偉     人     伝

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源   翁   心   昭

 本名は心昭、字を源翁 (玄翁・玄妙とも)、通称は源翁和尚・源翁禅師、諱を能照法王禅師・法王大寂禅師、号を空外と称する。
 曹洞宗本山であった総持寺で峨山禅師に師事すること10年、門下二十五哲の1人に数えられた南北朝時代の曹洞宗の高僧。
 印可証明を与えられてからは衆生済度・布教のために雲水となり衆生済度に努め、諸国行脚の末に会津の地/慶徳寺示現寺を布教の拠点そして終焉の地として思い定めた。
 その後も行脚は続け、北は秋田から南は鹿児島までの広範囲な諸国に30ほどの寺院を開創して、曹洞宗の勢力を大きく拡大させた。
  (秋田) 最禅寺
東光寺
         
  (山形) 永泉寺
正法寺
冷泉寺
冷岩寺
普門院
 (会津)慶徳寺示現寺  (白河)常在院
 (栃木)泉渓寺  (茨城)安穏寺
 (新潟)雲泉寺東光寺慈眼寺
 (鳥取)退休寺  (岡山)化生寺 (鹿児島)玉泉寺

 諸国行脚の途中で殺生石を退治する逸話は、余りにも有名である。
 一般的な伝説とは異なり、
  ◇ 後小松天皇の勅命により那須殺生石の済度を行ったとの記載が存在
  ◇ 供養後に後小松天皇から授与された勅額「大寂院」が現存
  ◇ 玄翁への号「勅特賜 能照法王禅師源翁心昭大和尚」が授与
  ◇ 記念に建立された勅使門が泉渓寺境内に現存
しており、内容はともかく史実なのである。
 殺生石を打ち割った杖から、「金槌 (物をたたく工具)」を「げんのう」と呼ぶ由来ともなった。
 この他にも、開創した各寺院には、数々の伝説が残っている。

嘉暦4(1329)年

2月19日
 越後国/萩村 (弥彦村大字矢作字荻野) の里人/源頼忠の息子として誕生する。
 母は、京都五条院の娘。
 喜暦元(1326)年に誕生とも。
 生れ出た時、不思議な音が空から聞こえ、村人たちは偉い人になるだろうと噂した。
 噂通り、才気あふれた幼子として育つ。
 5歳を過ぎたころから、出家したいと言いだした。

正慶2/元弘3(1333)年     5歳

 父の許しを得て、越後国/陸上寺 (国上寺とも) の小僧 (有髪の少年修行僧) となり、一心不乱に修行に努める。
 やがて、仏教哲学の基本書「倶舎論 (経文30巻)」を暗記してしまう。

康永3/興国6(1344)年    16歳

 剃髪して正式に得度する。
 修業に没頭し、仏典1千巻を渉猟したと伝わる。
 真言宗の教えを修めたが、他宗派の教義も得たい思いが募り、諸国行脚をして各地の高僧を訪ね、学問と修行に精進する。
年稍長ずるに及んで 譬喩方便の權門は 頓悟成道の要法にあらじ 願わくば竊に少林の遺風を慕ひて 一華五葉の結菓を甘んぜん事を欲す

貞和2/正平元(1346)年    18歳

 曹洞宗に改宗し、能登/總持寺の2世/峨山韶碩 (紹碩とも) に師事する。
 峨山禅師に会った瞬間、長年に探し求めていた師と確信し、本格的な仏道修行に励む。
薙染し 列岳の諸善知識に遍參して 終に能州の總持寺に至りて 峩山禪師に謁し進らせ 心を教外別傳の密旨に潜め 身を工夫純一の禪床に勞する事八箇月 和尚 一日方丈外に面壁して座せり
 当時の總持寺は、曹洞宗の大本山であった。
 やがて、峨山禅師をして「もう教える事がない」と言わしめるほどになる。

文和年間(1352〜1356年)   24歳〜28歳

永泉寺

 白狐に導かれて、遊佐/永泉寺を再興する。
 永徳2(1382)年、曹洞宗に改宗。
 7世紀頃に禅道場として草創され、その後は天台宗/山岳信仰の拠点となったず衰退していた。
 永泉寺の七不思議の中に、
 「開山/源翁和尚が今も毎夜山境を巡り不思議の威徳を現す
など源翁禅師に関連した項目が、今なお伝わっている。

延文2/正平1年(1357)年    29歳

 伯耆国/退休寺を開創する。
 伯耆国を行脚中、石井垣城主/箆津敦忠か懇願され、亡妻を成仏させたお礼に堂宇が寄進された。
 この地にも、伝説が伝わっている。

延文3/正平13(1358)年    30歳

正法寺

 逗留していた越後/越後/の境内にあった老杉が倒れて根元から温泉が湧き出したため、霊験に感謝して雲泉寺から温泉寺に改称し、真言修験から曹洞宗へ改宗した。
 この時、師/峨山紹碩禅師の坐像を老杉に刻んだと伝わる。
 庄内領主/武藤義氏に招聘され、正法寺を開山。

泉渓寺

延文5/正平15(1360)年    32歳

 福原城主/那須資世の招聘を受け、下野国/泉渓寺を開創する。


雲泉寺

貞治3/正平19(1364)年    36歳

 越後/雲泉寺に再び訪れ、湧き出している温泉を封じ、温泉寺を雲泉寺に改称した。


貞治6/正平22(1367)年    39歳

慶徳寺

 会津に至り この地に入ると神秘的な気配を感じ、庵 (慶徳寺) を結んだ。
 紫雲が立ち上るのを見て立ち寄った葦名詮盛公は、すぐに源翁禅師の力を見抜き、翌年に堂宇を寄進した。
 「詮盛 西山に狩し來つて 和尚の庵室へ入られけるに 柱杖・拂子 底の禪具の外 那 一物を貯へず 太 簡寂の住居なり 詮盛 和尚の威風を尊崇せられて 一宇の禪院を營建し 紫雲山慶徳寺と號し 和尚を請じて住せしむ 時に後光嚴院應安元年なり
 引き続き全国を行脚するも、示現寺に移るまでは、ここを本拠とした。

安穏寺

応安2/正平24(1369)年    41歳

 結城家8代当主/直光の招聘により、下総国/安穏寺を曹洞宗に改宗し新たに開山する。
 4年間、住職を務めた。
 応安4/建徳2(1371)年とも。

示現寺

永和元/天授元(1375)年    47歳

 7月14日
 真言寺院/五峰山慈眼寺を曹洞宗に改宗し、護法山示現寺に改め中興開山し入山する。
 慶徳寺から本拠を移し、布教の大道場とする。

常在院

永和2/天授2(1376)年    48歳

 白河城主の招聘を受け、常在院を開基する。
 後に、九尾の狐の宿る殺生石を諫めて成仏させた時、幾片にも砕け全国各地に飛散した1つとされる「法石稲荷」が本堂裏にある。

康暦2/天授6(1380)年    52歳

熱塩温泉

 源翁禅師が、温泉 (熱塩温泉)を発見する。
 今でも湧き続け、別名「子宝の湯」と呼ばれている。
 全国的にも珍しく、元湯の権利を寺院 (示現寺) が持つ。
 永和元/天授元(1375)年、示現寺を中興開山した日の夜から湧き出たとの説もある。

永徳2/弘和2(1382)年    54歳

 巡業で佐渡に渡る船中で知り合い、敬服した三川郷の土豪/本間山城守源秀純の帰依を受け、東光寺を開山した。

至徳2/元中2(1385)年    57歳

殺生石

 8月
 玉藻前 (九尾の狐) の伝説で知られる殺生石を折伏する。
 殺生石を教化したことで、神異の僧として広く知られることとなる。   

至徳3/元中3(1386)年    58歳

 殺生石を退治した功績により、後小松天皇より能照法王禅師の号と大寂院の勅額が贈られる。 「勅特賜 能照法王禅師源翁心昭大和尚」

嘉慶元/元中4(1387)年    59歳

最禅寺

 諸国を行脚中、住民の懇願に応じ、古寺を曹洞宗に改宗し最禅寺として開山。
 源翁禅師の作とされる「薬師如来像」や「十二神将」を所蔵しているとのこと。
 祈祷場としていた「鏡池」が現存している。

明徳元/元中7(1390)年    62歳

化生寺

 地頭/三浦貞宗の招聘を受け、化生寺を開山する。
 明徳3/元中9(1392)年とも。
 打ち砕かれた殺生石の破片の1つが飛来した「美作高田」がこの地で、境内には殺生石が祀ってある。

応永2(1395)年    67歳

 泉渓寺の末寺として鹿児島/玉泉寺を開山する。
 明治の廃仏毀釈で廃寺となり、今では歴代の住職墓、古い石塔、案内板だけが残るだけ。

応永3(1396)年    68歳


慶徳稲荷神社  慶徳寺に宿した日の夜半、殺生石のかけらの1つが現れた。
 再び、物事の道理をかみくだいて教え聞かせる。
 翌日、美しい白狐に姿で現れ、「今後はご恩に報いる」との言葉を残し、十一面観音菩薩に姿を変え飛び去った。
 源翁禅師は、山号を「巻尾山」と改め、慶徳稲荷神社を中興し白狐の霊を稲荷神として祀ってやった。   

応永7(1400)年

源翁禅師の墓

 1月7日
 入滅。
 法臘51歳、世寿72歳だった。
 応永7(1400)年5月7日に入滅との説も。
 本墓は示現寺、分骨墓は安穏寺にある。

 遺偈 「四大仮合 七十一 末期端的 翻踏鉄船

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