偉     人     伝

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]     [メニュー]

日 什 大 正 師 の 略 歴

正和3(1314)年        1歳

 4月28日
 鎌倉出身の武士である父/石堂太郎覚知(まさとも) (清和の末孫と云われ、後に大塚に館を移し石塚に改称) と、蘆名四郎盛宗公の娘である母/清玉姫との一人っ子として誕生
 仲睦まじい夫婦であったが、なかなか子に恵まれず、一箕山八幡神社に祈願を続けたところ、身ごもることができたと云う。
 社殿の裏手側に、産湯に使ったと伝わる「産清水」の碑がある。 産気づいた時に突如として湧き出し、参道石段にて出産したと伝わる。
 この年は、日蓮聖人の三十三回忌の年であり、この日の4月28日は建長5(1253)年に房州清澄山頂の旭ヶ森で立教開宗を宣言し、正午に清澄寺持仏堂で初説法を行った聖日でもあった。
 幼名を玉千代丸、元服すると権太夫国重(ごんだゆうくにしげ)を名乗る。
 3歳で文字が読め、6歳には四書五経を素読したと云う。

嘉暦3(1328)年       15歳

 この年に相次いで両親を亡くし、この世の無常に接し出家を決意する。
 ※ 「葦名家由緒」には清玉姫/元徳元(1329)年没。

正慶元/元弘2(1332)年    19歳

 比叡山に登り天台宗の慈遍僧正 (吉田兼好の兄) に師事、玄妙(げんみょう)と号する。

    〜〜
 天台宗の奥義を求めんと、各地の大寺を訪ね廻って高僧に教えを請い、昼夜を惜しんで研鑽を積み、約20年もの間、勉学に励み続ける。
    〜〜

観応2/正平6(1351)年    38歳

 比叡山の学僧3千人に教えを授ける学頭となり、玄妙能化(げんみょうのうけ)と称される。
 能化とは、“立派な先生”との尊称。
 文和元/正平7(1352)年、39歳の時とも。
 学徒養成を務めるとともに、天台教学での探求し続けるが、日を追うごとに疑問が大きく広がっていく。

応安5/文中元(1372)年    58歳

羽黒山神社

 蘆名直盛公の招聘で帰郷し、
羽黒山東光寺 (現/羽黒山神社) の住職となり、
多くの弟子を教養する。
 全国から300人もの学僧が比叡山随一の学徳を慕って集まり、49の僧坊が建つほどだった。
 応安4/建徳2(1371)年とも。

康暦元/天授5(1379)年    66歳

 急用で帰国した若い学僧から預かった日蓮聖人の書「開目抄」「如説修行鈔」を拝読すると、今まで20年間の疑念が晴れ感得、真理を悟る道標と確信する。
 天台宗から日蓮宗に改宗することを決め、名を日什に改め、東光寺を出る。
 このことで暗殺されそうになるが、弟子の善如坊 (日仁上人) から知らされ機転により、山中の岩窟「お隠れの釜岩」に潜み、難を逃れたと伝わる。
 
《お隠れの釜岩》  
一箕山滝沢寺に下りずに山道を進み、
急坂に設置の登坂用/鎖・ロープの先にあるが、
現在は進入禁止になっている。  [写真]

康暦2/天授6(1380)年    67歳

弘法寺

 3月23日
 春を待って会津を出て、日蓮聖人の書が最も多く所蔵しているという日蓮宗の下総真間/弘法寺に帰伏し、真間能化と称する。
 すでに天台宗の高僧として著名だった玄妙能化 (日什大正師) が改宗するはずなどないと疑る弘法寺に対して、証の「帰伏状」と「起請文」を書き記している。

 弘法寺や下総中山/本妙寺 (現/法華経寺) に籠り、寝食を忘れて教義の拝読に没頭する。

永徳元/弘和元(1381)年   68歳

 日蓮聖人の遺命「帝都弘通 (京都での布教)」を行うことを決意し、4月に上洛する。

 6月23日
 初めて後円融天皇・関白/二条 (藤原) 良基に、立正安国 (正しい仏法を弘め、国を安らかにして人々を安穏に導くとの日蓮聖人の根本精神) を奏聞する。

 7月 7日
 高徳に心打たれた関白の計らいで、京都での布教を許可する「洛中弘法の綸旨」を賜り、「二位僧都」の官位に任ぜられる。
 翌日、下総真間/弘法寺へ向かう。

永徳2/弘和2(1382)年    69歳

 時の権力者/第2代鎌倉公方の足利氏満にも宗義を直訴し、諫め諭す (武家諫暁)。

本興寺

 鎌倉の埋橋に飯田/本興寺の2世住持となり、山号を法華山に改称 (事実上の開山)し、11月8日に本門の戒壇を建立する。

本光寺

 品川/本光寺を創建。

 上洛し、第2回目の奏聞をする。

永徳3/弘和3(1383)年    70歳

玄妙寺

 上洛し、第3回目の奏聞をする。
 後に妙満寺となる庵と、玄妙寺となる庵を草創。

至徳2/元中2(1385)年    72歳

 遠州府中に見附/玄妙寺を開山。

至徳3/元中3(1386)年    73歳

妙立寺

 吉美/妙立寺を創建。
本立寺  日蓮聖人の生誕地である安房/清澄山へ赴く途中で、船目/本立寺を創建する。 その時の逸話「逆さ杖の榧」が伝わっている。


嘉慶元/元中4(1387)年    74歳

 最愛の弟子で玄妙寺一世/日妙上人が入滅。
 非常に落胆した姿は、周りの僧たちの涙を誘ったと云う。

嘉慶2/元中5(1388)年    75歳

 当時の日蓮宗の宗風は、宗祖の入滅から100年も過ぎており廃れていた。

 8月21日
 弟子/日妙上人の一周忌を修する。
 その折りに、「諷誦章」や自筆の法華経絵曼荼羅を著す。

 8月25日
 弘法寺への「帰伏状」と「起請文」を破棄。
 宗旨「経巻相承」「直受法水」を立てて門流を独立、顕本法華宗を興す。
  「直チニ日什ハ仰イデ日蓮大聖人二帰スル処ナリ
 8月22日とも。

康応元/元中6(1389)年    76歳

妙満寺

 京都室町六条坊門の庵を改めて妙満寺を開山し、帝都弘通の拠点とする。
妙松寺  その末寺として、松野/妙松寺を開山。


明徳2/元中8(1391)年    78歳

 3月 7日
 室町幕府第3代将軍/足利義満に宗義を説き、諫め諭す。
 故事「天下を三度諌めて用いずんば山林に交わるべし」にならった日蓮聖人に従い、妙満寺を弟子に託すと決意。
 余命を悟ったから、とも伝わる。

 7月25日
妙法寺  会津に向けて出立する。

 10月 9日
 会津に帰郷。

この年
 蘆名盛政公より一宇の寄進を受け、妙法寺を開山。

明徳3/元中9(1392)年    79歳

 1月21日
 「一旨三通」の置文を著し、会津の地と玄妙寺、妙満寺に残し置くよう遺言する。
 後に、◇ 会津/妙法寺  涅槃ノ寺  (入滅の寺)
    ◇ 京都/妙満寺  転法輪ノ寺 (布教の寺)
    ◇ 見附/玄妙寺  得道ノ寺  (教えを深めた寺)
の「什門ノ三本山」とされている。
 1月20日とも。

妙国寺

 2月28日
 三聖 (釈迦牟尼・日蓮聖人・日什大正師) と仰ぎ尊ばれた玄妙阿闍梨日什大正師は、生れ故郷で法悦に満ちた生涯を終えた。
 法臘61年の間に、弟子/日仁・日義・日金・日全・日運・日実・日穆・日妙などの名僧も育っていた。
 遺体は、弟子の日仁上人によって荼毘に付された。


妙国寺

応永元(1394)年
 顕本法華宗開祖の養育の地に、日仁上人によって霊場として妙国寺が開山され、廟所が建立された。

 ◇ 明徳2(1391)年、「日什上人自伝」。
 ◇ 元禄4(1691)年、「開山日什上人名相記 (石井記)」医師/石井玄隆 (檀家)。
 ◇ 元文5(1740)年、「日什聖人伝」京都/寂光院の日達
 ◇ 明和9(1772)年、「日什上人実伝」「別本日什上人御一代記」妙満寺122世/日台。
 ◇ 天明4(1784)年、「日什上人御伝記」智泉、または智円の書を智泉が写す。
 ◇ 「日蓮宗宗学全書」
   ・ 永徳元(1381)年、「日什御奏聞記録 (日穆記(にちぼっき))」日穆 (会津六老僧)。
   ・ 応永3(1396)年、「日什門徒建立由緒」宗尊 (会津六老僧)。
   ・ 応永10(1403)年、「日什名相本地之口決」妙法寺4世/日叡。
   ・ 応永32(1425)年、「門徒古事 (日運記)」日運 (直弟子)。
   ・ 宝徳元(1449)年、「日什聖人朝夕勤行掟之事」妙法寺5世/日満。
   ・ 年月不詳    「日什御一期間記」妙法寺6世/日戒。
   ・ 文明19(1487)年、「日什聖人御由来之事朝夕勤行掟之事」日戒の書写。

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]     [メニュー]