偉     人     伝

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天 海 大 僧 正 の 略 歴

 天海の生涯は、大きく3つの時代に分けられる。
 ◇ 雲水の学問僧の時代
  名刹/龍興寺で天台宗の教義に触れ、仏門に生涯を奉げることを決意する。
  粉河寺、比叡山、園城寺、観学院、興福寺、足利学校、善昌寺、蓮馨寺、
  さらに甲斐や越後など宗派を超えて仏法を修め続けた。
 ◇ 表舞台で活躍する時代
  家康との知遇を得て、飛躍が始まる。
  幕閣として江戸幕府の基礎作り、江戸の都市計画などに参与する。
  戦国時代に荒廃した寺院を再興し、再び戦乱の世に戻さない策に尽力する。
 ◇ 仏法による国家安寧に邁進する時代
  徳川秀忠・家光の帰依を受け、東照宮の建立を手段として、武闘派の時代から
  残りの生涯をかけ、保科正之公とともに文治政治への移行を推進する。
  宗家/蘆名氏の滅亡などを体験し、国家安寧こそが民の幸せとの行動だった。

逸       話       伝

菩薩の化身 (その1)

 船木兵部少輔景光は、領主/蘆名氏の女婿となって20年ほど過ぎた。
 子に恵まれず、婿の手前、側室を置かなかった。
 妻は四十路を向かえるのも迫り、こののままでは家系が途絶えてしまう。
 夫婦相談した結果、神仏にすがることになった。
 精進潔斎に身を清め、伊佐須美神社にぬかづき祈願を続けた。
 酉 (午後5時ごろ) から子の下刻 (午前1寺) に至るまで祈願したため、疲れ切って眠ってしまった。
 夢の中で、奥の院である文殊堂に祈願するようお告げが出た。
 その日から文殊堂に祈願をし続けた。
 発願から3年を経た天文4(1535)年4月23日の夜、一夢を見た。
 翌日から体調がいつもと違い月水も止まったため、医師を呼んだところ懐妊の兆しであると告げられた。
 「夫人深く大願を企て、儲子を月天子に乞い奉る。云々。叮嚀に祝願す、その意にいわく、帰命月天子、本地大勢至云々
 翌年の正月、産みの苦痛もなしに玉のような男児/兵太郎 (後の天海) が誕生した。 一族は狂喜し大切に養育した。
 不思議なことに、3年後にも受胎し次男/藤内を出産した。
 年を重ね、兵太郎が11歳の時、家督を弟に譲り仏門に入りたいと告げられた時、文殊の化身であり、そのために次男も授かったのだと悟ったという。

菩薩の化身 (その2)

 時折、兵太郎 (後の天海) は乳を飲もうとしなくなる。
 強いて含ませると、泣きだし吐き出してしまう。
 原因も分からず、兵太郎は痩せ衰えていく。
 初めは何故か分からず、ただオロオロするだけだった。
 しばらくして、鯉こくや鶏肉などを食べた後には乳首をくわえようとせず、強いて飲ませると吐き出していることに気付いた。 会津では古来より、滋養のため妊婦や出産した女に「鯉こく」を食べさせる風習がある。
 文殊菩薩の生まれ変わりなのだからと、その後は一切の肉食を断って口にせず、清浄な穀物と新鮮な野菜類のみを食べ、潔斎して養育したところ、乳を吐くこともなく健やかに成長したと云う。
 離乳後も、魚や肉類を食べさせると、すべて吐いてしまう。
 物心がついても、魚や肉類に箸をつけることはなかったと云う。

菩薩の化身 (その3)

 5歳を迎えたころ、朝と夕に泣き出すようになった。
 あやしたり、好きなオモチャを与えても、泣き止まない。
 好きな菓子を差し出しても、見向こうともしない。
 怒り狂ったり、叫んで騒ぐのではなく、単に泣き続けるのである。
 子供にありがちな疳の虫でもなく、医師に診せても原因は分からないという。
 両親も子守の人も、泣き止むのを待つしかなかった。
 いつものように泣き始めた とある早朝、諸国を行脚している修行の僧が戸を叩く。
 戸を開けめと、雲水僧が佇んでおり、
  「門前を通ろうとしたところ、大変ありがたいお経が聞こえました、
   是非とも、お経をあげておられる方にお会いしたい」 という。
 そのような者は居ないと答えても、
  「いま、奥から聞こえている方です」
と立ち去ろうとしない、
 面倒くさくなり、泣き続ける兵太郎の部屋に連れて行くと、雲水僧は ひれ伏し、泣き止むまで動こうともしなかった。
 「皆さんには鳴き声に聞こえるかも知れませんが、修業している者にとっては法華経を誦している尊い声に聞こえるのです。
 生まれながらにしての この所業、行く末は得難き方になられることでしょう」
と、三度礼拝して帰って行った。

川中島の戦い

 天文23(1554)年の川中島の戦いで、上杉謙信が武田本陣に突き進み、信玄と刃を交えたとされる。
 天海は、それを山の上から見ていたと云う。
 年齢的に無理があるようだが。

家康との初対面

 初めて天海を迎えた時、家康は師としての礼は取らなかった。
 天海も家康を無視するかのように、本多佐渡のすすめる円座の上へ座った。
 口火をきったのは家康だった。
 陸奥国の蘆名一族なのに、なぜ出家なされたのかとの問いに、10歳で父を失い貧乏が理由だったと答える。
 ここぞとばかりに家康は質問する。
 どんな大寺の住持にもなれる高僧の身と聞いているが、なぜ旅を続けているのかとの問いに、人それぞれに宿命があり、私の役割は無知な田舎の老翁にも、天下の権力者にも分け隔てなくこれを済度することの一義と悟っているからと返す。
 そばに控えている本多は、寄進を望んで来た僧としか思っていなかった家康が、会話を重ねるたびに師を仰ぐような眼差しに変わり、一言半句も聞き漏らすまいとの姿に変わっていく様子に驚愕した。
 突然、天海が「神と仏の いずれがお好きか」と問う。
 思いもよらぬ質問に、しばし絶句する。
 幼少より浄土宗を信仰しており、極楽浄土へ行けるよう日々精進していると答えると、いけませぬなー、と子供を叱る口調でたしなめる。
 単なる大名ならいざ知らず、御身だけが浄土を願うとは天命ではないはず、神になりなされ。
 神も仏も根本は1つなれど、様々な花々が咲くように、仏教にも八宗あり神社の数も無数で、一宗にも初伝から奥伝まである。
 一宗一神にとらわれて、わが身の救いを求むる考えでは、浄土にすら行けますまい。
 日蓮を信ずるもの、禅を信ずる者、切支丹を信ずる者などと衝突することになりませぬか。
 「神になれ」との真意を理解できぬ家康に答えを与えず、寄進を願いでることもなく、天海は立ち去った。
 窓の障子の隙間から、家康の顔に斜めな陽が当たっていた。
 本多が今まで見たこともないような穏やかな家康の顔が そこにあった。

健康の秘訣

 秀忠と家光の両将軍に、健康の秘訣を伝授している。
 (秀忠へ) 長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼 時折ご下風あそばさるべし
 (家光へ) 気はながく 務めはかたく 色うすく 食ほそうして 心ひろかれ
 "日湯"とは毎日入浴すること、"陀羅尼"は読経すること、"ご下風"は屁をすること、"色"は女人のこと。
 天海自身の信念でもあり、100歳を超える長命を全うした所以でもあろう。

箱根の狐火

 名古屋で重い病気になって、床に臥せってしまった。
 知らせを受けた幕府は、名医を取りそろえ、急ぎ向かわせた。
 あいにく悪天候に見舞われ、箱根峠で行列の松明の火が、すべて消えてしまった。
 すると、どこからともなく無数の狐が現れ、狐火をともして街道を照らした。
 医者たちの一行は、遅れることなく辿り着けたという。

柿の種

 将軍/家光との拝謁の際、柿が出された。
 食べ終えると、天海が柿の種を懐紙に包み、持ち帰ろうとした。
 家光が不思議に思って問うと、持って帰って植えると答える。
 「桃栗三年 柿八年」といわれるほど収穫までに期間のかかる果物である。
 家光が「百歳もなるご老人には無駄なことでは?」とからかうと、
  「天下を治める者が、そのように性急な考えではいけない
と諭したという。
 その後、天海から柿を献上された家光が、産地を問うと、
  「拝領した柿の種から
と聞き、自らの予断を恥じたという。

明智光秀説

 明智光秀は小栗栖で殺害 (自刃とも) されず、南光坊天海になったという説がある。
 ◇ 墓所である日光に「明智平」という場所がある。
   名付けた天海は光秀本人との伝承が、日光/諸寺神社にある。
 ◇ 三つ葉葵であるべき日光東照宮に、光秀の紋/桔梗が陽明門にある随身像の袴や
   建物に多用されている。
   ≪天海の生家/船木氏の家紋は桔梗紋≫
 ◇ 徳川家康の嫡男/秀忠の「秀」、次の将軍/家光の「光」は光秀に由来する。
   さらに、4代将軍の家綱の「綱」は光秀の父/明智光綱、7代将軍/家継の
  「継」は光秀の祖父/明智光継からとの説。
   ≪秀忠は秀吉の秀から、家光は天海のライバルである金地院崇伝が命名している
    し、家綱の命名時・家継の誕生時には天海は死去している≫
 ◇ 光秀没33年後、比叡山松禅寺に光秀の名で寄進された石灯篭が残存する。
  「慶長二十年  願主光秀  二月十七日
 ◇ 六条河原で処刑・晒し首にされた光秀の家老/斎藤利三の娘/お福 (春日局) が、
   天海と「お久しぶり」の挨拶を交わし、家光の乳母に抜擢されている。
 しかし、明治以前には記録がなく、光秀の子孫と称する明智滝朗が明治に入って言い出したことが分かっている。
 納得できるような事柄も多いが、真偽のほどは分からない。

 平成12(2000)年8月5日のTBSテレビ「世界ふしぎ発見」で、元警視庁委託筆跡鑑定人による 「御遺訓/輪王寺所蔵」と光秀の「明智光秀覚書」との筆跡鑑定が行われ、「別人であるが、親子のような近親者かも」と判定した。
 平成18(2006)年6月30日のテレビ東京「超歴史ミステリーロマン2」で、同一鑑定人が再び筆跡鑑定を行なったところ「極めて、強く似ている」と判定、?????。

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