在、丹羽小学校と猪苗代千里小学校の交流は続いている。

玉川神社 (玉川公園)

玉川神社

 明治25(1892)年4月1日、入植した丹羽五郎は開拓者の団結に信仰心が必須と考え、小さい祠を建立し稲荷大明神を祀り玉川神社と称する。
 後に、丹羽家の出自とされる「坂上刈田麿・坂上田村麿」も合祀し、御神体として丹羽五郎の愛剣も祀っている。

 丹羽村の中央にあり、晩翠園と称される。
 平成6(1994)年5月28日、土津神社から琴似神社 (土津霊神を合祀) に献木された10本の内2本が、社殿前の左右に植栽された。


 入口の鳥居から直ぐ右側。

玉川神社の荷卸の松二世
玉川神社の丹羽五郎翁胸像 玉川神社の丹羽五郎翁頌徳碑 玉川神社の開基百年碑
丹羽五郎翁頌徳碑
 昭和16(1941)年8月28日、丹羽村建村五十年祭を記念して、永く徳を讃えるために建立・除幕。

丹羽五郎翁胸像
 昭和35(1961)9月6日、丹羽村開基七十周年を記念して、徳を讃え建立・除幕。
 頌徳碑の隣り。

「荷卸の松」の2世
 高齢により衰弱していた「荷卸の松」を後世に残すため、森林総合研究所育種センターが枝を採取し接ぎ木により育てられ、平成19(2007)年5月13日に植栽された。
 初代「荷卸の松」は、西丹羽地区の県道沿いに現存。


会津白虎隊玉川遥拝所

玉川神社の会津白虎隊玉川遥拝所

 大正13(1924)7月、白虎士中二番隊19名の霊を祀り建立。
 隊士/有賀織之助永瀬勇二は、丹羽五郎の従兄弟。
 昭和46(1971)年11月20日、丹羽村開基八十周年を記念して修復され、現在に至る。
 各隊士の遥拝碑については、こちら


西南の役/三十三観音

玉川神社の三十三観音

 丹羽五郎は、警視庁勤務 (東京/高輪警察署) 時に田村五郎と名乗る。
 明治10(1877)年、西南戦争が勃発するや、積年の恨みを果たすべく警視庁巡査100名を率い出征。
 厳選の精鋭部隊/警視抜刀隊は田原坂の激戦で戦功をあげるも、小隊100名の内33名が戦死、50名が負傷した。
 大正3(1914)年、丹羽村開基三十五年祭を記念して、部下の忠魂を慰謝するため戦死33名を三十三観音にちなみ、部下名を刻した33の墓標を本道沿いに建立。
 昭和30年代、道路拡張工事に伴い、玉川神社の参道石段の中ほどの現在地に移設。
 各墓標については、こちら

 ▲(せたな町北檜山区丹羽7-5)

荷卸の松 (におろしのまつ)

荷卸の松

 推定樹齢270年のイチイ (オンコ、水松樹)。
 明治25(1892)年、丹羽五郎率いる入植者12戸49人は、棚町 (会津町) を発ち、未開の原生林の中、道なき道をかき分けて開拓許可地に入った。
 大傘のように枝葉が繁茂した水松樹を見つけ、この辺りが肥沃な土地と判断し、樹下に数日間野宿し、開墾を開始した。
 後に、開拓の記念樹として「荷卸の松」と呼ぶようになった。
 国道277号の道路改修に伴い、現在の国道230号沿い移植。
 昭和48(1973)年、北海道記念保護樹木に指定。
 平成19(2007)年、玉川神社の丹羽五郎翁胸像の脇に二世が植栽された。
 ▲(せたな町北桧山区西丹羽)

丹羽村共同墓地

niwamura-haka

 生活も苦しい開拓当時の北海道共同墓地は酷い状態であったが、丹羽村共同墓地は一戸25坪に区画され、旧盆には村民全員で道路の補修や墓所の掃除を行っていた。

丹羽五郎の墓

丹羽五郎

 墓域の最上部にある丹羽家一族の墓碑群の中にある。
 ほとんどの墓碑が新しい墓石なので、近年に新しく立て替えられたものと思われる。
 丹羽村が眼下に広がる。
  丹羽宗源の墓

丹羽宗源

 名:寛次郎宗源。 後に勘解由と名乗る。
 文政8(1825)年、丹羽家の宗家/起四郎の4男(嫡子)として誕生。
 軍事奉行/丹羽能教の孫。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い、表御用人書簡役/公用人として上洛。
 元治元(1864)年、禁門の変が勃発すると、歩行が困難な病の身でありながら輿に乗り部下を指揮し、戦いが終わった数日後に黒谷にて病没したとの逸話がある。
 文久3(1863)年12月6日に死去 (42歳) とも。
 宗源が死去したため、丹羽五郎が養子となり丹羽本家を継ぐ。
 ▲(せたな町北檜山区丹羽  檜山北高校の向かいの道を上った頂上)

能教寺

能教寺

 明治29(1896)年、丹羽五郎は入植して5年目を期して村内信徒の寄付を募り、寄付した敷地5町3反3畝歩の中村に「説教場」を創立し、曽祖父/丹羽能教の諱から「能教寺」と称した。
 昭和3(1928)年、正式に寺号が「能教寺」と定められたが、丹羽五郎が死去する7日前であった。
 ▲(せたな町北檜山区西丹羽647 Tel. 0137-84-4387)


若松開拓記念碑 (法覚寺)

 若松山法覚寺
 浄土真宗大谷派

 明治29(1896)年7月、若松在住の穴沢祐たち財界人8名が設立した「会津殖民組合」に、北檜山の未開地500町歩の許可が出る。
 (高橋喜左衛門、林賢蔵、石山源太郎、福田宜平、石堂留吉、大須賀善吉、五十嵐惣吉、穴沢祐造)
 明治30(1987)年4月、北会津郡・河沼郡・大沼郡などから第1陣11戸が小作人として入植したが、死線を越えるほどの苦難の開拓であった。
 昭和9(1934)年6月、建立・除幕。
 碑には、開拓の苦難が刻まれている。
 会津にて造られた石碑は、東瀬棚駅から村民たちの手により運搬された。
 ▲(せたな町北檜山区若松479 Tel. 0137-85-1455)

若松開拓百年記念碑 (若松神社)

わかまつ拓きて百年

 事比羅神社が管轄。
 地名は「太櫓村若松町」だったが、町村合併により「北檜山区若松」となった。
 ▲(せたな町北檜山区若松611)

事比羅神社

 明治3(1870)年3月、兵部省は会津士族7戸、次いで8戸を流罪人として瀬棚に移送した。
 「会津町」と呼ばれていたが、地名変更により「本町」となり、瀬棚郡も久遠郡せたな町に合併された。
 明治25年3月19日には、開拓のため上陸した丹羽五郎たちが事比羅神社の建物を借受け、自炊生活をし、21日に入植地 (丹羽村) へ向った。
 ▲(せたな町瀬棚区三本杉34-1 Tel. 0137-87-3010)

岩    内    町

頌徳 高橋常四郎翁碑 (大和公園)

高橋常四郎翁碑

 昭和39(1964)年5月、建立 (島善鄰の書)。
   「老人の 赤き心をあらはして
        濃染の梅は 咲きそめにけり

 明治3(1870)年、高橋常四郎の率いる10余戸30余人が、兵部省管轄の斗南藩/山越郡に流刑として移送された。
高橋常四郎翁碑  翌明治4(1871)8月、廃藩置県で山越郡が北海道開拓使の直轄地となり、ほぼ全員が離散して去った。
 高橋常四郎は黒岩に残り農業を営んだが、後に岩内に移り教育者として人生を捧げた。
 高橋私学校と呼ばれた岩内私立学校主・私立岩宇同修学舎を創立し、岩内郡副戸長なども務めた。
 ▲(岩内町大和)

簗瀬隠居邸

簗瀬隠居邸

 簗瀬真精の和洋折衷の書院風邸。
 家老/簗瀬三佐衛門の分家にあたる。
 岩内に現存している最古の建物。
 明治13(1880)年、開拓使岩内郡古宇郡役所の初代郡長に就任し、行政の基礎を築くなど、岩内地元の発展に尽力。
 岩内郵便局の局長なども歴任。
 岩内町郷土館模型が展示されている。
 ▲非公開 (岩内町清住)

岩内町郷土館

「岩内の行政と教育」コーナーには、
明治期の岩内の行政・教育・交通・経済の基礎作りを行ったのは、会津藩士及び会津の人々
と紹介されている。
 館内については、こちら
 ▲有料 (岩内町字清住5-3 Tel. 0135-62-8020)

七    飯    町

 享保19(1734)年、徳川吉宗より朝鮮人参の栽培を命じられ、松前主馬らにより蝦夷地栽培が開始された。
 安政元(1854)年、幕府は日米和親条約を結び、箱館と下田の2つの港を開いた。
 翌安政2(1855)年、管理するために箱館奉行所を設置し、同時に蝦夷地の開拓にも注力させた。 箱館の開港にあわせて七重村は、外国人が自由に行き来してもよい遊歩地区に指定され、外国船に供給する牛肉の牧場や野菜の農園が設けられた。
 箱館奉行所は、幕府直轄の薬園「七重村御薬園」において、マツ・スギなどの苗木や薬草を植えていたが、朝鮮人参の栽培には長らくチャレンジするも成功していなかった。
 朝鮮人参の栽培技術に精通していた日新館教授格/黒河内五八郎 (会津藩士/黒河内磯右衛門の次男) を招聘し指導を仰ぎ栽培に成功、文久2(1862)年には約4トン強 (4,627kg) を輸出する重要品目となり明治まで続いた。
 七重村御薬園は、北海道農業試験場へとつながる。

黒河内五八郎の屋敷跡

黒河内五八郎の屋敷跡

 屋敷は現在の町営住宅一帯にあったが、今では痕跡すらない。

牛馬の碑 イチョウの木

牛馬の碑
 追憶するように近くに「牛馬の碑」が建立。
 その碑を見守るかのように、北海道では最大の見事なイチョウの木がある。
銀杏  訪れた時が実りの季節で、足の踏み場もないほど銀杏が地面を埋め尽くしていた。
 ▲(七飯町本町6-9辺り)


七飯町歴史館

 七重村御薬園は、現在の七飯小学校・七飯町役場などをも含む広大な敷地を誇っていた。
 平成10(1998)年、跡地の一角に七飯町歴史館が開館。
 七重官園などについても展示・解説されている。

 ▲(七飯町本町6-1-3 Tel. 0138-66-2181)

十倉綱紀 (大中山共同墓地)

十倉綱紀の墓 十倉綱紀の墓
十倉綱紀の墓

十倉綱紀の墓



 晩年、大中山村 (七飯町) 総代に選任された十倉綱紀は、残りの人生を地元の発展に尽力した。
 「慈徳院誠顕日義居士 昭和七年一月二十五日 綱紀 八十二才
 ▲(七飯町字中島21〜25辺り)

大沼 (大沼国定公園)

 国の絶滅のおそれのある地域個体群である陸封型のイトヨの生息地の1つ (会津、北海道釧路市、福井県大野市など)。
 大小の湖沼群の総称。
 アイヌ語の「ポロ (大いなる)」と「ト (水溜まり)」に由来して「大沼」と名付けられた。
 今では、ヒット曲「千の風になって(新井満/訳詞作曲」誕生の地として人気。
 ▲(七飯町大沼町)

浦    河    町

 西忠義は、浦河支庁長に就任するや日高開発のために全力を傾注。
 日高地方の教育・土木・衛生など施設の整備、農林水産業の発展のための諸施策や、地元民への啓蒙に尽力し、日高の物質面・精神文化面に並並ならぬ貢献をした。
 特に、日高種馬牧場の開設・育成は最大の業績である。
 着任の翌年には日高管内の実業家をまとめ日高実業協会を創設、農商務大臣へ国営種馬牧場の浦河設置を上請、種馬の陸路整備を開始。
 折しも日露戦争の風雲漂う国費大緊縮の中、逆に軍馬の必要性を説き伏せ、遂に巨額な国費を獲得し日高種馬牧場の基礎を築く。

西舎神社 (にしちゃ ―)

西舎神社

 昭和7(1932)年、「至誠一貫の人」と讃え慕う日高の人々によって、生存中にもかかわらず西忠義を生祠する西霊社が浦河神社境内に創建。
 没後、西神社と改称し、忠義が支庁長に就任した6月21日に例祭を催行されていた。
 昭和28(1953)年、妙見、西、藤波の3体を合祀する西舎神社が建立され遷座。
西舎神社   祭神  妙見神/天御中主神 (あまのみなかぬしのかみ)
      西忠義大人命 (にしただよしうしのみこと)
      藤波言忠大人命 (ふじなみことただうしのみこと)

 ▲(浦河町字西舎120番地)

忠義翁頒徳碑 (潮見ヶ丘)

 昭和27(1952)年、十勝沖地震により西神社が大破したものの、財政的に苦しく、再建はままならなかった。
忠義翁頒徳碑  そこで、代案として西忠義を讃える「西忠義翁頒徳碑」が提案され、浦河港が見下ろせる潮見ヶ丘に建立された。
 翌年、西神社は西舎神社として遷座。

 ▲(浦河町潮見町10付近
    潮見台グランドの海側の一段下)

西忠義の銅像

西忠義の銅像

 「荻伏開拓功労者の像」として建立。
 右側を神戸キリスト教徒開拓団/赤心社の社長/鈴木清、左側を同社の副社長/沢茂吉(しげよし)に添われた中央が西忠義
 西舎神社の祭神であるのに、宗教を超えて称賛されていることが良く分かる。
元浦河教会  胸像の背面側には、赤心社開拓団の辛苦を救っていた元浦河教会が現存している。



 ▲(浦河町荻伏町15  浦河役場荻伏支所前)

ツールチップあり .
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