[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]

蘆  名  家  の  墓

 蘆名氏の墓所は、
  ・ 初代領主/佐原義連公 (半在家、岩尾館、三浦半島/満願寺)
  ・ 寿山廟 (小田山中腹)
  ・ 竹巌廟 (通称/花見ヶ森廟所)
  ・ 狸ヶ森廟 (天寧寺)
  ・ 角館の天寧寺
などにある。
 小田山の北麓一帯は、寿山廟から竹巌廟を含め、蘆名氏の墓域であったと思われる。

初代/ 佐 原 義 連 公

 400年も続いた蘆名時代の始祖である。
 三浦大介義明の7男として、三浦半島である相模国の佐原で誕生。  保延4(1138)年の誕生説が有力。
 佐原(横須賀市佐原)に城を構え、佐原氏を名乗る。
 治承4(1180)年の源頼朝挙兵に、一族と共に馳せ参じて御家人となる。
 一ノ谷の合戦では源義経の軍に属し、"逆落とし"で真っ先に駆け下り武功をあげている。
 奥州征伐での功も加わり、会津四郡を拝領する。
 建久2(1191)年、地頭として初めて会津入りし幕の内村を陣所とした。
 その後、半在家村の国府に館を築き、移り住む。

 孫の光盛公から蘆名氏を名乗り、有力な戦国大名として400年の栄華を誇ることになる。
 室町時代には、京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称するほどになった。

 宝きょう印塔は、永仁6(1298)年に建立。
 佐原義連公の墓は、半在家 (宝きょう印塔) の他に、
   ・在城の岩尾館 (五輪塔)
   ・三浦半島の佐原の満願寺 (五輪塔)
の3カ所にある。
   寛永20(1643)年、保科正之公が墓を訪ねる。
 寛文8(1668)年、正之公が山崎闇斎に命じ調査を開始した。
 元禄8(1695)年、3代/松平正容公が墓の脇に碑文などを建立した。
平金吾義連碑
 
 歴代の藩主は近くを通る際に立ち寄っている。
  ・享保10(1725)年、正容公
  ・明和2(1765)年、明和6(1769)年、安永4(1775)年、松平容頌公
  ・寛政11(1799)年、松平容住公 (若君の時)
 ▲(喜多方市熱塩加納町半在)       [古図]

岩尾館 (いわおだて)

岩尾館

 宝治元(1247)年、青山城の支城として加納氏が濁川西側の比高10メートルほどの段丘上に築いたと伝わる。
 文治5(1189)年、佐原義連公の指示で佐原氏某が築いたとも。
 応永9(1402)年、新左衛門実詮が一族の新宮城新宮次郎盛俊に攻められ滅亡し、岩尾館も廃館になったとされる。
 現在は宅地になっているが、北側の若宮八幡宮の社地や、太子堂から稲荷神社/南側参道の両側などが館の土塁の跡とされる。

 太子堂石碑のほか主郭跡に数基の五輪塔が現存し、土塁の北端に玉屋 (= 霊屋) と言う地名があることから、領主の墓とも伝えられている。

 ▲(喜多方市熱塩加納町宮川字岩尾〜字八反田)  [古図]

竹  巌  廟 (花見ヶ森廟)

花見ヶ森廟の入口

 名称の由来は、16代/盛氏公の諱の中にある「竹巌」による。
 人頭大より大きな川原石による墓。
 墓の上には、五輪塔が建てられている。
 五輪塔は、保科正之公が寛文5(1665)年に建立。   ・・・ 「会津藩家世実紀」から

 10代/盛久公と、12代/盛詮公から19代/隆氏公までの墓所といわれている。
 16代/盛氏公・17代/盛興公・18代/盛隆公の3基以外は、墓主が特定できていない。
 18代の東隣りにあるはずの、19代/隆氏公の墓も見つかっていない。

蘆名盛氏公の墓 蘆名盛氏公の墓 蘆名 盛氏 (もりうじ)公

  第16代領主
  中央の直径11.6メートル、
 高さ3メートルの円形墓


蘆名盛興公の墓 蘆名盛興公の墓 蘆名 盛興 (もりおき)公

  第17代領主
  西側の円形墓
  父/盛氏公より先に亡くなる


蘆名盛隆公の墓 蘆名盛隆公の墓 蘆名 盛隆 (もりたか)公

  第18代領主
  東側の円形墓

 元和6(1620)年、黙岑昌ァ大和尚が荒廃していた宗英寺を改めて開山し、16〜18代の菩提寺として再興した。

蘆名盛氏公の墓

 北に約50メートルにも、13代/盛高公か14代/盛滋公といわれる一基もあるが、大半は住宅地になっている。
 (国有地)

 ▲(会津若松市門田町大字黒岩字花見ケ丘76−2)


寿    山    廟

 小田山の中腹にある。
 名称の由来は、3代/光盛公の諱の中にある「寿山」にちなむ。
 光盛公から9代/盛政公までの廟所と伝えられるが、各領主の墓地は特定できていない。
 「葦名盛氏葬送之図」で、宝積寺裏側の山麓に描かれている。  [史料]  [推定/配置図]
 7代/直盛公までは、大半を鎌倉や京都に居住していたようで、分骨か遺品を埋葬した墓といわれている。

 ▲(会津若松市門田町黒岩主山丙460-1)


蘆名家寿山廟跡(下)  蘆名家/寿山(じゅざん)廟 (下)
蘆名家寿山廟の位置図

観音堂跡  観音堂跡
観音堂跡の由来

 蘆名家/寿山(じゅざん)廟 (上)

金峯尊公大禅尼 (笹谷御前) の墓


金峯尊公大禅尼の墓


 7代領主/蘆名直盛公の母堂/笹谷御前 (宝積寺殿金峯尊公大禅定尼) の墓と伝わる。
 高さ1.5メートル、幅4メートルの塚。
 観音堂跡から下り降りた宝積寺の裏手、乳清水の近くにある。

狸  ヶ  森  廟

(調査協力) 長谷川慶一郎 氏、 栗城英雄 氏   .

蘆名盛信公の墓  当時の墓碑の形式とは明らかに異なっており、碑文の刻字なども確認できないが、幕末に描かれた「院内墓所図」などから、11代領主/蘆名盛信公の墓と推定されるとのこと。
 後に、再建された墓碑か。
 周囲を取り囲むように、一段高い石垣が残存している。
 天寧寺の東の裏山/天寧集落裏の小高い位置にある。
 天寧寺は、盛信公が創建した。
 ▲(会津若松市東山町大字石山字天寧)

そ の 他 の 墓

天寧寺/秋田県

蘆名盛信公の墓

 伊達政宗公との摺上原の戦いで敗れた20代/義広公は、城県江戸崎の江戸崎城を経て、秋田に移封される。
 会津の天寧寺の末寺として、まったく同じの山号・寺号の天寧寺を、花場山の麓に菩提寺として創建している。
 蘆名家廟が造られるが、3代で途絶える

 ▲(秋田県仙北市角館町上新町10 Tel. 0187-53-2904)

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]