不  思  議  な  ご  縁

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夏 目 漱 石 / 会 津 へ の 想 い

 夏目漱石が、明治動乱期においての偉大な国民的作家であることに異論はあるまい。
 数多くの優れた作品を残しているが、なんといっても代表的な作品はファンが多い「坊ちゃん」であろう。

 作品の中に、舞台である地名すら「不浄な地」としか記されていないのに、なぜか「山嵐 (堀田)」という「会津っぽ」が登場するのである。
 明治39(1906)年発刊なのだから、卑劣なから着せられた故なき汚名の返上は叶っておらす、会津について語ることすら憚れる時代である。
 強いて言えば、結末の「赤シャツ」と「野だ」に天誅を下す役割だろうが、会津人が出てくる必要性など まったく見当らない。
 出身が明らかなのは、東京出身の「坊ちゃん」と「野だ」、会津出身の「山嵐」の3人だけで、「坊ちゃん」は江戸っ子と答えている。
 なお、愛媛県尋常中学校へ赴任していた体験から小説「坊っちゃん」は書かれたのだが、「不浄な地」とは赴任地の「愛媛県ではない」ことが定説である。


「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「きみはどこだ」
「僕は会津だ」
「会津っぽか、強情な訳だ。 〜 」


 その夜 おれと山嵐は この不浄な地を離れた。 船が岸を去れば去るほど いい心持ちがした。 神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出たような気がした。 山嵐とは すぐ分れたぎり 今日まで逢う機会がない。

 出会いは、
  「礼儀を心得ぬ奴」
であった。
 漱石自身も、戊辰の役で西軍に与した当時の西園寺首相からの園遊会招待を、ハガキ1枚で突き返し (辞退) し、博士号授与も断っている。
 近年、発見が続いている当時の庶民向け錦絵(新聞) からは、いかに江戸っ子が長賊を毛嫌い・嫌悪していたかが分かる。
 漱石の反骨精神を、山嵐を通して表現しているとも言われている。
 「叡山の悪僧と云うべき面構」とあるが、織田信長が焼き打ちした比叡山を再興し、後に東叡山を開山したのは、会津出身天海大僧正である。
 会津藩士/志田貞二郎の3男で家老/西郷頼母の養子となり、姿三四郎のモデルとなった西郷四郎の得意技が「山嵐」である。

 やがて、
  「悪い男ではなさそうだ」
へと変わり、
  「一番生徒に人望があるのだそうだ」
と教師の理想像として描かれている。
 山嵐は数学教師であるのに、
  「might is right 〜 強者の権利」
という英語を使って説諭を加えている。
 文学にも精通している教養人としても描かれているのだ。
 出典はプラトン「国家」で、通常「力は正義なり」と訳される。
 「正義は必ず勝つ」「強者こそ正義である」なのだが、「善悪と勝敗とは別」と言う意味でを揶揄した「勝てば官軍」とは根本的に異なる。


 それから おれと同じ数学の教師に堀田というのが居た。 これは逞しい毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき面構である。 人が叮寧に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来給えアハハハと云った。 何がアハハハだ。 そんな礼儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。 おれはこの時からこの坊主に山嵐という渾名をつけてやった。


 帰りに山嵐は通町で氷水を一杯奢った。 学校で逢った時はやに横風な失敬な奴だと思ったが、こんなにいろいろ世話をしてくれるところを見ると、わるい男でもなさそうだ。 ただおれと同じようにせっかちで肝癪持らしい。 あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのだそうだ


 山嵐の説によると、いくら一人で不平を並べたって通るものじゃないそうだ。 一人だって二人だって正しい事なら通りそうなものだ。 山嵐は might is right という英語を引いて説諭を加えたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利と云う意味だそうだ。

 「坊ちゃん」の兄が卑怯な待駒をした時にケンカした時、初めて教壇に立った時にも「おれは卑怯な人間ではない」とある。
 「卑怯」の言葉は、作品の中に10回も出てくる。
 会津では、「卑怯」な行動を忌み嫌う。
 が行なった偽勅や錦の御旗の偽造などは、恥ずべきこととして想像すらしない。
 幼き頃に受けた教育「什の掟」にある「四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ」は、今なお綿々と引き継がれている。


 兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。 元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。 十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。 ある時 将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。 あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。 眉間が割れて少々血が出た。 兄がおやじに言付けた。 おやじがおれを勘当すると言い出した。


 いよいよ学校へ出た。 初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。 講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。 生徒はやかましい。時々図抜けた大きな声で先生と云う。 先生には応えた。 今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。 何だか足の裏がむずむずする。 おれは卑怯な人間ではない。 臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けている。


 その晩は久し振に蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯平げた。
 翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。 おれの顔を見てみんなわあと笑った。 〜 〜 〜  おれはだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが面白いか、卑怯な冗談だ。 君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云ったら、自分がした事を笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。 やな奴だ。 わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情なくなった。


 おれだって中学に居た時分は少しは いたずらもしたもんだ。 しかし だれがしたと聞かれた時に、尻込みをするような卑怯な事は ただの一度もなかった。 したものはしたので、しないものはしないに極ってる。 おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。 嘘を吐いて罰を逃げるくらいなら、始めから いたずらなんかやるものか。 いたずらと罰はつきもんだ。 罰があるから いたずらも心持ちよく出来る。 いたずらだけで罰は ご免蒙るなんて下劣な根性が どこの国に流行ると思ってるんだ。 金は借りるが、返す事は ご免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない。 全体中学校へ何しに はいってるんだ。 学校へはいって、嘘を吐いて、胡魔化して、陰でこせこせ生意気な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違いをしていやがる。 話せない雑兵だ。


 こん畜生と起き上がってみたが、馳けられない。 気はせくが、足だけは云う事を利かない。 じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、森としている。 いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。 まるで豚だ。 こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極めて寝室の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。 錠をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸けてあるのか、押しても、押しても決して開かない。 〜 〜 〜
 正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧が足りない。 こんな時には どうしていいか さっぱりわからない。 わからないけれども、決して負けるつもりはない。 このままに済ましては おれの顔にかかわる。 江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。 宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。 これでも元は旗本だ。 旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。 こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。 ただ智慧のないところが惜しいだけだ。 


 「何でもいいでさあ、―― 全く赤シャツの作略だね。 よくない仕打だ。 まるで欺撃ですね。 それでおれの月給を上げるなんて、不都合な事があるものか。 上げてやるったって、誰が上がってやるものか」
 「先生は月給がお上りるのかなもし」
 「上げてやるって云うから、断わろうと思うんです」
 「何で、お断わりるのぞなもし」
 「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。 卑怯でさあ」
 「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いておく方が得ぞなもし。 若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢じゃあったのに惜しい事をした。 腹立てたためにこないな損をしたと悔むのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有うと受けておおきなさいや」
 「年寄の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。 おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」

 卑怯な赤シャツの陰謀を知り天誅を加えたが、山嵐とともに辞職に追い込まれることになってしまう。
 しかし、二人とも清々しい気持ちで、「不浄の地」を離れている。
 この名作の根底には、一貫した漱石の会津に対する想い入れを感じるのは、考え過ぎであろうか。
 ややもすると、一介の老人の戯言なのかも知れない。


 「だまれ」と山嵐は拳骨を食わした。 赤シャツは よろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。 理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
 「無法で たくさんだ」とまたぽかりと撲なぐる。 「貴様のような奸物は なぐらなくっちゃ、答えないんだ」と ぽかぽかなぐる。 おれも同時に野だを散々に擲き据えた。 しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
 「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲ってやる」とぽかんぽかんと両人でなぐったら「もうたくさんだ」と云った。 野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。
 「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。 これに懲りて以来つつしむがいい。 いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が云ったら両人共だまっていた。 ことによると口をきくのが退儀なのかも知れない。
 「おれは逃げも隠れもせん。 今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。 堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴うったえたければ、勝手に訴えろ」と云って、二人してすたすたあるき出した。


 汽船は夜六時の出帆である。 山嵐も おれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。 下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。
 「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。

誕生の地 (夏目坂)

 慶応3(1867)年1月5日、名主/夏目小兵衛直克と母/千枝の5男/金之助 (末子) として、この地/江戸・牛込馬場下にて誕生。
 生後すぐ四谷/古道具屋 (八百屋とも) の里子に出される。
 憐れんだ姉により実家に戻されたが、戊辰の役の混乱の最中、明治元(1868)年11月に塩原昌之助の養子となる。
 昭和41(1966)年、漱石の生誕100年を記念して筆/安倍能成 (遺弟) による石標が建立。
 「夏目坂」は、父/漱石による命名。
 ▲(新宿区喜久井町1)

終焉の地 (新宿区立漱石公園)

 明治40(1907)年9月29日から大正5(1916)年12月9日に死去するまでの9年間を過ごした「漱石山房」の跡地。
 よく知られる「木曜会」も、ここで開かれいた。
 墓は、雑司ヶ谷霊園
 昭和20(1945)年5月25日、空襲で焼失。
 平成23(2011)年、敷地の半分となっていた「漱石公園」が、隣接の区営住宅が建て替えで移転され、元の敷地に戻された。
 ▲(新宿区早稲田南町7 Tel. 03-5273-3914)

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