一     里     塚

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南 山 通 り (下野(しもつけ)街道)

南山通り(下野街道)については。こちら。

下野街道 下野街道の説明文

 下郷町の約22キロのうち、大内宿辺りの約10キロが昔を留めており、平成3〜11(1991〜1999)年に整備事業 (歴史の道) が実施。
 平成8(1996)年、「歴史の道百選 (文化庁、第一次選定78ヶ所の1つ)」に選定される。
 平成14(2002)年、下野街道として国の史跡に指定され、ハイキングコースとして人気急上昇。
 「イザベラ・バードの道を行く」 としても売出し中。

札の辻 (会津若松市)

大町一之町の四つ角 「札の辻」の石柱


@飯寺、A本郷、B関山の一里塚は、消滅

 
福永宿
 正保4(1647)年、藩主/保科正之により本格的に下野街道が開削され、最初の宿場町として整備された。
 古来より、蘆名氏が築城した向羽黒山城のある本郷町が宿場を兼ねていたが鶴ヶ城下と近すぎるため、改めて宿場と選定したのだが、それでも1日の行程としては短すぎるため利用者は少なかった。

 
関山宿
 古来より、鶴ヶ城下の玄関口に当たり、大内宿へは火玉峠 (氷玉峠とも) が控える重要拠点であった。
 寛永18(1641)年、上小松村と合併して宿場町として整備され、本陣も設置された。
 戊辰の役では、西軍を迎え討つ激戦地として、ほぼ関山宿は焼失し、多くの藩兵が戦死した。
 戦後、道路沿いに再建された土蔵や家屋が、宿場町の雰囲気を残している。

C栃沢一里塚 (会津美里町)

一里塚の左側 一里塚の右側


栃沢一里塚の現地文

D赤沢/大内峠一里塚 (下郷町)

一里塚の右側


大内峠一里塚の現地板
御側原追分

≪御側原追分≫    .
右大内峠」       .
左結能峠」       .

 
大内宿

E大内宿南一里塚 (下郷町)

中山峠石塔群の説明文

F中倉一里塚跡 (下郷町)

中倉の現地板

 一里塚は現存せず、解説板があるのみ。


八幡のケヤキ

八幡のケヤキ    .

下郷町三彩館
下郷町三彩館 .
 昼食時なら、   .
ぜひ美味しい蕎麦 .
を味わいたい。   .



長寿の水   .



≪中山峠石塔群≫ .

水抜の道標
≪水抜の道標≫  .
 右ハ 若松 柳津道 .
  左ハ 戸石□道
   .

 
倉谷宿
 古来より、中山峠と八幡峠の間にあり、黒川城 (鶴ヶ城) 下から戸石を経て田島に至る交通の要衝であった。
 高倉宮以仁王も、大内宿へ向かう際に通っている。 元々は 「串谷」と呼ばれていたが、高倉宮以仁王の「倉」から「倉谷」に改称したと伝わる。
 また、松庵寺の山号は、高倉宮以仁王に因み 「高倉山」 である。
 正保4(1647)年、藩主/保科正之により本格的に下野街道が開削され、鶴ヶ城下から4番目の宿場町として本格的に整備される。
 脇道として楢原宿から阿賀川/舟渡しで田島宿へ至る街道が開削されたが、川止めを避ける戸石経由の街道も維持され、分岐点としても重要な宿場となった。
 元禄4(1691)年には家屋 27軒・人口 210人との記録がある。
 戊辰の役では、西軍の駐屯地として占領されたが、一時、佐川官兵衛率いる藩兵が撃退している。

G萩原/矢の原一里塚跡 (下郷町)

矢の原一里塚

 一里塚は現存せず、解説板があるのみ。
 [閑話]

矢の原一里塚の現地文
 
楢原宿

H岩本 (壇の坂) の一里塚は消滅

I田部原一里塚 (南会津町)

田部原一里塚の現地文

J田島、K河島、L糸沢、M萩野原 (萩野)、N山王峠 (山王) の一里塚は、消滅

 
田島宿
 鎌倉時代、長沼氏が南山地区に土着、鴫山城を築き、城下町が設けられる。
 戦国時代、会津四家 (蘆名氏山ノ内氏河原田氏、長沼氏) と称されるほど繁栄するが、台頭した蘆名氏に従属、天正17(1589)年に伊達政宗公が会津侵攻すると伊達家に臣従するが、豊臣秀吉の奥州仕置で改易となり当地から去る。
 江戸時代には会津藩領となり、元和年間(1615〜1623)に宿場として整備される。
 寛永4(1624)年、下野街道沼田街道との重要な分岐点として、人物改め・荷物改めを行う口留番所が設置される。
 寛永20(1643)年、藩主/加藤明成公が御家騒動で改易、田島宿が天領となる。
 正保元(1644)年、口留番所が糸沢宿に移される。
 正保4(1647)年、藩主/保科正之により本格的に下野街道が開削され、南会津地方で最大の宿場町として整備される。
 元禄6(1693)年、天領の代官陣屋が設置される。
 その後、幾度となく天領と会津藩領とを繰り返すが、大半の期間が会津藩領として六斎市が立ち、花町も設けられるなど大いに栄えた。
 戊辰の役では、旧幕府軍/大鳥圭介が田島宿で軍の再編を行っている。
一時、西軍に占領されたが、佐川官兵衛率いる藩兵が奪還している。
 明治11(1878)年6月27日、イギリス人女性紀行家/イザベラ・バードが、田島宿で馬を交換している。
 
川島宿
 寛永14(1637)年、通行量の増大に伴い、糸沢宿田島宿の間の馬次の場となる。
 正保4(1647)年、藩主/保科正之により本格的に下野街道が開削され、鶴ヶ城下から11里28町余の宿場町として整備された。
 明暦元(1655)年、周辺の集落から住民を集められ、家屋58軒の宿場町となる。
 明治11(1878)年、イギリス人女性紀行家/イザベラ・バードが宿泊している。
 当日、田植えが終わった祭りの日だったようで、一晩中 騒がしく眠れなかったためか、食事もキュウリの煮たものだけ、川島宿は58戸のみじめな村などと辛辣な言葉で記している。
 蒲生秀行公に南会津50ヶ寺の取り締まり役を任ぜられ、宿場名でもある旧南照寺の別当/川島家の家屋 (国登録有形文化財) が現存。
 
糸沢宿
 古来より往来されており、源義経は兄/頼朝の追討を受け、奥州藤原氏へ向う途中、文治5(1189)年に糸沢の民家に人目を避けて投宿との言い伝えがある。
 「源義経一行逃避之地」の碑も建立されている。
 義経のお供の1人/渡邉内膳守義政が糸沢の地に残り、建暦2(1212)に龍福寺を開山し、建保5(1217)年に死去したとの伝承も。
 元和6(1620)年には、宿駅として機能していたとの記録がある。
 正保4(1647)年、藩主/保科正之により本格的に下野街道が開削され、8番目の宿場町として整備された。
 険しい山王峠の手前に位置することから、会津藩は元より、参勤交代の村上藩や新発田藩が宿泊地として利用していた (阿久津家/糸沢本陣)。
 寛永21(1644)年、田島宿の関所が、この地に移さた。
   ※ 寛文元(1661)年には横川宿に再び移される。
 その後、大いに発展し、天明8(1788)年の記録には、家屋 126軒・人口 539人とあり、大きな宿場になる。

横川一里塚の右側 一里塚

O横川一里塚 (日光市/旧会津領)

横川一里塚の現地文
 
横川宿
 正保4(1647)年、藩主/保科正之により本格的に下野街道が開削され、下野国と会津地方が接する宿場として重視された。
 寛文元(1661)年、糸沢宿に設置されていた関所を、この地に移す (横川番所)。
 戊辰の役では、横川宿の攻防戦が3日間も繰り広げられたが、住民は一人残らず会津藩に味方している。
 明治11(1878)年6月26日、鶴ヶ城へ向かうイギリス人女性紀行家/イザベラ・バードが昼食をとった。

P上三依一里塚 (日光市/旧会津領)

上三依一里塚の左側 上三依一里塚の右側


上三依一里塚の現地文
 
中三依宿
 、正保4(1647)年、藩主/保科正之により本格的に下野街道が開削され18里に位置する10番目の宿場町として選定された。
 上三依村、中三依村、下三依村で構成され、各々に水場が設けられ、中三依が宿場の中心的な役務を果たした。
 当初は、家屋48軒があり、隣の横川宿より大きな宿場であった。
 天和3(1683)年、日光大地震により男鹿川が堰き止められ、五十里湖が出現し通行不能となり、新たに尾頭峠越えの塩原街道が開削され、分岐点となる上三依宿が整備される。
 文化9(1826)年、中三依村が大火災となり、上三依村が役割を務める。
 戊辰の役では、旧幕府軍が中三依宿に布陣している。


Q中三依の一里塚は消滅、R石戸木は不詳

今市の道標



≪ 今 市 ≫
 会津若松市まで .
 112キロ (28里)
  .


《 脇 街 道 》     

新屋敷一里塚 (会津美里町)





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