戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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小  千  谷  市 (新潟県)


小千谷は信濃川舟運の要衝で幕府直轄地であったが、
享保9(1724)年から会津藩預かり地となった。

「小千谷陣屋跡」については、こちら。

「小千谷陣屋の門 (五智院)」については、こちら。

浦柄神社の会津藩墓地

浦柄神社の会津藩墓地

 国道291号から朝日山への入口にある。
 墓参りした季節の墓前は、青々としたコケのジュータンに覆われていた。
 ここでも、戦いが終った後も、会津藩士の遺体に手を触れることを禁じた。
 すでに仏になっている遺体は、野ざらしのまま朽ち果てた。

 埋葬当時、会津藩士と分った6名には、福王寺の和尚が戒名を付けたという。
 1基を除き、その他の遺骸は東軍戦死者となっているが、全員が埋葬を許されなかった会津藩士と言い伝えられている (7基が会津藩士との伝承も)。
 昭和28(1953)年になって、浦柄の人たちによって21基の石碑が建立されたが、誰の遺体なのか同定できたものではない。


白虎隊/新国英之助の墓

白虎隊/新国英之助

新国英之助の説明文

 見張り役をしていた源之丞は、敵兵が進入するのを見つけ、寝入っていた英之助を起こす間もなく、報告のため山頂の陣に走った。
 迅速な報告により長賊らの奇襲を失敗させることはできたが、残された英之助は無念にも虐殺された。
 一緒に戦い生き延びた父の源之丞は、20数年間もかけて息子の遺骸を探し出し、この地に墓を建立した。
 慶応4(168)年5月13日、白虎隊としての出陣ではなく、萱野隊甲士として父に従軍し 16歳(享年17歳)での戦死だった。
 なお、戦死したなかに、会津藩白虎隊新国英之助 (十六歳)がいる。 この墓標は、戦後二十数年を経て、父がその遺体を探しあてて建立したものである。
                  小千谷市教育委員会

 毎年、墓参りをして冥福を祈っていたが、三十三回忌が済んでからは、老いたこともあって浦柄の村人に託したという。
 現在、墓碑は、浦柄神社に移されている。
 墓碑列の向かって左端/入口の1番目に、並んで安置されている。


朝日山殉難者墓碑  <ツールチップで戒名を表示>

入口から2番目「十目義倉居士」
入口から3番目「大雄智圓禅定門」
入口から4番目「祖圓玄庭禅定門」
入口から5番目「圓光浄心禅定門」
入口から6番目「法雪圓浄禅定門」
入口から7番目「圓空持法禅定門」
入口から8番目「明圓天壽禅定門」
入口から10番目「得戒圓空禅定門」
入口から11番目「快應圓慶禅定門」
入口から12番目「圓應誓西禅定門」
入口から13番目「浄應道圓禅定門」
入口から14番「夏山圓峰禅定門」
入口から15番目「浄圓幻霜禅定門」
入口から16番目「大圓契牛禅定門」
入口から17番目「一圓祖門禅定門」
入口から18番目「鏡庵圓清禅定門」
入口から19番目「一圓正心禅定門」
入口から20番目「心圓清露禅定門」
入口から21番目「大圓學法禅定門」
入口から22番目「圓山道空禅定門」

戊辰戦役の霊碑
 神社の拝殿から朝日山殉難者墓碑に至る途中に、「戊辰戦死神霊」なる碑があるが、詳細は知らない。

 墓群の後ろには、「鶴ヶ城吉野」が植栽されていた。 若木なので、最近 (墓参時) に植えられたようである。

戊辰戦蹟記念碑  浦柄神社の社殿前には、「海軍中将 山本五十六 書」の戊辰戦蹟記念碑が建立されている。
 山本五十六は、会津の地にて奮戦するも、悲運の死を遂げた長岡藩士/山本帯刀の養子である。
浦柄神社

会津藩士3人の墓

会津藩士3人の墓

≪須貝佐蔵≫
 朱雀寄合二番土屋隊。
 慶応4(168)年5月3日、片貝で戦死。 24歳。
≪斎藤清左衛門≫
 朱雀寄合二番土屋隊小隊頭。
 慶応4(168)年5月3日、片貝で戦死。 28歳。
≪熊沢平助≫
 朱雀寄合二番土屋隊。
 慶応4(168)年5月3日、片貝で戦死。 26歳。
会津藩士3人の墓

 県道10号沿いにあるが、松の樹に隠れて見つけにくい。
 山屋町の町外れの一軒家の軒先にある。

 ▲(小千谷市片貝山屋町周辺)

明治戊辰緒戦激闘之地 (雪峠)

明治戊辰緒戦激闘之地(雪峠)

 慶応4(1868)年閏4月26日、越後で初の本格的な戦闘が勃発した。
 会津藩兵と幕府陸軍/古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊など約200名が、雪峠の高台地形を利用した要害を築き、布陣していた。
 長賊ら約1,500名が芋坂集落に進軍、近づいてきた斥候を銃撃すると同時に砲撃を開始した。
 地の利を得た東軍は破裂弾を浴びせ続け、7倍を超える長賊軍をものともしなかった。 夕方になると、寝返っていた越後高田藩の手引きにより側面からの攻撃を受け、撤退を余儀なくされた。

明治戊辰緒戦激闘之地(雪峠)

 県道49号沿いにあり、現在は平地になっている。
  「昔戦場 今農場 (碑の側面)」

 ▲(小千谷市大字池中新田周辺)

朝日山古戦場

朝日山古戦場

 北越戦争の古戦場である。
 慶応4(1868)年5月10日、朝日山近くの榎峠で戦いが始まった。
 13日早朝、戦いは朝日山に移りる。
 濃霧の中、激しい戦いが繰り広げられた。
 そして19日に、死闘の末、2倍をも超える敵兵を撃退した。

朝日山古戦場の現地板 朝日山古戦場の現地板

大平木観音様の由来   嘉永五年 (一八五二年)
大平木観音様の由来  村の星野清太郎、川上金蔵、川上丑蔵の三氏は、西国三十三番の札所を一ヶ月余に渡り、参拝巡礼した際、納経した有難い経本を石碑の基に納めた事から昭和十二年 五井寅二、佐藤正一、伊佐与作、吉田五郎、伊佐昇の各氏が発起人となり朝日山史蹟保存会が発足、戊辰の役の史跡と白虎隊一名、朱雀隊二十名の戦死者の霊を供養する為に昭和十六年六日市村の野上源太郎氏に観音様を製作依頼し、観音講を含む信者数百名による禅の綱にて、この地に鎮座されたものです。
 戊辰の役の霊を祀り安らかに眠り下さる事を念じ建てられ、この名も地名を取り大平木観音様と名付けられたものです。                 裏柄史蹟保存会

東軍兵士の墓

  ≪第一砲塁の地≫
     ≪塹壕跡≫
    ≪野営場跡≫

    記念館

 展望所を兼ねた休憩所。
 資料展示室には、北越戦争の関連品が展示されている。
 「河井継之助が母に宛てた手紙」「新國英之介の甥の書簡」などなど。

 ▲(小千谷市浦柄)

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