畑時能は、藩士/畑能賢 (畑英太郎・畑俊六) の遠祖。
興国2/暦応4(1341)年10月22日、突撃した時能は数時間に及ぶ奮戦の末、矢を肩口に受け、3日間も苦しんだ後に死去したという。
伊知地山 (鷲ヶ岳) 山頂に「畑将軍戦死之地碑」があるとのこと (駐車場から3Km)。
墓は、陽雲寺。
▲(勝山市伊知地)
「ソースかつ丼」が名物である地域の1つ。
◇ 会津若松市
◇ 伊那市
◇ 桐生市
キャベツなどはなく、柔らかい豚カツが美味しい。
▲(福井市一帯)
[ヨーロッパ軒]
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (37番) の1つ。
南北朝時代、朝倉氏が築城。
天正3(1575)年、廃城。
昭和46(1971)年、国の特別史跡に指定。
現地板
図
▲(福井市城戸ノ内町)
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (36番) の1つ。
霞ヶ城とも。
天正4(1576)年、柴田勝豊が築城。
明治4(1871)年、廃城。
昭和25(1950)年、天守が国の重要文化財に指定。
▲有料 (坂井市丸岡町霞町1-59)
「江戸・三家老 (会津藩/横山常徳、宇都宮藩/間瀬和三郎)」と称された名家老の一人。
武田耕雲斎の墓は、妙雲寺にもある。
処刑された武田耕雲斎ら天狗党員を祭神として祀った松原神社の境内に、収容されたニシン蔵16棟のうち1棟が移築され、水戸烈士記念館となっている。
武田耕雲斎等墓
元治元年十月水戸藩士武田耕雲斎の党は尊攘の大儀を唱え西上の途次越前に入り十二月敦賀郡新保宿にて大雪に遇い慶喜の軍門に下れり 翌年二月幕府は耕雲斎以下三百五十三名を斬首せり 今此の墓地は当時の刑場にして遺骸を埋めて土盛り、方十二間高さ八尺、西面して十三基の墓が建てられている。
昭和九年十二月二十八日文部省より著名なる人物の墓として二百五十六坪の地域と史蹟に指定され現状の変更樹木の伐採は出来ない様保護されている。
敦賀水戸烈士遺徳顕彰会
武田耕雲斎らの刑死 処刑日と人数 元治二年 (一八六五年) 二月四日 始
第一回処刑 元治二年二月四日 武田耕雲斎 以下 二十五人
第二回処刑 仝年二月十五日 秋山又三郎正元 以下 百三十四人
第三回処刑 仝年二月十六日 濱埜松次郎忠正 以下 百三人
第四回処刑 仝年二月十九日 綿引誠一郎忠保 以下 七十五人
第五回処刑 仝年二月二十三日 朝倉三四郎景敏 以下 十六人
合計三百五十三人 水戸烈士遺徳顕彰会
(現地板より)
▲(敦賀市松島町2)
正室/喜代子 (了性院)が、松平容貞の次女/員姫の娘。
明和6(1769)年4月17日〜天保7(1836)年10月27日(68歳)
幼名:大之進。 初名:誉純。
父/有馬允純、母/美濃子 (清泰院)、
養母/富子 (天華院)。
越前丸岡藩/5代藩主。
「無暦庵殿玄空誉純大居士」
墓は、上野/本覚院。
▲有料 (坂井市丸岡町篠岡23-8)